灰の王都へ戻る道
戻りたくない場所ほど、戻らなければならない時があります。
灰の王都。
焼けた記憶。
名を奪われた騎士たち。
そして、セレノの影。
星舟の墓場で王名の半分“アスト”を得たユノたちは、残り半分を探すため、再び灰の王都を目指します。
そこに眠るのは、王と国が交わした誓約書。
ルナエルを完全に縛った、もう一つの鎖です。
風鳴りの断崖に、夕暮れが降りていた。
空は淡い金色から紫へ変わり、遠くの雲は燃えるように赤く染まっている。
星舟の墓場はもう見えない。
けれど、ユノには分かっていた。
雲の向こうに、まだ壊れた船たちが眠っている。
落ちた王座の欠片が漂い、空白の帆が沈黙し、ルナエルの幼き名がかすかに残響している。
そして、ユノの中には王名の半分が残っていた。
アスト。
名前ではない。
命令。
王であれ。
器であれ。
個を捨てよ。
声に出してはいけない。
そう分かっていても、その響きは胸の奥で冷たく光っていた。
「ユノ」
ミアの声で、ユノは我に返った。
「いる」
答えると、ミアは少し安心した顔をした。
「今、遠く見てた」
「空を見てた」
「それだけ?」
「……王名のことも考えてた」
ミアは眉を寄せたが、怒らなかった。
「言ってくれてよかった」
ユノは小さく頷いた。
以前なら、黙っていたかもしれない。
自分一人で抱えようとしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
王名は危険だ。
自分一人では呑まれる。
だから、言葉にする。
名前を呼んでもらう。
戻る場所を作る。
それが、ユノが学んだ進み方だった。
断崖の石柱のそばでは、ナギが荷物をまとめていた。
ソラはその隣で、自分の壊れた弓を抱えている。
森の心臓に取り込まれかけていた少年は、まだ少し透けて見えた。
けれど、最初に見つけた時よりずっと輪郭がはっきりしている。
ナギが何度も名前を呼んでいるからだ。
「ソラ」
「いる」
「ソラ」
「いるって」
「ソラ」
「姉ちゃん、しつこい」
「これから一生しつこくする」
「えぇ……」
ソラは困った顔をした。
でも、嬉しそうだった。
カイはその様子をじっと見ていた。
ユノには、カイが何を思っているのか少し分かった。
ネリオ。
消えた村。
まだ完全には戻らない故郷。
ソラが名前を呼ばれて戻っていく姿は、カイにとって希望でもあり、痛みでもあるのだろう。
カイは小さく言った。
「ネリオも、呼び続ければ戻るかな」
リゼが静かに答える。
「すぐには戻らないかもしれない。でも、呼び続けることには意味があるわ」
「うん」
カイは木剣を握った。
「ネリオ」
ユノも続けた。
「ネリオ」
ミアも。
「ネリオ」
リゼも。
「ネリオ」
ナギとソラも、少し遅れて声を重ねた。
「ネリオ」
「ネリオ」
カイは目を赤くしながら笑った。
「ありがとう」
名前は戻らないかもしれない。
でも、呼ばれた名前は完全には消えない。
それを、ユノたちは知っていた。
出発前、ナギはユノへ木札を渡した。
「シェルカの北門近くに、古い馬車屋がある。親父の名はバルド。これを見せれば、灰の王都へ向かう街道の入口まで送ってくれる」
「灰の王都まで直接じゃないのか?」
「今、あのあたりへ行く馬車はいない。灰の王国は噂が悪すぎる」
ナギは少し顔をしかめた。
「焼けた騎士が歩くとか、名前を呼ぶ声が夜に聞こえるとか、黒い羽根が降るとか」
ミアが肩をすくめた。
「全部ちょっと本当だから怖い」
リゼは静かに言った。
「灰の王都には地下誓約堂がある。そこに王名の残り半分が眠っている」
「戻りたくない?」
ユノが聞くと、リゼは少し黙った。
「戻りたくはないわ」
正直な答えだった。
「でも、行かなければならない」
灰の王都は、リゼにとっても重い場所だ。
姉の記憶。
セレノの裏切りと痛み。
黒翼騎士団。
名を奪う剣。
そこへ戻るということは、開いた傷にもう一度触れることでもある。
ユノは言った。
「一人で抱えるなよ」
リゼが少し驚いたように見る。
