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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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もう一度、黒翼へ

戻った名前の中に、まだ揺れている名がありました。


 セレノ。


 忘却を救いだと信じ、黒翼の祭壇に残った騎士。


 リゼは、その名をもう一度呼ぶために動き出します。


 このページでは、リゼが過去と向き合い、黒翼の祭壇へ戻る決意を固めます。

ルグナの朝は、いつものように煤の匂いから始まった。


 けれど、町のどこかには確かに新しい光があった。


 星灯坑に預けられた名前たちが、夜を越えても消えずに灯り続けている。


 ユノは父と一緒に、戻った名前の記録帳を整理していた。


 ミアは記憶灯を調整している。

 カイは子どもたちに木剣の持ち方を教えている。

 ガルドはネリオで見つけた小刀の柄を仕上げている。


 リゼだけが、少し離れた場所にいた。


 星灯坑の奥。


 灰色の光が灯る壁の前。


 そこに記録された名前を、彼女はじっと見つめていた。


 セレノ。


 灰色の光は、他の名よりも不安定だった。


 明るくなったかと思えば、すぐ暗くなる。

 呼べば応えるが、すぐ遠ざかる。

 まるで、その名の持ち主がまだ、自分を名乗ることを拒んでいるようだった。


 リゼは小さく息を吸った。


「セレノ」


 灰色の光が揺れた。


 返事はない。


 それでも、消えない。


「あなたは、まだそこにいるのね」


 坑道の壁に、黒い羽根のような影が一瞬だけ映った。


 リゼの胸が痛む。


 黒翼の祭壇で、セレノは自分の名を口にした。


 ――私は、セレノ。


 けれど、その後、彼は祭壇に残った。


 王の残滓を抑えるため。

 忘却を後回しにするため。

 そして、たぶんまだ救われることを拒むために。


 リゼは拳を握った。


 憎んでいた。


 長い間、セレノを憎んでいた。


 姉を守れなかった騎士。

 守ると言いながら、忘却へ逃げた男。

 世界を眠らせようとした敵。


 でも、名前を呼んでしまった。


 呼んだ以上、もう知らないふりはできない。


 背後から足音がした。


 ユノだった。


「リゼ」


「いるわ」


「セレノのところに行くんだな」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「ええ」


「一人で?」


「いいえ」


 リゼは静かに答えた。


「そう言ったら、あなたたちは怒るでしょう?」


 ユノは少し笑った。


「怒る」


「だから、一緒に来て」


「もちろん」


 リゼは灰色の光を見つめた。


「でも、これは私が向き合うべきことよ。あなたたちに背負わせたいわけじゃない」


「一緒に行くのと、背負うのは違う」


 ユノの言葉に、リゼは少し驚いたように彼を見た。


「あなた、よくそんなことを言えるようになったわね」


「最近、学習してるから」


「ええ。成長したわ」


 ユノは照れたように目を逸らした。


 その様子に、リゼはほんの少し笑った。


 星灯坑の外へ出ると、町の空は青かった。


 ミアとカイも、すでに話を聞いていたらしい。


 ミアは記憶灯を抱えて言った。


「行くなら、私も行く」


 カイも木剣を握る。


「俺も。セレノの名前、呼んだし」


 リゼは二人を見た。


「危険よ」


 ミアは頷いた。


「知ってる」


 カイも。


「でも行く」


 リゼはしばらく黙り、それから静かに頭を下げた。


「ありがとう」


 ミアは少し照れた。


「そういうの、リゼが言うと重い」


「軽く言ったつもりはないわ」


「うん、知ってる」


 出発は翌日になった。


 灰の王都へ戻るためには、準備が必要だった。


 王は止まったとはいえ、黒翼の祭壇にはまだ残滓があるかもしれない。


 セレノ自身も、完全に戻ったわけではない。


 リゼは星灯坑の灰色の光から、セレノの名を支えるための護符を作った。


 ミアは記憶灯にルグナの火を足した。


 カイは木剣と父の小刀を確認した。


 ユノは星灯りの剣の模様を見つめた。


