炭鉱町ルグナ
炭鉱町ルグナは、ユノにとって生まれ育った場所でした。
煤けた屋根。
黒い煙を吐く採掘塔。
朝から晩まで鳴り続ける機械音。
そして、誰もが顔見知りの小さな町。
けれど、その“当たり前”の景色の中にも、世界の異常は静かに入り込んでいました。
星が消え、名前が消え、誰かの存在が忘れられていく。
このページでは、ユノの故郷である炭鉱町ルグナの姿と、そこに隠された不穏な秘密が少しずつ明らかになっていきます。
炭鉱町ルグナは、朝になっても明るくならない町だった。
太陽が昇っても、空はいつも灰色に霞んでいる。山の斜面に沿って建てられた家々の屋根には黒い煤が積もり、煙突からは絶えず煙が吐き出されていた。採掘塔は町の中心にそびえ、鉄の骨組みを軋ませながら、地下深くから鉱石を引き上げ続けている。
ゴウン、ゴウン、ゴウン。
その音は、ユノにとって子守歌のようなものだった。
物心ついた時から、ルグナはいつもその音と共にあった。
朝になれば炭鉱夫たちが列を作って坑道へ降りていく。昼になれば鉱石を積んだ荷車が石畳を鳴らして走る。夕方になれば、煤で真っ黒になった男たちが酒場に集まり、安い酒を飲みながら今日も生きて帰れたことを笑い合う。
貧しい町だった。
綺麗な町ではなかった。
けれどユノは、この町を嫌いではなかった。
ここには、確かに暮らしがあった。
誰かが誰かの名前を呼び、誰かが誰かの帰りを待っている。
そんな、ごく普通の町だった。
――昨日までは。
「アルトなんて男、俺は知らねぇな」
広場で、鍛冶屋の老人が困ったように首を振った。
その前で、若い女が泣き崩れていた。
「嘘……嘘よ……だって、昨日まで一緒にいたのに……」
女の名前はセナだった。
ユノも知っている。
市場の端で布を売っている女だ。よく笑う人で、ミアとも顔見知りだった。
そのセナが、今は見る影もなく震えている。
「旦那がいたの……アルトっていうの……鍛冶屋で働いてて……背が高くて、不器用だけど優しくて……」
周囲の人々は顔を見合わせた。
「セナ、落ち着きなさい」
「疲れてるんじゃないのか?」
「昨日、流れ星みたいなのが落ちたからな。町中騒ぎで眠れてないだろ」
「違う!!」
セナの叫びが広場に響いた。
「いたの!! 本当にいたの!! 私、嘘なんかついてない!!」
誰も笑わなかった。
けれど誰も信じていなかった。
それが一番残酷だった。
ユノは人垣の中で拳を握りしめていた。
知っている。
ユノは知っていた。
アルトという男を。
何度も見たことがある。
鍛冶場で汗を流しながら鉄を打っていた。無口で、けれどセナを見る時だけ少し笑う男だった。ユノの採掘ナイフの刃を直してくれたこともある。
確かにいた。
なのに、周りの人間は誰も覚えていない。
ミアも青ざめていた。
「ユノ……私、分かんない」
「何が」
「アルトさんって……いた、よね?」
その声は震えていた。
ユノはミアを見た。
「覚えてるのか?」
「うん……でも……」
ミアは自分の頭を押さえる。
「思い出そうとすると、ぼやけるの。顔が、うまく思い出せない」
ユノの胸が冷たくなった。
記憶が消えかけている。
完全には消えていない。
でも、少しずつ薄れている。
「リゼ」
ユノは背後を振り返った。
銀髪の少女は広場の端に立っていた。
ミアの外套を借りているせいで黒いドレスは隠れているが、白すぎる肌と赤い瞳は隠しきれない。町の人間たちは怪しむように彼女を見ていた。
それでもリゼは、周囲の視線など気にしていないようだった。
彼女はただ、泣き続けるセナを見ていた。
「これは……星喰いのせいなんだな」
ユノが聞くと、リゼは静かに頷いた。
