ネリオの手がかり
名前は、ただ戻るだけではありません。
呼ばれた名前は、記憶を連れてきます。
記憶は、道を示します。
ルグナの星灯坑に預けられたネリオの名が、静かに光り始めました。
カイが探し続けてきた故郷。
消えた村ネリオ。
このページでは、ついにその手がかりが現れます。
翌朝、ルグナの町はいつもより早く目を覚ました。
炭鉱町の朝はもともと早い。
坑道へ向かう者たちの足音。
黒麦パンを焼く匂い。
道具を運ぶ車輪の音。
井戸の水を汲む音。
けれどその朝は、それに加えて名前を呼ぶ声があった。
「星灯坑」
「黒麦亭」
「銀鳴り井戸」
「エルマ」
「ネリオ」
町の人々は、昨夜星灯坑へ預けた名前を、忘れないように朝の挨拶のように呼んでいた。
ユノは家の窓からその声を聞いていた。
久しぶりに、自分のベッドで眠った朝だった。
身体はまだ重い。
星喰いの王と戦った疲れが、完全に抜けたわけではない。
けれど、胸の奥は昨夜より少し落ち着いていた。
ルグナ。
この町の名前が、ユノを地面に繋ぎ止めてくれている。
部屋の外から父の声がした。
「ユノ、起きているか」
「起きてる」
「朝飯だ」
その言葉に、ユノは思わず笑った。
世界を救ったかもしれない翌朝でも、朝飯は朝飯だ。
階下へ降りると、食卓には黒麦パン、豆のスープ、焼いた根菜が並んでいた。
ミアはすでに座っていて、眠そうな顔でパンをかじっている。
カイは目を輝かせてスープを見ていた。
リゼは器を両手で持ち、湯気を不思議そうに眺めている。
「おはよう」
ユノが言うと、ミアが返す。
「おはよう、ユノ」
カイも。
「おはよう」
リゼも静かに。
「おはよう」
父は全員の器にスープを注ぎながら言った。
「食べてから話せ。腹が減っていると、考えも暗くなる」
カイが大きく頷く。
「分かります」
父は笑った。
朝食の間、しばらく誰も難しい話をしなかった。
スープが温かい。
パンが香ばしい。
窓の外で町の声がする。
それだけで十分だった。
けれど、食事が終わる頃、ガルドが息を切らして駆け込んできた。
「ユノ! カイ! 星灯坑が変だ!」
カイが立ち上がる。
「星灯坑?」
ガルドは頷いた。
「赤い光が強くなってる。昨日カイが呼んだネリオの光だって、親方たちが言ってる」
カイの顔色が変わった。
「ネリオが?」
父はすぐに外套を手に取った。
「行こう」
星灯坑へ向かう道には、すでに何人かの炭鉱夫が集まっていた。
入口の奥から、赤い光が漏れている。
昨夜よりも明るい。
まるで坑道の奥で、小さな夕焼けが灯っているようだった。
リゼが表情を引き締める。
「名が道を示している」
カイは胸を押さえた。
「道……?」
「ネリオへ続く記憶の道よ」
その言葉に、カイは息を呑んだ。
星灯坑の中へ入ると、壁の星灯炭が次々と光った。
ユノ。
ミア。
リゼ。
カイ。
名前に反応している。
そして奥へ進むほど、赤い光は強くなった。
昨夜、カイがネリオの名を預けた場所。
その壁には、小さな赤い星のような光が灯っていた。
それが今、脈打っている。
カイはゆっくり近づいた。
「ネリオ」
声が震えていた。
赤い光が強くなる。
その瞬間、坑道の空洞に風が吹いた。
地の底のはずなのに、草の匂いがした。
ユノは目を見開く。
赤い屋根。
井戸。
夕方の道。
誰かの歌。
カイが膝をついた。
「見える……」
ミアが駆け寄る。
「カイ!」
「大丈夫……大丈夫だけど……見えるんだ」
カイの目から涙が落ちた。
「村の入口に、大きな栗の木があった。井戸の横に母さんが干してた布。父さんは木工職人で、俺の木剣を作ってくれた。家の屋根は赤くて……夕方になると、母さんが歌って……」
言葉が溢れてくる。
ずっと失われていた記憶が、ネリオの名と一緒に戻ってきている。
父は静かに見守っていた。
リゼは星灯炭の光を読み取るように目を細めた。
「記憶だけではないわ。位置も示している」
ユノが聞く。
「場所が分かるのか?」
リゼは壁の赤い光を指差した。