 父は静かに四人を見ていた。


「また行くのか」


「うん」


 ユノは答えた。


「今度は、セレノを呼びに行く」


 父は頷いた。


「なら、呼んでこい」


「止めないの?」


「止めたい」


 父はいつものように正直だった。


「だが、戻る場所はある。帰ってこい」


 ユノは頷いた。


「帰ってくる」


 出発の朝、ルグナの町の人々が見送ってくれた。


 広場では、いつものように名前が呼ばれた。


「ユノ」


「ミア」


「リゼ」


「カイ」


 そして。


「セレノ」


 その名が呼ばれた瞬間、リゼの手の中の護符が淡く光った。


 灰色の光。


 不安定だが、消えてはいない。


 リゼは胸に手を当てた。


「セレノ。まだ忘れないで」


 その声は、風に乗って遠くへ流れていった。


 灰の王都への道は、以前より少し明るく感じられた。


 星喰いの王が止まったことで、空の重さが薄れているのかもしれない。


 それでも、灰の王都へ近づくにつれ、空気は冷たくなった。


 焼けた城壁。

 崩れた塔。

 灰色の道。


 何度来ても、胸が重くなる場所だった。


 ミアが記憶灯を抱え直す。


「ここ、やっぱり苦手」


 カイも頷く。


「俺も」


 ユノはリゼを見た。


「リゼ」


「いるわ」


「大丈夫か?」


「大丈夫ではない」


 リゼはまっすぐ王都を見た。


「でも、逃げない」


 灰の王都へ入ると、以前とは違う変化があった。


 道端に倒れていた騎士の影が、少し薄くなっている。


 名を失ったまま彷徨っていた残響が、星の川によっていくらか解放されたのだろう。


 だが、完全ではない。


 王城の西塔へ近づくにつれ、黒い羽根が増えていく。


 黒翼の祭壇は、まだ眠っていなかった。


 崩れた入口の前に立つと、リゼの護符が強く震えた。


 ユノは星灯りの剣を呼び出す。


「行けるか?」


 リゼは頷いた。


「ええ」


 崩れた石を越え、地下へ降りる。


 階段は半分崩れていたが、かろうじて通れた。


 下へ行くほど、黒い羽根が積もっている。


 だが、その羽根は以前のように鋭い敵意を放ってはいなかった。


 疲れ果てた鳥の羽のように、静かに落ちていた。


 黒翼の祭壇は、崩れたままだった。


 折れた剣が床に散らばり、祭壇の中央には大きな裂け目がある。


 そして、その裂け目の前に、セレノがいた。


 黒い外套は破れ、片膝をついている。


 黒い剣は床に突き立てられていた。


 彼の周囲には、王の残滓らしき黒い霧が漂っている。


 リゼが一歩踏み出した。


「セレノ」


 男の肩がわずかに動いた。


『来たのか』


 声は掠れていた。


 リゼは近づきすぎずに止まる。


「ええ」


『王は止まったのだな』


「ユノたちが止めたわ」


『そうか』


 セレノは小さく笑ったようだった。


『なら、私の役目も終わりだ』


 その言葉に、リゼの表情が変わる。


「終わりって、どういう意味」


『この祭壇と共に沈む。黒翼の残滓も、王の影も、私が抱えて消える』


 ミアが叫んだ。


「そんなの駄目!」


 カイも。


「勝手に終わるなよ!」


 セレノは二人を見た。


『優しい子どもたちだ』


 リゼの声が震えた。


「それは責任の取り方じゃない」


『では、どうすればいい』


 セレノは顔を上げた。


 その顔は、以前よりはっきり見えた。


 疲れ果て、痛みに削られ、それでも人間の顔だった。


『私は多くを奪った。忘却を救いだと信じ、名を眠らせようとした。今さら戻って、何をすればいい』


 リゼは言葉を飲み込んだ。


 それは、ルナエルが泉で言った問いに似ていた。


 罪を背負った者は、どう生きればいいのか。


 ユノは静かに言った。


「見届ける」


 セレノがユノを見る。


「自分が奪おうとした名前を。守れなかったものを。逃げずに」


『それは罰か』


「罰でもあるかもしれない。でも、それだけじゃない」


 リゼが続けた。


「あなたには、まだ呼べる名前がある」


『誰の』


「姉様の名」


 セレノの目が揺れた。


 リゼは震える声で言った。


「あなたは、姉様の名をまだ呼んでいない」


 黒翼の祭壇が静まり返った。


 セレノは口を開きかけ、閉じた。


