空から落ちた少女
“普通だった日常”は、案外あっけなく壊れてしまうのかもしれません。
昨日までと同じ景色。
昨日までと同じ夜。
昨日までと同じ自分。
そんな当たり前を、一瞬で変えてしまう出会いがあります。
このページでは、ユノが“世界の異常”へ本格的に足を踏み入れます。
空から落ちてきた少女・リゼ。
魔法。
そして、“星喰い”という存在。
まだ何も知らないユノは、この夜を境に、二度と元の生活へ戻れなくなっていきます。
静かだった炭鉱町の夜が、少しずつ壊れ始める――。
そんな物語の始まりを、ぜひ楽しんでください。
森は静まり返っていた。
さっきまで吹いていた風も、ざわめいていた木々も、全部が息を止めたみたいに動かない。
ユノは地面に膝をついたまま、腕の中の少女を見つめていた。
銀色の髪。
雪みたいに白い肌。
血の色だけがやけに鮮やかだった。
少女の肩口から赤い血が流れている。黒いドレスはところどころ破れていて、そこから覗く肌には、奇妙な紋様が浮かんでいた。
文字みたいだった。
けれどユノには読めない。
「お、おい……」
少女は返事をしない。
さっきまで話していたはずなのに、今はぐったりしている。
死んだのかと思った。
だが胸は微かに上下していた。
「生きてる……」
その瞬間だった。
ゾクリ、と背筋が震えた。
何かいる。
ユノは反射的に顔を上げた。
森の奥。
暗闇の向こう。
何かが動いた。
ガサ……。
草を踏む音。
だが動物の気配ではない。
もっと重い。
もっと嫌な感じ。
ユノは息を呑んだ。
「誰だ」
返事はない。
けれど、“それ”は近づいてくる。
ゆっくり。
ゆっくり。
まるでこちらを観察するみたいに。
ユノは少女を庇うように立ち上がった。
武器なんて持っていない。
あるのは鉱石採掘用の小さなナイフだけだ。
しかも相手が何なのか分からない。
闇の奥で、何かが光った。
赤い。
目だ。
「っ……!」
次の瞬間。
黒い影が飛び出した。
ユノは咄嗟に横へ飛ぶ。
直後、さっきまで立っていた場所の地面が抉れた。
「な……!?」
化物だった。
狼に似ている。
だが大きさが異常だった。
馬ほどある。
全身が黒い毛に覆われ、身体のあちこちから煙みたいなものが漏れている。口から覗く牙は人間の腕ほど長かった。
そして何より――。
目がなかった。
あるべき場所がぽっかり空洞になっている。
「う、わ……」
恐怖で喉が引き攣る。
化物は鼻を鳴らした。
ズル……と涎が垂れる。
ユノを見ている。
いや。
正確には。
ユノの後ろにいる少女を。
「グルルル……」
低い唸り声。
化物が地面を蹴った。
速い。
ユノは避けきれなかった。
衝撃。
「がっ――!!」
吹き飛ばされる。
背中から木へ叩きつけられた。
息ができない。
肺が潰れたみたいだった。
ナイフが転がる。
化物はユノを無視した。
少女へ向かう。
「やめろ……!」
ユノは無理やり立ち上がった。
足が震える。
怖かった。
逃げたかった。
けれど。
少女が死ぬ。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
落ちていたナイフを掴む。
化物へ突っ込む。
「うあああああ!!」
振り下ろす。
だが浅い。
硬い毛皮に弾かれる。
化物が振り返った。
口が開く。
牙。
喰われる。
死ぬ。
ユノの身体が凍りついた。
その時だった。
「――黙りなさい」
声。
冷たい女の声。
瞬間。
銀色の光が走った。
化物の身体が宙で止まる。
「……え?」
バキバキバキッ!!
凍った。
化物が一瞬で氷漬けになる。
次の瞬間、粉々に砕け散った。
銀色の氷片が夜に舞う。
ユノは呆然とした。
少女が立っていた。
さっきまで動けなかったはずなのに。
銀髪が風に揺れている。
赤い瞳だけが異様に冷たい。
「あなた」
少女が言った。
「どうして戻ってきたの」
「え……」
「普通は逃げるでしょう」
「……」
ユノは言葉に詰まった。
そんなこと考える余裕なんてなかった。
「お前……今の……」
「魔法よ」
あっさり言った。
まるで当たり前みたいに。
「ま、ほう……?」
ユノは少女を見つめた。
今のが魔法。
本物の?
