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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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シェルカへ帰る朝

戦いが終わっても、世界はすぐには元通りになりません。


 けれど朝は来ます。

 風は吹き、花は揺れ、誰かの名前が戻り始めます。


 ユノたちはシエラ高原を離れ、潮鳴りの町シェルカへ向かいます。


 そこには、森の心臓で名前を取り戻しつつあるソラと、弟を呼び続けるナギが待っていました。

シエラ高原を下る朝の道は、昨日までとは違って見えた。


 草の色が少し濃い。

 風が少し柔らかい。

 白い星涙花が、まるで見送りをするように揺れている。


 ユノは何度も振り返った。


 あの高原の奥に星の泉がある。


 ルナエルがいる。


 星喰いの王から分かたれた幼き名。

 そして、王の空白から残された「ここにいたかった」という小さな願い。


 すべてが終わったわけではない。


 けれど、大きな闇は止まった。


 名前は世界へ帰り始めた。


「ユノ」


 ミアが呼んだ。


「いる」


 ユノは答える。


 それはもう、ただの確認ではなかった。


 旅の中で身についた祈りのようなものだった。


 ミアも自分の胸に手を当てる。


「ミア、いる」


 リゼが続ける。


「リゼ、いるわ」


 カイも少し照れながら言う。


「カイ、いる」


 それから、小さく付け足した。


「ネリオも、少し戻ってる」


 ユノは頷いた。


「もっと戻る」


「うん」


 カイの顔には疲れがあった。


 でも、目の奥には確かな光があった。


 ネリオの記憶の欠片。

 井戸。

 赤い屋根。

 母の歌。

 父の手。


 それは小さな欠片だったが、カイにとっては世界そのものだった。


 道を進むにつれ、巡礼路の白い花は少なくなり、やがて普通の草原へ変わっていった。


 昼頃、古い馬車道へ出た。


 シェルカへ向かう道だ。


 リゼが地図を確認する。


「このまま南西へ進めば、夕方にはシェルカ近くの街道へ出られる」


 ミアがほっとしたように言う。


「白波亭のご飯、食べたい」


 カイが即答した。


「俺も」


 ユノは笑った。


「帰る場所の一つになってるな」


「白波亭は偉大だよ」


 ミアが真剣に言うので、カイも真剣に頷いた。


 リゼまで少しだけ笑った。


 その笑いを聞いて、ユノは胸が温かくなった。


 星喰いの玉座での戦いは、まだ身体に残っている。


 剣を振るった腕は重く、時々胸の奥が空白に触れたように冷える。


 でも、仲間の笑い声がある。


 名前を呼び合う声がある。


 それが、ユノを今へ戻してくれる。


 午後、道の途中で小さな村に立ち寄った。


 名も知らない村だった。


 けれど、村人たちの様子が少しおかしかった。


 井戸のそばで、老婆が泣いていた。


 若い男が、壊れた看板を抱えて座り込んでいる。


 子どもたちが、何かを思い出したように互いの名前を呼び合っている。


 ミアが不安そうに言った。


「何かあったのかな」


 ユノたちが近づくと、老婆が顔を上げた。


「あんたたち、旅の人かい」


「はい」


 ユノが答える。


 老婆は震える手で井戸の縁を撫でた。


「今朝、急に思い出したんだよ。この井戸に名前があったことを」


「井戸の名前?」


「ああ。星落ちの井戸って呼んでた。亡くなったじいさんが、毎朝そう呼んで水を汲んでた。でも何年も忘れてたんだ。井戸に名前があったことも、じいさんがそう呼んでた声も」