 長い沈黙。


 やがて、彼は低く言った。


『呼べない』


「なぜ」


『守れなかった』


「だから呼ばないの?」


『呼ぶ資格がない』


 リゼは涙を浮かべた。


「資格がなくても、呼びなさい」


 セレノの顔が歪む。


『残酷だな、リゼ』


「ええ」


 リゼは頷いた。


「私は優しくあなたを許しに来たんじゃない。忘れないために来たの」


 彼女は一歩前へ出る。


「姉様の名を、あなたの口で呼んで」


 セレノの黒い剣が震える。


 周囲の黒い霧が濃くなる。


 王の残滓が、彼の痛みに反応している。


 ユノは剣を構えた。


 ミアが記憶灯を掲げる。


 カイが名前を呼ぶ準備をする。


 セレノは胸を押さえ、苦しげに息をした。


『私は……』


 リゼは言った。


「セレノ」


 ミアも。


「セレノ」


 カイも。


「セレノ!」


 ユノも。


「セレノ」


 四つの声に、リゼの声が重なる。


「セレノ。逃げないで」


 セレノの目から、涙が落ちた。


 黒い涙ではない。


 透明な涙だった。


 彼は震えながら、ひとつの名を呼んだ。


『エリシア』


 リゼの姉の名。


 その瞬間、黒翼の祭壇に白い光が差した。


 折れた剣たちが震え、黒い羽根が一斉に舞い上がる。


 セレノは崩れるように膝をついた。


『エリシア……私は……守れなかった……』


 声が壊れる。


『すまない……すまない……』


 リゼは泣いていた。


 けれど、彼へ駆け寄って抱きしめることはしなかった。


 ただ、立っていた。


 その謝罪を、逃げずに聞いていた。


 白い光の中に、一人の女性の影が現れた。


 長い髪。

 優しい目。

 リゼによく似た面影。


 エリシア。


 彼女の残響は、セレノを責めるでも、許すでもなく、ただ静かに見つめていた。


 そして、リゼへ微笑んだ。


 リゼは息を呑む。


「姉様……」


 エリシアの影は声を出さなかった。


 ただ、リゼの胸に手を当てるような仕草をした。


 忘れないで。

 でも、憎しみだけで生きないで。


 そう言っているようだった。


 リゼの涙が止まらなかった。


「姉様……私、ずっと……」


 言葉にならない。


 エリシアの影は、次にセレノを見た。


 セレノは顔を上げられない。


『許さないでくれ』


 彼は震える声で言った。


『許されたら、私は何を抱えて生きればいいか分からなくなる』


 エリシアの影は、静かに首を振った。


 許しではない。


 忘却でもない。


 ただ、名を呼んだ。


 声は聞こえなかった。


 けれど、唇が動いた。


 セレノ。


 その瞬間、セレノの灰色の名が強く光った。


 黒翼の祭壇に残っていた王の残滓が、霧のように薄れていく。


 ユノは剣を振るった。


 星灯りの剣が、最後の黒い霧を裂く。


 ミアの記憶灯が白い光を支え、カイがセレノの名を叫ぶ。


「セレノ!」


 リゼも涙の中で呼ぶ。


「セレノ!」


 セレノは震えながら、自分の名を口にした。


『私は……セレノ……』


 黒い剣が音を立てて砕けた。


 名を奪う剣。


 その刃は灰となり、床へ落ちた。


 黒翼の祭壇を覆っていた闇が晴れていく。


 折れた剣たちが、一つずつ光へ変わった。


 黒翼騎士たちの残響が、静かに立ち上がる。


 彼らはセレノを見た。


 恨みもあるだろう。

 悲しみもあるだろう。


 けれど、彼らもまた名を取り戻し始めていた。


 リゼは息を震わせながら言った。


「彼らの名も、これから呼び戻す」


 セレノは床に手をついたまま、頷いた。


『私も……やる』


 その声は弱かった。


 けれど、初めて未来へ向いていた。


『許されるためではなく、忘れないために』


 ユノは剣を下ろした。


「それでいいと思う」


 セレノはユノを見た。


『君は、残酷なほど正しいことを言う』


「よく言われる」


 ミアが小さく笑った。


 カイも少しだけ笑った。


 リゼはセレノへ近づいた。


 そして、手を差し出した。


 セレノはその手を見た。


『いいのか』


「許したわけではない」


『分かっている』


「でも、立ちなさい。終わるためではなく、見届けるために」


