魔女は千年眠る
眠りとは、救いなのでしょうか。
それとも、罰なのでしょうか。
千年という時間は、ひとりの人間にはあまりにも長すぎます。
目を閉じたまま世界が変わり、知っていた人も、国も、歴史も、すべてが失われていく。
このページでは、リゼがなぜ千年もの間眠っていたのか、その理由に少しずつ近づいていきます。
そしてユノは、父が死んだ場所である第七坑道へ足を踏み入れます。
そこに眠っているものは、星なのか。
魔女の記憶なのか。
それとも、世界を壊す真実なのか。
どうか、ルグナの地下へ降りていくユノたちを見届けてください。
夜のルグナは、昼よりもずっと息苦しかった。
黒い煙が空に溶け、煤けた屋根の間を冷たい風が抜けていく。採掘塔の灯りは赤く瞬き、町のあちこちに伸びる影は、まるで地面から生えた黒い指のように揺れていた。
ユノはガルドの家の裏口から外へ出た。
手には古びた鉄の鍵。
父が持っていたという、第七坑道の予備鍵だった。
冷たい鉄の感触が、掌に重く残っている。
「本当に行くのね」
背後からリゼの声がした。
ユノは振り返らずに答える。
「ああ」
「引き返すなら今よ」
「それ、何回言うんだよ」
「あなたが何回も無謀なことをするから」
ユノは少しだけ笑った。
笑える状況ではなかった。
けれど、リゼの言い方があまりに真面目だったから、逆に少しだけ肩の力が抜けた。
リゼはガルドから借りた外套を羽織っていた。銀色の髪は布で隠している。赤い瞳も、暗がりではそれほど目立たない。
だが、それでも彼女はこの町の誰とも違って見えた。
まるで夜そのものが人の形をして歩いているみたいだった。
「私も行く」
ミアが工具袋を腰に巻き直しながら言った。
ユノは眉をひそめる。
「お前は残ってろ」
「嫌」
「危ないぞ」
「知ってる」
「なら――」
「ユノだけ行かせる方が嫌」
ミアは真っ直ぐユノを睨んだ。
泣きそうなのを必死に隠している顔だった。
「昨日も勝手に森へ行って、死にかけたでしょ。今日もまた勝手に行くつもりだったんでしょ」
「それは……」
「私だって怖いよ。あんな化物、二度と見たくない。でも、知らないところでユノが消える方がもっと怖い」
ユノは言葉を失った。
ミアは幼馴染だ。
小さい頃からずっと隣にいた。
母を早くに亡くしたユノに、焼きすぎたパンを持ってきたのもミアだった。父が死んだ夜、何も言えずにユノの隣に座っていたのもミアだった。
そんな彼女が震えながら、それでも逃げないと言っている。
ユノにはもう、止める言葉がなかった。
「……分かった。でも無理はするな」
「それはこっちの台詞」
ミアは少しだけ笑った。
その笑顔は弱々しかったけれど、確かにいつものミアだった。
ガルドは扉の前に立っていた。
腕を組み、三人を黙って見ている。
「第七坑道までは旧採掘路を使え。表から行けば見張りに見つかる」
「見張り?」
「町長が立入禁止区域に人を置いた。今朝の騒ぎのあと、余計なことを嗅ぎ回られたくないんだろう」
ユノは顔をしかめた。
「町長は何か知ってるのか?」
「知らん。だが、隠したいものはある」
「それって同じじゃねぇか」
「世の中には、知らずに隠してる奴もいる」
ガルドの声は苦かった。
彼は古いランタンをユノに渡した。
「油は少ない。無駄にするな」
「ありがとう」
「礼は帰ってから言え」
ガルドは少しだけ視線を逸らした。
そして、低い声で付け加えた。
「もし地下で、お前の親父に関わるものを見つけても……無理に全部背負うな」
ユノは鍵を握りしめる。
「父さんは何を見たんだ」
「俺も知りたい」
ガルドの顔に深い影が落ちた。
「あいつは事故の三日前から様子がおかしかった。坑道から戻るたび、空ばかり見ていた。酒場にも来なくなった。最後に会った夜、言ったんだ」
「地下で星が泣いているって?」
「ああ」
ガルドは頷いた。
「それと、もう一つ」
「何?」
「“もし俺が俺でなくなったら、ユノを頼む”」
ユノの胸が鈍く痛んだ。
俺が俺でなくなったら。
どういう意味だ。
父は何を恐れていた。
