星の森エルディア
森は、ただ木が集まった場所ではありませんでした。
そこには声がありました。
記憶がありました。
そして、人の名前を覚える力がありました。
ユノたちは森番ナギに導かれ、星の森エルディアへ足を踏み入れます。
姿が見えない声には返事をしない。
本名をむやみに呼ばない。
道を外れない。
そう分かっていても、森は一番弱い記憶の奥から声を真似てきます。
ここから、名前を奪う森との戦いが始まります。
星の森エルディアは、昼の光を拒むように薄暗かった。
石の鳥居を越えた瞬間、空気が変わった。
潮鳴りの町シェルカから吹いていた海風は消え、代わりに湿った土と古い葉の匂いがする。
木々は高く、幹は太く、空を覆う枝葉の隙間から白い光がぽつぽつと落ちていた。
その光は太陽ではなかった。
葉の一枚一枚に、小さな星のような斑点がある。
風が吹くと、それらがきらきらと光り、森全体が夜空の欠片を抱いているように見えた。
綺麗だった。
けれど、誰もそれを素直に綺麗とは言えなかった。
森の奥から、声が聞こえていたからだ。
――ユノ。
遠くで、父の声が呼ぶ。
――ユノ。
ユノは鈴を握りしめた。
ちりん、と鳴らしたい衝動をこらえる。
さっき鳥居の前で一度鳴らしたことで、声は薄れた。
だが完全には消えていない。
森は、もうユノの名を覚えている。
「炭」
リゼが小さく呼んだ。
本名ではなく、森の中の合図名。
ユノは息を整えて答える。
「いる」
ミアもすぐに続けた。
「灯、いる」
カイが少し遅れて言う。
「木、いる」
ナギは周囲を警戒しながら短く言った。
「風、いる」
最後にリゼ。
「銀、いる」
五つの合図名が、森の入口に落ちた。
それでも森は静かにこちらを見ているようだった。
ナギが先頭を歩く。
彼女の足取りは迷いがない。
地面には道らしい道はない。苔むした根と落ち葉が重なり、どこも同じように見える。
だがナギは、木の幹についた小さな傷や、石に刻まれた印を見つけながら進んでいた。
「足元だけを見るな」
ナギが言った。
「森では下ばかり見ていると、上から呼ばれる」
ミアがぎくりとして顔を上げた。
「上から?」
「枝の上に声が残ることがある。昔、そこで誰かが名前を呼んだ声だ」
カイが不安そうに周囲を見る。
「声って、そんなに残るのか」
「エルディアでは残る」
ナギは淡々と答えた。
「嬉しい声も、悲しい声も、嘘も、本当も」
リゼが木々を見上げる。
「星の木は、人の声を星へ記録する。けれど今は、その記録が歪められている」
ユノは右手首に触れた。
銀の輪。
星灯りの剣の模様。
その上に赤い迷い止めの紐。
アステラで得た星図片は、懐の中で淡く光っている。
しかし、その光は安定しなかった。
森の中では、方角も距離も曖昧になるのかもしれない。
「風」
ユノはナギの合図名を呼んだ。
「この道で合ってるのか」
「今のところは」
「今のところ?」
「森は道を変える」
ミアが小さく呻いた。
「もう何でもありだね……」
ナギは少しだけ振り返る。
「怖いなら戻れ」
ミアはすぐに首を振った。
「戻らない」
「なら歩け」
「歩くよ」
そのやり取りに、カイが少し笑った。
けれど次の瞬間、森の奥から声がした。
――カイ。
カイの笑顔が消えた。
声は母親のようだった。
柔らかく、優しく、寝る前に歌ってくれた人の声。
カイの足が止まる。
ユノはすぐに言った。
「木」
カイは返事をしない。
森の声がまた呼ぶ。
――カイ、おいで。
カイの目が揺れる。
「母さん……?」
ナギが鋭く言った。
「返事をするな!」
カイははっとする。
しかし足が一歩、道を外れかけた。
ミアが駆け寄り、彼の袖を掴む。
「木!」
リゼも言う。
「木、鈴を」
カイは震える手で鈴を掴んだ。
ちりん。
小さな音が鳴る。
母親の声は、ふっと消えた。
カイは膝から崩れそうになった。
ユノが支える。
「大丈夫か」
「……今の、すごく似てた」
「分かる」
ユノも父の声を聞いた。
分かっていても、返事をしたくなる。