「あなたに言われるとはね」
「最近、言われてるから」
ミアが頷く。
「学習してる」
カイも。
「少しだけ」
「少しだけかよ」
リゼはほんの少し笑った。
「ええ。一人では抱えない」
ソラがユノたちを見上げた。
「また会える?」
ユノは頷いた。
「会える」
「本当?」
「本当」
ソラは少し安心したように笑った。
「じゃあ、僕、ちゃんと戻ってる」
カイが言った。
「弓直してもらえよ」
「うん。ミアさんに」
ミアが胸を張る。
「任せて。戻ってきたら見るから」
ナギは静かに言った。
「約束だな」
「ああ」
ユノは頷いた。
約束を置いていかない。
それは大事なことだった。
セレノは、痛みから逃れるために世界を忘れさせようとしている。
でもユノたちは違う。
名前も約束も、持って進む。
たとえ重くても。
森を抜け、シェルカへ戻る道は、薄暗くなり始めていた。
ナギとソラは森の心臓へ戻るため、途中で別れることになった。
別れ際、ナギはユノに言った。
「王名に呑まれそうになったら、仲間の声を聞け」
「分かってる」
「分かってない奴ほど、そう言う」
「……戻る」
ナギは少し笑った。
「それでいい」
ソラも手を振った。
「ユノさん、ミアさん、リゼさん、カイ。またね!」
カイが大きく手を振り返す。
「またな!」
ミアも。
「絶対、弓見せてね!」
リゼも静かに頷いた。
「ソラ、名を保って」
「はい!」
ユノも言った。
「ソラ」
「いる!」
その返事を聞いて、ナギは少し泣きそうな顔をした。
そして、姉弟は森の奥へ消えていった。
ユノたちはシェルカへ向かった。
港町に着いた時には、夜が近かった。
町の灯りがぽつぽつと灯り、海からは冷たい風が吹いている。
白波亭の女将は、ユノたちを見るなり目を丸くした。
「あんたたち、また随分ひどい顔をして帰ってきたね」
ミアが力なく笑う。
「空まで行ってきたので……」
女将は一瞬黙った。
「……まあ、旅人には色々あるさ。飯は食べるだろ?」
カイが即答した。
「食べます」
その迷いのない返事に、少しだけ場が和んだ。
温かいスープとパン、焼き魚が出された。
食べ物の匂いがした瞬間、ユノは自分がひどく疲れていたことに気づいた。
空の上では、ずっと緊張していた。
名前を失わないように。
王名に呑まれないように。
落ちないように。
温かいスープを飲むと、身体の奥に地上が戻ってくるようだった。
ミアは小さく言った。
「ご飯って大事だね」
カイは魚を食べながら頷く。
「命だ」
リゼもスープを口にし、少し息を吐いた。
「確かに、地上の食事は名を固定する助けになるかもしれない」
ミアが笑った。
「リゼ、何でも魔法理論にしないで」
「でも本当よ。味覚や匂いは記憶と強く結びついている」
ユノはパンをちぎりながら言った。
「じゃあ、カイがご飯で元気になるのも理屈があるんだな」
カイは真顔で頷いた。
「ある」
ミアが笑った。
その笑い声を聞いて、ユノは少し安心した。
まだ笑える。
なら、まだ大丈夫。
食後、四人は部屋で作戦を立てた。
テーブルの上には、星涙石、海涙石、森の心臓の枝、セフィラの記録板、星冠の欠片を包んだ封印布が並んでいる。
リゼはそれぞれを離して置いた。
「王名に関係するものは、近づけすぎない方がいい」
「星冠の欠片がアストを持ってるんだよね」
ミアが小声で言う。
口にした瞬間、封印布がかすかに震えた。
ユノの胸も反応する。
リゼがすぐに言った。
「今後、その響きはなるべく言わないで」
「ご、ごめん」
「責めていないわ。反応を確認できた」
カイが青ざめる。
「本当に危ないんだな」
「ええ」
リゼは真剣な顔で続けた。
「次に探すのは、地下誓約堂にある誓約書。そこに王名の後半がある可能性が高い」
「王名の後半って、また命令なのかな」
ミアが聞く。
「おそらく。前半が“王であれ、器であれ”なら、後半は“何を背負うか”を定義する言葉かもしれない」
ユノは胸が重くなった。
王であれ。
その続き。
国か。
星か。
空白か。
犠牲か。
