塔の上の黒い星
星を見るための塔の上には、星ではなく黒い穴がありました。
それは、星喰いが最初に空へ触れた傷。
王子ルナエルの名が壊れ始めた場所。
そして、第四の響きが眠る場所。
ユノたちは星見の塔の頂で、黒い星と向き合います。
名前を知ることは、救いにも呪いにもなる。
その意味を、ユノはさらに深く知ることになります。
塔の頂は、空に近すぎた。
風が強い。
足元の石床はひび割れ、ところどころ崩れている。
周囲に手すりはなく、少しでも足を滑らせれば、森の底へ落ちてしまいそうだった。
壊れた天球儀が中央に立っている。
大きな金属の輪がいくつも重なり、その半分は黒く焼け焦げていた。
かつては星の動きを読むための道具だったのだろう。
けれど今、その中心には星ではなく黒い穴が浮かんでいる。
黒い星。
いや、星ではない。
空に開いた傷。
ユノはそれを見た瞬間、胸元の金属筒が激しく震えるのを感じた。
ル。
ナ。
エ。
三つの響きが、黒い穴へ引き寄せられる。
リゼがすぐにユノの手首を掴んだ。
「見すぎないで」
「分かってる」
そう答えたが、視線を逸らすのは難しかった。
黒い穴の奥には、何もないはずなのに、誰かの目がこちらを見ているようだった。
ミアは歌真珠を握りしめていた。
カイは木剣を構え、唇を固く結んでいる。
塔の上で、風だけが鳴っていた。
その時、黒い穴から声がした。
『ルナエル』
幼い声だった。
王子の声。
けれど、その奥に深い闇が混ざっている。
『僕を呼んだのは、誰』
ユノは答えそうになった。
リゼが鋭く言う。
「答えないで」
声は続く。
『名前を知ったなら、呼んで』
ユノの喉が震える。
ルナエル。
呼べば、彼は反応する。
でも今呼ぶことは危険だ。
まだ完全な名ではない。
まだ、王子を救うために必要なものが足りない。
ユノは歯を食いしばった。
「今は呼ばない」
黒い穴が揺れた。
『どうして』
「正しく呼べないから」
『僕の名前を知っているのに』
「知っているだけじゃ足りない」
ミアが小さくユノを見る。
ユノは続けた。
「名前は、呼べばいいってものじゃない。呼ぶなら、ちゃんと戻すために呼ぶ」
黒い穴の奥で、何かが笑った。
今度はセレノの声だった。
『成長したね、鍵』
黒い羽根が風に混ざって舞った。
天球儀の反対側に、セレノの影が現れる。
黒い外套。
顔の見えない影。
背中に揺れる黒い羽根。
リゼが一歩前へ出る。
「セレノ」
『リゼ。君はまだ彼の名を守るつもりか』
「ええ」
『いつか守りきれなくなる』
「その時は、また呼ぶ」
『何度も?』
「何度でも」
セレノは静かに笑った。
『君は変わった』
「そうかもしれない」
『昔の君なら、人間の少年の名をそこまで守ろうとはしなかった』
「昔の私を、あなたが語らないで」
その声は冷たかった。
セレノは少し沈黙した。
そして黒い穴を見上げる。
『ここは、始まりの傷だ』
ユノは剣を構えた。
「星喰いが最初に現れた場所か」
『いいや。星喰いは現れたのではない。開かれた』
「開かれた?」
『名前を奪われた少年の心に、空白が生まれた。その空白が空へ届き、星の名を欲した』
リゼの表情が険しくなる。
「ルナエルが、星喰いを呼んだというの?」
『彼の痛みが扉になった』
「でも、彼をそうしたのは周囲の大人たちでしょう」
『そうだ。罪は一人のものではない』
セレノの声は穏やかだった。
『だが、結果として彼は星を喰った』
黒い穴が脈打つ。
そのたびに、塔の石床が震えた。
カイが叫ぶ。
「じゃあ、どうすれば止まるんだよ!」
セレノはカイを見た。
『名を完成させる』
「完成させたら危ないんじゃないのか」
『危ない。だが名を知らずに倒せば、彼はただの忘却として散る。そして散った忘却は、また別の名に宿る』
リゼが低く言った。
「つまり、星喰いを終わらせるには、王の名を知る必要がある」
『そうだ』
ユノは剣を握りしめた。
「お前はそれを使って世界を終わらせようとしてる」
『世界を眠らせようとしている』
「同じだ」
『違う。痛みのない場所へ沈めるだけだ』
ミアが叫んだ。
「そんなの救いじゃない!」
セレノはミアを見た。
『痛み続けるよりは優しい』
「勝手に決めないで!」
ミアは歌真珠を握りしめていた。
「痛くても、名前を呼ばれたい人だっている! ミレイアだって、アステリアだって、ソラだって!」
カイも続けた。
