帰る名前たち
名前は、帰り道を知っていました。
呼ばれた場所へ。
待っている人の胸へ。
忘れたくないと願った記憶へ。
星の川となって流れ出した名前たちは、それぞれの場所へ帰り始めます。
このページでは、ユノたちが星の泉を離れ、戻っていく名前たちの余韻を感じながら、旅の一区切りへ向かいます。
星の泉は、静かだった。
さっきまで無数の名前が川となって流れ、光が水面を満たし、世界中へ帰っていったことが嘘のように、今はただ澄んだ夜空だけを映している。
けれど、その静けさは空っぽではなかった。
ユノには分かった。
泉の底には、帰っていった名前たちの余韻が残っている。
ルグナ。
ネリオ。
アステラ。
エルディア。
たくさんの町。
たくさんの星。
たくさんの人。
それぞれが、自分の帰る場所へ向かった。
泉の中央には、白い星が浮かんでいる。
ルナエル。
そのそばには、透明な小さな光が沈んでいた。
ここにいたかった。
名前になる前の願い。
王を生んだ空白の核。
それはもう飢えていなかった。
ただ、星の泉の記録として、静かにそこにあった。
ルナエルは、その光をじっと見つめていた。
幼い顔に、深い疲れと悲しみがあった。
ユノは彼のそばへ歩いた。
「ルナエル」
少年は振り返る。
「ユノ」
名前を呼び返される。
それだけで、ユノの胸の奥が少し温かくなった。
「名前、帰ったな」
「うん」
ルナエルは頷いた。
「でも、全部じゃない気がする」
「全部?」
「帰れない名前もある。帰る場所がもうない名前。呼ぶ人がいなくなった名前。戻っても、誰も迎えられない名前」
ユノは息を呑んだ。
名前が戻ることは、すべてが元通りになることではない。
星の泉の文字も言っていた。
失われた時間は戻らない。
ルナエルは小さく言った。
「僕は、それも見なきゃいけないんだよね」
「ああ」
ユノは優しい嘘をつかなかった。
「見なきゃいけない」
ルナエルは震えた。
でも逃げなかった。
「怖い」
「怖くていい」
「泣いてもいい?」
「いい」
その瞬間、ルナエルは泣いた。
声を殺すように、肩を震わせて。
ミアは目を潤ませたが、何も言わなかった。
カイも黙って木剣を握っている。
リゼは静かに見守っていた。
許す必要はない。
慰める必要もない。
ただ、逃げずに見ている者を、そこにいる者として扱う。
それが今できる精一杯だった。
やがて、リゼが言った。
「そろそろ戻りましょう。泉に長く留まると、現実の時間との繋がりが弱くなる」
ミアが顔を上げる。
「ルナエルは?」
リゼは泉の中央を見る。
「彼はまだここに残る必要がある。星喰いの王から分かれたばかりで、外へ出る形を持っていない」
ルナエルは頷いた。
「僕、ここで見てる」
カイが少し複雑な顔で聞いた。
「寂しくないのか?」
「寂しい」
ルナエルは正直に言った。
「でも、前みたいな寂しさじゃない。誰にも呼ばれない寂しさじゃないから」
彼はユノたちを見た。
「君たちが、僕の名前を知ってる」
ユノは頷いた。
「呼ぶ」
ミアも。
「呼ぶよ」
リゼも。
「必要な時に」
カイは少し迷ってから言った。
「俺も……今はまだ許せないけど、名前は呼ぶ」
ルナエルは深く頭を下げた。
「ありがとう」
星の泉の出口へ向かう前、ユノはもう一度、泉の中央を振り返った。
ルナエルと透明な願いの光。
そして、もう流れ終えた星の川の跡。
ここで大きな戦いは終わった。
でも、旅は終わっていない。
戻った名前を確かめる必要がある。
ルグナへ帰らなければならない。
ネリオを探さなければならない。
アステラ、エルディア、灰の王都、シェルカ。
呼んだ名前たちがどうなったのか、見届けなければならない。
リゼが水面に手をかざす。
白い門が再び開いた。
泉の外縁へ戻る道。
ミアが記憶灯を抱え直す。
カイが木剣を背負い直す。
ユノは星灯りの剣を手首へ戻した。
「帰ろう」
四人は門をくぐった。
光が身体を包み、次の瞬間、星の泉の外縁に立っていた。
白い花びらの道。