「星が喰われる時、その星に結びついた記憶も一緒に消える」
「星に結びついた記憶?」
「人は誰でも、生まれた時にひとつ、星と結ばれる。命の灯火みたいなものよ」
「そんな話、聞いたことない」
「忘れられたから」
リゼの言葉は淡々としていた。
淡々としているのに、ひどく重かった。
「昔は誰でも知っていた。人は星の光を受けて生まれる。だから死んだ者は星になる。そう信じられていた」
「おとぎ話じゃないのかよ」
「おとぎ話は、たいてい真実の残骸よ」
ユノは何も言えなかった。
広場では、まだセナが泣いている。
「お願い……誰か……覚えてるって言って……」
その声を聞いて、ユノは一歩踏み出しかけた。
だがリゼが腕を掴んだ。
「やめなさい」
「なんでだよ」
「あなたが覚えていると知られたら危険よ」
「でも、あの人は一人で――」
「優しさだけで動けば、あなたも消える」
冷たい言葉だった。
ユノはリゼを睨んだ。
「見捨てろって言うのか」
「守れる力がないなら、黙っていることも必要よ」
「そんなの……」
「あなたは昨日、星喰いを見たでしょう」
ユノは言葉を詰まらせた。
黒い影。
顔のない巨人。
森を壊しながら追ってきた怪物。
思い出しただけで、足が震えそうになる。
「あれはまだ欠片に過ぎない」
「欠片……?」
「あの程度で怯えているなら、本体を見た瞬間に心が壊れる」
ミアが小さく息を呑んだ。
「ねえ、リゼ……あなた、本当に何者なの?」
リゼは答えなかった。
答える代わりに、広場の中央へ視線を戻した。
そこへ町長がやって来た。
丸い腹をした男で、いつもなら偉そうに杖をついて歩いている。だが今朝ばかりは、顔に苛立ちと不安が浮かんでいた。
「何の騒ぎだ」
町長が低い声で言う。
人々が道を開ける。
セナは顔を上げた。
「町長さん……お願いです……夫を探してください……」
「夫?」
「アルトです。鍛冶屋のアルト。昨日の夜からいないんです」
町長は眉をひそめた。
「セナ、お前は独り身だろう」
その瞬間、セナの顔から血の気が引いた。
「違う……」
「お前の家族記録にも婚姻届にも、夫の名前はない」
「そんなはずない!!」
「役場で確認した。お前は一度も結婚していない」
「違う!! 違うの!!」
セナは立ち上がろうとして、足を滑らせた。
「アルトはいたの! 私たち、結婚式だって……町のみんなが祝ってくれて……」
誰も頷かなかった。
誰も思い出せなかった。
町長はため息をついた。
「昨夜の騒ぎで混乱しているのだろう。今日は家で休め」
「嫌……嫌よ……」
「誰か、この娘を家へ」
周囲の大人たちがセナに近づく。
その時、セナの視線がユノと合った。
助けを求める目だった。
ユノの喉が詰まる。
言いたかった。
覚えている、と。
あなたは間違っていない、と。
アルトは確かにいた、と。
けれどリゼの手が、強くユノの腕を掴んでいた。
「今は駄目」
小さな声。
「あなたが死ぬ」
ユノは歯を食いしばった。
セナは泣きながら連れて行かれた。
広場に残った人々は、気まずそうに散っていく。
まるで嫌な夢から逃げるように。
誰もが仕事へ戻っていく。
採掘塔の音が再び町に響き始めた。
ゴウン、ゴウン、ゴウン。
いつもの音。
いつもの朝。
なのに、世界はもう昨日とは違っていた。
「ユノ」
低い声がした。
振り返ると、ガルドが立っていた。
大柄な体に煤けた作業着。分厚い腕。頬には古い傷跡がある。ユノが幼い頃から面倒を見てくれている男だった。
「その娘を連れて来い」
「どこへ」
「俺の家だ。町医者に見せる前に、話を聞く」
ガルドの目は鋭かった。
リゼを疑っている。
当然だ。
