星見の塔へ
星を見るために建てられた塔がありました。
けれど今、その塔は星を見上げる場所ではなく、星喰いの傷跡を抱えた場所になっています。
森の心臓で“名を捨てた王子”の記憶を見たユノたちは、次の手がかりを求めて星見の塔へ向かいます。
そこには、王子の幼き名を知る記録が眠っていました。
星の森エルディア編の大きな転換点となるページです。
森の夜明けは、音もなく訪れた。
空が明るくなるより先に、木々の葉が淡く光り始めた。
星の模様を宿した葉が、ひとつ、またひとつと目を覚ますように輝き、森の心臓の周囲をやわらかな銀色で満たしていく。
ユノは根元に背を預けたまま目を開けた。
最初に確かめたのは、自分の名前だった。
「ユノ」
声は掠れていたが、ちゃんと出た。
すぐ近くで、リゼが目を開ける。
「聞こえているわ」
その返事に、ユノは少し笑った。
「おはよう」
「おはよう」
リゼの声は、昨日より少し穏やかだった。
森の心臓が回復し始めたからかもしれない。
あるいは、昨日の記憶を一人で抱え込まずに済んだからかもしれない。
ミアは記憶灯を抱えたまま眠っていた。
カイは木剣を抱いて丸くなっている。
ナギはソラのそばで浅い眠りについていた。
ソラはまだ半透明だったが、昨日より輪郭がはっきりしていた。
ナギの手は、眠っている間も弟の袖を掴んでいる。
離したらまた消えてしまうと思っているのかもしれない。
ユノは静かにその姿を見つめた。
名前を呼び戻せた。
でも、完全に救えたわけではない。
それでも、昨日より今日は少しだけ良い。
その“小さな良い”を積み重ねるしかないのだと思った。
やがてミアが目を覚ました。
「……朝?」
「たぶん」
「森で“たぶん”は怖い」
ミアは起き上がり、歌真珠を確認した。
淡い青い光が残っている。
「よかった。消えてない」
カイも起きた。
目をこすりながら、まず自分の名を言う。
「カイ。ネリオ」
ユノも続けた。
「カイ。ネリオ」
ミアも。
「カイ。ネリオ」
リゼも静かに。
「カイ。ネリオ」
カイはほっとしたように息を吐いた。
ナギも目を覚まし、すぐにソラを呼んだ。
「ソラ」
「……うん」
「ソラ」
「いるよ」
「ソラ」
「姉ちゃん、朝からしつこい」
「今日から毎朝こうする」
「えぇ……」
ソラは困った顔をしたが、少し嬉しそうでもあった。
ナギはそんな弟の額に手を当てた。
「昨日より安定してる」
リゼが頷く。
「森の心臓が回復しているからね。ただ、まだ森から完全には離れられないと思う」
「町へ戻れないのか?」
ナギが聞く。
「今すぐ連れ出すと、名前と身体の繋がりが切れる可能性がある」
ソラは不安そうにナギを見る。
「僕、ここに残るの?」
「一人にはしない」
ナギはすぐに言った。
リゼが森の心臓を見上げる。
「星見の塔へ行く間、森の心臓の近くにいれば比較的安全よ。けれど誰かが残る必要がある」
ナギは迷わず言った。
「私が残る」
ユノは驚いてナギを見る。
「案内は?」
「塔への道は分かる。ここから北へ伸びる白い根を辿ればいい。危険な場所も教える」
「でもナギはソラを探すために……」
「見つけた」
ナギはソラの肩に手を置いた。
「今は、こいつを失わないことの方が大事だ」
ソラは小さく俯いた。
「ごめん、姉ちゃん」
「謝るな。戻ってきたなら、それでいい」
ナギの声は少し震えていた。
それでも、強かった。
ミアが言った。
「じゃあ、私たちだけで塔へ?」
リゼは考える。
「森の心臓が道を示してくれるなら、可能よ。ただし、森の声はまだ完全に消えたわけではない。合図名は継続しましょう」
ユノは頷いた。
「炭、灯、銀、木」
カイが少し胸を張る。
「木、覚えてる」
ミアが苦笑した。
「忘れたら困るよ」
ナギは自分の赤い紐を外し、ユノに渡した。
「持っていけ」
「いいのか?」
「森番の紐だ。塔の近くでは森の道が乱れる。これがあれば、森の心臓へ戻る道が分かる」
ユノはそれを受け取った。
「ありがとう、風」
ナギは少しだけ笑った。
「戻ったら本名で呼べ」
「ああ」
ソラが弱い声で言った。
「ユノさん」
ユノは彼を見る。
「何?」
「塔には気をつけて。僕、森に取り込まれてる時、時々見えたんだ。高い塔の上で、誰かが星を数えてる夢」