 セレノは長い沈黙のあと、その手を取った。


 リゼは彼を引き上げた。


 黒翼の騎士は、ふらつきながら立ち上がった。


 その背にあった黒い羽根は、もう以前のような闇ではない。


 灰色に薄れ、ところどころ白い羽根が混ざっていた。


 エリシアの影は、それを見届けると、光へ溶け始めた。


 リゼが叫ぶ。


「姉様!」


 影は最後に微笑んだ。


 そして、静かに消えた。


 リゼは泣いていた。


 ミアがそっと寄り添う。


 ユノもカイも、何も言わなかった。


 言葉がいらない時だった。


 黒翼の祭壇は、もう以前のような場所ではなかった。


 闇の祭壇ではなく、折れた剣たちの記憶を眠らせる場所。


 セレノは砕けた黒い剣の灰を見つめていた。


『これから、私は何をすればいい』


 リゼが答えた。


「黒翼騎士団の名を、一つずつ取り戻す」


『できるだろうか』


「一人では無理でしょうね」


 セレノは目を伏せた。


 ユノが言った。


「だから一人でやらない」


 ミアも。


「ルグナに来ればいいよ。星灯坑がある」


 カイも。


「名前を預けられる。あと、ご飯もある」


 その言葉に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 セレノは信じられないように彼らを見た。


『私を、連れて行くのか』


 リゼは静かに言った。


「監視も必要よ」


『当然だ』


「でも、それだけではない」


 リゼはまっすぐセレノを見た。


「あなたの名が戻り始めたなら、帰る場所も必要でしょう」


 セレノの目が揺れた。


『私に、帰る場所など』


「これから作るの」


 リゼの声は強かった。


「戻った名前には、迎える声が要る。あなたも例外ではない」


 セレノは言葉を失った。


 やがて、深く頭を下げた。


『……分かった』


 黒翼の祭壇を出る時、セレノは何度も足を止めた。


 折れた剣。

 消えかけた騎士の影。

 砕けた黒い剣の灰。


 そのすべてを目に焼き付けていた。


 リゼも、彼を急かさなかった。


 ユノたちも待った。


 最後にセレノは祭壇へ向かって言った。


『セレノ。黒翼騎士団長。罪を忘れぬ者として、戻る』


 その言葉に、祭壇の奥で小さな光がいくつも瞬いた。


 黒翼騎士たちの名が、これから呼ばれるのを待っているようだった。


 灰の王都を出る頃、空は夕暮れだった。


 以前より灰の色が薄い。


 まだ荒れ果てている。


 でも、どこかに風が通っていた。


 セレノは外の光に目を細めた。


『眩しいな』


 ミアが言った。


「久しぶりだから?」


『そうかもしれない』


 カイが木剣を肩に担ぐ。


「ルグナまで歩ける?」


『歩く』


 セレノは静かに答えた。


『逃げずに』


 リゼは彼の隣を歩いた。


 その距離は近くも遠くもなかった。


 許しではない。


 和解ともまだ呼べない。


 けれど、同じ道を歩き始めた。


 それだけで、今は十分だった。


 ユノは空を見上げた。


 戻った名。

 戻らない時間。

 そして、戻り始めた人。


 セレノの名は、まだ不安定だ。


 でも、呼ぶ声がある。


 ルグナへ帰ったら、星灯坑へ預けよう。


 人々がその名をどう受け止めるかは分からない。


 けれど、忘れないために呼ぶ。


 ユノは小さく言った。


「セレノ」


 セレノが振り返る。


『何だ』


「いるか?」


 セレノは少し驚いた。


 そして、長い間を置いて答えた。


『……いる』


 リゼの目に、また涙が浮かんだ。


 夕暮れの道を、六人はルグナへ向かって歩き始めた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、リゼがもう一度黒翼の祭壇へ戻り、セレノと向き合いました。


 セレノはリゼの姉エリシアの名を呼び、ようやく自分の罪と悲しみを認め始めます。


 許されたわけではありません。

 けれど、忘却へ逃げるのではなく、見届ける道を選びました。


 次のページは『セレノの帰還』です。

 セレノを連れてルグナへ戻ることで、町の人々と新たな葛藤が生まれます。

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