空白に呼ぶ名
名前を喰らう王は、玉座との繋がりを断たれました。
残ったのは、満たされない空白。
王名を呼べば、また鎖になる。
幼き名を呼べば、泉のルナエルまで傷つけるかもしれない。
では、空白には何を呼べばいいのか。
このページでは、ユノが“名前を呼ぶ旅”の答えに近づきます。
黒い玉座は、音もなく崩れていた。
星の欠片でできた王座は、ユノの剣によって王との繋がりを断たれ、少しずつ形を失っていく。
黒い石が星屑になり、星屑が灰になり、灰が名前のない光へ変わって流れていく。
けれど、王はまだ立っていた。
星喰いの王。
名前を喰らう王。
その胸には、ぽっかりと空いた穴がある。
玉座へ繋がる鎖を斬られたことで、王はもう名前を喰らい続けることができない。
だが、だからこそ、その空白はむき出しになっていた。
『名を……』
王の声は、先ほどまでの威圧とは違っていた。
低く、掠れて、どこか幼い。
『私の名を……』
ユノは剣を構えたまま動けなかった。
王名は知っている。
アスト・レギア。
けれどそれは、名前ではなく命令だ。
呼べば王をまた鎖で縛ることになる。
幼き名も知っている。
ルナエル。
けれどその名は、星の泉に分けて残した。
今ここで王へ幼き名をそのまま呼べば、泉のルナエルを引き戻し、再び王に呑ませてしまうかもしれない。
なら、何を呼べばいい。
ユノの手が震える。
ミアが記憶灯を抱えながら近づいた。
「ユノ……」
「呼べない」
ユノは呟いた。
「王名も、幼き名も、呼べない」
リゼは封印布を抱えたまま、苦しそうに王を見ていた。
「王名は鎖。幼き名は泉にある。今の王は、どちらでもない」
カイが涙を拭いながら言った。
「じゃあ、あいつは誰なんだよ」
その問いが、黒い空間に落ちた。
王は顔を上げた。
『私は……』
声が揺れる。
『私は、王……星冠の主……名を喰らう者……』
けれど、その言葉は自分に言い聞かせているだけのようだった。
王であれ。
器であれ。
国であれ。
王名の命令の残響。
しかし玉座との繋がりを断たれた今、その命令は王を支えきれていない。
『私は……』
王の胸の空白が広がる。
『誰だ……』
ユノの胸が痛んだ。
ルナエルは分けた。
王名も封じた。
なら、ここにいるのは、奪われた名前の穴そのものだ。
名前を失った痛み。
呼ばれなかった孤独。
器にされた怒り。
奪うことでしか満たせないと思い込んだ飢え。
それが王の形をしている。
ミアが小さく言った。
「名前じゃなくて……気持ちを呼ぶことはできないのかな」
ユノは振り返る。
「気持ち?」
「うまく言えないけど……王名でもルナエルでもなくて、あの空白にあった最初の気持ち」
カイが続けた。
「名前で呼んでほしかった、ってこと?」
リゼが息を呑む。
「最初の願い……」
ユノは王を見た。
星喰いの王になる前。
王名を与えられる前。
ルナエルが塔の階段で膝を抱えていた頃。
彼の願いは、世界中の名前を喰らうことではなかった。
誰かに、自分の名前で呼んでほしかった。
ただ、それだけだった。
ユノは剣を下ろさないまま、一歩前へ出た。
リゼが鋭く言う。
「近づきすぎないで」
「分かってる」
ユノは王へ向かって言った。
「お前は、名前が欲しかったんじゃない」
王の空洞が揺れる。
『違う……名を……私は名を求めた……』
「違う。誰かに呼んでほしかったんだ」
王の影が震えた。
『黙れ』
「自分で名前を持っているだけじゃ足りなかった。誰かが呼んで、覚えて、ここにいるって言ってほしかった」
『黙れ』
王の声が強くなる。
だが、その奥には怯えがあった。
「ルナエルは、そう願ってた」