リゼが反応する。
「誰か?」
「小さい子。泣いてた。名前を呼んでほしそうだった」
ユノたちは顔を見合わせた。
王子の記憶だ。
ソラは続けた。
「でも、塔の上に黒い穴があった。空に穴が開いてるみたいな……そこから声がしてた」
ユノの胸元の金属筒が冷たく震えた。
王の名の響きが反応している。
リゼは表情を引き締めた。
「星見の塔には、第四の響きがある可能性が高いわ」
ミアが不安そうにユノを見る。
「またユノが危なくなるやつ?」
「たぶん」
ユノが答えると、ミアは頬を膨らませた。
「そこは嘘でも違うって言ってほしかった」
「嘘はよくないだろ」
「正直すぎるのも困る」
リゼがユノを見る。
「第四の響きに触れたら、すぐ封じる。絶対に頭の中で繋げないで」
「分かってる」
「三回確認するわ」
「分かってる」
「ユノ」
「……分かってる」
ミアが頷いた。
「よし」
準備を整え、ユノたちは森の心臓を出発した。
ナギとソラは根元に残る。
別れる時、ナギはユノたちを見回した。
「森が呼んでも返事をするな。塔が見えても走るな。白い根から外れるな」
「分かった」
「それと」
ナギは少し躊躇してから言った。
「ソラを呼んでくれて、ありがとう」
ユノは首を振った。
「まだ完全には戻ってない」
「それでも、昨日より戻ってる」
ソラも小さく笑った。
「ありがとう」
カイが少し照れたように言った。
「ソラ、消えるなよ」
「うん。カイも」
「俺は消えない」
「なら僕も」
二人は短く笑った。
ユノはそのやり取りを見て、胸が少し温かくなった。
同じくらいの年の少年たち。
片方は故郷を失い、片方は森に名を奪われかけた。
それでも笑える瞬間がある。
その瞬間を守りたいと思った。
白い根は、森の心臓から北へ伸びていた。
太く、淡く光る根。
それを辿れば道を失わない。
森は昨日より静かだったが、完全に安全ではなかった。
時々、木々の間から声が聞こえる。
――炭。
――灯。
――銀。
――木。
合図名を覚えたのか、それとも真似ようとしているのか。
ユノたちは返事をしなかった。
確認する時は必ず目を合わせ、短く言った。
「炭、いる」
「灯、いる」
「銀、いる」
「木、いる」
森の奥へ進むほど、木々の形が変わっていった。
葉の星模様は細くなり、代わりに枝が空へ向かって長く伸びている。まるで、空に手を伸ばす人々のようだった。
ミアが小さく言った。
「ここ、少し怖い」
カイが頷く。
「木が見てる感じがする」
リゼは枝を見上げる。
「星見の塔に近づくほど、森は空の記憶を持つようになる。ここにある木々は、昔、塔で読まれた星の記録を吸って育ったのかもしれない」
「星の記録で育つ木……」
ミアは少しだけ興味を示した。
「仕組みが気になるけど、調べてる余裕ないよね」
「今はないな」
ユノが答えると、ミアは残念そうに頷いた。
しばらく歩くと、白い根の道が二つに分かれていた。
右は明るい道。
左は暗い道。
どちらにも白い根が続いている。
ユノは眉をひそめた。
「風は、白い根を辿れって言ったよな」
「二本ある場合は聞いてない」
ミアが困った顔をした。
リゼは両方の根を見比べた。
「片方は偽物ね」
「分かるのか?」
「右の根には脈動がない」
リゼは右の明るい道を指す。
「光は強いけれど、生きた根の気配がない」
カイが左の暗い道を見る。
「じゃあ暗い方?」
「おそらく」
その時、右の道から声がした。
「こっちだよ」
幼い少年の声。
王子の声だった。
ユノの胸が震える。
「こっちに、僕の名前がある」
リゼが鋭く言った。
「聞かないで」
声は続ける。
「ユノなら、僕を助けてくれるでしょう?」
ユノは鈴を握った。
森はもう、王子の声まで使ってくる。
いや、これは森なのか。
それとも塔から漏れ出す記憶なのか。
「炭」
ミアが呼ぶ。
ユノは目を閉じた。
「いる」
カイも言った。
「右、行っちゃ駄目だ」
リゼは左の暗い道へ進む。
「銀が先に行く」
「危険だろ」
「魔法で根の流れを見ながら進む。全員、私の足跡だけを踏んで」
四人は左の道へ入った。
右の明るい道からは、しばらく王子の声が聞こえ続けた。
「こっちなのに」
「名前を知りたくないの?」
「僕を置いていくの?」