空から落ちてきた少女。
魔法を使う少女。
そして彼女が来た直後に起きた、名前の消失。
疑うなという方が無理だった。
「この子は怪我してるんだ」
「だからだ。人目のある場所に置いておけば面倒になる」
ガルドは周囲を見た。
町人たちはちらちらとリゼを見ている。
すでに噂になり始めているのが分かった。
ユノは頷くしかなかった。
ガルドの家は、採掘塔の裏手にある古い石造りの家だった。
中に入ると、炭の匂いと薬草の匂いが混ざっていた。
壁には古い採掘道具が並び、暖炉の上には一枚だけ写真が飾られている。
ユノの父とガルドが若い頃に写った写真だ。
ユノはその写真を見るたび、胸の奥が少し痛くなる。
父のことは、あまり覚えていない。
坑道事故で死んだ。
そう聞かされている。
けれど不思議なことに、父の顔だけははっきり覚えている。
笑った顔。
大きな手。
頭を撫でてくれた感触。
それだけは消えていない。
「座れ」
ガルドが椅子を出した。
リゼは黙って腰を下ろす。
ミアは落ち着かない様子で部屋の隅に立った。
「まず聞く」
ガルドはリゼの正面に座った。
「お前は何者だ」
リゼは即答しなかった。
赤い瞳でガルドを見る。
「答えたところで、信じるの?」
「信じるかどうかは俺が決める」
「私は魔女よ」
部屋の空気が固まった。
ミアが小さく悲鳴のような声を漏らす。
ガルドは眉一つ動かさなかった。
「魔女は千年前に滅んだ」
「そうね」
「なら、お前は何だ」
「滅び損ない」
リゼは静かに言った。
その声には、自嘲の響きがあった。
「千年前、魔女は星喰いと戦った。負けて、ほとんど死んだ。私は封印されて、昨日まで眠っていた」
ミアが口を開けたまま固まっている。
ユノも似たような気持ちだった。
千年前。
封印。
星喰い。
どれも現実味がない。
なのに、昨夜の出来事がそれを否定させてくれない。
ガルドは腕を組んだ。
「星喰いとは何だ」
「世界の外から来た飢え」
「飢え?」
「星を喰らい、記憶を喰らい、最後には世界そのものを喰らうもの」
「なぜこの町に来た」
リゼは一瞬だけユノを見た。
それから答えた。
「私が落ちたから」
「本当にそれだけか」
「……」
リゼは黙った。
ガルドの目が細くなる。
「この町には昔から変な言い伝えがある」
「言い伝え?」
ユノが聞くと、ガルドは暖炉の上の写真を見た。
「ルグナの地下には、星の墓がある」
ミアが首を傾げた。
「星の墓?」
「炭鉱夫の間だけで伝わってる古い話だ。坑道の一番奥には、空から落ちた星が眠っている。そこへ近づいた者は、自分の名前を忘れる」
ユノは寒気を覚えた。
「そんな話、聞いたことない」
「子どもに話すようなもんじゃねぇ」
「でも、ただの迷信だろ」
ガルドは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
リゼが低く言う。
「その場所はどこ?」
「第七坑道だ」
ガルドの声が重くなる。
「二十年前、落盤事故で封鎖された場所だ」
ユノの胸が跳ねた。
二十年前。
父が死んだ事故。
「第七坑道……」
ユノは呟いた。
ガルドがこちらを見る。
「ユノ。お前は関わるな」
「なんで」
「危険だからだ」
「父さんはそこで死んだんだろ」
ガルドの表情が変わった。
「……そうだ」
「なら俺にも関係ある」
「関係ない」
「あるだろ!」
ユノは立ち上がった。
「星が消えて、人が消えてるんだぞ! アルトさんだって……セナさんの旦那だって、みんな忘れて……!」
「だからこそだ!」
ガルドの怒声が部屋を揺らした。
ミアが肩を震わせる。
ガルドは苦しそうに顔を歪めた。
「お前まで失いたくねぇんだよ」
