世界に空いた穴
第七坑道の奥で、ユノたちは“魔女の墓場”に辿り着きました。
そこに眠っていたのは、リゼにそっくりな少女。
そして彼女が残した言葉は、あまりにも不穏なものでした。
「ユノは鍵」
「ルグナは最初の穴になる」
世界に穴が空くとは、どういうことなのか。
星喰いは、どこからやって来るのか。
そしてユノは、なぜ“鍵”と呼ばれたのか。
このページでは、第七坑道の崩壊後、ルグナの町に起き始めた異変がさらに大きくなっていきます。
当たり前だった故郷が、少しずつ世界から剥がれ落ちていく――。
その恐怖を、どうか見届けてください。
目を開けると、空が白かった。
いや、空ではない。
石の天井だった。
煤で黒ずんだ梁。ひび割れた漆喰。壁に掛けられた古いランタン。暖炉の中で赤く揺れる火。
ユノはしばらくそれを見上げていた。
自分がどこにいるのか分からなかった。
頭が重い。
身体のあちこちが痛む。
喉の奥に砂を詰め込まれたみたいに乾いている。
「……起きたか」
低い声がした。
ユノはゆっくり顔を横へ向けた。
ガルドが椅子に座っていた。
腕を組み、目の下に深い隈を作っている。いつもの頑丈そうな顔が、今は少しだけ疲れて見えた。
「ガルド……」
声がかすれた。
「ここ……」
「俺の家だ」
「第七坑道は……?」
その言葉を口にした瞬間、記憶が戻ってきた。
暗い地下道。
銀色に輝く巨大な空洞。
透明な棺。
リゼにそっくりな少女。
金色の瞳。
頭の中に流れ込んできた記憶。
そして、崩れていく光。
ユノは慌てて身体を起こそうとした。
「っ……!」
胸に鋭い痛みが走る。
ガルドが片手で押さえつけた。
「動くな。肋骨は折れてねぇが、かなり打ってる」
「リゼは!? ミアは!?」
「生きてる」
その一言で、ユノは息を吐いた。
全身から力が抜ける。
生きている。
それだけで、今は十分だった。
「ミアは隣の部屋で寝てる。擦り傷だらけだが、大した怪我じゃない。魔女は……」
ガルドは少し言葉を濁した。
「奥にいる」
「奥?」
「起きてからずっと、何も喋らん」
ユノは眉をひそめた。
リゼ。
彼女は姉と呼んでいた。
あの棺の中の少女を。
千年ぶりに出会った家族。
けれどその再会は、言葉を交わす間もなく砕け散った。
ユノは胸の奥が重くなるのを感じた。
「俺たち……どうやって戻ったんだ」
「坑道が崩れたあと、旧採掘路の入口まで吹き飛ばされてた。俺が見に行ったら三人とも倒れてた」
「吹き飛ばされた?」
「ああ。銀色の光に包まれてな」
ガルドの声には、信じがたいものを見た人間の響きがあった。
「お前らの周りだけ、岩が避けてた。あれがなけりゃ全員潰れてた」
「リゼが……?」
「たぶんな」
ユノは拳を握った。
リゼは自分も傷ついていたはずだ。
それでも守ったのだ。
ユノとミアを。
「第七坑道は?」
ユノが聞くと、ガルドは険しい顔になった。
「完全に塞がった」
「じゃあ、もう入れないのか」
「普通ならな」
「普通なら?」
ガルドは立ち上がった。
窓の方へ歩く。
カーテンを少しだけ開けた。
「見ろ」
ユノは痛む身体を引きずりながら窓へ近づいた。
外は夕方だった。
空は灰色。
町の煙突からはいつものように黒煙が上がっている。
けれど、何かがおかしい。
最初は分からなかった。
何が違うのか。
家も、道も、採掘塔も、いつも通りそこにある。
だが次の瞬間、ユノは息を呑んだ。
町の北側が、ぼやけていた。
まるで霧がかかっているように。
いや、霧ではない。
そこだけ景色が薄い。
家の輪郭が曖昧になり、石畳の線が途中で消えている。
遠くにあるはずの時計塔の上半分が、白く欠けていた。
「……なんだ、あれ」
ユノの声が震えた。
ガルドは低く答える。
「分からん」
ユノは窓に手をついた。