 老婆は泣きながら笑った。


「戻ってきたんだねぇ」


 ユノは胸が詰まった。


 名前は人だけのものではない。


 井戸にも、道にも、家にも、呼ばれてきた名がある。


 それが戻るということは、暮らしの記憶が戻るということなのだ。


 若い男が抱えていた看板には、消えかけた文字が浮かび始めていた。


「この村の名前、今朝まで誰も読めなかったんです」


 男は言った。


「でも、少しずつ戻ってきた。まだ全部じゃないけど」


 看板には、かすれた文字でこう書かれていた。


 ラトナ村。


 カイが小さく呟く。


「村の名前……」


 ユノは村人たちと一緒に言った。


「ラトナ」


 ミアも。


「ラトナ」


 リゼも。


「ラトナ」


 カイも。


「ラトナ」


 看板の文字が少しだけ濃くなった。


 老婆が何度も頭を下げた。


 ユノたちは、星喰いの王を止めたとは言わなかった。


 ただ、名前が戻ってよかったですね、とだけ伝えた。


 村を離れる時、ミアがぽつりと言った。


「こういうことが、世界中で起きてるのかな」


 リゼは頷いた。


「ええ。戻る名前があれば、思い出す人もいる」


「でも、戻って悲しくなる人もいるよね」


「いるわ」


 リゼの声は静かだった。


「忘れていた悲しみを思い出す人もいる。けれど、それでも名前が戻ることには意味がある」


 ユノはラトナ村を振り返った。


 泣いていた老婆。


 看板を抱えていた男。


 名前を呼び合う子どもたち。


 世界は少しずつ目を覚ましている。


 痛みごと。


 喜びごと。


 夕方、シェルカの港が見えた。


 潮の匂いが風に混ざる。


 海鳥の声が聞こえる。


 ミアがぱっと顔を明るくした。


「海だ!」


 カイも少し元気を取り戻す。


「シェルカだ」


 港町は、前に来た時よりも賑やかだった。


 不思議なほど、人々が名前を呼び合っていた。


「マリナ!」


「こっちだ、トマ!」


「この船、“青鱗丸”って名前だったんだ!」


「思い出した! うちの店の昔の看板!」


 町中に、戻ってきた名前の声が溢れている。


 白波亭の前へ行くと、女将が大きな声で客を呼んでいた。


「ほら、席が空いたよ! ……ああ、そうだ、この店は白波亭だ! 何年もただの宿屋って呼んでたけど、白波亭だったんだよ!」


 ミアが笑った。


「よかった、白波亭も名前が戻った」


 女将はユノたちを見つけると、目を丸くした。


「あんたたち! また顔がひどいね!」


 カイが真剣に言う。


「ご飯ください」


 女将は一瞬黙り、それから大笑いした。


「いいよ、たっぷり食べな!」


 温かい食事が出てくると、四人はしばらく言葉を失った。


 焼き魚。

 スープ。

 香草を混ぜたパン。

 小さな果実の煮込み。


 カイは泣きそうな顔で食べた。


「うまい……」


 ミアも頷く。


「帰ってきた感じする」


 ユノもスープを飲んで、深く息を吐いた。


 リゼは静かに食べていたが、その表情は少し穏やかだった。


 食事の途中、女将が言った。


「そういえば、森番の娘があんたたちを探してたよ」


「ナギが?」


「ああ。弟と一緒にね。弟の方、ずいぶん顔色が良くなってた」


 ユノたちは顔を見合わせた。


 ソラ。


 名前が戻ってきている。


 食後、四人はすぐに森の入口へ向かった。


 夕暮れのエルディアは、以前より明るく見えた。


 星の葉が穏やかに光り、森の声も優しい。


 名前を奪う森ではなく、名前を記録する森へ戻り始めている。


 森の入口で、ナギが待っていた。


 隣にはソラがいる。


 ソラの身体は、もうほとんど透けていなかった。


 ナギはユノたちを見るなり、短く言った。


「遅い」


 ミアが笑う。


「ただいま」


 ナギは一瞬言葉を詰まらせた。


 それから小さく答えた。


「……おかえり」


 ソラが駆け寄ってきた。


「ユノさん! ミアさん! リゼさん! カイ!」


 名前を呼ぶ声が、はっきりしている。


 カイが笑った。


「ソラ、戻ってるじゃん!」


「うん! 姉ちゃんがしつこく呼ぶから!」


 ナギは腕を組む。


「必要なことだ」


「一日に百回は多いよ」


「少ない」


 ミアが笑った。


 ソラは自分の胸を叩く。


