忘れられた名前
人は、名前を呼ばれることで“自分”でいられるのかもしれません。
家族に呼ばれる名前。
友達に笑いながら呼ばれる名前。
大切な人に、優しく呼ばれる名前。
もしそれを、世界そのものが忘れてしまったら。
このページでは、“記憶が消える世界”の異常が少しずつ形を持ち始めます。
ユノたちは、まだ知らない。
消えているのは星だけではないことを。
そして、“忘れられる”という恐怖が、どれほど残酷なのかを。
人は、名前を呼ばれることで“自分”でいられるのかもしれません。
家族に呼ばれる名前。
友達に笑いながら呼ばれる名前。
大切な人に、優しく呼ばれる名前。
もしそれを、世界そのものが忘れてしまったら。
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
身体が凍りそうだった。
ユノは苦しそうに咳き込みながら目を開けた。
「ごほっ……!!」
水。
全身が濡れている。
川だ。
崖から飛び降り、そのまま流されたのだと理解するまで数秒かかった。
空はまだ暗い。
夜明け前だった。
「……ミア!」
ユノは慌てて身体を起こした。
全身が痛む。
肩も背中も、骨が砕けたみたいだった。
だがそんなことを気にしている場合じゃない。
「ミア!!」
「う、うるさい……」
少し離れた場所から声がした。
ミアが倒れていた。
全身ずぶ濡れで、顔に泥までついている。
「生きてるか!?」
「……死んでたら返事しない……」
その言葉にユノは息を吐いた。
よかった。
本当に。
ミアは涙目で立ち上がる。
「最悪……。ほんと最悪……。なんなのあれ……」
「……」
ユノは周囲を見回した。
森の下流。
ここまで流されたらしい。
崖の上はもう見えなかった。
だが、あの黒い化物の気配も感じない。
逃げ切れたのか。
「リゼは!?」
ユノは慌てて探した。
数メートル先。
銀髪の少女が倒れていた。
「おい!」
駆け寄る。
リゼは意識を失っていた。
唇が青い。
呼吸も弱い。
「やばい……」
ミアが青ざめる。
「この子すごい熱だよ」
ユノは少女の額に触れた。
熱い。
異常なくらい。
まるで身体の中で火が燃えているみたいだった。
「町戻るぞ」
「でも、あの化物……」
「ここにいても死ぬ」
ミアは唇を噛んだ。
怖いのだ。
当然だった。
ユノだって怖い。
あんな怪物、見たことがない。
なのにリゼは、“星喰い”と呼んだ。
まるで知っているみたいに。
「歩けるか?」
「……なんとか」
ユノは再びリゼを背負った。
軽すぎる。
本当に人間なのか不安になるくらい。
森を歩き始める。
夜明け前の空は薄暗く、霧が漂っていた。
どこか現実感がない。
まるで悪夢の中を歩いているみたいだった。
しばらくして、ミアが小さく言った。
「ねえ」
「ん?」
「あの子、本当に人間?」
「……分かんねぇ」
「だって魔法使ったんだよ?」
「……ああ」
「今の時代、魔法なんて存在しないって学校で」
「でも使った」
ミアは黙った。
足音だけが続く。
その時だった。
リゼが小さく呻く。
「……っ」
「リゼ?」
少女がゆっくり目を開けた。
赤い瞳。
だが焦点が合っていない。
「ここ……」
「森の下流だ。川に落ちた」
リゼはぼんやり空を見た。
「……まだ、生きてる」
「死にかけてたけどな」
「あなたたちが助けたから」
リゼは静かに言った。
その声はどこか不思議だった。
感情が薄い。
まるで長い眠りから目覚めたばかりの人みたいに。
「なあ」
ユノは歩きながら聞く。
「あれ何なんだ」
「……」
「星喰いってやつ」
リゼはしばらく黙っていた。
やがてぽつりと呟く。
「世界を終わらせるもの」
「は?」
「星を食べる怪物」
「意味分かんねぇよ」
「そのままの意味」
リゼは空を見る。
「星が減ってるでしょう」
ユノは息を止めた。
「お前も分かるのか」
「当然よ」
「やっぱり減ってるんだな」
リゼは少し驚いた顔をした。