「ガルドはそれを聞いて、止めなかったのか」
「止めたさ」
ガルドは苦しそうに笑った。
「だが、お前の親父は頑固だった。誰かに似てな」
ユノは何も言えなかった。
ガルドはリゼを見る。
「魔女。ユノとミアを死なせるな」
リゼは静かに答えた。
「約束はできない」
「おい」
「でも、できる限り守る」
ガルドはしばらくリゼを睨んだ。
やがて、諦めたように息を吐く。
「それでいい」
三人は歩き出した。
町の裏手へ回り、古い水路跡を抜ける。
ルグナには地上だけでなく、地下にも古い道が張り巡らされていた。かつて鉱石を運ぶために使われていた旧採掘路だ。今ではほとんど使われず、子どもたちの肝試し場所になっている。
ユノも昔、ミアと一緒に入ったことがあった。
その時は暗闇が怖くて、十歩も進めずに逃げ出した。
今思えば、可愛い恐怖だった。
本当に怖いものを知る前の、子どもの遊びだった。
「ここから入る」
ユノは崩れかけた石壁の隙間を指差した。
ミアがランタンを掲げる。
「うわ……狭い」
「文句言うなら帰れ」
「帰らないってば」
三人は身をかがめて中へ入った。
湿った空気が肌にまとわりつく。
石の壁には苔が生え、足元には古いレールが錆びついていた。
奥から水の滴る音がする。
ぽたり。
ぽたり。
その音が妙に大きく聞こえた。
「暗い……」
ミアが小さく呟く。
「ランタンあるだろ」
「そういう問題じゃない」
ユノも同じ気持ちだった。
暗闇が濃すぎる。
灯りが届かない場所に、何かが潜んでいるような気がする。
リゼは黙って歩いていた。
彼女だけは暗闇を恐れていないように見える。
いや、違う。
恐れていないのではない。
知っているのだ。
この暗闇の先に何があるのか。
ユノはそう感じた。
「リゼ」
「何」
「千年前、お前はどこで眠ってたんだ」
リゼの足が少し止まった。
ほんの一瞬。
けれどユノは見逃さなかった。
「……空の檻」
「空?」
「星の欠片で作られた封印よ。世界の上と下の境目にあった」
「意味分かんねぇ」
「あなたの時代の言葉で言えば……隕石の中」
ユノは昨夜の光景を思い出した。
黒樹林に落ちた銀色の結晶。
その中で眠っていたリゼ。
「じゃあ、あの結晶が封印だったのか」
「そう」
「誰がお前を封印した」
リゼは答えなかった。
沈黙が続く。
ミアが遠慮がちに聞いた。
「自分で眠ったの?」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「半分は」
「半分?」
「私は眠るしかなかった。そうしなければ、世界はもっと早く喰われていた」
「どういうことだよ」
ユノが聞くと、リゼはランタンの火を見つめた。
「星喰いは、魔力の強いものを狙う。千年前、魔女は世界で最も強い魔力を持つ一族だった。だから最初に喰われた」
声に感情は少ない。
だが、言葉の奥に深い痛みがあった。
「魔女たちは星を守るために戦った。国も、人間も、神殿も、最初は私たちを頼った。でも戦いが長引くと、人々は魔女を恐れるようになった」
「なんで」
「強すぎたから」
リゼは自嘲するように笑った。
「怪物と戦えるものは、怪物と同じに見えるのよ」
ミアが何も言えなくなる。
「やがて魔女は裏切られた。星喰いと戦いながら、人間にも追われた。最後に残った魔女は十三人。そのうち十二人は封印を完成させるために命を使った」
「じゃあ、お前は」
「十三人目」
空気が重くなった。
ユノは足を止めた。
「お前だけ生き残ったのか」
「生き残ったというより、残された」
リゼの声は静かだった。
「封印の核として」
「核……?」
「星喰いを千年間眠らせるためには、生きた魔女の心臓が必要だった」
ミアが息を呑む。
「そんな……」
「だから私は眠った。死ぬこともできず、目覚めることもできず、千年間ずっと」
ユノはリゼの背中を見た。
小さな背中だった。
昨夜、空から落ちてきた時は、人形のように軽かった。
けれど今、その背中には千年分の孤独が乗っているのだと思った。
「怖くなかったのか」
ユノは思わず聞いた。
