名前を喰らう王
名前を喰らう王が、玉座で待っていました。
幼き名ルナエルは泉に残り、王名アスト・レギアは封じられています。
けれど、王はまだ飢えています。
ユノたちは星喰いの玉座へ辿り着き、ついに忘却の中心と向き合います。
これは、名前を守る者たちと、名前を喰らう王の戦いです。
世界が反転した。
水の冷たさが足首から消え、代わりに、乾いた闇が肌に触れた。
ユノが目を開けると、そこは星のない夜だった。
空は黒い。
地面も黒い。
けれど完全な暗闇ではなかった。
周囲には、無数の名前が漂っていた。
星屑のように。
灰のように。
壊れた文字の欠片のように。
誰かの名前。
どこかの町の名前。
失われた星の名前。
もう呼ばれなくなった祈りの名前。
それらが黒い空間に浮かび、ゆっくりと玉座の方へ流れている。
玉座。
星喰いの玉座。
巨大な黒い王座が、世界の中心のように立っていた。
星の欠片で作られているはずなのに、光を失い、すべてを吸い込むような黒さをしている。
その上に、王が座っていた。
顔は見えない。
王冠のような黒い影が頭上にあり、外套のような闇が足元まで広がっている。
胸の奥には空洞があった。
ぽっかりと開いた穴。
そこへ、漂う名前たちが吸い込まれていく。
喰われている。
ユノは本能で理解した。
あれが星喰いの王。
名前を喰らう王。
ミアが息を呑む音が聞こえた。
リゼは封印布を抱え、唇を固く結んでいる。
カイは木剣を握りしめていた。
「名前、確認」
カイが震えながら言った。
ユノは頷いた。
「ユノ」
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
四つの名前が黒い空間に響いた。
その瞬間、玉座の王が顔を上げた。
『名を持つ者たちよ』
声が響く。
低く、深く、空洞の底から聞こえるような声だった。
『よく来た』
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
銀の刃が闇の中で光る。
「星喰いの王」
『そう呼ばれる』
「ルナエルじゃない」
その名を出した瞬間、王の胸の空洞が激しく揺れた。
『その名は、私から奪われた』
「違う。お前が縛っていた」
『違わぬ』
王はゆっくり立ち上がった。
その身体から黒い星屑が落ちる。
『あれは私の空白を満たすための名だった』
「ルナエルは、お前の空白じゃない」
『ならば、何で満たせばよい』
王の声が低くなる。
『名を奪われた。幼き名を封じられた。王名で縛られた。空白になれと命じられた。ならば、その空白を満たすために名を喰らうことの何が悪い』
ユノは剣を握りしめた。
「奪われたからって、奪っていい理由にはならない」
『綺麗事だ』
「そうかもしれない」
『お前も名を失いかけている。いずれ分かる。空白の飢えを』
王の胸の穴が広がる。
そこから、無数の声が漏れた。
助けて。
忘れないで。
帰りたい。
名前を呼んで。
私は誰。
ここはどこ。
消えたくない。
奪われた名前たちの声。
ミアが記憶灯を抱きしめる。
「ひどい……」
カイは震えていた。
その中に、ネリオの気配を探してしまっているのだろう。
リゼは王を睨んだ。
「その名前たちを解放しなさい」
『解放?』
王は笑った。
『名は私の中で一つになる。忘却に沈めば苦しみは消える』
「幸せも消えるわ」
『幸せを覚えているから苦しい』
「違う!」
ミアが叫んだ。
「幸せがあったから、痛くても生きていけるんだよ!」
王の影がミアを見る。
『火を持つ娘。お前の灯も、いずれ消える』
「消さない」
ミアは記憶灯を掲げた。
「これはルグナの火。消えた町の記憶。悲しいだけじゃない。笑ったことも、食べたご飯も、誰かを待ってた夜も、全部入ってる。勝手に眠らせないで!」
記憶灯が強く輝いた。
黒い空間に、ルグナの街灯りが一瞬だけ浮かぶ。
王はわずかに後退した。
『小さな火だ』
「小さくても灯りだよ」
カイも前へ出た。
「ネリオを返せ」
王の胸の空洞が揺れる。
『ネリオ……』
その名に反応した。
カイの顔が強張る。
「知ってるんだな」
『多くの名を喰らった。村の名など、いくつもある』
「ネリオは一つだけだ!」
カイの声が震える。
「俺の村だ! 父さんと母さんがいた場所だ! 顔はまだ思い出せないけど、名前は呼べる!」
カイは木剣を構えた。
「ネリオ!」
ユノも叫ぶ。
「ネリオ!」
ミアも。
「ネリオ!」
リゼも。
「ネリオ!」