外の景色が、確かに壊れている。
物が壊れるのとは違う。
燃えたのでも、崩れたのでもない。
ただ、“存在が薄くなっている”。
まるで絵の具を水で薄めたみたいに。
「町の連中は?」
「気づいてる奴と、気づいてない奴がいる」
「どういうことだよ」
「見えてる者には見えてる。見えてない者には、何も変わってないように見えるらしい」
ユノはぞっとした。
星が消えていることに、ほとんどの人間が気づかない。
名前が消えていることに、ほとんどの人間が気づかない。
そして今度は、町そのものが消えかけているのに、それすら見えない人がいる。
「リゼは何て?」
「“穴が開き始めた”とだけ言った」
世界に空いた穴。
あの棺の少女が言っていた言葉。
ルグナは最初の穴になる。
その意味が、今、目の前にあった。
ユノは扉の方へ向かった。
「おい、どこ行く」
「リゼに聞く」
「寝てろ」
「寝てる場合かよ!」
ユノは振り返った。
「町が消えかけてるんだぞ!」
「だからこそ、焦って動くな」
「でも――」
「ユノ」
ガルドの声が低くなった。
怒鳴ってはいない。
けれど、逆らえない重さがあった。
「お前が倒れたら、誰がその鍵を使う」
ユノは言葉を失った。
鍵。
地下の少女は言った。
その少年は、鍵。
星喰いを封じる鍵。
世界を開く鍵。
意味はまだ分からない。
けれど、自分が何かに関わっていることだけは、もう否定できなかった。
「……少しだけだ」
ユノはそう言って、奥の部屋へ向かった。
ガルドは止めなかった。
扉を開けると、そこは小さな物置だった。
壁には毛布が掛けられ、床には古い木箱が積まれている。
その隅に、リゼが座っていた。
膝を抱え、顔を伏せている。
銀色の髪はほどけ、月明かりのように床へ広がっていた。
「リゼ」
声をかけても、返事はなかった。
ユノはゆっくり近づく。
「大丈夫か」
「……」
「大丈夫なわけないか」
リゼの肩がわずかに揺れた。
ユノは少し離れた床に座った。
何を言えばいいのか分からなかった。
慰める言葉なんて持っていない。
千年眠っていた少女に、千年分の喪失を抱えた魔女に、十五歳の少年がかけられる言葉なんてあるはずがなかった。
だから、ユノはただ隣に座った。
しばらく沈黙が続いた。
やがてリゼが小さく言った。
「姉様は、死んでいたはずだった」
「……」
「千年前、封印の儀式で心臓を差し出した。私を封印の核にするために、姉様は自分の魂を棺に残した」
「だから、あそこに?」
「ええ」
リゼは顔を上げないまま続けた。
「あの声を、もう一度聞けるなんて思っていなかった」
ユノは何も言えなかった。
リゼの声は震えていない。
涙も見えない。
でも、その静けさが逆に痛々しかった。
「聞きたいことがたくさんあった」
「……ああ」
「どうして私だけ残したのか。どうして姉様が死ななきゃいけなかったのか。どうして魔女は滅びたのか。どうして人間は私たちを裏切ったのか」
リゼの指が膝の布を強く掴む。
「でも、何も聞けなかった」
ユノは拳を握った。
「また会えるかもしれない」
「慰めはいらない」
「慰めじゃない」
ユノはリゼを見た。
「星の欠片を探せって言ってた。なら、他にも何か残ってるかもしれないだろ」
リゼはようやく顔を上げた。
赤い瞳がユノを見る。
「あなたは不思議ね」
「何が」
「根拠のない希望を、よく口にできる」
「悪いかよ」
「悪くはない」
リゼは小さく息を吐いた。
「ただ、眩しいと思っただけ」
その言葉に、ユノは少し照れた。
けれどすぐに、窓の外のことを思い出す。
「町が変になってる」
「知ってる」
「あれが穴なのか」
「そう」
リゼの表情が硬くなる。
「世界に空いた穴。星喰いが喰らった記憶や存在の跡にできる空白よ」
「空白……」