「気づいてるの?」
「……みんな気づいてないのか?」
「普通は気づけない」
「なんで」
「記憶ごと消えるから」
ユノは立ち止まった。
「……え?」
リゼは静かに言う。
「星が消える時、人の記憶も一緒に消えるの」
ミアが震えた。
「な、何それ……」
「だから誰も違和感を持てない。最初からそうだったって思い込む」
ユノの背筋が寒くなる。
パン屋の老婆。
消えた息子。
誰も覚えていなかった。
「じゃあ……本当に人が消えてるのか?」
「たくさん」
リゼの声は冷たかった。
「千年前からずっと」
ユノは言葉を失った。
千年前。
またその言葉だ。
「お前……何者なんだ」
リゼは答えない。
ただ目を閉じた。
その横顔は、ひどく疲れて見えた。
やがて森を抜け、ルグナの外れへ辿り着く。
朝日が昇り始めていた。
炭鉱町の煙突から黒煙が上がる。
いつもの朝。
いつもの景色。
なのにユノには、全部が違って見えた。
「ユノ!!」
怒鳴り声。
町の入口に立っていたのは、炭鉱夫のガルドだった。
大柄な男で、ユノの亡き父の友人でもある。
「てめぇどこ行ってた!!」
「悪い」
「悪いじゃねぇ! 町中大騒ぎだぞ!」
ガルドは怒鳴りながら近づいてきた。
だが、リゼを見た瞬間。
「……誰だ?」
空気が変わった。
警戒。
ユノは咄嗟に言う。
「森で倒れてた」
「森?」
ガルドの顔が険しくなる。
「黒樹林か?」
「……ああ」
「馬鹿野郎!!」
怒鳴られた。
「死にてぇのか!!」
「悪かったって」
ガルドは舌打ちした。
そしてリゼを見る。
「そのガキ、町医者んとこ連れてけ」
「分かった」
だがその時。
ガルドが妙な顔をした。
「……誰だっけ」
「え?」
「いや」
ガルドは眉をひそめる。
「なんか、見たことある気が」
リゼが一瞬だけ目を伏せた。
そして。
「……」
ガルドの表情が変わる。
「……いや、気のせいか」
ユノは違和感を覚えた。
今。
何か変だった。
ガルドは確かに、“思い出しかけた”。
なのに次の瞬間、それを忘れた。
リゼは小さく呟く。
「始まってる……」
「何が」
「侵食が」
その意味を聞く前に、町の鐘が鳴った。
ゴォン――。
重たい音。
異常を知らせる鐘だった。
町の空気がざわつく。
「なんだ?」
人々が広場へ集まり始める。
ユノたちも向かった。
広場の中央。
人だかり。
そして。
誰かが泣いていた。
「どうして……」
若い女だった。
地面に座り込み、震えている。
「どうして誰も覚えてないの……?」
周囲の人間は困惑していた。
「落ち着け」
「誰のことだ?」
「旦那さんらしいぞ」
「旦那?」
女は涙を流しながら叫ぶ。
「いたのよ!! 昨日まで!!」
だが誰も理解できない。
ユノだけが寒気を感じていた。
女は震える声で言う。
「アルトっていうの……。鍛冶屋で……優しくて……」
けれど。
誰一人、その名前を知らなかった。
「そんな人いたか?」
「いや……」
「聞いたことねぇな」
女は崩れ落ちた。
「嘘……嘘よ……」
ユノはリゼを見る。
リゼは静かに目を閉じていた。
「これが……」
少女は呟く。
「星喰い」
空を見上げる。
朝なのに。
なぜか夜空がひどく遠く感じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、“世界から存在が消える”という恐怖が少しずつ現れ始めました。
誰かがいたはずなのに、誰も覚えていない。
名前も、記録も、思い出も消えていく。
それは死よりも残酷かもしれません。
ユノはまだ、この異常の本当の恐ろしさを知りません。
けれど、リゼだけは知っています。
千年前に何が起きたのか。
なぜ星が消えるのか。
そして、“星喰い”とは何なのか。
次のページでは、炭鉱町ルグナに隠された秘密と、リゼが“魔女”である理由が少しずつ明かされていきます。
物語は、ここからさらに深く、暗く、そして大きく動き始めます。