ユノは何度も立ち止まりそうになった。
けれど、そのたびにミアが呼んだ。
「炭」
カイが続けた。
「炭」
リゼも。
「ユノ、まだ聞く時ではない」
ユノは唇を噛み、歩き続けた。
やがて声は消えた。
暗い道の先で、森が開ける。
そこに、塔があった。
星見の塔。
森の北端に、石の塔がそびえている。
高い。
あまりにも高い。
木々の上へ突き抜け、曇った空へ届きそうだった。
塔は白い石でできていたが、上部は黒く焦げていた。
まるで空から落ちた闇に焼かれたように。
塔の頂には、大きな輪のような装置がある。
星を読むための天球儀だろう。
しかしその輪は半分砕け、黒い穴のような影が中央に残っていた。
ユノの胸元が強く震える。
王の名の欠片。
海涙石。
三つ目の響き。
すべてが塔に反応していた。
ミアが息を呑む。
「あそこ……空が変」
塔の上だけ、空が暗い。
雲ではない。
空そのものに穴が開いているような黒さ。
リゼは険しい顔で言った。
「星喰いが最初に触れた場所、という伝承は本当かもしれない」
カイは木剣を握る。
「入るのか?」
「入る」
ユノは答えた。
怖い。
でも、行くしかない。
塔の入口は、蔦に覆われていた。
蔦にも星の模様があるが、ところどころ黒く枯れている。
リゼが蔦に触れず、魔法でそっと払う。
石扉が現れた。
扉には文字が刻まれている。
リゼが読んだ。
「星を見る者よ、空を信じるな。名を見る者よ、名を疑うな」
ミアが顔をしかめる。
「難しい……」
リゼは説明した。
「空は欺くことがある。でも名前は、正しく呼ばれるなら道になる、という意味でしょうね」
ユノは扉に手を置いた。
冷たい。
すると扉の文字が光った。
――名を示せ。
ユノは一瞬迷った。
本名を言うべきか。
森の中では危険だ。
だが、塔は名を求めている。
リゼが言った。
「合図名で」
ユノは頷く。
「炭」
ミア。
「灯」
リゼ。
「銀」
カイ。
「木」
扉はしばらく沈黙した。
やがて、低い音を立てて開いた。
中から冷たい風が吹き出す。
星の匂いがした。
いや、星に匂いがあるはずはない。
けれどユノには、そう感じた。
石と夜と古い涙の匂い。
塔の内部は薄暗く、壁一面に星図が刻まれていた。
螺旋階段が上へ続いている。
階段の中央には、空洞。
下を覗くと、底が見えない。
ミアがすぐに後ずさる。
「高いところ嫌いになりそう」
「まだ上ってないぞ」
「だから嫌なんだよ」
カイは壁の星図を見ていた。
「これ、全部星?」
リゼが頷く。
「千年前の星図ね。今はもう消えた星も多い」
ユノは壁に触れないように星図を見る。
そこには、星の名前が刻まれていた。
無数の名前。
今はもう失われた星の名。
ユノの胸が重くなる。
星にも名前があった。
星喰いは、それすら喰らった。
階段を上り始めると、壁の星図が淡く光った。
そして声が聞こえた。
子どもの声。
「僕の名前を、知ってる?」
ユノは立ち止まりそうになる。
リゼがすぐに言う。
「答えないで」
声は壁から響く。
「誰も呼んでくれないんだ」
ミアが唇を噛む。
「聞いてるだけでつらい……」
声は続く。
「王になるなら、名前はいらないって言われた」
カイが小さく言う。
「ひどい」
「でも、答えないで」
リゼは強く言った。
「同情で返事をすると、記憶に引き込まれる」
ユノは階段を上った。
一段。
また一段。
声はずっとついてくる。
「君たちは名前があっていいな」
「呼んでくれる人がいていいな」
「僕にも、いたのかな」
ユノの胸が痛む。
けれど答えない。
まだ、正しく呼べる名を知らないから。
知らない名前を、同情だけで呼ぶことはできない。
階段の途中に、小さな部屋があった。
扉は開いている。
中には古い机と壊れた椅子。
机の上に、水晶板が置かれていた。
リゼが慎重に近づく。
「記録板……」
水晶板には、淡い光で文字が浮かんでいた。
リゼは読もうとして、息を呑んだ。
「これは、初代星詠みの記録」
「王子を守ろうとした魔女?」
ユノが聞くと、リゼは頷いた。
彼女は水晶板を読み上げた。
「王子ルナエルは、名を捨てる儀式を拒んだ。彼は王である前に、一人の子どもであった。されど神官たちは、その事実を罪とした」
空気が止まった。
ルナエル。