「最初は人の記憶から消える。次に名前。記録。物。場所。そして最後には、その場所に関わった因果そのものが消える」
「因果?」
「そこに住んでいた事実。そこで起きた出来事。そこで生まれた人間のつながり」
ユノは喉が渇くのを感じた。
「じゃあ、ルグナが消えたら……」
「この町に関わる全員の人生が歪む」
リゼは淡々と告げた。
「ルグナで生まれた人は、どこで生まれたか分からなくなる。ここで出会った人たちは、出会わなかったことになる。ここで死んだ人は、死んだ場所を失う」
「そんなの……めちゃくちゃだろ」
「星喰いにとって、世界は食事にすぎない」
ユノは窓の方を見た。
この町が消える。
父が生きていた場所が。
ミアと走り回った路地が。
ガルドの家も、酒場も、市場も、採掘塔も。
全部、最初からなかったことになる。
その想像は、死よりも怖かった。
「止める方法は?」
「穴が完全に開く前に、星の欠片を回収する」
「星の欠片?」
「第七坑道にあった結晶群。その中心に、喰われかけた星の核があったはず」
「でも坑道は崩れた」
「だから急がなければいけない」
「どうやって入るんだよ」
リゼは立ち上がった。
まだふらついている。
ユノは手を伸ばしかけたが、彼女はそれを拒むように一歩引いた。
「穴から入る」
「は?」
「町の北側に空白が出ているでしょう。あれは第七坑道とつながっている」
「つながってるって……あのぼやけた場所に入るのか?」
「そう」
「危険なんだろ」
「当然」
「入ったらどうなる」
「存在が薄くなる。名前を忘れる。帰り道を見失う。最悪、最初からいなかったことになる」
「さらっと怖いこと言うなよ」
「事実だから」
ユノは額を押さえた。
リゼと話していると、恐怖の基準がおかしくなってくる。
だが、やるしかない。
この町を消さないためには。
「俺も行く」
「分かってる」
リゼは即答した。
ユノは少し驚いた。
「止めないのか?」
「止めても来るでしょう」
「まあ……」
「それに、あなたは鍵。あなたがいなければ、星の欠片には触れられないかもしれない」
「便利道具みたいに言うな」
「便利かどうかは、まだ分からない」
「そこは否定しろよ」
その時、扉が開いた。
ミアが立っていた。
顔色は悪いが、目はしっかりしている。
「私も行く」
「駄目だ」
ユノとリゼが同時に言った。
ミアはむっとした顔をする。
「なんで二人して」
「危険すぎる」
「さっき聞こえてた。存在が薄くなるとか、名前を忘れるとか」
「なら余計に――」
「だから行くの!」
ミアの声が震えた。
「私、機械しか得意なことないけど、坑道の構造なら少し分かる。お父さんの仕事も手伝ってるし、古い採掘路の図面だって見たことある。ユノたちだけで行くより役に立つ」
「でも」
「置いていかれる方が怖いって言ったでしょ」
ミアはユノを見た。
「私だって、ルグナを守りたい」
ユノは黙った。
ミアの目には、恐怖と覚悟が同時に宿っていた。
止める資格なんて、自分にはないと思った。
「……分かった」
ミアは少しだけ笑った。
「うん」
リゼは二人を見て、諦めたように息を吐いた。
「人間は面倒ね」
「よく言われる」
「誰に」
「ミアに」
「失礼ね。私、そこまで言ってない」
「似たようなことは言ってる」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
だがその瞬間。
外から悲鳴が聞こえた。
三人は顔を上げた。
「今の……!」
ユノは部屋を飛び出す。
ガルドもすでに扉へ向かっていた。
「外だ!」
家を出ると、町の北側から人々が逃げてきていた。
顔を真っ青にして、口々に叫んでいる。
「家が消えた!」
「道がない!」
「母さんが、母さんが誰も思い出せない!」