『その名を呼ぶな!』
王が叫ぶ。
黒い衝撃波が広がる。
リゼが障壁を張り、ミアが記憶灯を掲げる。
カイがユノの名を叫ぶ。
「ユノ!」
ユノは踏みとどまった。
「呼ばない。今は呼ばない」
王が止まる。
ユノは続けた。
「でも、その願いは忘れない」
王の胸の空白から、細い光が漏れた。
そこには、幼い手があった。
誰かに伸ばして、届かなかった手。
ユノはその手を見た。
涙はもう出なかった。
けれど、胸は痛かった。
「俺は、お前を許すとは言わない」
王は動かない。
「お前が喰らった名前は戻す。奪ったものは返してもらう。罪は消さない」
ユノは剣を握り直した。
「でも、お前の最初の願いまで、怪物だったとは言わない」
黒い空間が静まり返った。
漂っていた名前たちが、ユノの言葉を聞くように止まる。
リゼが小さく呟いた。
「空白に呼ぶ名ではなく……願いを呼ぶ……」
ミアが頷いた。
「名前の前にあったもの」
カイも。
「呼んでほしかった気持ち」
ユノは王へ向き直った。
「お前に呼ぶのは、王名じゃない。幼き名でもない」
王の空洞が大きく震えた。
『では……何を……』
ユノは答えた。
「“ここにいたかった者”」
その言葉は、名前ではなかった。
けれど、王の胸の空白に届いた。
王が大きく震える。
黒い外套が揺れ、王冠の影がひび割れる。
『ここに……いたかった……』
「そうだ」
『私は……ここに……』
「いたかった」
ユノはゆっくり言った。
「消えたかったんじゃない。空白になりたかったんじゃない。誰かの名前を喰いたかったんじゃない」
王の身体から黒い星屑が崩れ落ちる。
その奥から、たくさんの声が聞こえた。
名前を返して。
忘れたくない。
帰りたい。
呼んで。
ここにいたい。
王の空白と、奪われた名前たちの願いが重なっていた。
ユノは星灯りの剣を構えた。
今なら斬れる。
王そのものではなく、空白に絡みついた飢えを。
「ミア!」
「うん!」
ミアが記憶灯を高く掲げた。
ルグナの火が黒い空間を照らす。
「カイ!」
「ユノ! ユノ! ユノ!」
カイは何度も名前を呼んだ。
その声が、ユノをユノに繋ぎ止める。
「リゼ!」
「封印を支えるわ!」
リゼが王名の封印布を押さえ、王名の命令が再び暴れ出さないよう魔法陣を展開する。
ユノは王へ走った。
王は抵抗しなかった。
いや、抵抗できなかった。
空白に最初の願いを呼ばれ、星喰いの飢えが揺らいでいる。
ユノは剣を振り上げた。
『斬るのか』
王が問う。
「飢えを斬る」
『私は残るのか』
「分からない」
『また分からないのか』
「ああ」
ユノは叫んだ。
「でも、嘘はつかない!」
銀の刃が、王の胸の空白へ入った。
そこにあったのは、黒い穴ではなかった。
深い井戸のような場所。
底に、幼い願いが落ちていた。
誰か、僕を呼んで。
その願いに、星喰いの飢えが絡みついている。
世界中の名を喰らえば満たされる。
すべてを忘れれば痛みは消える。
空白なら傷つかない。
ユノはその絡みついた黒い根を斬った。
一本。
また一本。
さらに一本。
王が絶叫する。
黒い空間が割れる。
奪われた名前が、光となって溢れ出す。
ミアの記憶灯がその光を受け止める。
歌真珠が鳴る。
ミレイアの歌が、名前たちを落ち着かせる。
リゼの魔法が道を作る。
カイが叫ぶ。
「ネリオ! 戻れ!」
赤い光がまた一つ、カイの胸へ戻る。
カイは泣きながら笑った。
「母さんの声……聞こえた……!」
ユノは剣を振り続けた。
星喰いの飢えを斬る。
王名の命令を斬る。
空白を埋めようとする黒い根を斬る。
けれど、最後の一本だけが残った。