リゼは振り返らない。
「怖かったわ」
答えは短かった。
「でも、誰も代わってくれなかった」
その言葉が、ユノの胸に刺さった。
暗い道を進む。
やがて古い分岐点に辿り着いた。
壁には錆びた標識があり、かすれた文字で《第七坑道方面》と書かれている。
その下には、赤い塗料で大きく×印がつけられていた。
立入禁止。
死者多数。
進入厳禁。
ミアが喉を鳴らす。
「ここ……本当に行くの?」
「行く」
ユノは鍵を取り出した。
分岐の先には鉄の扉があった。
分厚い鎖で巻かれ、大きな錠前がついている。
鍵穴に父の鍵を差し込む。
少し抵抗があった。
だが、ゆっくり回すと。
ガチャン。
錠前が開いた。
その音は、思ったよりも大きく響いた。
まるで、二十年間閉ざされていた何かが目を覚ましたみたいだった。
ユノは鎖を外し、扉を押す。
重い。
錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
ギィィィ……。
扉の向こうから、冷たい風が吹いた。
そして。
声が聞こえた。
「……え?」
ユノは固まった。
今、確かに聞こえた。
誰かの声。
遠く、地下の奥から。
泣いているような声。
歌っているような声。
ミアも青ざめていた。
「ユノ……聞こえた?」
「ああ」
リゼの表情が変わる。
今までどれほど恐ろしい話をしても揺らがなかった彼女の顔に、明確な動揺が浮かんだ。
「この声……」
「知ってるのか」
リゼは答えない。
ただ、震える手で胸元を押さえた。
「ありえない……」
「何が」
「この歌は……」
その時、地下の奥から光が漏れた。
淡い銀色。
星のような光。
ユノの心臓が強く鳴る。
ガルドが言っていた。
地下で星が泣いている。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
三人は第七坑道へ足を踏み入れた。
空気が変わった。
旧採掘路の湿った匂いとは違う。
もっと冷たく、もっと古い匂い。
長い時間、誰にも触れられなかった場所の匂いだった。
壁には黒い焦げ跡が残っている。
落盤事故の跡だろうか。
天井の一部は崩れ、木製の支柱は折れ曲がっている。
足元には古いヘルメットや壊れたランタンが転がっていた。
二十年前の事故。
多くの炭鉱夫が死んだ場所。
ユノの父が帰ってこなかった場所。
ユノは無意識に息を浅くしていた。
「父さん……」
呟きは闇に吸い込まれた。
さらに奥へ進むと、壁に文字が刻まれているのを見つけた。
ミアがランタンを近づける。
「これ……誰かが彫ったの?」
そこには乱れた字で、こう書かれていた。
――名前を忘れるな。
ユノの背筋が凍った。
その隣にも文字。
――空を見るな。
さらに奥。
――星は生きている。
そして最後に。
――魔女を起こすな。
リゼが息を止めた。
「……」
「リゼ?」
ユノが呼ぶと、彼女は壁の文字に触れた。
その指先がかすかに震えている。
「この字……」
「読めるのか?」
「読める」
「誰が書いた?」
リゼは唇を噛んだ。
「千年前の文字よ」
「は?」
ミアが目を見開く。
「でもここ、二十年前の坑道でしょ?」
「違う」
リゼは低く言った。
「この坑道は、もっと古いものの上に掘られている」
「古いもの?」
「魔女の墓場」
その瞬間、地面が震えた。
小さな揺れ。
落盤かと思い、ユノは身構える。
だが違った。
揺れは地面の奥からではなく、空気そのものから来ていた。
銀色の光が強くなる。
歌声もはっきり聞こえてきた。
言葉は分からない。
けれど悲しい歌だった。
ひどく懐かしく、ひどく寂しい。
リゼがゆっくり歩き出す。
「待て」
ユノが声をかけても、彼女は止まらない。
まるで何かに引き寄せられているみたいだった。
坑道の奥。
崩れた岩壁の向こうに、広い空間があった。
そこへ出た瞬間、ユノは言葉を失った。
地下に、空があった。
そう思った。
巨大な空洞。
天井には無数の銀色の結晶が埋まっていて、星空のように輝いている。壁には古代文字がびっしり刻まれ、中央には黒い石の祭壇があった。
