黒翼の祭壇
黒い翼は、かつて誰かを守るために広げられたものでした。
けれど今、その翼は忘却へ向かっています。
王名――アスト・レギア。
ルナエルを縛った呪いの名を知ったユノたちは、地下誓約堂を出て、黒翼の祭壇へ向かいます。
そこに待っていたのは、セレノ。
忘れることを救いだと信じる、壊れた騎士でした。
地下誓約堂を出た時、灰の王都には夜が落ちていた。
空は黒く、星は少ない。
焼けた城壁の上を、灰混じりの風が流れている。
足元では、積もった灰が静かに崩れた。
ユノは胸元を押さえた。
王名が、そこにある。
アスト・レギア。
声に出してはいけない。
頭の中で繋げすぎてもいけない。
けれど、知ってしまった。
ルナエルを王へ変えた名。
名前ではなく、命令。
王であれ。
国であれ。
器であれ。
空白を満たせ。
個を捨てよ。
ユノの中で、その命令は冷たい鎖のように絡みつこうとしていた。
「ユノ」
ミアが呼んだ。
「いる」
ユノは答えた。
リゼもすぐに続ける。
「ユノ」
「いる」
カイも。
「ユノ」
「いる」
名前を呼ばれるたび、胸の奥の鎖が少し緩む。
ユノは深く息を吸った。
「行こう」
リゼは地下誓約堂の出口を振り返った。
「黒翼の祭壇は、王城の西塔の下にあるはずよ」
「知ってるのか?」
「黒翼騎士団の誓いの場所。姉様の記録で読んだことがある」
その声には、痛みがあった。
黒翼騎士団。
セレノが率いていた騎士団。
魔女を守るために作られ、やがて名を奪う剣へ堕ちていった者たち。
カイが木剣を握った。
「セレノがいるんだよな」
「おそらく」
リゼは静かに答えた。
「王名が揃ったなら、彼は必ず現れる」
ミアが記憶灯を抱え直した。
「話し合いで終わるかな」
誰もすぐには答えなかった。
セレノは敵だ。
けれど、ただの敵ではない。
かつて守ろうとした人。
守れなかった痛みで壊れた人。
忘却を救いだと信じる人。
ユノは星灯りの剣の模様に触れた。
「分からない。でも、止める」
その言葉に、リゼが少しだけ頷いた。
王城の廊下は、以前よりも暗かった。
壁には焼け跡が残り、ところどころに黒い羽根が落ちている。
進むほど、その羽根は増えていった。
ミアが小さく言う。
「道案内みたい」
「罠かもしれない」
カイが言うと、ミアは頷いた。
「たぶん両方」
西塔へ続く回廊に入ると、空気が変わった。
灰の匂いの中に、鉄の匂いが混ざる。
剣。
血。
誓い。
敗北。
そんな言葉が浮かぶ匂いだった。
リゼの足が一瞬止まる。
ユノは彼女を見る。
「リゼ」
「いるわ」
「大丈夫か?」
「大丈夫ではない。でも進める」
「分かった」
彼女はまっすぐ前を見た。
西塔の下には、黒い石で作られた階段があった。
地下誓約堂とは違い、ここは王族ではなく騎士のための場所だったのだろう。
壁には剣の紋章と、翼の紋章が刻まれている。
その翼は、本来なら白かったのかもしれない。
けれど今はすべて黒く染まっていた。
階段を降りると、広い地下空間へ出た。
そこに祭壇があった。
黒翼の祭壇。
円形の床の中央に、黒い石の祭壇が立っている。
その周囲には、折れた剣が無数に突き刺さっていた。
騎士たちの剣。
かつて誰かを守るために振るわれた剣。
そして、守れなかった剣。
祭壇の奥に、セレノが立っていた。
黒い外套。
顔を隠す影。
背中で揺れる黒い羽根。
彼は待っていた。
『来たね』
静かな声だった。
リゼが一歩前へ出る。
「セレノ」
『リゼ』
その名を呼ぶ声には、懐かしさがあった。
けれど、リゼの表情は揺れなかった。
「王名は揃ったわ」
『知っている』
「あなたは、これを使って何をするつもり?」
セレノは祭壇に手を置いた。
『王名を呼び、星喰いの王を完全に目覚めさせる』