「北区に行くな!」
混乱。
怒号。
泣き声。
そして、白い霧のような空白が、町の北側からゆっくり広がっていた。
ユノは目を見開いた。
さっきよりも広がっている。
時計塔の半分どころではない。
北区の家々が、まるで紙を水に浸したみたいに滲んでいる。
石畳の一部は消え、そこには白い空間が広がっていた。
何もない。
影も、奥行きも、音もない。
ただ白い。
そこへ一匹の犬が迷い込んだ。
「駄目だ!」
ユノが叫んだ時には遅かった。
犬は白い空間に足を踏み入れた。
一瞬、身体が透けた。
次の瞬間。
消えた。
跡形もなく。
首輪だけが石畳に落ちる。
周囲が凍りついた。
少年が叫ぶ。
「マロ! マロ!!」
だが、その横にいた母親が首を傾げた。
「マロって……何?」
少年の顔が壊れた。
「何言ってるの……うちの犬だよ! ずっと一緒にいたじゃん!」
「犬なんて飼ってないでしょう?」
「嘘だ!!」
ユノの胸が締めつけられた。
これが空白。
存在そのものを奪う穴。
リゼが低く言った。
「早すぎる」
「どういうことだ」
「普通なら、穴が広がるには数日かかる。でもこれは……」
リゼは空を見上げた。
灰色の雲の奥。
昼間なのに、ユノにも分かった。
また星が消えた。
見えないはずの星が。
世界のどこかで、また喰われた。
その瞬間、白い空白の奥から音が聞こえた。
ズ……。
ズズ……。
何かが這い出てくる音。
人々が後ずさる。
白い空間の中に、黒い影が浮かんだ。
腕。
長い腕だった。
人間のものに似ている。
だが指が多い。
関節が逆に曲がっている。
それが白い穴の縁を掴む。
ユノは身体が凍りついた。
昨夜、森で見た黒い影。
星喰いの欠片。
それと同じ気配。
リゼが叫ぶ。
「下がって!!」
黒い腕が空白から伸びた。
近くにいた男を掴む。
「うわああああ!!」
男は必死にもがいた。
周囲が助けようとする。
だが、腕に触れた瞬間、別の男の手が透け始めた。
「触るな!」
リゼが手をかざす。
銀色の光が走った。
黒い腕が凍りつく。
だが、完全には止まらない。
氷を割りながら、腕は男を引きずり込もうとする。
ユノは走った。
「ユノ!」
ミアの叫び。
ユノは地面に落ちていた鉄棒を掴み、黒い腕に叩きつけた。
硬い。
鉄が弾かれる。
けれど腕の力が一瞬緩んだ。
その隙にガルドが男の身体を引き戻す。
「引け!!」
周囲の男たちが一斉に引っ張った。
黒い腕が軋む。
リゼがもう一度魔法を放つ。
「凍れ!」
銀の氷が黒い腕を覆い尽くした。
次の瞬間。
腕は砕け散った。
男は地面に転がった。
助かった。
そう思った。
だが、男の左足は膝から下が消えていた。
血は出ていない。
傷口もない。
ただ、最初からそこになかったように消えている。
男は自分の足を見た。
「……俺の、足……?」
周囲が悲鳴を上げる。
ガルドが低く言った。
「もう隠せねぇな」
町は混乱に包まれていた。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ子ども。
白く滲む北区。
そして空白の奥で、まだ何かが蠢いている。
リゼは苦しそうに膝をついた。
「リゼ!」
ユノが支える。
彼女の身体は熱い。
魔法を使うたびに、命を削っているようだった。
「無理するな」
「無理しなければ、全員消える」
「でも!」
「ユノ」
リゼは赤い瞳でユノを見た。
「今すぐ穴の中心へ行く」
「中心って……北区の奥か」
「第七坑道の真上。そこに、空白の核がある」
「星の欠片?」
「そう」
ミアが工具袋を握りしめる。
「行こう」
ガルドが二人の前に立った。
「俺も行く」
「ガルドまで?」
「お前らだけで行かせるわけねぇだろ」
彼は巨大な採掘用ハンマーを肩に担いだ。
