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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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森番ナギ

森には、森を守る者がいます。


 道を知り、獣を知り、風の匂いを読み、入ってはいけない場所を知る者。


 潮鳴りの町シェルカで出会った案内人ナギは、星の森エルディアを守る“森番”の一族でした。


 けれど彼女は、森に弟ソラを奪われています。


 このページでは、ナギの過去と、エルディアへ入るための掟が明かされます。

朝のシェルカは、潮の匂いと焼き魚の匂いで始まった。


 窓の外では、海鳥が鳴いている。

 港では船乗りたちが網を直し、魚屋が声を張り上げ、子どもたちが波止場の端を走っていた。


 ユノは宿の窓を開け、潮風を吸い込んだ。


 地上の朝。


 アステラの青い沈黙とは違う、騒がしくて温かい朝だった。


「ユノ」


 背後からカイの声がした。


 振り返ると、カイは木剣を腰に差そうとして失敗していた。


「これ、どうやったら邪魔にならないんだ」


「本物の剣じゃないんだから、背中に括ったらどうだ?」


「それだと抜けない」


「抜く必要あるか?」


「あるかもしれないだろ」


 カイは真剣だった。


 ユノは少し笑いながら紐を貸し、木剣を背負えるように結んでやった。


「これでどうだ」


 カイは何度か動いて確かめた。


「悪くない」


「偉そうだな」


「森に行くんだから、準備は大事だ」


 カイの声には緊張が混ざっていた。


 昨日、森で消えた少年ソラの話を聞いたからだろう。


 エルディアは、ただの森ではない。


 名前を真似る森。

 呼ばれて返事をした者が消える森。

 星喰いの王がまだ王ではなかった頃の記憶が眠る森。


 ユノ自身も、胸の奥が落ち着かなかった。


 星図盤の予言も、まだ重く残っている。


 名を集める者、やがて己の名を失う。


 その言葉を思い出すたび、手首の星灯りの剣の模様が冷たくなる気がした。


 階下へ降りると、ミアとリゼはすでに食堂にいた。


 ミアは歌真珠を紐で結び、首から下げている。ルグナの記憶灯は布で包まれ、鞄の中で柔らかく光っていた。


 リゼは海涙石の容器と王の名の欠片を別々に確認している。


 その手つきは慎重だった。


「おはよう」


 ユノが声をかけると、ミアが振り返った。


「おはよう。よく眠れた?」


「少し」


「少しでも寝たなら合格」


 リゼはユノを見る。


「夢は?」


「見なかったと思う」


「思う?」


「覚えてない」


「なら、悪い夢ではなかったのでしょう」


 その言い方が少し優しくて、ユノは頷いた。


 朝食は、焼いたパンと魚のスープだった。


 カイは黙々と食べた。


 ミアも、昨日より少し元気そうだった。


 リゼはゆっくり匙を動かしている。


 ユノも食べながら、これからの道を考えた。


 森へ入る。


 ナギが案内する。


 けれど、ナギは信用できるのか。


 弟を探したいという気持ちは本物に見えた。


 だが、エルディアは名前を真似る森だ。


 森の近くにいる者ほど、影響を受けている可能性もある。


 ユノが考え込んでいると、食堂の扉が開いた。


 ナギだった。


 昨日と同じ黒髪、緑の目。


 動きやすい革の上着に、背中の弓。腰には短剣。肩には小さな革袋をいくつも下げている。


 彼女はユノたちの席へ来ると、挨拶もそこそこに言った。


「食べ終わったら裏庭へ来て。森に入る前に教えることがある」


 ミアがパンを持ったまま固まる。


「もう?」


「エルディアは昼前に境界へ着くのが一番いい。夕方に入るのは最悪だ」


「最悪って何が?」


「森が起きる」


 カイの顔が引きつった。


「森って寝るのか?」


「寝るし、起きる。少なくとも森番はそう考える」


 ナギはそれだけ言って、食堂を出ていった。


 ミアが小さく言う。


「案内人、ちょっと怖い」


「でも頼りにはなりそうだ」


 ユノが言うと、リゼも頷いた。


「森番の知識は必要よ。エルディアでは、魔法だけでは進めない」


「魔法だけでは?」


「森には森の法がある」


