風鳴りの断崖
風が鳴る場所がありました。
そこは、地上と空の境目。
森を抜けた者だけが辿り着ける、古い断崖。
ユノたちは、星舟の墓場へ向かうため、風鳴りの断崖を目指します。
必要なのは、星涙石、海涙石、森の心臓の枝、そしてルナエルの名を記した記録。
空へ向かう道が、いよいよ開かれようとしています。
エルディアの森を抜ける道は、来た時よりも静かだった。
森の心臓が少しだけ本来の力を取り戻したからなのか、木々の声はもう、必要以上に名前を真似ようとはしなかった。
それでも、完全に安全になったわけではない。
時折、遠くから声がする。
――ユノ。
――ミア。
――カイ。
――リゼ。
――ナギ。
――ソラ。
けれど、その声は前ほど鋭く心を刺さなかった。
ユノたちは、本名ではなく合図名で確認しながら進んだ。
「炭、いる」
「灯、いる」
「銀、いる」
「木、いる」
「風、いる」
「ソラ、いる」
ソラだけはまだ合図名を持っていなかった。
ナギがつけようとしたが、ソラが首を振った。
「僕はソラでいたい」
そう言ったからだった。
ナギは少し困った顔をしたが、結局何も言わなかった。
今のソラにとって、自分の名を自分で言えることが大事なのだ。
それを誰も奪うべきではなかった。
森の出口へ近づくにつれ、潮の匂いが戻ってきた。
けれど、シェルカへ続く道ではなく、ナギは西へ向かった。
木々の間から、白い崖が見える。
その先に空が広がっていた。
森が突然終わった。
目の前に、断崖があった。
風鳴りの断崖。
名前の通り、風が鳴っていた。
崖の下には、雲が流れている。
海ではない。
地面でもない。
白い雲の谷が、崖の下いっぱいに広がっている。
ユノは思わず足を止めた。
「高い……」
ミアがすぐ後ろで固まる。
「無理。これは無理」
「まだ何もしてないぞ」
「見ただけで無理!」
カイも崖の端を覗き込み、すぐに後ろへ下がった。
「落ちたら終わりだな」
リゼは風の流れを読んでいるように目を細めた。
「ここは地形が歪んでいる。普通の高さではないわ」
「どういう意味?」
ミアが聞く。
「空に近い場所。地上と星域の境界が薄い場所ということ」
ナギが頷いた。
「森番の伝承では、ここから星舟へ上がることができたらしい」
ソラは姉の袖を掴んでいる。
「僕、本当にここまで来てよかったの?」
ナギは少し迷った。
「本当は残してきたかった」
「じゃあなんで連れてきたの」
「目を離したくなかった」
ソラは小さく笑った。
「姉ちゃんらしい」
断崖の風は強かった。
ユノの外套がはためく。
ミアの髪が乱れる。
リゼの銀髪が、星の糸のように風へ流れる。
崖の縁には、古い石柱がいくつも並んでいた。
その柱には星の文字が刻まれている。
柱の中心には、円形の石台があった。
半分は苔に覆われ、半分は崩れている。
それでも、台座の表面には四つのくぼみが残っていた。
リゼが近づき、膝をつく。
「これが昇降台ね」
ミアが恐る恐る近づく。
「これに乗るの?」
「たぶん」
「たぶん禁止って何回言えば……」
ユノは台座を見た。
四つのくぼみ。
必要なものは分かっている。
星涙石。
海涙石。
森の心臓の枝。
幼き名の記録。
ユノは胸元から星涙石を取り出した。
リゼは海涙石の容器と水晶の記録板を用意する。
森の心臓の枝は、ユノの鞄の中で淡く光っていた。
ナギが周囲を警戒している。
「早めにした方がいい」
「何かいるのか?」
ユノが聞くと、ナギは崖の向こうを睨んだ。
「風が変わった」
その言葉の直後、空の上から黒い羽根が一枚落ちてきた。
リゼの表情が強張る。
「セレノ……」
黒い羽根は石台の上に落ちる直前で燃えるように消えた。
そして声だけが風に混ざった。
『空へ行くのか』
セレノの声。
姿はない。
けれど、風の中に確かにいる。
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
「邪魔しに来たのか」
『いいや。見届けに来た』
「信用できない」
『信用など不要だ』
セレノの声は静かだった。
『星舟の墓場には、王が王となった記録がある。そこへ辿り着けば、君たちはさらに知る』
リゼが冷たく言う。
「あなたは知っているのね」
『少しだけ』
「なら、なぜ自分で終わらせないの」
風が止まった。
セレノはしばらく黙っていた。
『私は終わらせようとしている』
「忘却で?」
『そうだ』
「それは終わらせることではなく、逃げることよ」
黒い羽根が風に舞う。
『リゼ。君は強くなった』
「あなたにそう言われても嬉しくない」
『だろうね』
ユノは剣を構えたまま言った。
「ルナエルは、止めてほしいと言った」
セレノの声がわずかに揺れた。
『幼き残響は、そう言ったか』
「ああ」
『ならば、王はどう言うだろうね』
その瞬間、空が黒く揺れた。
崖の向こうの雲の中に、巨大な影が一瞬だけ見えた。
星喰いの気配。
ユノの胸元で王の名の響きが震える。
リゼが叫ぶ。
「始めるわ!」
ユノは頷いた。
まず星涙石を一つ目のくぼみに置く。
石台に銀の光が走った。
次に海涙石。
青い光が広がり、風の音が少しだけ柔らかくなる。
次に森の心臓の枝。
白銀の枝がくぼみに触れた瞬間、台座の苔が光り、小さな星の葉が芽吹いた。
最後に、幼き名の記録板。
リゼが慎重に水晶板を置く。
