ルグナへ帰る道
帰りたい場所があることは、幸せなことです。
けれど、帰るのが怖い時もあります。
旅に出た時と同じ自分ではないから。
故郷もまた、同じ姿ではないかもしれないから。
シェルカでナギとソラに再会したユノたちは、いよいよ故郷ルグナへ向かいます。
名前を取り戻し始めた世界の中で、ユノとミアは“帰る”ということの意味を考えます。
エルディアの森に朝が来た。
星の葉は、夜明けの光を受けて静かに輝いている。
森の心臓の根元では、ソラが修理途中の弓を抱えて、何度も弦を確かめていた。
ミアが眠い目をこすりながら言う。
「まだ強く引いちゃ駄目だよ。応急処置だからね」
「分かってる!」
「今、絶対分かってない返事だった」
ソラは慌てて弓を下ろした。
ナギが横から弟の頭を軽く叩く。
「言われたことは守れ」
「分かってるってば」
「だから、その返事が信用できない」
カイが笑った。
「ソラ、俺と同じこと言われてる」
「え、カイも?」
「よく言われる」
ミアがすぐに言った。
「二人とも似てる」
ソラとカイは顔を見合わせ、同時に少し嫌そうな顔をした。
その様子に、ユノは笑った。
森の心臓の周りに、穏やかな時間が流れている。
少し前まで、この森は名前を真似て人を迷わせる場所だった。
ソラは消えかけていた。
ナギは弟の声に引きずられそうになった。
ユノたちも、それぞれ大切な声に試された。
けれど今、森は静かに名前を守っている。
戻る名前を迎えるように。
ナギはユノに近づいた。
「今日、発つんだな」
「ああ。ルグナへ戻る」
「故郷か」
「うん」
ナギは少し黙り、それから言った。
「帰れるうちに帰れ。帰る場所は、当たり前じゃない」
ユノは頷いた。
「分かってる」
ナギは森の心臓を見上げる。
「私も、ソラがいる場所を守る。ここが私たちの帰る場所だから」
その声には、以前のような刺々しさが少なかった。
弟の名が戻ったことで、ナギ自身も少し戻ったのかもしれない。
ソラが走ってきて、ユノたちへ小さな木の札を渡した。
「これ、森番の札。道に迷ったらエルディアへ戻ってこられる」
ユノは受け取った。
「いいのか?」
「うん。また来てほしいから」
ミアが笑った。
「弓もちゃんと直さなきゃだしね」
「そう! 約束!」
ソラは元気よく頷いた。
リゼがソラの前に立つ。
「名前がぼやけたら、すぐ誰かに呼んでもらいなさい」
「はい」
「一人で我慢しないこと」
「……はい」
ソラはナギをちらりと見た。
ナギは腕を組んでいる。
「我慢したら怒る」
「分かってる」
カイが笑いながら言った。
「また来る。俺、ネリオを見つけたらソラにも話す」
「うん。聞きたい」
「絶対見つけるから」
ソラは真剣に頷いた。
「うん。絶対」
別れの時間が来た。
ユノたちは森の心臓の前で、もう一度名前を呼び合った。
「ユノ」
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
「ナギ」
「ソラ」
六つの名前が森に響く。
星の葉が一斉に光った。
エルディアの森が、見送りの返事をしているようだった。
シェルカへ戻る道で、ミアは少し寂しそうに振り返った。
「なんか、旅先なのに別れるの寂しいね」
「分かる」
ユノは頷いた。
「シェルカも、エルディアも、帰る場所みたいになってる」
「帰る場所が増えたってことかな」
「たぶん」
「それは、いいことだね」
ミアはそう言って笑った。
シェルカの町は朝から賑やかだった。
戻った名前を確かめる声が、あちこちから聞こえる。
船の名。
店の名。
昔の通りの名。
忘れかけていた家族の呼び名。
白波亭では、女将が大きな声で客をさばいていた。
「あんたたち、もう行くのかい?」
「はい。ルグナへ」
ユノが答えると、女将は少し目を細めた。
「故郷に帰るのか。そりゃいい」
彼女は包みを渡してくれた。
「道中の飯だ。金はいらないよ」
「でも」
