森の心臓
森にも、心臓がありました。
星の記憶を吸い上げ、名前を記録し、迷った者へ道を示す場所。
けれど今、その心臓は黒く蝕まれています。
ユノたちは、ナギの弟ソラの名を追って森の最奥へ辿り着きます。
そこに待っていたのは、名前を奪われかけた少年と、星喰いの王の三つ目の響きでした。
霧が晴れた先に、巨大な木が立っていた。
それは、森というものの中心にあるには、あまりにも静かだった。
幹は塔のように太く、根は大地を抱く巨大な腕のように広がっている。枝は空へ伸び、葉は星のように白く光っていた。
けれど、その美しさの半分は黒く染まっていた。
黒い羽根のような影が幹を這い、根に絡み、星の光を吸い取っている。
森の心臓。
ユノは、そう直感した。
ナギが震える声で言った。
「ここが……森の心臓……」
リゼが険しい顔で頷く。
「星の木の母樹。エルディア全体の記憶を束ねている木よ」
ミアは記憶灯を抱え直した。
「でも、苦しそう……」
カイも木剣を握りしめる。
「ソラは?」
ナギは答えず、木の根元へ走り出しそうになった。
ユノがすぐに腕を掴む。
「風!」
ナギは歯を食いしばった。
「分かってる!」
だが、その目は木の根元に釘付けだった。
巨大な根の間に、少年が座っていた。
年はカイより少し上くらい。
茶色の髪。
森番の革服。
膝の上には壊れた弓。
その身体は半分ほど透けていた。
まるで、森に溶けかけているようだった。
「ソラ……」
ナギが呟く。
少年は顔を上げた。
けれど、その目は虚ろだった。
「……ナギ、姉?」
ナギの目に涙が浮かぶ。
「ソラ!」
リゼが鋭く言った。
「近づきすぎないで! 彼は森の心臓に取り込まれかけている!」
ナギは足を止めた。
ソラはゆっくり首を傾げる。
「ナギ……姉……? 僕は……誰だっけ……」
その言葉に、ナギの顔が歪んだ。
「ソラ! あんたはソラ! 私の弟!」
森の心臓が震えた。
黒い影が根を伝ってソラの足に絡みつく。
ソラの身体がさらに薄くなる。
リゼが叫ぶ。
「本名を強く呼びすぎると、森の汚染も反応する!」
「じゃあどうしろっていうんだ!」
ナギの声は涙で震えていた。
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
銀色の刃が森の暗がりを照らす。
「汚染を斬る」
リゼがユノの手首を掴む。
「待って。森の心臓は記憶の塊よ。不用意に斬れば、エルディア中の名前があなたへ流れ込む」
「でも放っておけない」
「だから、中心だけを探す」
ミアが歌真珠を握った。
「私の歌真珠で、汚染の流れを見えやすくできない?」
リゼが少し考える。
「できるかもしれない」
ナギが振り返る。
「早くしてくれ!」
ミアは歌真珠を両手で包んだ。
「ミレイア、力を貸して」
真珠が淡い青に光る。
人魚の歌が森の中に広がった。
海の底の歌。
名前を守る歌。
森のざわめきが、一瞬だけ静まる。
すると、黒い影の流れが見えた。
森の心臓の幹に刺さる、黒い剣の欠片。
名を奪う剣に似た、黒い刃の破片だった。
リゼが息を呑む。
「セレノが刺したのね……」
ユノは剣を構えた。
「あれを斬ればいいんだな」
「斬るというより、抜く。その周りの忘却だけを断って」
「難しいこと言うな」
「あなたならできる」
リゼの声は静かだった。
ユノは一瞬、彼女を見る。
その赤い瞳は揺れていない。
信じてくれている。
だから、やるしかない。
ユノは森の心臓へ近づいた。
すると、木の幹から声が溢れた。
――ユノ。
――炭。
――鍵。
――名を呼ぶ者。
――やがて名を失う者。
星図盤の予言が、森の声になって響く。
ユノの足が重くなる。
ミアが叫んだ。
「炭!」
カイも。
「炭、いる!」
リゼが続ける。
「ユノ、あなたはユノ!」
ナギも、苦しそうに言った。
「炭、止まるな!」
ユノは踏み出した。
「俺は、ユノ」
黒い刃の欠片に星灯りの剣を近づける。
刃と刃が触れた瞬間、記憶が流れ込んだ。
森に預けられた名前。
森番たちの声。
迷子の子ども。
薬草を摘む母親。
祈る魔女。
星を見上げる王子。
そして、ソラ。
少年の願いが流れ込む。
――姉ちゃんの役に立ちたい。
――森番として認められたい。
――置いていかれたくない。
――僕だって、守れるって言いたい。
ユノは歯を食いしばった。
ソラは、ただ呼ばれたから森に入ったのではない。
心の奥に願いがあった。
姉を助けたいという願い。
それを森に掴まれた。
「ソラ!」
ナギが叫びかけて、口を押さえた。
リゼが言う。
「合図では戻せない。彼の本名を呼ぶ必要がある。でも、汚染に奪われないように、全員で支えて」
ナギは涙をこらえて頷いた。
ユノは黒い刃の欠片を星灯りの剣で押さえた。
「今だ!」
ナギが叫んだ。
「ソラ! あんたはソラ! 森番ナギの弟!」
ミアも続けた。
「ソラ! 帰りを待っている人がいる!」
カイも叫ぶ。
「ソラ! まだ消えるな!」
リゼが強く言った。
「ソラ。あなたの名は、森に渡すものではない」