どんな言葉でも、ルナエルをさらに縛ったものに違いない。
カイが言った。
「それを見つけたら、王名が完成するのか?」
「半分ずつ揃う。でも、すぐ繋げてはいけない」
リゼは全員を見た。
「絶対に」
ユノも頷いた。
「分かってる」
ミアがじっと見る。
「ユノは特に」
「分かってる」
カイも。
「本当に特に」
「分かってるって」
リゼは少しだけ息を吐く。
「灰の王都へ戻る前に、封印を強化する必要があるわ。星冠の欠片だけでも、かなり影響が強い。誓約書まで得たら、今のままでは危険」
「どうすれば?」
ユノが聞くと、リゼは考えた。
「三重封印を作る。海涙石で感情の暴走を抑え、森の枝で名前を固定し、記憶灯で現在へ繋ぐ」
ミアが記憶灯を抱えた。
「ルグナの火を使うんだね」
「ええ。ミアに頼むことになる」
「任せて」
ミアは少し緊張した顔で頷いた。
「私、ちゃんと守る」
その夜、リゼとミアは遅くまで封印布に魔法の糸を縫い込んだ。
ユノとカイは、必要な道具を整えた。
カイは途中で眠そうになりながらも、木剣を磨いていた。
「それ、木剣なのに磨くのか?」
ユノが聞くと、カイは真剣に答える。
「気持ちの問題」
「なるほど」
「ユノも剣、磨いた方がいい」
「星灯りの剣は手首に戻るからな」
「気持ちの問題だよ」
ユノは少し笑った。
気持ちの問題。
でも、それは大事だった。
名前を保つことも、きっと気持ちの問題だけではない。
けれど、気持ちがなければ保てない。
深夜、封印が完成した。
星冠の欠片は新しい布に包まれ、以前より静かになった。
ユノの胸の奥のざわめきも少し弱くなる。
「楽になった」
ユノが言うと、ミアは疲れた顔で笑った。
「よかった……」
リゼも少し息を吐く。
「完璧ではないけれど、しばらくは持つはず」
「ありがとう」
「礼は戻ってから」
リゼは静かに言った。
「灰の王都は、私たち全員にとって危険な場所になる」
ユノは頷いた。
灰の王都。
またあそこへ戻る。
だが、前とは違う。
今のユノたちは、海の底を越え、森を越え、空の墓場を越えてきた。
名前を呼ぶことの意味も、以前より深く知っている。
だから、きっと進める。
翌朝。
白波亭を出ると、シェルカの町は朝の光に包まれていた。
港では魚が並び、風鈴が鳴り、海鳥が飛んでいる。
普通の朝。
ユノはその景色を目に焼きつけた。
こういう朝を守るために、進むのだ。
北門の馬車屋へ行くと、ナギの木札を見た老人バルドが目を細めた。
「ナギの知り合いか」
「はい」
「なら乗せてやる。灰の王都へ行きたいなんて、物好きにもほどがあるがな」
ミアが小さく言う。
「それ、最近よく言われるね」
カイは荷台に乗りながら答えた。
「物好きじゃない。必要だから行くんだ」
バルドはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「必要で危ない場所へ行く奴が、一番物好きなんだよ」
馬車が動き出した。
シェルカの町が少しずつ遠ざかる。
海の匂いが薄れ、灰の王都へ続く街道が伸びていく。
ユノは荷台で自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
ミア。
「ミア」
リゼ。
「リゼ」
カイ。
「カイ」
四つの名前を乗せて、馬車は走る。
灰の王都へ。
王名の残り半分が眠る地下誓約堂へ。
戻りたくない場所へ、戻るために。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノたちがナギとソラに別れを告げ、灰の王都へ戻る準備をしました。
星冠から得た王名の半分“アスト”は、ユノの中にも影響を及ぼし始めています。
けれど、仲間たちが名前を呼び、リゼとミアが封印を強化することで、ユノは自分を保ちました。
次の目的地は、灰の王都の地下誓約堂。
そこに、王名の残り半分が眠っています。
次のページは『地下誓約堂』です。
灰の王都へ戻ったユノたちは、王と国が交わした古い誓いの記録へ辿り着きます。