夜空を映す湖。
静かな水音。
外縁の湖にも、星の川の名残が残っていた。
水面にいくつもの小さな光が浮かび、遠い場所へ向かって消えていく。
ミアがその一つを見つめた。
「今の、アステラかな」
「たぶん」
ユノが答える。
「ミレイア、歌ってるかな」
「歌ってると思う」
ミアは少し笑った。
その笑顔は疲れていたけれど、明るかった。
カイは湖の縁に立ち、胸に手を当てていた。
「ネリオ、少し戻った」
ユノは隣に立つ。
「何が見える?」
「井戸。赤い屋根。母さんの歌。父さんの手。あと……夕方にパンの匂いがした」
カイの声が震える。
「全部じゃない。でも、前よりある」
ミアが言った。
「絶対、もっと戻るよ」
リゼも頷く。
「名前が戻り始めたなら、記憶の道も開く。焦らず呼び続けましょう」
カイは涙を拭いた。
「うん。ネリオ」
ユノも。
「ネリオ」
ミアも。
「ネリオ」
リゼも。
「ネリオ」
その名は、もう以前より強く響いた。
巡礼路を戻ると、白い星涙花が風に揺れていた。
来た時よりも花の数が増えているように見える。
枯れていた水場には、薄く水が張っていた。
カイが開いた道。
その水面には、小さな星が映っていた。
ユノは立ち止まる。
水面に、たくさんの巡礼者の影が映った。
少女と母親。
名を忘れた兄を探していた人たち。
昔、この道を歩いた者たち。
彼らは何も言わなかった。
ただ、静かに頭を下げるように揺れ、白い花の光へ溶けていった。
ミアが小さく言った。
「帰ったのかな」
リゼは頷いた。
「少しずつ」
シエラ高原の空は、夜から朝へ変わろうとしていた。
東の空が白くなり、星が一つずつ薄れていく。
ユノは空を見上げた。
星は消えるのではない。
朝の光に隠れるだけだ。
名前も同じかもしれない。
見えなくなる時があっても、呼ぶ者がいれば、また見つけられる。
巡礼小屋へ戻った時には、四人とも限界だった。
誰も強がらなかった。
ミアは記憶灯を置くと、そのまま壁にもたれて座り込んだ。
カイは木剣を抱えたまま横になった。
リゼも結界を張ったあと、目を閉じた。
ユノは最後まで起きていようとしたが、ミアに睨まれた。
「寝る」
「でも」
「寝る」
「はい」
ユノは素直に座った。
眠りに落ちる直前、名前を確認する。
「ユノ」
ミアが眠そうに答える。
「ミア」
カイが小さく。
「カイ」
リゼが静かに。
「リゼ」
それから、カイが夢の中のように呟いた。
「ネリオ」
ユノも半分眠りながら言った。
「ルグナ」
ミアが続ける。
「アステラ」
リゼが。
「エルディア」
小屋の中に、名前が灯りのように残った。
その夜、ユノは夢を見た。
夢の中で、星の川が世界中を流れていた。
海の底へ、青い光が届く。
アステラでは、人魚たちの眠る塔に灯りが戻り、ミレイアが歌っている。
森へ、白銀の光が届く。
エルディアでは、森の心臓が強く脈打ち、ナギがソラの名を呼んでいる。
ソラの身体は、もうほとんど透けていない。
灰の王都へ、灰色の光が届く。
名を失った騎士たちが、自分の剣を見下ろしている。
どこか崩れた祭壇の奥で、セレノが黒い羽根の中に座っている。
彼は自分の名を小さく呟いていた。
セレノ。
まだ戻りきってはいない。
でも、忘れきってもいない。
そして、ルグナへ。
銀火の光が炭鉱町の屋根に届く。
父が空を見上げている。
ガルドが坑道の入口で誰かを呼んでいる。
ミアの工房の窓に灯りがつく。
帰る場所が、そこにある。
最後に、赤い光がネリオへ流れる。
まだぼやけた村。
けれど井戸に水が戻り、赤い屋根に朝日が当たる。
誰かの歌が聞こえる。
カイの母の歌かもしれない。
ユノは夢の中で、すべての名前が完全に戻ったわけではないと分かっていた。
戻れない名前もある。
迎える人のいない名前もある。
戻ったことで痛みを思い出す名前もある。
でも、名前が帰り始めた。
それだけで、世界は少し息をした。
朝、ユノが目を覚ますと、巡礼小屋の隙間から光が差していた。