森は記憶の奥を正確に突いてくる。
ナギは厳しい顔で言った。
「これが森の声だ。最初は優しい。次に弱いところを掴む。最後は名前を抜く」
カイは青ざめた顔で頷いた。
「分かった」
「本当に分かってるか?」
「分かった……と思う」
ナギは少しだけ表情を緩めた。
「思う、くらいでいい。分かったつもりになる方が危ない」
再び歩き始める。
森はどんどん深くなった。
木々の根が地面を這い、時々足首に絡みつくように伸びている。
花は美しいが、どれも妙に大きく、中心に目のような模様がある。
ユノは道の脇に、白く光る花を見つけた。
その花から、小さな声が聞こえた。
――ミレイア。
ユノは息を呑んだ。
アステラで呼び戻した人魚の名。
森が、もうその名まで知っている。
ユノは鈴を握った。
しかし、その声は誘うというより、ただ記録しているようにも聞こえた。
リゼが花を見て言う。
「星花ね」
「星花?」
「通った者の名を一時的に記録する花。昔は迷子を探すために使われていた」
「今は?」
「森が歪んでいるなら、罠にもなる」
ミアが花から距離を取った。
「綺麗なものほど信用できない旅になってきた」
「最初からそうだった気もする」
ユノが言うと、ミアはため息をついた。
しばらく進むと、小川に出た。
水は澄んでいて、底に白い石が見える。
ナギは立ち止まり、しゃがんで水面を見た。
「ここで休む」
ミアがほっとする。
「やっと……」
「ただし、水は飲むな」
「えっ」
ナギは小川を指差した。
「この水は記憶を映す。飲むと、昔の声が腹の中から聞こえる」
カイが本気で嫌そうな顔をした。
「絶対飲まない」
ミアは水筒を取り出した。
「持ってきてよかった……」
ユノたちは小川のそばに座った。
短い休憩。
だが誰も完全には気を抜けなかった。
森の音が、常に周囲を包んでいる。
葉擦れ。
鳥の声。
遠くの獣の足音。
そして時々、誰かの名前。
ナギは地図を広げた。
しかし、地図はところどころ白く滲んでいた。
「森が地図を拒んでる」
彼女は舌打ちした。
リゼが星図片を取り出す。
その光も揺れている。
「星図片も安定しない」
ユノは眉を寄せる。
「じゃあどうやって進む?」
ナギは小川の上流を指した。
「星の木を探す」
「それが目的地なのか?」
「エルディアの中心へ行くには、星の木に道を聞くしかない」
カイが不安そうに言う。
「名前を真似る森に、道を聞くのか?」
「森そのものは敵じゃない」
ナギは強く言った。
「歪んでいるだけだ。本来の星の木なら、道を示してくれる」
リゼも頷く。
「星の木は記録者。名前を奪う者ではない。問題は、その記録が何かに汚染されていること」
「セレノか?」
ユノが聞く。
「可能性はあるわ」
その名を口にした瞬間、森がざわめいた。
葉が揺れる。
枝が軋む。
遠くで、誰かが笑った。
――セレノ。
森がその名を返した。
リゼの表情が硬くなる。
ユノはすぐに言った。
「銀」
「いるわ」
「大丈夫か」
「ええ」
リゼは答えたが、手首の銀の輪は少し冷たい。
セレノの名は、彼女にとってまだ傷だ。
森はそれを見逃さない。
ナギが警告するように言う。
「その名は、森の中であまり呼ぶな」
「そうする」
ユノは頷いた。
休憩を終えて進もうとした時、小川の水面に何かが映った。
ユノは足を止める。
水面に、父の顔が映っていた。
違う。
ユノ自身の顔ではない。
父だ。
水面の中の父は、静かにユノを見上げている。
――ユノ。
声は水の中から聞こえた。
ユノは動けなかった。
父がいる。
今度は声だけではない。
顔もある。
アステラで預けた記憶よりも、もっとはっきり。
父は言った。
――疲れただろう。
――もう十分だ。
――こっちへ来い。
水面に手を伸ばしたくなる。
ナギの声が遠くで聞こえた。
「見るな!」
ミアが叫ぶ。
「炭!」
リゼがユノの腕を掴む。
「炭、戻って!」
ユノは歯を食いしばった。
これは父ではない。
森が映している。
分かっている。