「この町は俺の町でもある」
ユノは頷いた。
四人は北区へ向かった。
白い空白に近づくほど、音が遠くなる。
町の喧騒が薄れていく。
足音さえも曖昧になる。
ユノは自分の名前を心の中で繰り返した。
ユノ。
ユノ。
ユノ。
忘れるな。
父の顔を思い出せ。
ガルドの声を思い出せ。
ミアの笑顔を思い出せ。
リゼの赤い瞳を思い出せ。
自分はここにいる。
確かにここにいる。
「ねえ」
ミアが小さく言った。
「私の名前、呼んで」
「は?」
「いいから」
ユノはすぐに理解した。
「ミア」
彼女はほっとしたように息を吐いた。
「もう一回」
「ミア」
「うん」
ミアは震えながら笑った。
「私も呼ぶ。ユノ」
「ああ」
「ユノ。ユノ。ユノ」
「うるさい」
「忘れたくないから」
ユノは何も言えなくなった。
リゼが二人を見て、少しだけ目を細めた。
「名前を呼び合うのは有効よ」
「そうなのか?」
「名前は存在を繋ぐ鎖だから」
「先に言えよ」
「今言った」
こんな状況なのに、ユノは少しだけ笑いそうになった。
だが次の瞬間。
足元が消えた。
「っ!?」
ユノは落ちかけた。
ミアが腕を掴む。
「ユノ!」
石畳の一部が白く抜けていた。
穴ではない。
空間そのものが消えている。
下がない。
奥もない。
ただ白い。
見ているだけで頭がおかしくなりそうだった。
「気をつけろ」
ガルドが低く言う。
「道が消えてる」
四人は慎重に進んだ。
北区は、もう町ではなかった。
家々は輪郭だけになり、窓の中は白く空っぽだった。
看板の文字は消え、井戸の水は音もなく止まっていた。
昨日まで誰かが住んでいたはずの場所。
子どもが遊び、老婆が洗濯をし、炭鉱夫が昼寝をしていたはずの場所。
それが今、世界から剥がれ落ちている。
やがて、四人は時計塔の前に辿り着いた。
時計塔は半分消えていた。
文字盤の右側が白く抜け、針は存在しない時間を指している。
その根元に。
銀色の結晶が突き刺さっていた。
小さな欠片。
拳ほどの大きさ。
けれどそこから、白い空白が広がっている。
「あれが核……?」
ユノが呟く。
リゼが頷く。
「星の欠片。第七坑道から浮上したのね」
「どうすればいい」
「あなたが触れて」
「俺が?」
「鍵なら、反応するはず」
「反応って何だよ」
「分からない」
「分からないこと多すぎだろ!」
「千年眠っていたのよ。少しは配慮して」
「そういう問題か!?」
ミアが二人の間に割って入る。
「喧嘩してる場合じゃない!」
その通りだった。
空白は今も広がっている。
時計塔の周囲が、少しずつ消えていく。
ユノは銀色の欠片に近づいた。
胸が痛む。
頭の奥で、また声がする。
――ユノ。
誰かが呼んでいる。
懐かしい声。
思い出せない声。
ユノは手を伸ばした。
指先が欠片に触れる。
その瞬間。
世界が止まった。
音が消えた。
風も、人の声も、リゼたちの気配も。
すべてが遠ざかる。
ユノは白い空間に立っていた。
目の前に、一人の男がいた。
煤だらけの作業着。
大きな手。
優しい目。
ユノは息を呑む。
「父さん……?」
男は微笑んだ。
けれど、その顔は半分ほど白く欠けていた。
『ユノ』
その声を聞いた瞬間、涙が出そうになった。
ずっと聞きたかった声。
忘れていなかった声。
『大きくなったな』
「父さん……本当に父さんなのか?」
『残り香みたいなものだ。長くは話せない』
「待ってくれ! 聞きたいことがあるんだ!」
ユノは叫んだ。
「第七坑道で何があった!? 俺は何なんだ!? 鍵って何だよ!」
父は悲しそうに笑った。
『お前は、星に選ばれた子だ』
「意味分かんねぇよ!」
『いつか分かる。だが今は、ルグナを守れ』
「どうやって!」
父はユノの胸に手を当てた。
温かかった。
記憶の中の手と同じだった。