 その言葉に、ユノは胸の奥が少し冷えた。


 森の法。


 また新しい場所の、新しい危険。


 それでも進むしかない。


 食事を終え、四人は宿の裏庭へ向かった。


 裏庭には、ナギがいくつかの道具を広げて待っていた。


 小さな鈴。

 赤い紐。

 乾燥した葉。

 木片に刻まれた印。

 細い銀の針。


 ミアが興味深そうに覗き込む。


「これ、何?」


「森番の道具」


 ナギは赤い紐を一本持ち上げた。


「まず、全員これを手首に巻く」


 ユノは眉をひそめる。


「何のために?」


「森で仲間を見失わないため」


「紐で?」


「ただの紐じゃない。エルディアの境界木から作った繊維を染めたものだ。近くにいる仲間の気配を少しだけ感じられる」


 リゼが赤い紐を見る。


「簡易的な結縁具ね」


「魔女はそう呼ぶのか」


 ナギは少し驚いたようにリゼを見た。


「森番は“迷い止め”と呼ぶ」


 ナギはユノ、ミア、リゼ、カイに一本ずつ紐を渡した。


 さらに自分の手首にも巻く。


「これを巻いた相手は、森の中で不用意に名前を呼ばなくても位置を確かめられる」


 ユノは手首に紐を巻いた。


 右手首には銀環契約。

 その少し上に赤い紐。


 不思議な組み合わせだった。


 ナギは次に小さな鈴を見せた。


「これは鳴らすな」


 ミアが目を瞬かせる。


「鳴らすなって、じゃあ何のための鈴?」


「鳴らすためだ」


「どっち!?」


 ナギは真顔で続けた。


「普段は鳴らすな。森の声に名前を呼ばれて返事をしそうになった時、自分で鳴らす。鈴の音で、声を切る」


 リゼが頷く。


「音で誘いを断つのね」


「そうだ」


 ナギは全員に鈴を渡した。


「これを首にかける。森の中では、仲間の名前を呼ぶ時も注意しろ」


 ユノは鈴を見た。


 小さく、古びた銀の鈴。


 触れると冷たい。


「名前を呼ぶなって言われたけど、俺たちは名前を呼ばないと危ない時がある」


 ユノが言うと、ナギは目を細めた。


「昨日から気になってた。あんたたちは、何かにつけて名前を呼ぶ」


「そうしないと消えることがあるから」


 ナギはしばらく黙った。


 それから低く言った。


「なら、森では呼び方を決める」


「呼び方?」


「本名を何度も呼ぶな。森に覚えられる」


 カイが不安そうにする。


「じゃあどうするんだ」


「短い合図名を使う」


 ナギはユノを指した。


「あんたは“炭”」


「炭?」


「炭鉱町から来たんだろ」


 ミアが吹き出しそうになった。


 ユノは顔をしかめる。


「もう少し何かないのか」


「じゃあ“剣”」


「炭でいい」


 ミアは笑いをこらえながら言った。


「私は?」


「灯」


 ナギは即答した。


「火を持ってるから」


 ミアは少し嬉しそうに頷いた。


「悪くない」


 リゼを見て、ナギは少し考えた。


「銀」


 リゼは静かに頷く。


「分かりやすいわ」


 カイは少し緊張して聞いた。


「俺は?」


「木」


「木?」


「木剣を持ってる」


 カイは微妙な顔をした。


「弱そう」


「森では強い名だ」


 ナギが言うと、カイは少しだけ胸を張った。


「ならいい」


 ユノはナギを見る。


「ナギは?」


「私は“風”」


「森番っぽいな」


「実際そうだからな」


 ナギは道具を片付けながら言った。


「森の中で本名を呼ぶのは、本当に危ない時だけ。呼ぶなら、必ず相手の目を見る。姿が見えない時に名前を呼ばれても返事をするな」


 ミアが真剣に頷く。


「姿が見えない時は返事しない」


「声がそっくりでもだ」


 カイが青ざめる。


「森はそんなに真似できるのか?」


「できる。母親の声でも、死んだ父親の声でも、弟の声でも」


 ナギの声が少しだけ低くなった。


 ソラのことを思い出したのだろう。


 ユノは尋ねた。


「ソラは、どんな声を聞いたんだ?」


 ナギの手が止まった。


 少しの沈黙。


「私の声だ」


 ユノたちは黙った。


 ナギは顔を伏せずに続けた。


「私の声で、ソラって呼んだ。私は隣にいたのに、森の奥から私の声がした。ソラは驚いて、返事をした」


「それで……」


「ああ。走っていった。まるで、私が助けを求めてると思ったみたいに」


 ナギは拳を握った。


「だから、私は森の声を許さない」