ミアが息を呑む。
カイが叫んだ。
「そんなことしたら駄目だろ!」
『目覚めなければ、終わらせられない』
ユノは剣を呼び出した。
「終わらせるって、世界を忘れさせることか」
『そうだ』
「それは救いじゃない」
『君はまだ、そう言える場所にいる』
セレノの声は静かだった。
『だが、名を失い、守るべき者を失い、千年分の痛みを抱えた時、それでも同じことが言えるかな』
ユノは答えなかった。
答えられなかったのではない。
軽く答えてはいけないと思った。
リゼが言った。
「私は言うわ」
セレノの顔が、影の奥でわずかに動いた。
「忘却は救いではない。姉様はそんなものを望まなかった」
『君の姉は死んだ』
「知っている」
『私が守れなかった』
「知っている」
『だから忘れた方がいい』
「違う」
リゼの声は震えていた。
けれど強かった。
「あなたは忘れたいのよ。姉様のためじゃない。世界のためでもない。あなた自身が、もう痛みに耐えられないから」
地下の空気が凍った。
セレノの黒い羽根が大きく揺れた。
『……そうかもしれない』
その答えは、あまりにも静かだった。
『だが、それの何が悪い』
セレノはゆっくり顔を上げた。
『痛みに耐えられない者が救いを求めることの、何が悪い』
リゼは言葉を詰まらせた。
ユノも何も言えなかった。
痛みに耐えられない。
その言葉だけなら、誰も責められない。
けれど、セレノが選んだ方法は、世界中の名前を巻き込むものだった。
ユノは言った。
「救いを求めるのは悪くない」
セレノがユノを見る。
「でも、誰かの名前を勝手に眠らせるのは違う」
『痛みから解放される』
「名前ごと消える」
『苦しみも消える』
「幸せだった記憶も消える」
ユノは剣を握った。
「俺は、悲しみだけ消して幸せだけ残す方法なんて知らない。だから全部抱えて進むしかない」
『それができない者は?』
「支える」
『支えきれなければ?』
「名前を呼ぶ」
『それでも届かなければ?』
ユノは唇を噛んだ。
答えは簡単ではない。
でも、逃げなかった。
「それでも、勝手に忘れさせたりしない」
セレノはしばらく黙っていた。
やがて、低く笑った。
『君は残酷だ』
「そうかもしれない」
『忘れさせてあげる方が優しい時もある』
「それを決めるのは、本人だ」
その瞬間、祭壇が黒く光った。
セレノの周囲に、黒翼騎士団の影が現れる。
折れた剣を持つ騎士たち。
名を失い、ただ黒い羽根の紋章だけを残した者たち。
リゼが身構える。
「彼らを使うの?」
『彼らも望んでいる。眠りを』
「本当に?」
リゼの問いに、セレノは答えなかった。
ユノは騎士たちを見た。
黒い影。
けれど、完全な忘却ではない。
まだ名前の欠片がある。
胸が痛む。
でも今、全員を呼び戻す余裕はない。
セレノは祭壇へ手をかざした。
『王名を渡してもらう』
「渡さない」
ユノは剣を構えた。
黒翼騎士たちが動き出す。
ミアが記憶灯を掲げた。
「ルグナの火、お願い!」
銀色の火が広がり、騎士の影を押し返す。
カイは木剣でミアの横に立つ。
「近づくな!」
リゼは魔法陣を展開し、黒い羽根を凍らせた。
ユノはセレノへ向かって走った。
セレノも黒い剣を抜く。
名を奪う剣。
その黒い刃を見るだけで、ユノの名前が揺らぐ。
アスト。
レギア。
王名の響きが、セレノの剣に反応している。
リゼが叫ぶ。
「ユノ!」
「いる!」
ユノは星灯りの剣を振った。
銀と黒の刃がぶつかる。
衝撃で祭壇の灰が舞い上がった。
セレノは近くで囁く。
『王名を知った君は、もう鍵以上のものになった』
「俺はユノだ」
『今はね』
黒い剣がユノの肩をかすめた。
鋭い痛み。
同時に、名前が一瞬だけ薄くなる。