それでも、父の顔だった。
父の声だった。
――ユノ。
手が水面へ伸びる。
その瞬間、歌真珠が鳴った。
澄んだ音。
ミアが握っている歌真珠から、ミレイアの歌が響いた。
海の底の歌。
名前を守る歌。
水面の父の顔が揺れる。
ユノははっとした。
「俺は……」
リゼが強く言う。
「炭!」
「いる!」
ユノは叫び、鈴を鳴らした。
ちりん。
水面の父の顔は砕けた。
ただの水に戻る。
ユノは荒く息をした。
ミアが歌真珠を胸に押し当てている。
「よかった……」
「助かった」
ユノは本心から言った。
「ありがとう、灯」
ミアは少し泣きそうな顔で笑った。
「どういたしまして、炭」
ナギは厳しい顔で小川を見た。
「この辺り、もう歪みが強い。普通なら入口近くでここまで見せてこない」
リゼも周囲を見回す。
「森の中心にある何かが、外縁まで影響を広げている」
カイが不安そうにする。
「ソラは……こんなところを一人で?」
ナギの顔が陰る。
「だから急ぐ」
小川沿いに進むことになった。
ナギによれば、星の木は水の近くに根を張ることが多いという。
森はさらに濃くなっていく。
葉の星模様が強く光り始め、昼なのに夜空の下を歩いているようだった。
やがて、ユノたちは一本の大きな木に辿り着いた。
その木は他の木とは違っていた。
幹は白銀色で、表面に無数の文字のような模様が走っている。枝には葉がほとんどなく、その代わり小さな光の粒が実のようについていた。
星の木。
ユノは一目でそう思った。
木の周囲だけ、空気が静かだった。
森の声も少し遠い。
ナギは木の前で膝をついた。
「星の木……まだ生きてる」
リゼが近づき、幹に触れない距離で止まる。
「でも傷ついている」
確かに、幹の一部が黒く染まっていた。
黒い羽根のような模様。
ユノの胸がざわつく。
「セレノの影響か」
森がざわめく。
名前に反応したのだ。
ナギが睨む。
「その名を呼ぶなと言った」
「悪い」
星の木の光が揺れた。
そして、木の幹に文字が浮かび上がる。
リゼが読み上げた。
「名を問う者よ、名を示せ。ただし、森に真名を渡すな」
ミアが眉を寄せる。
「どういうこと?」
ナギが言った。
「合図名を使う」
ユノたちは星の木の前に立った。
まずナギが言う。
「風」
木の光が揺れる。
次にユノ。
「炭」
ミア。
「灯」
リゼ。
「銀」
カイ。
「木」
星の木は五つの合図名を受け取った。
そして、幹に新たな文字を浮かべた。
――求める名を示せ。
ナギの顔が変わる。
彼女は一歩前へ出た。
「ソラ」
その名を口にした瞬間、森全体が震えた。
葉の星が一斉に明滅する。
遠くから、声が返ってきた。
――ソラ。
――ソラ。
――ソラ。
ナギの身体が強張る。
星の木の幹に、光の線が浮かんだ。
地図のような線。
森の奥へ伸びている。
しかし、その途中に黒い染みがある。
リゼが表情を険しくした。
「ソラの名は、まだ完全には消えていない」
ナギは息を呑む。
「本当か」
「でも、黒い汚染に絡まれている。急がなければ危ない」
ナギは拳を握りしめた。
ユノは星の木を見た。
「もうひとつ聞けるか?」
リゼが制止しようとする。
「炭、慎重に」
「分かってる」
ユノは星の木へ向かって言った。
「星喰いの王が、まだ王じゃなかった頃の記憶。どこにある」
星の木は沈黙した。
風が止まる。
森の声も止まる。
やがて、幹に文字が浮かんだ。
――森の心臓。
――最初の星の根。
――名を捨てた王子が眠る場所。
ユノは息を呑んだ。
「王子……?」
リゼも目を見開いた。
「星喰いの王は、王子だった……?」
星の木の文字はさらに続いた。
――第三の響きは、根に沈む。
――聞く者は、己の幼き名を守れ。
ユノは眉をひそめた。
「幼き名?」
リゼは考え込む。
「子どもの頃に呼ばれていた名、あるいは本来の名の核……」
その時、星の木の黒い染みが急に広がった。
幹から黒い羽根が生える。
ナギが叫ぶ。
「離れろ!」
ユノたちは飛び退いた。