ユノは最後に、剣を振り抜きながら叫んだ。
「ソラ!」
黒い刃の欠片が砕けた。
森の心臓が大きく震える。
黒い影が幹から剥がれ、根から離れ、空へ舞い上がった。
ソラの身体が光に包まれる。
「姉……ちゃん……」
ナギが駆け寄った。
今度はリゼも止めなかった。
ナギはソラを抱きしめる。
完全な肉体ではない。
まだ半透明だ。
けれど、確かにそこにいた。
「馬鹿……!」
ナギは泣きながら言った。
「勝手に森へ行くなって、あれほど……!」
ソラは弱々しく笑った。
「ごめん……」
「謝るくらいなら帰ってこい!」
「うん……帰る……」
その言葉に、ナギは声を殺して泣いた。
カイも目をこすっていた。
ミアは歌真珠を握りしめ、ほっと息を吐く。
しかし、ユノはまだ動けなかった。
黒い刃の欠片を砕いた瞬間、森の心臓の奥から別の記憶が開いたからだ。
星を見上げる少年。
白い衣。
金色の髪。
まだ王ではない者。
王子。
彼は森の中で泣いていた。
誰かに名前を呼ばれている。
――ルナ……
ユノの頭の中で、二つの響きが震える。
ル。
ナ。
そして、三つ目の響きが森の根から浮かび上がる。
――エ。
ユノの意識が沈みかけた。
ル。
ナ。
エ。
三つの音が繋がろうとする。
リゼが叫ぶ。
「ユノ!」
ユノは膝をついた。
自分の名前が遠くなる。
森の心臓が、王子の記憶を見せる。
少年は言う。
――僕の名前を、誰も正しく呼んでくれない。
誰かが答える。
――王になる者に、個の名はいらない。
少年は泣いている。
――でも、僕は僕でいたい。
ユノは胸を押さえた。
星喰いの王。
その始まりは、名を奪われた王子だったのか。
ユノの口から、三つ目の響きが漏れそうになる。
「エ……」
リゼがユノの口を手で押さえた。
「言わないで!」
銀の輪が強く光る。
ミアの歌真珠も鳴る。
カイが叫ぶ。
「ユノ! ユノ!」
ナギも涙声で叫んだ。
「ユノ、戻れ!」
ソラまでも、弱い声で言った。
「ユノ……さん……」
名前が届く。
ユノは必死にそれを掴んだ。
「俺は……ユノ……!」
森の記憶が弾けた。
ユノは現実へ戻った。
星灯りの剣は手首に戻り、森の心臓は黒い汚染を失って淡く輝いている。
リゼがユノを支えていた。
「大丈夫?」
「……たぶん」
「たぶんは禁止」
ミアが涙目で言う。
「本当に心臓止まるかと思った」
「悪い」
カイが怒った顔で言った。
「謝るくらいなら、もっと早く戻ってこいよ」
「ああ」
ナギはソラを抱えたまま、こちらを見ていた。
「助かった。ソラも……森も」
ソラはまだ完全には戻っていない。
だが、彼の輪郭はさっきよりはっきりしていた。
リゼが言った。
「森の心臓が回復すれば、彼の身体も安定するはず。でも、しばらくは名前を呼び続ける必要がある」
ナギは頷いた。
「呼ぶ。何度でも」
ソラは小さく笑った。
「うるさそう」
「うるさくするに決まってる」
そのやり取りに、ミアが少し笑った。
森の心臓の幹に、新しい文字が浮かび上がった。
リゼが読む。
「第三の響き、根より戻る。次なる道は、古き塔へ。空に最初の名を問え」
「古き塔?」
ユノが聞く。
リゼは考え込んだ。
「おそらく、星見の塔。魔女たちが最初に星を読んだ塔が、エルディアの北にあるはず」
ユノは胸元に手を当てた。
三つ目の響き。
“エ”。
これで三つ。
ル。
ナ。
エ。
声に出して繋げてはいけない。
それでも、音は心の奥で重なろうとしている。
リゼはユノを見た。
「今すぐ先へ進むのは危険よ。ユノもソラも休ませる必要がある」
ナギも頷いた。
「森の心臓のそばなら、今は安全だ。ここで休む」
ユノは逆らわなかった。
正直、立っているのもつらかった。
森の心臓は静かに光っている。
さっきまでの禍々しさは薄れ、木々の星の光も穏やかになっていた。
ソラの名が戻ったことで、森も少しだけ息を吹き返したのかもしれない。
ユノは木の根元に座り、目を閉じた。
すぐにリゼの声がした。
「ユノ」
「いる」
ミア。
「ユノ」
「いる」
カイ。
「ユノ」
「いる」
ナギ。
「ユノ」
「いる」
そしてソラ。
「ユノ」
ユノは少し笑った。
「いるよ」
森の心臓の光が、彼らを静かに包んでいた。
名前を奪う森ではなく、名前を守る森として。
ほんの少しだけ、エルディアは本来の姿を取り戻していた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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ナギの弟ソラは、森の心臓に取り込まれかけていました。
けれどユノたちが名前を呼び、黒い刃の欠片を砕いたことで、ソラの名は戻り始めます。
そしてユノは、星喰いの王の三つ目の響きに触れました。
“エ”。
さらに、星喰いの王がかつて“名を奪われた王子”だったことも示されます。
次のページは『名を捨てた王子』です。
森の心臓に残された記憶を通して、星喰いの王の過去へ近づいていきます。