光は星座のように点を結び、地図の形になっていた。
ルグナから北東。
星炭の丘を越え、古い森道を抜けた先。
地図には、これまで空白だった場所に小さな赤い印が浮かんでいる。
リゼが読み上げる。
「ネリオ跡地」
カイの顔が強張った。
「跡地……」
その言葉は重かった。
村が戻ったわけではない。
場所が示されたのだ。
そこに何が残っているかは分からない。
カイは拳を握った。
「行きたい」
ユノはすぐに言った。
「行こう」
ミアも頷く。
「もちろん」
リゼも。
「私も行くわ。戻った名が不安定なら、魔法で支えられる」
父は地図を見つめた。
「ネリオ跡地へは、昔の木材道が使えるかもしれない。今は誰も通らないが、炭鉱の古い地図に残っている」
ガルドが言う。
「俺も行く」
ユノは驚いた。
「ガルドも?」
「当たり前だろ。ルグナの近くに消えた村があるなら、放っておけない。それに、カイだけ行かせるのも嫌だ」
カイは少し戸惑った顔をした。
「ガルドさん……」
「さんはいらない」
ガルドは笑った。
「一緒に行こうぜ」
カイは目を赤くしながら頷いた。
「うん」
赤い光は、しばらく星灯坑の壁に地図を描き続けた。
リゼがそれを紙へ写し取る。
ミアは記憶灯を近づけ、光が薄れないように支えた。
ユノはその地図を見ながら、胸の奥で思った。
名前は帰ってきた。
けれど帰る場所が残っているとは限らない。
ネリオ跡地。
そこにカイの求めるものがあるのか。
それとも、失われた現実を突きつけられるだけなのか。
分からない。
それでも行く。
カイがずっと呼び続けた名前だから。
星灯坑を出ると、朝の光が眩しかった。
町の人々は、赤い光の話を聞いてざわめいていた。
父は炭鉱夫たちに指示を出す。
「星灯坑は引き続き見張れ。勝手に奥へ入るな。戻った名前の記録は今日も続ける」
炭鉱夫たちは力強く頷いた。
その中の一人がカイに言った。
「ネリオ、見つかるといいな」
カイは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ルグナの人々が、ネリオの名を知っている。
それだけで、カイの故郷は少しずつ世界へ戻っているのだ。
出発は翌朝になった。
父は地図を整え、保存食を用意し、古い木材道の情報を集めてくれた。
ミアは星灯坑の光を少しだけ記憶灯に写し取った。
リゼはネリオの名が乱れた時のための小さな護符を作った。
ガルドは自分の道具袋を背負い、張り切っていた。
カイは一日中落ち着かなかった。
嬉しさと怖さが混ざっているのだろう。
夜、ユノは家の外でカイを見つけた。
カイは星灯坑の方を見ていた。
「眠れないのか?」
「うん」
カイは正直に答えた。
「行きたい。でも怖い」
「何が?」
「何も残ってなかったらどうしようって」
ユノは隣に座った。
「うん」
「父さんも母さんもいなくて、家もなくて、ただの跡地だったら……俺、何のために探してたんだろうって思いそうで」
ユノはすぐには答えなかった。
軽く励ましていいことではない。
カイの恐れは本物だ。
「何も残ってなくても、探してた意味はある」
ユノはゆっくり言った。
「ネリオがあったことを、カイが知ってるから」
カイは唇を噛む。
「でも、寂しい」
「寂しいな」
「悲しい」
「悲しいと思う」
カイはユノを見た。
「否定しないんだ」
「嘘ついても仕方ないだろ」
カイは少し笑った。
「ユノらしい」
ユノは続けた。
「でも、カイは一人で見るわけじゃない。俺も、ミアも、リゼも、ガルドも行く。ネリオを一緒に見る」
カイの目に涙が浮かんだ。
「うん」
ユノは星灯坑の淡い光を見る。
「それに、名前が戻ったなら、何かは残ってる。形じゃなくても」
「形じゃなくても……」
「歌とか、匂いとか、道とか、木とか」
カイは胸に手を当てた。
「栗の木」
「それが残ってるかもしれない」
カイは静かに頷いた。
「見たい」
「ああ。見に行こう」
その夜、カイは眠る前に何度も名前を呼んだ。
「ネリオ」
ユノも。
「ネリオ」
ミアも。