そんなもの、おとぎ話の中にしかないと思っていた。
今の時代、魔法使いなんて存在しない。
少なくともユノはそう教わってきた。
だが少女は静かに言う。
「もう残っていたのね。この時代にも」
「……何を?」
「魔力が」
少女は夜空を見上げた。
その表情は、どこか悲しそうだった。
「千年前には、空全体が光っていたのに」
「千年前?」
少女はユノを見た。
「今は何年?」
「ルーメリア暦……四三二年」
少女の目が見開かれる。
「……そんなに経ったの」
「え?」
少女は黙り込んだ。
そして小さく呟く。
「負けたのね……結局」
意味が分からない。
ユノは混乱していた。
すると突然、少女の身体がぐらつく。
「お、おい!」
倒れかけた彼女を慌てて支える。
熱があった。
異常なくらい熱い。
「怪我してるじゃねぇか!」
「平気……」
「平気なわけあるか!」
少女は苦しそうに眉を寄せた。
その時、遠くから声が聞こえた。
「ユノーー!!」
ミアだった。
ランタンの光が森の奥で揺れている。
「いた!!」
ミアが走ってくる。
そして少女を見た瞬間、固まった。
「……は?」
当然だった。
空から少女が落ちてきたなんて、誰が信じる。
「え、ちょ、なに!? 誰!?」
「分かんねぇ」
「分かんないって何!? え!? 女!?」
ミアは混乱していた。
だが次の瞬間、少女の血に気づく。
「怪我してる!!」
「だから今――」
「とにかく町戻るよ!」
「でも……」
ユノは周囲を見た。
さっきの化物。
あれは何だったのか。
少女は小さく呟いた。
「来る……」
「え?」
「もうすぐ、“あれ”が来る」
「何が」
少女は答えない。
ただ夜空を見ていた。
その目は恐怖に染まっていた。
まるで何かを思い出しているみたいに。
「急ごう」
ミアが言う。
「こんな場所やばいって」
ユノは頷いた。
少女を背負う。
驚くほど軽かった。
骨しかないみたいに。
少女が耳元で呟く。
「……あなた、名前は?」
「ユノ」
「そう」
「お前は?」
少し沈黙。
そして少女は言った。
「リゼ」
その名前を聞いた瞬間。
森の奥で、“何か”が吠えた。
空気が震える。
地面が揺れる。
ミアが青ざめる。
「な、なに今……」
ユノも息を呑んだ。
森の奥。
暗闇の向こうに。
巨大な“影”が立っていた。
木々より大きい。
人の形をしている。
だが輪郭が崩れている。
黒い煙みたいだった。
そして、その顔には――。
何もなかった。
目も口も鼻も。
ただ真っ黒な空洞。
それがこちらを見ていた。
「……っ」
身体が動かない。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
あれは駄目だ。
見てはいけないものだ。
リゼが震える声で言った。
「……もう、追いついたの」
「おい……あれ何だよ……」
リゼは絶望した顔で呟く。
「“星喰い”」
次の瞬間。
影が動いた。
森が揺れる。
木々が吹き飛ぶ。
「逃げて!!」
リゼが叫んだ。
ユノとミアは同時に駆け出した。
後ろで森が壊れる音が響く。
地響き。
悲鳴みたいな風。
ユノは必死に走った。
リゼを背負ったまま。
肺が焼ける。
足が痛い。
けれど止まれない。
後ろから“何か”が来ている。
ミアが泣きそうな声を上げる。
「なにあれぇ!!」
「知らねぇよ!!」
「なんでこんなの追ってくんの!?」
リゼが苦しそうに言う。
「……私を探してる」
「は!?」
「千年間、ずっと」
意味が分からない。
だが聞き返す余裕はなかった。
森が裂ける。
巨大な黒い腕が木々を薙ぎ倒す。
「うわあああ!!」
ユノたちは斜面を転がり落ちた。
地面へ叩きつけられる。
痛み。
息が詰まる。
顔を上げると、そこは崖だった。
下には川。
かなり高い。
「最悪……!」
後ろから足音。
星喰いが迫る。
リゼが掠れた声で言った。
「飛んで」
「は!?」
「早く!!」
「死ぬだろ!!」
「ここにいた方が死ぬ!!」
黒い影が姿を現す。
巨大だった。
空が隠れる。
その瞬間、ユノは決めた。
「ミア!!」
「え!?」
「飛ぶぞ!!」
「はぁあああ!?」
ユノはミアの手を掴んだ。
そして。
三人まとめて崖から飛び降りた。
絶叫。
風。
落下。
次の瞬間。
川へ叩きつけられた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
“空から落ちてきた少女”という出会いは、物語の王道かもしれません。
けれど、この作品で描きたいのは単なる運命の出会いではありません。
リゼは希望ではなく、“世界の終わり”を連れてきた存在です。
そしてユノは、その終わりへ巻き込まれていきます。
星喰いの姿。
魔法という力。
千年前という言葉。
少しずつ、この世界の違和感が形になり始めました。
ですが、まだこれは序章にすぎません。
次のページでは、崖から落ちた三人が生き延びた先で、“消えた記憶”の異常がさらに明らかになっていきます。
どうか、ユノたちの旅を最後まで見届けてください。