 その言葉には怒りがあった。


 でも、怒りの下にあるのは深い後悔だった。


 ユノは静かに言った。


「ソラを探そう」


 ナギは彼を見る。


「簡単に言うな」


「簡単じゃない。でも、名前は呼べる」


「森では呼ぶなと言った」


「必要な時は呼ぶ」


 ナギはしばらくユノを睨んだ。


 やがて、ため息をついた。


「あんた、やっぱり止めても聞かない顔だな」


「よく言われる」


 ミアが横で頷く。


「本当に聞かない」


 リゼも。


「ええ」


 カイも。


「聞かない」


「全員で言うなよ」


 空気が少しだけ和らいだ。


 ナギは最後に乾燥した葉を配った。


「これは森入り葉。口に含むと、森の幻に少し強くなる。苦いけど飲み込むな」


 カイが嫌そうな顔をする。


「苦いのか」


「かなり」


「嫌だ」


「森で消えたいか?」


「食べる」


 ミアは葉を見つめた。


「これ、薬草の一種?」


「エルディアの外縁にだけ生える。森番しか採らない」


「後で少し調べてもいい?」


 ナギは少し意外そうにミアを見た。


「薬草に興味があるのか?」


「機械ほどじゃないけど、役に立つなら」


「なら少し分ける」


 ミアの顔が明るくなった。


「ありがとう」


 準備を終えると、ナギは宿の女将へ声をかけ、裏門から町の北側へ向かった。


 シェルカの北門を出ると、海の匂いは少しずつ薄れ、草と土の匂いが強くなった。


 道は緩やかな坂になっている。


 振り返れば、港町と海が見えた。


 朝日を受けた海はきらきら光っている。


 その下にアステラがあるのだと思うと、不思議だった。


 ミレイアの歌はもう聞こえない。


 でも、歌真珠が胸元でかすかに温かいとミアが言った。


 街道を進みながら、ナギは森番の話を始めた。


「森番の一族は、昔からエルディアの境界を守ってきた」


「森を守るため?」


 ユノが聞くと、ナギは首を振る。


「森から人を守るためでもあるし、人から森を守るためでもある」


「森が危険だから?」


「エルディアは記憶を持つ森だ。入った人間の声、名前、願い、後悔を覚える。だから欲深い奴が入ると、森は欲を真似る。悲しんでる奴が入ると、悲しみを増やす」


 リゼが言った。


「星の木が、人の内側を映すのね」


「そうだ。森は鏡に近い。でも今は、その鏡が歪んでいる」


「星喰いのせいか」


 ユノが問う。


 ナギは頷いた。


「たぶん。ここ数年、森の声が変わった。昔は、入った者が忘れていた大切なことを思い出させる声だった。今は、弱いところを突いて奥へ引きずり込む声になった」


 カイが小さく言う。


「嫌な森だな」


「本来は嫌な森じゃない」


 ナギの声が少し強くなった。


「エルディアは、星の記憶を守る場所だ。私たち森番は、そう教わってきた」


「森番は今、何人いるんだ?」


 ユノが聞くと、ナギはしばらく黙った。


 そして短く答えた。


「私だけ」


 ミアが息を呑む。


「一人だけ?」


「ああ。両親は五年前に森で消えた。祖父母ももういない。弟のソラが最後の家族だった」


 ナギの足は止まらない。


 だがその背中には、深い孤独が見えた。


「だから、私はソラを見つける。生きていても、記憶になっていても、名前だけになっていても」


 ユノは胸が痛んだ。


 ナギもまた、名前を追う者だ。


 弟の名を失わないために、森へ戻ろうとしている。


 リゼが静かに言った。


「あなたは強いのね」


 ナギは少しだけ笑った。


「強くない。諦めが悪いだけだ」


「それは強さに近いわ」


 ナギは振り返らなかった。


 けれど、少しだけ歩く速度が緩んだ。


 昼前、街道の先に石の鳥居が見えてきた。


 白い石で作られた鳥居。


 その向こうには森が広がっている。


 エルディア。


 遠くから見ても、不思議な森だった。


 木々の葉は深い緑だが、ところどころ星のように白く光っている。幹はねじれ、枝は空へ向かって手を伸ばすように広がっている。


 森の奥は霧に包まれ、昼間なのに薄暗い。


 鳥居の前には、古い札がいくつも吊るされていた。


 風が吹くたびに、かすかに鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 シェルカの風鈴と似ているのに、どこか違う音。