ミアの声が飛ぶ。
「ユノ!」
カイも。
「ユノ!」
リゼも。
「ユノ!」
名前が戻る。
ユノは歯を食いしばり、セレノを押し返した。
「お前は、誰なんだ」
セレノの剣が止まる。
「黒翼騎士団長か。魔女を守る騎士か。忘却の使者か。それとも、セレノか」
セレノの黒い羽根が震えた。
『私は……』
その声が一瞬だけ揺らぐ。
リゼが叫んだ。
「セレノ!」
その名が祭壇に響いた。
黒翼騎士たちの動きが止まる。
セレノの影が揺れる。
『呼ぶな』
「呼ぶわ」
リゼは涙を浮かべていた。
「あなたはセレノ。姉様が信じた騎士。私が憎んだ人。守れなかった人。忘れようとしている人」
『呼ぶな!』
セレノが叫ぶ。
黒い剣が大きく振るわれた。
だが、その刃はリゼには届かなかった。
ユノが受け止めたからだ。
腕が痺れる。
でも退かない。
「リゼが呼んでる」
ユノは言った。
「逃げるな、セレノ」
セレノの影が大きく乱れた。
その奥に、一瞬だけ人間の顔が見えた。
疲れ果てた男の顔。
悲しみで壊れた騎士の顔。
『私は……もう戻れない』
セレノは呟いた。
『戻る場所がない』
リゼが一歩近づく。
「戻らなくていい。止まって」
『止まれば、痛みが追いつく』
「それでも」
『耐えられない』
「なら、泣けばいい!」
リゼの声が地下に響いた。
セレノが固まる。
「忘れるんじゃなくて、泣けばいい。怒ればいい。悔やめばいい。姉様の名を呼べばいい!」
『できない……』
「できる!」
リゼは叫んだ。
「私も泣けなかった。でも泣けた。ミレイアが歌って、ユノが呼んで、みんなが名前を繋いでくれたから!」
セレノの剣が下がる。
ほんの少し。
けれど、その瞬間を黒翼の祭壇は見逃さなかった。
祭壇の黒い光が膨れ上がる。
そこから、王の影が現れた。
『弱い騎士だ』
星喰いの王の声。
セレノの身体が硬直する。
『忘却を望みながら、名に引き戻される』
黒い影がセレノへ絡みつく。
リゼが叫ぶ。
「セレノ!」
セレノは苦しげに膝をついた。
王の影が祭壇から伸び、ユノたちの封印布へ向かう。
王名を奪うつもりだ。
ミアが叫ぶ。
「リゼ!」
リゼはすぐに封印布を抱え、魔法で守る。
だが王の影は強い。
黒い鎖が伸びる。
ユノは星灯りの剣を握った。
ここで王名を呼べば、影を退けられるかもしれない。
だが、それは危険すぎる。
王が目覚める。
自分も呑まれる。
ルナエルの声が、どこかで囁いた。
――まだ呼ばないで。
ユノは息を吸った。
王名ではなく、別の名を呼ぶ。
「セレノ!」
その声に、セレノが顔を上げた。
「お前が本当に忘却を望むなら、自分の名前で選べ! 王の影に言わせるな!」
セレノの目が揺れる。
リゼも叫ぶ。
「セレノ!」
ミアも。
「セレノさん!」
カイも。
「セレノ!」
四つの声が重なる。
セレノは震えながら、自分の胸に手を当てた。
『私は……セレノ……』
その名が祭壇に響いた瞬間、王の影がわずかに退いた。
セレノは黒い剣を逆手に握り、自分に絡みつく黒い鎖を斬った。
血のような黒い光が散る。
『まだ……私は……』
セレノは苦しげに言った。
『忘れられない……』
リゼの涙が落ちた。
「それでいい」
王の影が怒りの声を上げる。
『名を呼ぶ者たちめ』
祭壇が崩れ始めた。
黒翼騎士たちの影も乱れる。
ユノは叫ぶ。
「ここを出る!」
ミアが記憶灯を抱え、カイが彼女を支える。
リゼは封印布を抱え、セレノを見た。
「来て!」
セレノは立ち上がろうとするが、足元の影に捕まれている。
『私は行けない』
「そんなこと――」
『リゼ』
セレノの声は、少しだけ昔の騎士のようだった。
『王名を、まだ呼ぶな』
リゼは息を呑む。
『黒翼の祭壇は王に繋がっている。ここで呼べば、王は完全に目覚める』