星の木が苦しむように軋む。
その幹から、セレノの声が響いた。
『森へ来たか』
リゼの顔が強張る。
ユノは星灯りの剣を呼び出す。
「お前……!」
『急ぐといい。ソラの名は、森の奥でほどけ始めている』
ナギが叫んだ。
「ソラに何をした!」
『私は何も。森が彼の願いを聞いただけだ』
「願い?」
『姉を助けたい。役に立ちたい。置いていかれたくない。幼い願いは、森にとって甘い実だ』
ナギの顔から血の気が引いた。
セレノの声は続ける。
『星の森は、名を記録する場所。だが今は、名を求める者の願いを喰らっている』
「星喰いのせいか」
リゼが問う。
『星喰いだけではない。人の願いもまた、森を歪める』
ユノは剣を握りしめる。
「姿を見せろ」
『まだだ。森の心臓で待っている』
黒い羽根が舞う。
『鍵よ。第三の響きを聞けば、君の名はさらに薄くなる。それでも来るか』
「行く」
『だろうね』
セレノの声が消えた。
黒い染みは星の木に残ったままだった。
木は弱々しく光っている。
リゼが言った。
「この木を浄化しないと、道が保てない」
「どうする?」
ユノが聞く。
「星灯りの剣で汚染だけを斬る。でも、木の記憶まで斬らないように」
「難しいな」
「難しいわ」
ナギが星の木へ手を当てようとする。
リゼが止めた。
「触らないで」
「森番の木だ」
「汚染が移る」
ナギは悔しそうに手を下ろした。
ユノは星灯りの剣を構える。
黒い染みを見る。
怒りで振るえば、木ごと傷つける。
名前を呼ぶために使う。
忘却を斬るために。
ユノは深く息を吸った。
「炭、いる」
ミアがすぐに言う。
「灯、いる」
リゼも。
「銀、いる」
カイ。
「木、いる」
ナギ。
「風、いる」
五つの声を背中に受けて、ユノは剣を振った。
銀の刃が黒い染みを裂く。
瞬間、記憶が流れ込む。
森番たちの声。
星の木に名前を預けた人々。
迷子を探す母親。
帰らぬ父を呼ぶ子ども。
ソラの声。
――姉ちゃん。
ナギが息を呑む。
ユノは膝をつきそうになる。
だが、歌真珠が鳴った。
ミアの歌。
ミレイアの歌。
リゼの声。
カイの声。
ナギの声。
「炭!」
「炭!」
「炭!」
ユノは踏みとどまった。
「俺は、炭……いや、ユノ!」
黒い染みが砕けた。
星の木が強く光る。
幹に浮かんだ線が、はっきりと森の奥へ伸びた。
ソラの名がある場所。
森の心臓へ続く道。
ナギは震える声で言った。
「ソラ……まだいるんだな」
「いる」
ユノは息を切らしながら答えた。
「声が聞こえた」
ナギは目を閉じた。
泣きそうな顔だった。
でも泣かなかった。
「行こう」
彼女は立ち上がった。
「森の心臓へ」
リゼは星の木を見上げた。
「そこに第三の響きもある」
ユノは剣を手首へ戻した。
頭の奥で、王の名の二つの響きが揺れている。
その先に、三つ目が待っている。
そして、ソラの名も。
星の森エルディアは、ただ美しい森ではなかった。
名前を覚え、願いを映し、弱い記憶を呼ぶ森。
その奥で、何かが歪んでいる。
ユノたちは星の木が示した光の道へ足を踏み出した。
森の声はまた囁き始める。
けれど、誰も返事をしない。
五つの合図名だけが、彼らを繋いでいた。
炭。
灯。
銀。
木。
風。
そして、その奥にある本当の名前を守るために、彼らは森の心臓へ向かった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星の森エルディアの恐ろしさが描かれました。
森は人の名前を覚え、声を真似します。
優しい声で呼びかけ、弱い記憶を揺さぶり、返事をした者を奥へ引きずり込む。
ユノは父の声に、カイは母の声に揺さぶられました。
そして星の木を通して、ナギの弟ソラの名がまだ森の奥に残っていることが分かります。
さらに、星喰いの王が“名を捨てた王子”だった可能性も示されました。
次のページは『返事をしてはいけない声』です。
森の奥へ進むユノたちは、それぞれ一番返事をしたくなる声に襲われることになります。