ミアはまだ眠っている。
カイも熟睡していた。
リゼはすでに起きていて、入口の外で空を見ていた。
ユノはそっと外へ出る。
「リゼ」
「いるわ」
リゼは振り返らずに答えた。
「ユノ」
「いる」
朝のシエラ高原は、昨日より明るく見えた。
白い花が風に揺れ、遠くの山が青く霞んでいる。
リゼは静かに言った。
「名前が戻り始めている」
「分かるのか?」
「ええ。世界の魔力の流れが少し変わった」
「良い方に?」
「ええ。でも、傷は残っている」
ユノは頷いた。
「そうだな」
「星喰いの王を止めても、すべては元に戻らない」
「分かってる」
「それでも、昨日よりは進んだ」
「ああ」
リゼはユノを見た。
「あなたも、よく戻ったわ」
ユノは少し笑う。
「みんなが呼んだから」
「ええ」
リゼは小さく息を吐いた。
「これから、帰った名前を見届ける必要があるわ。ルグナ、ネリオ、アステラ、エルディア、灰の王都。そしてセレノ」
「セレノも?」
「ええ。彼はまだ、完全には戻っていない。でも自分の名を口にした」
リゼの目に、決意が宿る。
「私は、もう一度彼に会う」
「一人で?」
「いいえ」
リゼは少しだけ笑った。
「一人では抱えないのでしょう?」
ユノも笑った。
「ああ」
小屋の中から、ミアの声がした。
「二人だけでいい感じの話してる……」
振り返ると、ミアが寝ぼけた顔で入口に立っていた。
カイも後ろから顔を出す。
「朝ごはんある?」
ミアが笑った。
「カイは起きてすぐそれ」
「大事だろ」
その普通の会話に、ユノは胸が温かくなった。
星喰いの王と戦ったあとでも、朝ごはんの心配ができる。
名前を呼び合える。
それは、失いたくない日常だった。
簡単な朝食を食べながら、四人はこれからの道を決めた。
まずシェルカへ戻り、ナギとソラの様子を見る。
その後、海への連絡を取ってアステラの変化を確かめる。
そして、ルグナへ帰る。
カイのネリオ探しは、その途中で手がかりを集めることにした。
灰の王都とセレノについては、リゼがもう少し準備を整えてから向かう。
旅はまだ続く。
けれど、もう追われるだけの旅ではなかった。
帰る名前たちを見届ける旅。
戻り始めた世界を確かめる旅。
ユノはパンを食べながら、ふと笑った。
ミアが聞く。
「何?」
「帰ることを考えられるようになったなって」
ミアは少し黙って、それから笑った。
「うん。帰ろう」
カイも頷いた。
「俺も、ネリオに帰る」
リゼも静かに言った。
「私も、今へ帰る」
ユノは胸元に手を当てた。
星灯りの剣の模様は、静かに光っている。
もう王名の冷たい命令は聞こえない。
完全に消えたわけではないのかもしれない。
でも、今は遠い。
代わりに、たくさんの名前が胸の中で温かく響いていた。
ユノ。
ミア。
リゼ。
カイ。
ルナエル。
ネリオ。
ルグナ。
アステラ。
エルディア。
セレノ。
重い。
でも、一人で背負っているわけではない。
だから歩ける。
四人は巡礼小屋を出た。
シエラ高原の風が吹く。
白い花が揺れる。
遠くへ帰っていく名前たちの光は、もう目には見えない。
けれど、確かに世界のどこかで戻り始めている。
ユノは空を見上げた。
朝の空に、薄く星が一つ残っていた。
それはまるで、帰る名前たちを見送る小さな灯りのようだった。
ユノはその星へ向かって、小さく言った。
「帰ろう」
そして四人は、白い巡礼路を戻り始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星の川となって流れた名前たちが、それぞれの場所へ帰り始めました。
ネリオ、ルグナ、アステラ、エルディア。
そして、まだ完全には戻らないセレノの名。
星喰いの王は止まりましたが、失われた時間や痛みがすべて消えるわけではありません。
それでも、名前が戻れば、もう一度始められます。
次のページは『シェルカへ帰る朝』です。
ユノたちはまずナギとソラに会うため、潮鳴りの町シェルカへ向かいます。