ユノの中で、三つの響きが激しく震えた。
ル。
ナ。
エ。
それは、王子の名の一部だった。
ルナエル。
ユノは膝をつきそうになる。
リゼが水晶板を閉じるように手をかざした。
「ユノ!」
ミアが歌真珠を鳴らす。
澄んだ音が塔の中に響いた。
カイが叫ぶ。
「ユノ!」
ユノは歯を食いしばった。
「俺は……ユノ……!」
頭の中で、名前が繋がった。
ルナエル。
これは完全な王の名ではない。
王子の幼き名。
それでも強い。
あまりにも強い。
塔の壁が震える。
子どもの声が、泣きながら言った。
「呼んでくれた」
リゼが青ざめる。
「まずい。塔が目覚める」
上階から、大きな音がした。
天球儀が動き始めたのだ。
塔全体が揺れる。
ミアが叫ぶ。
「崩れる!?」
「まだ崩れない。でも急いだ方がいい」
リゼは水晶板を布に包み、鞄へ入れた。
「この記録は必要になる」
ユノは立ち上がった。
まだ頭が揺れている。
ルナエル。
呼んではいけない。
今は心の奥へ沈める。
ミアが彼を睨んだ。
「ユノ、無理なら言って」
「無理じゃない」
「本当?」
「……きつい。でも行ける」
ミアは少しだけ考え、頷いた。
「じゃあ手を貸す」
彼女はユノの袖を掴んだ。
カイも反対側についた。
「俺も」
リゼは前を歩く。
「上へ。第四の響きは塔の頂にあるはず」
ユノたちは螺旋階段を上り続けた。
塔は目覚めている。
壁の星図が次々と光り、消えた星の名前が囁かれる。
星の名。
人の名。
王子の名。
そのすべてが混ざり合い、塔の頂へ向かって流れている。
そして遠く、空の穴から、低い声がした。
『ルナエル』
それはセレノの声だった。
リゼの顔が険しくなる。
『君たちはまた、痛みを掘り起こす』
ユノは上を睨む。
「セレノ……」
『名前を知れば救えると思っているのか』
リゼが冷たく言った。
「少なくとも、忘れるよりはましよ」
『名を呼ばれることが、苦しみになる者もいる』
「だからこそ、正しく呼ぶ必要がある」
セレノの声は少し笑った。
『では、塔の頂で見せてもらおう』
声は消えた。
代わりに、上から強い風が吹き下ろす。
星見の塔の頂が近い。
ユノは息を切らしながら階段を上った。
怖い。
王子の名を知ってしまった。
ルナエル。
その名前は、胸の中で悲しく光っている。
星喰いの王になる前の、子どもの名。
それを知ったことで、敵の輪郭がまた変わった。
ただの怪物ではない。
ただの災厄でもない。
名を奪われ、空の器にされ、そこへ忘却を流し込まれた少年。
でも、だからといって星を喰っていい理由にはならない。
ユノは自分に言い聞かせた。
知ることと許すことは違う。
リゼの言葉を思い出す。
塔の頂への扉が見えた。
円形の石扉。
その向こうから、黒い風が漏れている。
リゼが扉の前で立ち止まる。
「ここから先、第四の響きに触れる」
ミアがユノの袖を強く握る。
「絶対戻ってきて」
「戻る」
カイも言った。
「俺、呼ぶから」
「ああ」
リゼがユノを見る。
「あなたはユノ」
「ユノ」
「故郷は?」
「ルグナ」
「仲間は?」
「ミア、リゼ、カイ。森の心臓にはナギとソラ」
「進む理由は?」
「忘れたくないから。奪われた名前を、取り戻したいから」
リゼは頷いた。
「行きましょう」
扉が開く。
塔の頂には、壊れた天球儀があった。
そして、その中心に黒い穴が浮かんでいた。
星喰いが最初に触れた傷。
その穴の奥で、第四の響きが待っている。
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
銀の刃が、黒い空を照らした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノたちが星見の塔へ向かいました。
ナギとソラは森の心臓に残り、ユノ、ミア、リゼ、カイの四人で塔へ進みます。
そして、塔の途中で初代星詠みの記録から、王子の幼き名が明かされました。
ルナエル。
これは星喰いの王になる前の、ひとりの少年の名前です。
けれど名前を知ったことで、塔は目覚め、第四の響きが待つ頂へ向かうことになります。
次のページは『塔の上の黒い星』です。
ユノたちは星見の塔の頂で、星喰いが最初に空へ触れた傷と対峙します。