『名前を忘れるな。お前の名はユノ。光を結ぶ者』
「父さん!」
『そして、魔女を信じろ』
白い空間が崩れ始める。
父の姿が遠ざかる。
「待って! まだ……まだ話したい!」
『俺はいつでも、お前の中にいる』
「父さん!!」
次の瞬間、ユノは現実へ戻った。
銀色の欠片が眩く光っている。
リゼが叫ぶ。
「ユノ、手を離して!」
「嫌だ!」
ユノは歯を食いしばった。
欠片の奥に、何かがある。
星の光。
泣いている光。
ユノはその光に向かって叫んだ。
「俺は忘れない!」
胸の奥が熱くなる。
心臓が強く脈打つ。
銀色の光が腕を伝い、全身を包む。
欠片から広がっていた白い空白が、ゆっくりと縮み始めた。
時計塔の輪郭が戻る。
石畳が戻る。
家々の影が戻る。
消えたはずの音が戻る。
ゴウン、ゴウン、ゴウン。
採掘塔の音。
町の鼓動。
ユノは叫び続けた。
「ルグナはここにある!」
光が爆発した。
白い空白が弾け飛ぶ。
ユノの身体が後ろへ吹き飛ばされる。
「ユノ!」
ミアが受け止めようとして、二人まとめて倒れた。
銀色の欠片は、ユノの掌の中で小さな石になっていた。
透明で、星のように光っている。
空白は消えていた。
完全ではない。
北区の一部はまだ歪んでいる。
だが、穴の広がりは止まった。
人々の歓声が遠くから聞こえる。
リゼがユノの手の中の石を見て呟いた。
「星涙石……」
「これが星の欠片?」
「ええ」
ユノは息を切らしながら笑った。
「止められたのか」
「一時的に」
「一時的……」
「穴は塞がっていない。傷口に布を当てただけ」
ユノは空を見上げた。
灰色の雲の奥に、見えない星がある。
その星たちが今も喰われている。
ルグナは救われた。
でも、世界はまだ救われていない。
その時。
遠くの広場から誰かが叫んだ。
「思い出した!」
ユノは振り返る。
セナだった。
彼女は泣きながら、地面に落ちた古い指輪を握っていた。
「アルト……アルト……!」
完全ではないかもしれない。
アルト本人は戻らないかもしれない。
それでも、名前だけは戻った。
セナの中に。
ユノは胸が熱くなるのを感じた。
リゼはその光景を見て、静かに言った。
「世界は、まだ諦めていないのね」
ユノは彼女を見る。
「俺たちも諦めない」
リゼは少しだけ驚いた顔をした。
それから、ほんのわずかに笑った。
「無謀ね」
「知ってる」
「でも……嫌いじゃない」
空にはまだ、星は見えなかった。
けれどユノの掌の中で、小さな星の欠片が確かに光っていた。
世界に空いた穴は、まだ塞がっていない。
星喰いは、まだどこかで飢えている。
それでもユノは、初めて思った。
戦えるかもしれない。
守れるかもしれない。
忘れられていく世界の中で、それでも誰かの名前を呼び続けることができるなら。
まだ、終わりではないのだと。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ルグナの町に“世界の穴”が現れ、星喰いの恐ろしさがよりはっきりと描かれました。
人だけではなく、町も、道も、飼っていた犬さえも、存在ごと消えてしまう。
そして消えた瞬間、周囲の記憶からも失われていく。
そんな絶望の中で、ユノは初めて“鍵”として星の欠片に触れました。
そこで出会った父の残影。
「名前を忘れるな」
「魔女を信じろ」
この言葉は、これからのユノの旅にとって大切な道しるべになります。
ルグナの穴は完全には塞がっていません。
けれど、ユノたちは初めて星喰いに抗う方法を見つけました。
次のページでは、“星喰いの伝承”が語られます。
なぜ星喰いは生まれたのか。
千年前、人々は何を知り、何を忘れてしまったのか。
物語は、少しずつ世界の真実へ近づいていきます。