そして祭壇の上に。
大きな棺が置かれていた。
透明な棺。
星の欠片で作られたような、銀色の棺。
その中には、誰かが眠っていた。
ユノは目を疑った。
「リゼ……?」
棺の中で眠っているのは、リゼだった。
いや、違う。
リゼにそっくりな少女。
銀色の髪。
白い肌。
黒いドレス。
ただし目は閉じられ、胸には銀の剣が突き刺さっていた。
ミアが震える声で言う。
「どういうこと……?」
リゼ本人は、棺の前に立ち尽くしていた。
顔から血の気が消えている。
「……姉様」
その言葉は、ほとんど吐息だった。
「姉……?」
ユノが聞き返す。
リゼは棺に触れた。
透明な表面に指先が触れた瞬間、空洞全体に光が広がった。
古代文字が次々と輝き出す。
歌声が大きくなる。
そして、棺の中の少女が。
ゆっくりと目を開けた。
ユノは息を呑んだ。
少女の瞳は金色だった。
リゼと同じ顔で、違う瞳。
棺の中の少女は、口を動かした。
声は直接頭の中に響いた。
『リゼ』
リゼの身体が震える。
『ようやく、目覚めたのね』
「姉様……どうして……」
『封印は壊れた。星喰いは再び動き出した』
金色の瞳がユノを見る。
その瞬間、ユノの頭の奥が焼けるように痛んだ。
「ぐっ……!」
膝をつく。
視界が歪む。
知らない記憶が流れ込んでくる。
燃える空。
黒い月。
泣き叫ぶ人々。
十三人の魔女。
銀色の祭壇。
そして、小さな少年を抱きしめる誰かの手。
――ユノを頼む。
「父さん……?」
ユノは呟いた。
棺の中の少女が静かに言う。
『その少年は、鍵』
リゼが振り返る。
「鍵?」
『星喰いを封じる鍵。そして、世界を開く鍵』
「どういう意味よ!」
リゼの声が初めて荒くなった。
『時間がない。星はすでに喰われ始めている。ルグナは最初の穴になる』
「穴……?」
『世界に空いた穴。そこから星喰いは戻ってくる』
空洞が揺れた。
天井の結晶がひび割れる。
ミアが悲鳴を上げる。
「崩れる!!」
ユノは立ち上がろうとした。
だが足が動かない。
頭の中に、まだ知らない記憶が渦巻いている。
父の声。
誰かの涙。
黒い影。
そして、自分の名前を呼ぶ女の声。
――ユノ。
誰だ。
この声は誰だ。
思い出せない。
思い出せないのに、胸が張り裂けそうに痛い。
リゼがユノの腕を掴んだ。
「立って!」
「俺……何を見た……」
「今は考えないで!」
棺の少女が最後に言った。
『リゼ。あなたは千年眠った。けれど、本当の戦いはここから始まる』
「姉様!」
『探しなさい。世界に散った星の欠片を。そして思い出しなさい。あなたが何を守るために眠ったのか』
光が強くなる。
棺に亀裂が走る。
リゼが叫んだ。
「待って! まだ聞きたいことが――!」
『ごめんなさい』
金色の瞳が優しく細められる。
『あなたを、一人にして』
次の瞬間、棺が砕けた。
銀色の光が爆発する。
ユノはリゼを庇うように抱き寄せた。
衝撃。
視界が白く染まる。
そして、すべてが闇に落ちた。
最後に聞こえたのは、リゼの小さな声だった。
「姉様……」
千年眠っていた魔女は、目覚めた。
けれど彼女が目覚めた世界には、もう誰も、彼女の帰りを待ってはいなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回のページでは、第七坑道の奥に眠っていた“魔女の墓場”と、リゼの過去に関わる存在が現れました。
リゼは千年間、ただ眠っていたわけではありません。
世界を守るために封印の核となり、目覚めることも死ぬことも許されず、長い時間をひとりで耐えていました。
そして地下で出会った、リゼにそっくりな少女。
彼女が残した言葉――
「ユノは鍵」
「ルグナは最初の穴になる」
「星の欠片を探しなさい」
物語はここから、ユノ自身の正体にも深く関わっていきます。
次のページでは、第七坑道で起きた異変のあと、ルグナの町そのものに“空白”が広がり始めます。
星が消える世界で、ユノたちは何を守れるのか。
ぜひ次のページも見届けてください。