「ネリオだって!」
セレノは何も言わなかった。
黒い穴がさらに揺れる。
そこから第四の響きが滲み出してくる。
音ではない。
まだ形になる前の圧力。
ユノの頭が痛む。
リゼがすぐに言う。
「ユノ、下がって!」
「でも」
「今は受け止める準備がない!」
セレノが静かに言った。
『準備など、いつまでも整わない』
黒い穴から、黒い光が伸びた。
それはユノの胸を狙っている。
星灯りの剣が勝手に現れ、銀の光でそれを弾いた。
しかし衝撃でユノは後ろへ飛ばされた。
「ユノ!」
ミアが駆け寄る。
カイも走る。
リゼがセレノへ向かって魔法を放つ。
銀の氷が塔の床を走り、セレノの足元を縛る。
だが彼は動じない。
『この塔は名を求めている。王子の名を知った者が来た以上、第四の響きは開く』
天球儀が回り始めた。
壊れているはずの金属の輪が、軋みながら動く。
空の黒い穴と重なるように、星図が浮かび上がる。
そして、そこに幼いルナエルの姿が現れた。
王冠を被る前の少年。
彼は塔の上で、空を見上げて泣いていた。
「僕の名前を返して」
その声が、塔全体に響く。
ユノは立ち上がった。
胸が痛い。
頭も痛い。
でも、目を逸らせなかった。
少年の記憶が流れ込む。
塔の上に連れてこられたルナエル。
儀式のあと、名を失いかけた少年。
空に向かって、自分の名を探す少年。
誰も呼んでくれない。
誰も覚えてくれない。
だから彼は星に願った。
――僕の名前を覚えて。
けれど星は答えなかった。
代わりに、黒い穴が開いた。
穴の奥から声がした。
――名が欲しいなら、喰らえ。
ルナエルは首を振った。
――違う。僕は、僕の名前が欲しいだけ。
――同じだ。
黒い穴は囁く。
――世界中の名前を集めれば、お前は空白ではなくなる。
その時、第四の響きが生まれた。
――ル。
ユノの胸の中で音が弾けた。
ル。
ナ。
エ。
ル。
ルナエル。
幼き名が、完全に繋がってしまった。
ユノの意識が黒い穴へ引きずられる。
「ユノ!」
リゼが叫ぶ。
ミアの歌真珠が鳴る。
カイがユノの腕を掴む。
けれど、ユノはもう塔の上にいなかった。
暗い空の中にいた。
目の前に、幼いルナエルがいる。
彼は泣いていた。
「君は僕を呼んだ」
ユノは息を整える。
「呼んだ。でも、まだ完全じゃない」
「僕はルナエル」
「そうだ」
「なら、僕は戻れる?」
その問いは、あまりにも幼かった。
ユノは答えに詰まる。
戻れる。
そう言いたい。
でも、彼はもう星喰いの王になった。
数えきれない名前を奪った。
その罪は消えない。
「分からない」
ユノは正直に言った。
ルナエルの顔が曇る。
「じゃあ、どうして呼んだの」
「止めるため」
「僕を?」
「ああ」
「助けるためじゃなくて?」
ユノは胸が痛んだ。
「助けたい気持ちもある。でも、まず止めなきゃいけない」
ルナエルは俯く。
「やっぱり、誰も僕を選ばない」
「違う」
「みんな王が必要だった。僕はいらなかった」
「違う!」
ユノは叫んだ。
「君はいらなくなんかなかった。君をいらないものにした人たちが間違ってた」
ルナエルが顔を上げる。
「でも、僕は星を喰べた」
「ああ」
「名前を奪った」
「ああ」
「じゃあ、僕はもう怪物だ」
ユノは言葉を探した。
怪物ではない、とは言えなかった。
したことは消えない。
でも、ただの怪物だとも思えなかった。
「君は、名前を奪われた子どもだった」
ユノは言った。
「でも、その痛みで誰かの名前を奪った。その罪は消えない」
ルナエルは涙を流した。
「じゃあ、僕はどうすればよかったの」
その問いに、ユノは答えられなかった。
過去の彼を救う方法は、もうない。
ただ、今の彼を止めることしかできない。
その時、黒い影がルナエルの背後に広がった。
巨大な王の影。
星喰いの王。
『情けをかけるな、鍵』
王の声が響く。
『この子はもう私だ』
ルナエルの身体が黒い影に包まれていく。
ユノは手を伸ばした。
「待て!」
『幼き名を知ったところで、王を止められるものか』
王の影が笑う。
『名は鎖だ。知れば知るほど、お前も縛られる』
ユノの身体に黒い糸が絡みつく。
ルナエルの記憶。
王の飢え。
星の名。
消えた人々の名。
すべてがユノの中へ流れ込もうとする。
器が満ちる。
星図盤の予言が響く。
名を集める者、やがて己の名を失う。
ユノは自分の名前を思い出そうとした。
ユノ。