四つの声が重なった瞬間、王の胸の空洞から小さな光がひとつ浮かび上がった。
赤い屋根の村の欠片。
カイが息を呑む。
「ネリオ……!」
しかし王の黒い手がその光を掴み、再び胸の穴へ押し込んだ。
『返さぬ』
カイの目に涙が浮かんだ。
ユノは怒りで剣を握りしめた。
「返せ」
『名が欲しければ、奪え』
王が腕を振る。
黒い星屑が刃となって降り注いだ。
リゼが銀の障壁を張る。
ミアが記憶灯の火を重ねる。
ユノは星灯りの剣で黒い刃を斬り払った。
カイはミアのそばで身を低くし、飛んでくる欠片を木剣で弾く。
戦いが始まった。
王は玉座の前から動かない。
しかし、その影は広がり、あらゆる方向から攻撃してくる。
黒い鎖。
星屑の刃。
名前を吸い込む風。
ユノは何度も剣を振った。
星灯りの剣は忘却を斬る。
黒い鎖を断ち、名前を吸う風を裂き、ミアとカイへ向かう影を切り払う。
だが、王の力は強かった。
斬っても斬っても、闇は玉座から湧き上がる。
リゼが叫ぶ。
「王名が必要よ!」
ユノは一瞬、彼女を見る。
「今呼ぶのか?」
「完全には呼ばない。封印を少し開いて、王の形を固定する!」
ミアが不安そうに言う。
「危なくない?」
「危険よ。でも、このままでは王の影を斬り続けるだけになる」
ユノは頷いた。
「やる」
リゼは封印布を開いた。
星冠の欠片と誓約書が黒く光る。
王名。
アスト・レギア。
その響きが空間に漏れた瞬間、王の身体がはっきりした。
黒い影だった輪郭が、王の姿を取る。
王冠。
外套。
空洞の胸。
星のない目。
王が低く笑った。
『私を呼ぶか』
リゼは歯を食いしばる。
「まだ呼ばない。縛るだけ」
封印布から銀と青の鎖が伸び、王の影を一瞬固定した。
ユノはその隙を逃さなかった。
星灯りの剣を握り、王へ向かって走る。
「ユノ!」
ミアの声。
「ユノ!」
カイの声。
「ユノ!」
リゼの声。
名前を背中に受けて、ユノは跳んだ。
銀の刃が王の胸の空洞へ届く。
そこを斬れば、名前を喰らう力を断てるかもしれない。
しかし、刃が触れる直前、空洞の中から声がした。
――ユノ。
父の声。
ユノの手が止まりかけた。
空洞の中に、父の姿が見えた。
ルグナの坑道服を着た父。
優しく笑っている。
――もう休め。
ユノの胸が裂けそうになる。
王が囁く。
『お前の大切な名も、私の中にある』
「違う……」
『違わない。星喰いはすべての名へ届く。お前の父も、いずれ私の中へ沈む』
ユノの剣が震える。
ミアが叫んだ。
「ユノ! それは偽物!」
カイも。
「ユノ!」
リゼの声が響く。
「ユノ、見て! その声は王が作った影!」
ユノは歯を食いしばった。
父の声。
聞きたい声。
帰りたい場所。
でも、ここで止まれば全部奪われる。
「父さんは……そんなこと言わない」
ユノは剣を振った。
父の影は砕けた。
その奥に、黒い空洞が見える。
ユノは叫ぶ。
「返せ!」
銀の刃が王の胸を裂いた。
王が咆哮する。
空洞から、無数の名前が光となって溢れた。
ミアが記憶灯を掲げる。
「こっちへ!」
光の名前たちは、灯りに導かれるように集まる。
リゼが魔法で流れを整える。
「まだ完全には解放できない! 散らばらないように!」
カイが叫ぶ。
「ネリオ!」
小さな赤い光が再び浮かび上がる。
今度は王の手が届く前に、カイが両手で受け止めた。
「ネリオ……!」
光はカイの胸へ吸い込まれた。
カイの目が大きく見開かれる。
「見えた……」
「カイ?」
ミアが呼ぶ。
「井戸……赤い屋根……母さんの歌……」
涙が溢れる。
「少しだけ、戻った……!」
ユノは胸が熱くなった。
だが、喜ぶ間はなかった。
王の空洞はすぐに閉じようとしている。
そして怒りはさらに強くなっていた。
『返せ』
王は同じ言葉を繰り返した。
『返せ。返せ。返せ。名を返せ。空白を満たせ』
王の影が巨大化する。
玉座そのものが動き出した。
黒い王座から無数の腕が伸び、漂う名前を掴んで喰らおうとする。
リゼが叫ぶ。
「王名の封印が持たない!」
封印布にひびが入る。
アスト。
レギア。
命令が空間へ漏れ出す。
ユノの頭が痛む。
王であれ。
器であれ。
個を捨てよ。
王の声と命令が重なる。
『鍵よ、お前も器となれ』
ユノの身体が重くなる。
もし自分が器になれば、溢れた名前を全部受け止められるかもしれない。
ネリオも、ルグナも、アステラも、エルディアも、すべて。
そうすれば。
そうすれば――。
「ユノ!」
ミアが泣きながら叫んだ。
「自分を捨てないで!」
カイも叫ぶ。