 名前を確かめるような音だった。


 ナギは鳥居の前で足を止めた。


「ここから先が森の境界だ」


 ユノたちは自然と緊張した。


 ナギは全員を見回す。


「掟を確認する」


 彼女は指を一本立てた。


「一つ。姿が見えない声に返事をするな」


 二本目。


「二つ。道を外れるな。花が光っていても、誰かが泣いていても、勝手に行くな」


 三本目。


「三つ。森で見たものをすぐに信じるな」


 四本目。


「四つ。本名はむやみに呼ぶな。合図名を使え」


 五本目。


「五つ。自分が誰か分からなくなったら、鈴を鳴らせ」


 ミアが鈴を握る。


「分かった」


 カイも頷く。


「分かった」


 リゼは鳥居の奥を見ている。


 その表情は少し硬い。


「リゼ?」


 ユノが声をかける。


 リゼはゆっくり答えた。


「懐かしい匂いがする」


「来たことはないんだろ?」


「ええ。でも、魔女の記憶に近い匂いがする」


 森の奥から、風が吹いた。


 その風に、声が混ざっていた。


 小さな声。


 子どもの声。


 ――ソラ。


 ナギの身体が硬直した。


 ユノたちも息を呑む。


 声は確かに、森の奥から聞こえた。


 ――ソラ。


 ナギは拳を握った。


 だが、返事はしなかった。


 唇を噛み、鈴を強く握る。


 ユノは小さく言った。


「風」


 ナギははっとした。


 合図名。


 本名ではなく、森で使う名。


 彼女は深く息を吐いた。


「……大丈夫」


 しかし森の声は、今度は別の名を呼んだ。


 ――ユノ。


 ユノの背筋が凍った。


 森は、もう名前を知っている。


 ミアが即座に言った。


「炭」


 リゼも。


「炭、返事をしないで」


 カイも震えながら。


「炭」


 ユノは自分の鈴を握った。


 森の奥から、もう一度声がする。


 ――ユノ。


 その声は、父の声だった。


 ユノの心臓が止まりそうになる。


 父さん。


 そう答えそうになった瞬間、鈴を鳴らした。


 ちりん。


 音が空気を切った。


 父の声が消える。


 ユノは荒く息をした。


 ナギが静かに言った。


「これがエルディアだ」


 森の霧が、ゆっくりと動く。


 まるで、こちらを見ているようだった。


 リゼがユノの手首に触れた。


 銀の輪が温かく光る。


「炭」


「いる」


 ユノは答えた。


「銀」


「いるわ」


 ミアが続ける。


「灯、いる」


 カイも。


「木、いる」


 ナギが最後に言った。


「風、いる」


 五つの合図名が、鳥居の前で確かめられた。


 ナギは弓を背負い直し、鳥居をくぐった。


「行くぞ」


 ユノたちも後に続く。


 石の鳥居を越えた瞬間、空気が変わった。


 潮の匂いは完全に消えた。


 代わりに、湿った土と葉、古い星の匂いがした。


 森の奥で、誰かが笑ったような気がした。


 でも、誰も返事をしなかった。


 星の森エルディア。


 名前を覚え、名前を真似る森。


 ユノたちはついに、その境界を越えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、森番ナギの過去と、星の森エルディアへ入るための掟が明かされました。


 ナギは森番の一族最後の生き残り。

 そして弟ソラを森に奪われた者です。


 エルディアでは、本名をむやみに呼ぶことが危険になります。

 そのため、ユノたちは合図名を決めました。


 ユノ=炭

 ミア=灯

 リゼ=銀

 カイ=木

 ナギ=風


 次のページは『星の森エルディア』です。

 いよいよ森の中へ入り、ユノたちは名前を真似る森の本当の恐ろしさを知ることになります。

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