「名前が戻った祝いだ。白波亭って名前を思い出せたからね」
ミアが嬉しそうに包みを受け取った。
「ありがとうございます!」
カイも深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女将は笑った。
「いっぱい食べて、ちゃんと帰りな」
その言葉が、ユノの胸に残った。
ちゃんと帰りな。
何でもない言葉なのに、今はとても重く、温かかった。
シェルカを出て、ルグナへ向かう街道に入る。
ルグナは炭鉱町だ。
ユノとミアの故郷。
最初に星喰いの影に触れ、名前を失う危機に巻き込まれた町。
父がいる。
ガルドがいる。
ミアの工房がある。
帰りたい。
でも、少し怖い。
ユノはその怖さを言葉にしようか迷った。
その時、ミアが先に言った。
「ねえ、ユノ」
「何?」
「私、帰るのちょっと怖い」
ユノは驚いてミアを見る。
ミアは前を向いたまま続けた。
「帰りたいよ。すごく。でも、私たちがいない間にルグナがどうなったのか分からないし、戻った名前でみんなが混乱してるかもしれないし……あと、私たち自身も変わっちゃったから」
ユノは黙って聞いた。
「旅に出る前の私なら、星喰いの王とか、ルナエルとか、アステラとか、絶対知らなかった。今の私は知ってる。いろんな名前を持ってる。だから、同じ工房に戻っても、同じ私でいられるのかなって」
ユノは深く息を吐いた。
「俺も怖い」
ミアがこちらを見る。
「ユノも?」
「ああ。父さんに会いたい。でも、会ったら何を話せばいいか分からない。俺、ずいぶん変わった気がする」
ミアは少し笑った。
「変わったよ」
「やっぱり?」
「うん。でも、悪い方だけじゃない」
ユノは少し照れた。
「そうだといいけど」
リゼが後ろから言った。
「帰るとは、同じ場所に同じ自分で戻ることではないわ」
ユノとミアは振り返る。
リゼは静かに続けた。
「変わった自分で、変わった場所へ戻ること。それでも名前が繋がるなら、そこは帰る場所になる」
カイがぽつりと言った。
「じゃあ、俺もネリオに帰れるかな。変わってても」
リゼは頷いた。
「帰れるわ。戻る場所が完全に昔と同じでなくても」
カイは少しだけ安心した顔をした。
「そっか」
街道沿いには、小さな村や畑が点在していた。
名前が戻った影響は、ここにも出ていた。
道標に消えていた文字が浮かび上がっている。
“南ルグナ街道”。
“星炭の丘”。
“ミルカ橋”。
橋の名を見たミアが声を上げた。
「ミルカ橋! ここ、昔名前が読めなかったよね」
ユノも覚えていた。
ルグナ近くの古い石橋。
誰も正式な名前を知らず、ただ“古い橋”と呼んでいた。
それが今、はっきり読める。
ミルカ橋。
カイが橋の欄干に触れる。
「橋にも名前があるんだな」
「あるんだよ」
ミアが言った。
「ずっと呼ばれてたなら、きっと」
橋を渡る時、ユノは小さく言った。
「ミルカ橋」
すると、橋の石が少しだけ温かくなった気がした。
夕方、四人は街道沿いの小さな宿に泊まることにした。
ルグナまでは、あと半日ほど。
焦れば夜のうちに着けない距離ではなかったが、誰も無理を言わなかった。
ユノ自身も、急ぎたい気持ちと、少しだけ明日まで延ばしたい気持ちの両方があった。
ミアも同じだったようで、宿に入ると大きく息を吐いた。
「明日にはルグナか……」
カイは夕食を前に目を輝かせていた。
「まず食べよう」
ミアが笑う。
「カイは頼もしいね」
「腹が減ってたら怖いこと考えるから」
その言葉に、ユノは頷いた。
「それは確かに」
リゼも静かに同意した。
「食事は現在へ戻る行為。大事よ」
カイは得意げだった。
夕食の席で、宿の主人が話しかけてきた。
「ルグナへ行くのかい?」
「はい」
「なら気をつけな。あの町、今朝から妙に騒がしいらしい」
ユノとミアが同時に顔を上げた。
「騒がしい?」