「ユノ! 俺、ネリオ少し戻った! だからお前も戻れ!」
リゼが銀環契約を強く光らせる。
「ユノ、あなたは器ではない!」
ユノは膝をついた。
頭の中で王名が鳴る。
それでも、自分の名前を探す。
ユノ。
ユノ。
ユノ。
そして、泉に残した白い星から声が届いた。
――ユノ。
ルナエルの声。
――王名に従わないで。
ユノは目を見開いた。
ルナエルの声が、ここまで届いている。
――僕は従わされた。
――でも君は違う。
――君は君の名前で選んで。
ユノの胸に熱が戻る。
「俺は……」
星灯りの剣が強く光る。
「ユノ!」
叫んだ瞬間、王名の命令が弾けた。
ユノは立ち上がる。
王を睨む。
「俺は器にならない」
王が唸る。
『ならば、名を救えぬ』
「一人で全部は救えない」
ユノは言った。
「でも、一人で全部喰らおうとするお前を止める」
リゼが封印布を閉じようとする。
しかし、王の力が強すぎる。
「ユノ、次で決めないと危険よ!」
「分かった」
ユノはミアとカイを見る。
「名前を呼んでくれ」
ミアは頷いた。
「何度でも」
カイも。
「任せろ」
リゼは封印を一瞬だけ大きく開く準備をした。
「王を固定する。その瞬間に胸の空洞と玉座の繋がりを斬って」
「失敗したら?」
「王名が完全に開く」
ミアが青ざめる。
「それ、最悪では?」
「だから失敗しない」
リゼの声は震えていなかった。
ユノは剣を構えた。
「やろう」
リゼが封印を開いた。
王名が響く。
声には出さない。
けれど空間そのものが、その名を知った。
アスト・レギア。
王の姿が完全に固定された。
同時に、王の胸の空洞と黒い玉座を繋ぐ太い鎖が見えた。
これが星喰いの力の根。
名前を喰らい、玉座へ送り、忘却へ沈める鎖。
ユノは走った。
王が腕を伸ばす。
黒い刃が飛ぶ。
ミアの記憶灯がそれを照らし、弱める。
カイがユノの名を叫び続ける。
「ユノ! ユノ! ユノ!」
リゼが魔法で王の動きを止める。
ユノは鎖の前に辿り着いた。
星灯りの剣を振り上げる。
王が叫んだ。
『斬れば、私の中の名も散るぞ!』
ユノは叫び返した。
「散らさない!」
ミアが歌真珠を鳴らす。
ミレイアの歌が広がる。
海の歌。
森の名。
ルグナの火。
ネリオの涙。
リゼの魔法。
カイの声。
すべてが、溢れた名前たちを包む。
ユノは剣を振り下ろした。
銀の刃が、玉座へ繋がる黒い鎖を斬った。
世界が震えた。
王が絶叫する。
玉座にひびが入る。
空洞から、さらに多くの名前が溢れ出した。
ユノは吹き飛ばされ、水面のない黒い地面に叩きつけられた。
意識が遠のく。
ミアの声が聞こえる。
「ユノ!」
カイの声。
「ユノ!」
リゼの声。
「ユノ!」
そして、遠くからルナエルの声。
――ユノ。
ユノは目を開けた。
王はまだ倒れていなかった。
しかし、玉座との繋がりは断たれた。
名前を喰らう流れが止まっている。
王の胸の空洞は、むき出しになっていた。
黒く、深く、満たされない穴。
王は立ち尽くしている。
『空白が……』
その声は、初めて弱く聞こえた。
『満たされぬ……』
ユノは立ち上がった。
剣を握る手が震えている。
次で終わる。
そう感じた。
だが、王をただ斬ればいいのか。
ルナエルを分けた今、王は空白そのものになっている。
それをどう止めるのか。
王が顔を上げた。
『名を……』
声は飢えではなく、泣き声のようだった。
『私の名を……』
ユノは息を呑む。
王は名を求めている。
でも、王名は命令だ。
幼き名は泉にある。
では、この空白に呼ぶべき名は何なのか。
リゼが震える声で言った。
「ユノ……」
ユノは分かった。
次は、王へ何を呼ぶかを選ばなければならない。
王名を呼ぶのか。
幼き名を呼ぶのか。
それとも、名前ではない何かを返すのか。
黒い玉座は崩れ始めている。
時間はない。
ユノは剣を構えたまま、王と向き合った。
名前を喰らう王は、初めて飢えではなく、空白の痛みに震えていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ついに星喰いの王と対峙しました。
ユノたちは王名の力で王の姿を固定し、星灯りの剣で玉座と王を繋ぐ鎖を斬りました。
その結果、王の名前を喰らう流れは止まり、カイはネリオの記憶の一部を取り戻します。
けれど王はまだ消えていません。
玉座との繋がりを失った王は、初めて“空白そのもの”として震え始めます。
次のページは『空白に呼ぶ名』です。
ユノは、王へ何を呼ぶべきかを選ぶことになります。