そこに刻まれた名が、淡く浮かぶ。
ルナエル。
ユノはその名を見た瞬間、頭の奥が痛んだ。
ミアがすぐに呼ぶ。
「ユノ!」
カイも。
「ユノ!」
リゼも。
「ユノ、ここにいて」
ユノは息を整えた。
「いる」
四つのくぼみが光った。
石台全体に古い文字が浮かび上がる。
リゼが読む。
「星へ向かう者よ、地の名を忘れるな。空は軽く、名を落とす」
ミアが青ざめる。
「また名前関係……」
「空へ近づくほど、肉体より記憶が軽くなる。名前を失いやすくなるという意味でしょうね」
カイが木剣を握る。
「じゃあ、また呼び合えばいい」
ユノは頷いた。
「そうだな」
ナギが言った。
「私はソラとここに残る。昇降台が戻るまで待つ」
「一緒に来ないのか?」
「ソラを連れて空へは行けない。まだ身体が安定していない」
ソラは悔しそうに俯いた。
「僕も行きたい」
「駄目だ」
ナギは即答した。
「今度は置いていかれる側の気持ちも考えろ」
ソラは少し黙り、やがて頷いた。
「……待ってる」
ユノはソラに言った。
「必ず戻る」
ソラは顔を上げる。
「ユノさん、消えないで」
「ああ」
ナギもユノを見る。
「戻ってこい。ソラの弓を直してもらう約束がある」
ミアが胸を張る。
「それは私の仕事でしょ」
「じゃあ全員戻ってこい」
リゼが小さく頷いた。
「ええ」
石台が震え始めた。
崖下の雲が渦を巻く。
風が円形の台座を包み、古い機構が目覚める音がした。
石柱の上に光が灯る。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
空へ向かう道が開く。
ユノ、ミア、リゼ、カイは石台の中央に立った。
ナギとソラは外側へ下がる。
セレノの声が最後に風へ混ざった。
『落ちないように』
ユノは空を睨んだ。
「お前こそ、逃げるなよ」
『私は逃げていない。ずっと忘却の中心に向かっている』
「それを逃げるって言うんだ」
返事はなかった。
黒い羽根は風に散った。
昇降台が浮き上がる。
ミアが悲鳴を上げた。
「浮いた! 浮いてる!」
「見れば分かる!」
ユノも思わず声を上げた。
足元の石台が、断崖から離れていた。
ゆっくりと、しかし確実に上昇している。
下を見ると、ナギとソラが小さくなっていく。
ソラが両手を振った。
ナギも片手を上げる。
カイが震えながら手を振り返した。
「高い……高すぎる……」
ミアはユノの袖を掴んでいる。
「落ちないよね?」
「落ちない……と思う」
「思う禁止!」
リゼは空を見上げていた。
彼女の表情は真剣だった。
「ここから先は、星域の入口。地上とは法則が違う」
「具体的には?」
ユノが聞く。
「重さ、距離、時間、名前の響き。全部が少しずつ変わる」
カイが泣きそうな顔になる。
「つまり?」
「油断しないで」
「それしか分からない!」
石台は雲の中へ入った。
白い霧が視界を覆う。
風が耳元で鳴る。
その風の中に、声が混ざり始めた。
――ユノ。
――ミア。
――リゼ。
――カイ。
森の声ではない。
空の声。
もっと遠く、もっと軽い。
名前を持ち上げ、どこかへ運んでいこうとする声。
リゼが叫ぶ。
「名前を確認して!」
ユノが答える。
「ユノ!」
ミア。
「ミア!」
リゼ。
「リゼ!」
カイ。
「カイ!」
四つの名前が雲の中で響く。
石台の光が強くなる。
雲を抜けた瞬間、ユノは息を呑んだ。
空の上に、道があった。
星屑でできた川のような道。
その先に、巨大な残骸が浮かんでいる。
折れた船体。
壊れた帆。
星の文字が刻まれた金属板。
砕けた輪。
空中に漂う無数の破片。
星舟の墓場。
それは空に浮かぶ廃墟だった。
美しく、壊れていて、どこか墓地のように静かだった。
ミアが震える声で言う。
「本当に……空に船がある……」
リゼは小さく呟いた。
「伝説ではなかったのね」
ユノの胸元が強く震えた。
そこには次の記憶がある。
王が王となった記録。
ルナエルが星喰いの王へ変わっていく過程。
ユノは手首の星灯りの剣の模様に触れた。
怖い。
けれど進む。
石台は星屑の道へ静かに降りた。
足元は不思議な感触だった。
石でも土でもない。
光の上に立っているようだった。
背後を見ると、地上は雲の下に隠れている。
もう森も、断崖も見えない。
前には星舟の墓場だけがある。
リゼが言った。
「ここから先、本名で呼び合いましょう」
「森じゃないから?」
「ええ。空では、合図名より本名の方が自分を固定できる」
ユノは頷いた。
「ユノ」
ミアも。
「ミア」
リゼ。
「リゼ」
カイ。
「カイ」
四つの名前が、空に浮かぶ星屑の道へ落ちた。
遠くで、壊れた星舟の鐘が鳴った。
ごうん。
ごうん。
それは、死者を迎える鐘のようだった。
ユノたちは、星舟の墓場へ足を踏み出した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノたちが風鳴りの断崖へ辿り着きました。
星涙石。
海涙石。
森の心臓の枝。
ルナエルの名を記した記録。
四つの鍵によって、空へ向かう古い昇降台が目覚めます。
ナギとソラは地上に残り、ユノ、ミア、リゼ、カイの四人は空へ。
ついに次なる舞台、“星舟の墓場”へ到着しました。
次のページは『星舟の墓場』です。
空に浮かぶ壊れた船たちの中で、王が王となった記録を探すことになります。