ユノ。
でも遠い。
黒い糸が強くなる。
その時、歌が聞こえた。
ミレイアの歌。
続いて、ミアの声。
「ユノ!」
カイの声。
「ユノ!」
リゼの声。
「ユノ!」
塔の外から、現実の声が届いている。
ユノはその声を掴んだ。
「俺は……ユノ!」
星灯りの剣が手の中に現れる。
ユノは黒い糸を斬った。
ルナエルの姿が一瞬だけ見えた。
少年は小さく言った。
「忘れないで」
「忘れない」
「でも、止めて」
ユノは息を呑んだ。
ルナエルは泣きながら笑った。
「僕が、これ以上名前を喰べないように」
次の瞬間、闇が砕けた。
ユノは塔の頂へ戻っていた。
膝をつき、激しく息をしている。
リゼが彼を支えていた。
ミアは泣きながら歌真珠を握っている。
カイはユノの腕を離さない。
「戻った……?」
ユノが呟く。
ミアが怒鳴った。
「戻ったよ! 遅い!」
「ごめん」
「謝るのも遅い!」
カイも目に涙を浮かべていた。
「本当に消えたかと思った」
「消えてない」
ユノは答えた。
「ユノ、いる」
リゼはじっとユノを見た。
「第四の響きは?」
ユノは喉を押さえた。
「聞いた」
「繋がった?」
「幼き名は……繋がった」
リゼの表情が変わる。
「ルナエル」
その名をリゼが小さく言う。
塔が震えたが、崩れはしなかった。
「それは星喰いの王の完全な名ではない。王になる前の名だ」
「ええ」
リゼは頷く。
「でも重要な核になる」
セレノは少し離れた場所で立っていた。
彼は静かに拍手をした。
『素晴らしい。君は幼き名を得た』
ユノは剣を構える。
「お前のためじゃない」
『分かっている。けれど道は進んだ』
リゼが睨む。
「次はどこ」
『空の上』
セレノは黒い穴を見上げた。
『王が王となった記録は、地上にはない。星舟の墓場へ行け』
「星舟……?」
リゼが息を呑んだ。
「そんな場所、伝説だと思っていた」
『伝説は忘れられた記録だ』
セレノの姿が黒い羽根へ崩れ始める。
『次に会う時、君たちはもっと多くを知る。そしてもっと苦しむ』
「待て!」
ユノが踏み出す。
だがセレノは消えた。
黒い羽根だけが、塔の風に散る。
同時に、黒い穴が少しだけ縮んだ。
完全に消えたわけではない。
けれど、ルナエルの幼き名を呼んだことで、塔に残っていた傷は少し弱まったようだった。
天球儀の壊れた輪が、静かに止まる。
リゼが水晶板を取り出し、そこへ新しい文字が浮かんでいるのを確認した。
「第四の響き、塔にて戻る。幼き名はルナエル。されど王の名は未だ遠し。星舟の墓場へ向かえ」
ミアが疲れた声で言った。
「今度は空……?」
カイも呆然としている。
「海の底の次は森で、その次が空?」
ユノは空を見上げた。
黒い穴の向こうに、消えかけた星がひとつ見えた。
星舟の墓場。
どんな場所か分からない。
でも、次の道は示された。
ユノは星灯りの剣を手首へ戻した。
身体は重い。
心も重い。
けれど、ルナエルの最後の言葉が残っている。
――止めて。
ユノは拳を握った。
「止める」
小さく呟く。
リゼが隣で頷いた。
「ええ」
ミアも涙を拭う。
「でも、その前にちゃんと休む」
カイも強く言った。
「絶対休む」
ユノは苦笑した。
「ああ。休む」
塔の頂に、少しだけ光が差した。
黒い星の傷はまだ空に残っている。
けれど、その縁に小さな白い光が灯っていた。
名前を呼ばれた少年の、ほんの小さな光のように。
ユノたちは塔を下りる準備を始めた。
森の心臓へ戻り、ナギとソラに報告しなければならない。
そして次の旅へ。
星舟の墓場へ。
ユノは最後に、塔の上から空を見た。
「ルナエル」
声はとても小さかった。
「忘れない。でも、止める」
風が吹いた。
それは、返事のようにも聞こえた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星見の塔の頂で“黒い星”と対峙しました。
ユノは第四の響きに触れ、王子の幼き名――ルナエルを完全に知ります。
ルナエルは、名前を奪われた孤独な王子でした。
しかし、その痛みから星を喰い、他者の名前を奪う存在へ変わってしまいました。
かわいそうでも、止めなければならない。
ユノはその決意を改めて強くします。
次のページは『幼き名の残響』です。
塔を下りたユノたちは、ルナエルの名が森に与えた影響と、次なる目的地“星舟の墓場”への手がかりを整理します。