「悪い意味じゃない。むしろ、泣いて笑って大騒ぎだって話だ。炭鉱の古い坑道名が戻ったとか、消えてた家の表札が読めるようになったとか」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「ルグナにも……戻ってるんだ」
ユノの胸が熱くなった。
父はどうしているだろう。
ガルドは。
町のみんなは。
宿の主人は続けた。
「そういえば、ルグナの炭鉱で昔使われてた“星灯坑”って名前が戻ったらしいぞ。縁起のいい名前だってみんな騒いでる」
星灯坑。
ユノはその名に胸を打たれた。
星灯りの剣と同じ響き。
もしかすると、ルグナにも昔から星に関わる記憶があったのかもしれない。
リゼが興味深そうに言った。
「星灯坑……ルグナの炭鉱も、星涙石と関わりがある可能性があるわね」
ユノは頷いた。
「帰ったら見に行こう」
ミアも。
「うん。父さんたちにも聞こう」
その夜、ユノはなかなか眠れなかった。
宿の窓から星が見える。
いつもの星空。
でも、旅の前とは違って見える。
星には名前がある。
人にも、町にも、橋にも、井戸にも。
呼ばれた名前は、誰かの中に場所を作る。
ユノは小さく呟いた。
「ルグナ」
窓の外の星が一つ瞬いた。
返事のように。
翌朝、四人は早く出発した。
空は晴れていた。
道はなだらかに丘を越え、やがて遠くに黒い山影が見えた。
炭鉱の山。
ルグナの煙突。
ユノの足が止まった。
ミアも隣で立ち止まる。
「見えた……」
「ああ」
ルグナだ。
故郷。
煙突からは薄い煙が上がっている。
町は生きている。
それを見た瞬間、ユノの胸に溜まっていた怖さが、涙になりかけた。
ミアはもう泣いていた。
「帰ってきたんだ……」
カイが少し離れて立ち、二人を見ている。
リゼも静かに待っていた。
ユノは深く息を吸った。
「行こう」
坂を下る。
ルグナの町が近づく。
入り口の古い看板が見えた。
以前は煤で汚れ、文字もかすれていた。
けれど今は、はっきり読める。
炭鉱町ルグナ。
その文字の下に、小さな古い文字が浮かんでいた。
――星灯りの炭を抱く町。
ミアが手で口を覆った。
「こんな言葉、あったんだ……」
ユノは看板に触れた。
石でも木でもないように温かい。
「ルグナ」
ミアも泣きながら言う。
「ルグナ」
リゼも。
「ルグナ」
カイも。
「ルグナ」
看板の文字が淡く光った。
町の中から、誰かの声がした。
「ユノ?」
ユノは振り返る。
道の先に、ガルドが立っていた。
目を丸くして、こちらを見ている。
「ユノ! ミア!」
ガルドが走ってくる。
ミアが泣きながら手を振る。
「ガルド!」
ユノも声を上げた。
「ガルド!」
名前を呼んだ瞬間、旅の長さが一気に胸へ押し寄せた。
帰ってきた。
変わった自分で。
変わり始めた故郷へ。
それでも、名前は繋がった。
ガルドはユノたちの前で立ち止まり、息を切らして笑った。
「お前ら……本当に帰ってきたんだな」
ユノは頷いた。
「ああ。ただいま」
ミアも泣き笑いで言った。
「ただいま」
ガルドは二人を見て、それからリゼとカイを見た。
「話、山ほどありそうだな」
ユノは少し笑った。
「山ほどある」
ガルドは大きく頷いた。
「じゃあ、まず帰ろう。お前の親父さん、ずっと待ってる」
父。
その言葉で、ユノの胸が震えた。
帰る道は、まだ終わっていない。
家の扉を開けるまで。
父の声を聞くまで。
ユノは歩き出した。
ルグナの町の中へ。
戻り始めた名前たちの光に包まれながら。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノたちがルグナへ帰る道を歩きました。
帰りたいけれど怖い。
旅に出た時とは、自分も故郷も変わっている。
それでも、名前が繋がるなら、そこは帰る場所になります。
最後にユノとミアはルグナへ到着し、ガルドと再会しました。
次のページは『ただいま、ルグナ』です。
ユノは父と再会し、故郷に戻った名前たちを確かめます。