「分かっているわ!」
『なら行け』
セレノは黒い剣を床へ突き立てた。
祭壇の崩壊を一時的に止める。
『私は、ここを抑える』
「セレノ!」
『まだ救われる気はない』
彼は苦笑したように見えた。
『だが、少しだけ……忘れるのは、後にする』
リゼは泣きそうな顔で唇を噛んだ。
ユノが彼女の手を掴む。
「リゼ!」
「……ええ!」
四人は階段へ走った。
背後で祭壇が崩れる音がした。
黒い羽根が舞う。
王の影の怒号が響く。
そして、その中にセレノの声が混ざった。
『私は、セレノ』
小さく、けれど確かな声。
リゼは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まるからだ。
地下から飛び出した時、王城の夜風が四人を迎えた。
黒翼の祭壇の入口は、轟音と共に崩れた。
しばらく誰も動けなかった。
ミアはその場に座り込み、カイは肩で息をしている。
ユノも剣を手首へ戻し、深く息を吐いた。
リゼは崩れた入口を見つめていた。
涙が頬を伝っている。
ユノは静かに呼んだ。
「リゼ」
「いるわ」
声は震えていた。
「セレノは……」
「生きてる」
リゼは言った。
「たぶん」
ユノは頷いた。
根拠はない。
けれど、名前を呼び戻した。
セレノは、ほんの少しだけ自分の名を取り戻した。
それは完全な救いではない。
でも、終わりでもない。
リゼは封印布を抱え直した。
「王名は守った」
「でも、王の影に知られた」
ユノが言うと、リゼは頷いた。
「ええ。もう時間はあまりない」
ミアが立ち上がる。
「次はどうするの?」
その時、封印布が淡く光った。
王名ではなく、幼き名の記録板が反応している。
リゼが取り出すと、そこに新しい文字が浮かんでいた。
――王名を呼ぶ前に、幼き名を星の泉へ沈めよ。
――そこで王と子どもを分ける道が開く。
カイが首を傾げる。
「星の泉?」
リゼは目を見開いた。
「星の泉……魔女たちの最初の聖域。もう失われたと思っていた場所」
「そこに行けば、ルナエルと星喰いの王を分けられるのか?」
ユノが聞くと、リゼは小さく頷いた。
「可能性はあるわ」
ミアが少しだけ希望を見せた。
「じゃあ、斬るだけじゃない道があるかもしれない?」
「まだ分からない」
リゼは言った。
「でも、探す価値はある」
ユノは夜空を見上げた。
星は少ない。
けれど、完全に消えてはいない。
黒翼の祭壇で、セレノは少しだけ自分の名を取り戻した。
王名は揃った。
だが、すぐに呼ぶのではなく、ルナエルと王を分ける道が示された。
ユノは胸元に手を当てた。
「行こう。星の泉へ」
ミアが頷く。
「うん」
カイも。
「行く」
リゼは崩れた祭壇の入口をもう一度見た。
そして静かに言った。
「セレノ。まだ忘れないで」
夜風が黒い羽根を一枚運んできた。
それはリゼの足元に落ち、すぐに灰になった。
返事のようだった。
四人は灰の王都を出るため、再び歩き始めた。
王名を抱え、幼き名を抱え、セレノの名を胸に残したまま。
次の目的地は、星の泉。
ルナエルと星喰いの王を分けるための、最後の希望だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、黒翼の祭壇でセレノと対峙しました。
セレノは忘却を救いだと信じていました。
けれどリゼたちが名前を呼び続けたことで、彼は一瞬だけ“セレノ”として戻ります。
王名は守られましたが、星喰いの王の影も動き始めました。
そして新たな手がかりが示されます。
星の泉。
そこに幼き名を沈めれば、ルナエルと星喰いの王を分ける道が開くかもしれません。
次のページは『星の泉を探して』です。