「ネリオ」
リゼも。
「ネリオ」
父も、ガルドも。
「ネリオ」
ルグナの家の中に、カイの故郷の名前が灯った。
翌朝、出発の時。
父はユノに袋を渡した。
「保存食と、星灯坑の炭を少し入れてある。道に迷ったら火を灯せ。ルグナの方角を示すはずだ」
「ありがとう」
父はユノの肩に手を置く。
「ユノ」
「いる」
「帰ってこい」
「うん」
ミアの工房の親方も来ていた。
「ミア、無茶するなよ」
「はい」
「返事が軽い」
「ちゃんとします!」
ガルドは笑い、カイは少し緊張した顔で地図を握っている。
リゼは空を見上げた。
「天気は持ちそうね」
出発前、町の人々が集まった。
誰かが言った。
「ネリオへ行くんだってな」
「気をつけて」
「戻ったら話を聞かせてくれ」
そして、人々が一斉にその名を呼んだ。
「ネリオ」
カイは深く頭を下げた。
その背中は、昨日より少し大きく見えた。
ルグナを出て、北東の道へ進む。
星灯坑が示した赤い地図の先へ。
ネリオ跡地へ。
道は最初、炭鉱町の外れを通る馴染みのある道だった。
やがて星炭の丘へ入る。
丘には黒い石が点々とあり、朝日を受けて少しだけ光っている。
リゼが言った。
「このあたりにも星灯炭の気配がある」
ミアが目を輝かせる。
「後で調べたい」
ガルドが笑う。
「ミアはどこでも研究だな」
「大事だよ」
カイは地図を見ながら歩いている。
時々、何かを思い出したように立ち止まる。
「この道……昔、通った気がする」
「ネリオからルグナへ?」
「たぶん。父さんと一緒に木材を売りに行った……気がする」
彼の記憶はまだ曖昧だ。
でも、少しずつ繋がっている。
昼頃、古い森道に入った。
道は細く、草に覆われている。
長い間、誰も使っていなかったのだろう。
けれど、カイは迷わなかった。
「こっち」
自分でも驚いたように言う。
「なんで分かるのか分からないけど、こっち」
リゼが頷いた。
「名前が道を思い出しているのよ」
森道の途中、小さな石碑があった。
苔に覆われている。
ミアが苔を払うと、文字が浮かび上がった。
――ネリオまで一里。
カイは息を止めた。
「本当に……」
ユノはその石碑に手を置いた。
「近いな」
カイは頷いた。
その表情は、今にも泣き出しそうだった。
森道をさらに進む。
風が変わった。
木々の間から、草原の匂いがする。
そして、遠くに一本の大きな木が見えた。
栗の木。
カイが走り出した。
「カイ!」
ユノも追う。
森を抜ける。
そこに、開けた土地があった。
赤い屋根の村は、もうなかった。
家々は崩れ、草に覆われ、井戸は半分壊れている。
道も薄れている。
けれど、村の入口に大きな栗の木が立っていた。
カイはその前で立ち止まった。
肩が震えている。
「ここ……」
彼は膝をついた。
「ここだ……」
ユノたちは静かに後ろに立った。
誰も急かさない。
カイは栗の木に手を当てた。
涙が落ちる。
「ただいま……ネリオ」
その声に応えるように、草に覆われた村跡に赤い光が灯った。
井戸。
崩れた家。
道。
小さな広場。
それぞれの場所に、かすかな名前の光が戻り始めた。
ネリオは、完全には戻っていない。
でも、そこにあった。
確かに、そこにあった。
カイは泣きながら何度も言った。
「ネリオ。ネリオ。ネリオ」
ユノも呼んだ。
「ネリオ」
ミアも。
「ネリオ」
リゼも。
「ネリオ」
ガルドも。
「ネリオ」
風が吹いた。
栗の木の葉が揺れた。
その音は、誰かの歌のようだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星灯坑に預けられたネリオの名が反応し、カイの故郷への道を示しました。
ネリオは完全な村として戻ったわけではありません。
けれど、栗の木、井戸、道、家の跡が残り、そこに確かに村があったことが示されました。
カイはついに、故郷ネリオへ帰りました。
次のページは『栗の木の下で』です。
カイはネリオの記憶と、父母の残したものに触れることになります。