「名前、もうちゃんとある。時々ぼやけるけど、姉ちゃんが呼んだら戻る」


 ユノはほっとした。


「よかった」


 ナギはユノの顔を見た。


「そっちは?」


 ユノは少し考えてから言った。


「星喰いの王は止めた。名前は戻り始めてる」


 ナギの表情が変わる。


「本当に?」


 リゼが頷いた。


「ええ。完全に世界が元通りになるわけではない。でも、名前を喰らう流れは止まった」


 ソラが空を見上げる。


「だから森が明るいんだ」


 ナギはしばらく黙っていた。


 そして、深く息を吐く。


「そうか」


 たったそれだけだった。


 けれど、その声には長い緊張がほどける響きがあった。


 森の心臓まで案内してもらうと、そこは以前とは違っていた。


 白銀の幹は強く光り、黒い染みはほとんど消えている。


 根元には、小さな白い花が咲いていた。


 リゼが言った。


「星の川が届いたのね」


 森の心臓の幹に、文字が浮かぶ。


 ――名は帰りつつある。

 ――呼ぶ者よ、忘れるな。

 ――戻る名には、迎える声が要る。


 ユノはその文字を見つめた。


 迎える声。


 戻ってきた名前は、呼ばれなければまた薄れてしまうかもしれない。


 だから、呼び続ける必要がある。


 ナギがソラの肩に手を置いた。


「ソラ」


「いる」


 ユノも言った。


「ソラ」


「いる!」


 ミアも。


「ソラ」


「いる!」


 リゼも。


「ソラ」


「います!」


 カイも。


「ソラ」


「いるってば!」


 ソラは笑った。


 その笑い声が森に響くと、星の葉が一斉に光った。


 ユノは胸が温かくなった。


 これが、帰る名前を迎える声なのだ。


 その夜、ユノたちは森の心臓のそばで休むことになった。


 ナギはソラの弓をミアへ渡した。


「約束だ。見てくれ」


 ミアは弓を受け取り、真剣な顔で確認する。


「うん。完全には直せないけど、応急ならできる」


 ソラの目が輝く。


「本当?」


「本当。明日までに少し使えるようにするね」


 カイはその隣で、ネリオの話をした。


 井戸。

 赤い屋根。

 母の歌。


 ソラは興味深そうに聞いていた。


「いつか見つかるといいね」


「見つける」


 カイは強く言った。


 その声には、もう迷いだけではなく決意があった。


 ユノとリゼは、少し離れた場所で森の心臓を見上げていた。


「次はルグナへ帰るの?」


 リゼが聞く。


「ああ。まず父さんに会いたい。ガルドにも」


「そうね」


「リゼは?」


「私は……」


 彼女は少し考えた。


「一緒に行くわ。まだセレノのことも、ルナエルのことも終わっていない。それに、あなたの名前が完全に安定しているか見届ける必要がある」


 ユノは苦笑した。


「監視?」


「仲間として」


 その言葉に、ユノは少し照れた。


「そっか」


 リゼは森の光を見上げる。


「千年前の私なら、こんなふうに誰かと帰る場所を考えるとは思わなかった」


「今は?」


「今は、悪くないと思う」


 ユノは笑った。


「それならよかった」


 夜が深まる。


 森の心臓の下で、名前を呼び合う声が静かに続いた。


 ユノ。

 ミア。

 リゼ。

 カイ。

 ナギ。

 ソラ。


 そして遠くの泉に。


 ルナエル。


 空のどこかに。


 セレノ。


 帰る名前たちは、世界中で迎えられ始めている。


 まだ痛みは残る。


 まだ戻らないものもある。


 でも、朝は来る。


 名前を呼ぶ声がある限り、世界は少しずつ戻っていく。


 ユノは森の光の中で目を閉じた。


 明日は、ルグナへ帰る道を探す。


 父に会う。


 帰る。


 その言葉が、こんなにも温かいものだと、ユノは旅に出るまで知らなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、ユノたちがシェルカへ戻り、ナギとソラに再会しました。


 名前が戻り始めたことで、町や村、森にも変化が起きています。


 ソラの身体も安定し、エルディアの森も本来の姿を取り戻し始めました。


 次のページは『ルグナへ帰る道』です。

 ユノとミアは、ようやく故郷ルグナへ向かいます。

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