その言葉に、ユノは何も言えなくなった。
ガルドはユノの父の親友だった。
父が死んだ時、ユノを抱えて泣いていたと聞いたことがある。
ユノにとって、ガルドは父代わりに近かった。
だから、その声の奥にある恐怖が分かってしまった。
それでも。
「俺だけ逃げるのは嫌だ」
ユノは小さく言った。
「昨日、リゼを見捨てられなかった。今日、セナさんにも何も言えなかった。これ以上、見てるだけは嫌だ」
部屋に沈黙が落ちた。
リゼがユノを見る。
その赤い瞳に、少しだけ揺らぎがあった。
「あなたは弱い」
リゼが言った。
ユノは眉を寄せる。
「分かってるよ」
「力もない。知識もない。星喰いの恐怖も知らない」
「だから?」
「それでも進むなら、たぶん後悔する」
「もうしてる」
ユノは答えた。
「何もしなかったことを、もう後悔してる」
リゼは黙った。
長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「第七坑道に行く必要がある」
ガルドが低く唸る。
「駄目だ」
「そこに星喰いの痕跡があるなら、放置すればこの町は消える」
「……」
「名前だけじゃない。記憶だけじゃない。最後には町そのものが、最初から存在しなかったことになる」
ミアの顔が青ざめた。
「町が……消える?」
「そうよ」
リゼは淡々と言った。
「誰もルグナを知らなくなる。地図からも消える。ここで生まれた人の記憶も、ここで死んだ人の記録も、全部」
ユノは拳を握った。
そんなこと、許せるわけがない。
この町は煤だらけで、貧しくて、退屈で、空も狭い。
それでも。
ユノの町だ。
父が生きていた町だ。
ミアが笑っていた町だ。
守りたいと思った。
「行こう」
ユノが言った。
「第七坑道へ」
ガルドは目を閉じた。
長い時間、何も言わなかった。
やがて、重いため息を吐く。
「……夜まで待て」
「ガルド」
「昼間に動けば町長に見つかる。第七坑道は立入禁止だ。鍵も役場にある」
「じゃあどうするんだよ」
ガルドは棚の奥から古びた鉄の鍵を取り出した。
「予備がある」
ユノは目を見開いた。
「なんでそんなもの」
「お前の親父が持ってた」
心臓が跳ねた。
「父さんが……?」
ガルドは鍵をユノに渡した。
冷たい鉄の感触。
古い傷のついた鍵。
「第七坑道で何があったのか、俺も全部は知らねぇ。だが、お前の親父は事故の前に言っていた」
「何を」
ガルドは低い声で言った。
「地下で、星が泣いているってな」
その瞬間。
遠くで採掘塔の鐘が鳴った。
ゴォン。
ゴォン。
ゴォン。
まるで町そのものが、何かを告げているみたいだった。
ユノは鍵を握りしめた。
夜になれば、第七坑道へ向かう。
父が死んだ場所へ。
星の墓があるという、ルグナの地下へ。
窓の外では、黒い煙が空へ昇っていた。
そして灰色の空の奥で。
誰にも見えないはずの昼の星が、またひとつ、静かに消えた気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、ユノの故郷である炭鉱町ルグナと、そこに隠された“星の墓”の存在が明かされました。
アルトという名前を誰も覚えていない。
セナだけが夫の存在を覚えている。
そして、ユノもまた、その異常をはっきりと感じ始めています。
リゼが語る星喰いの恐怖は、まだほんの一部でしかありません。
次のページでは、ユノたちが第七坑道へ向かい、そこで“魔女は千年眠る”という言葉の本当の意味に触れていきます。
ルグナの地下に眠るものは、希望なのか。
それとも、さらなる絶望なのか。
どうか次のページも見届けてください。