それは王の胸の奥ではなく、ユノの胸へ伸びていた。
ユノは息を呑む。
自分もまた、空白に触れていた。
名を集める者。
やがて己の名を失う者。
王の飢えは、ユノ自身の恐れと繋がっていた。
『お前も同じだ』
王の声が響く。
『誰かの名を背負い続ければ、いつか空白になる』
ユノは剣を持つ手を止めた。
それは本当かもしれない。
自分も名を背負い続けている。
ルグナ。
ネリオ。
アステラ。
エルディア。
ルナエル。
いつか自分の名が押し流されるかもしれない。
怖い。
とても怖い。
でも――。
「同じじゃない」
ユノは言った。
「俺は一人で背負わない」
ミアが叫ぶ。
「ユノ!」
カイも。
「ユノ!」
リゼも。
「ユノ!」
そして遠く、泉の中からルナエルの声がした。
――ユノ。
四つの声が、最後の黒い根を照らした。
ユノは剣を振った。
最後の根が切れた。
王の胸の空白から、黒い飢えが剥がれ落ちる。
残ったのは、形のない影だった。
王冠もない。
外套もない。
玉座もない。
ただ、薄い声だけが残った。
『ここに……いたかった……』
ユノは剣を下ろした。
「覚えてる」
『名は……』
「ルナエルは泉にいる。お前は王名の鎖から生まれた空白だった」
『私は……誰でもなかったのか』
その声は悲しすぎた。
リゼが静かに言った。
「誰でもないものとして扱われた結果、生まれた影よ」
ミアが涙を浮かべる。
「でも、もう名前を喰べなくていい」
カイも言った。
「返せ。みんなの名前」
影はしばらく揺れていた。
そして、ゆっくり崩れ始めた。
『返す……』
その言葉と共に、星喰いの玉座の空間が大きく開いた。
無数の名前が、光となって解放される。
星の名。
町の名。
人の名。
祈りの名。
それらは黒い空間から外へ流れていく。
ミアの記憶灯が道しるべになる。
リゼが魔法で名前の流れを整える。
カイは泣きながらネリオの名を呼ぶ。
ユノはただ立ち尽くした。
星喰いの王だった影が、最後にユノを見た気がした。
『名を呼ぶ者』
ユノは答える。
「ユノだ」
『ユノ……』
影はその名を繰り返した。
『覚えた』
そして消えた。
黒い玉座が完全に崩壊した。
星喰いの玉座の空間が揺れる。
リゼが叫ぶ。
「ここも崩れる! 戻るわ!」
ミアが記憶灯を抱え、カイがユノの腕を掴む。
「ユノ、行くぞ!」
ユノは頷いた。
王は消えた。
だが、すべてが終わったわけではない。
解放された名前を、それぞれの場所へ返さなければならない。
ルナエルとも、もう一度向き合わなければならない。
それでも、名前を喰らう王は止まった。
ユノたちは崩れる黒い空間を走った。
背後で、無数の名前が星の川となって流れていく。
その中に、ルグナの灯りも、ネリオの赤い屋根も、アステラの歌も、エルディアの白い葉も見えた気がした。
出口の光が見える。
星の泉の水鏡。
ユノは最後に振り返った。
もう玉座はない。
ただ、消えていく空白の中に、小さな声だけが残っていた。
――ここにいたかった。
ユノは小さく答えた。
「覚えてる」
そして、光の中へ飛び込んだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノが王へ呼ぶべきものを見つけました。
王名でもなく、幼き名でもなく、空白の奥にあった最初の願い。
ここにいたかった。
ユノはその願いを呼び、星灯りの剣で王に絡みついた飢えを斬りました。
名前を喰らう王は崩れ、奪われた名前たちが解放され始めます。
次のページは『星の川』です。
解放された名前たちを、それぞれの場所へ返すための流れが始まります。




