潮鳴りの町シェルカ
海の底から戻った先には、潮の匂いがする町がありました。
潮鳴りの町シェルカ。
船乗りと商人と旅人が行き交う、小さな港町。
アステラで星図盤の予言を受け取ったユノたちは、次なる目的地――星の森エルディアへ向かうため、この町で情報を集めます。
けれど、シェルカにもまた、星喰いの影は近づいていました。
そしてユノたちは、森への道を知る案内人と出会うことになります。
潮風が、ユノの頬を撫でた。
海底都市アステラの青い光から一転して、目の前には夕暮れの港町が広がっていた。
赤く染まった空。
海鳥の鳴き声。
波止場に並ぶ小舟。
魚を干す匂い。
遠くで鳴る鐘。
人々の話し声。
生きている町だった。
灰の王国の廃墟とも、アステラの沈黙した美しさとも違う。
誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが荷物を運び、誰かが夕飯の支度をしている。
その当たり前の音が、ユノには眩しかった。
「地上……」
ミアが小さく呟いた。
彼女はルグナの記憶灯を抱えたまま、桟橋の上で深く息を吸った。
「潮の匂いって、こんなに強いんだ」
カイは少しふらつきながら周囲を見ている。
「地面が揺れてる気がする」
「船に乗ったあとだからじゃないか?」
「海の底にいたあとだからだろ」
カイの言葉に、ユノは少し笑った。
リゼは何も言わず、手の中の星図片を見ていた。
アステラから受け取った小さな星の欠片。
それは次の目的地――星の森エルディアへの道を示している。
けれど今は、淡く揺れるだけで、はっきりした方角を指していなかった。
「どうした?」
ユノが聞くと、リゼは町の奥を見た。
「星図片の光が乱れている」
「乱れてる?」
「この町にも、何か記憶の揺らぎがあるのかもしれない」
ミアが肩を落とす。
「せっかく普通の町に来たと思ったのに……」
「普通に見える場所ほど、何かを隠していることがあるわ」
「リゼ、それ言わないでほしかった」
カイは不安そうに木剣を握った。
「ここにも星喰いが来てるのか?」
リゼは首を振る。
「まだ分からない。でも、星喰いそのものの気配ではない」
「じゃあ何?」
「忘れかけている音がする」
ユノは耳を澄ませた。
港町の音。
波。
海鳥。
鐘。
人々の声。
荷車の音。
その奥に、確かに妙な響きがあった。
何かが欠けているような音。
鳴っているのに、少しずつ遠ざかっていく鐘のような。
潮鳴りの町シェルカ。
その名の通り、町全体に潮の音が響いている。
けれど、その音の一部が、空白に吸われている気がした。
「まずは宿を探そう」
ユノが言った。
「休まないと動けない」
ミアがすぐに頷く。
「賛成。ちゃんとしたご飯も食べたい」
カイも目を輝かせた。
「魚あるかな」
「港町だし、あるんじゃないか」
その言葉にカイは少しだけ元気を取り戻した。
四人は桟橋を降り、町へ入った。
シェルカの道は白い石で舗装されていた。
家々は青い屋根を持ち、壁には貝殻や小さな風鈴が飾られている。風が吹くたびに、ちりん、と涼しい音が鳴った。
道の両側には店が並んでいる。
魚屋。
網を売る店。
旅人向けの雑貨屋。
干し果物の屋台。
貝殻細工の露店。
ミアは久しぶりに見る人の多さに目を瞬かせていた。
「なんか……普通だね」
「普通って、すごいな」
ユノが言うと、ミアは頷いた。
「うん。今なら普通ってだけで泣ける」
その気持ちは、ユノにもよく分かった。
普通の町。
普通の夕暮れ。
普通に店で値段交渉している人々。
それが、どれほど尊いものなのか。
星喰いを知る前なら、きっと気づかなかった。
宿屋は、港の見える坂道の途中にあった。
看板には《白波亭》と書かれている。
古いが清潔な建物で、入口には小さな灯りが揺れていた。
ユノたちが入ると、丸顔の女将が顔を上げた。
「いらっしゃい。旅人かい?」
「はい。四人で泊まりたいんですけど」
ユノが答えると、女将は四人を順番に見た。
ユノの煤けた服。
ミアの工具袋。
リゼの銀髪と赤い瞳。
カイの木剣。
少し驚いた顔をしたが、深くは聞かなかった。
「部屋は二つなら空いてるよ。食事付きにするかい?」
ミアとカイが同時に前のめりになった。
「します!」
「食べます!」
女将は笑った。
「元気がいいね。じゃあ煮魚と貝のスープを出そう」
カイの目が輝く。
「魚!」
ユノは思わず笑った。
リゼも少しだけ口元を緩めた。
食堂に案内されると、すでに数人の客がいた。
船乗りらしい男たち。
商人風の女。
地図を広げている老人。
そして、隅の席でフードを被った人物。
ユノは一瞬、その人物に目を留めた。
黒い外套ではない。
けれど、旅人にしてはあまりにも動かない。
リゼも気づいたのか、少しだけ視線を向けた。
「何か?」
ミアが小声で聞く。
「まだ分からない」
ユノはそう答えた。
やがて料理が運ばれてきた。
煮魚。
貝のスープ。
焼きたてのパン。
海藻のサラダ。
カイは目を輝かせて魚にかぶりついた。
「うまい!」
ミアもスープを一口飲んで、深く息を吐いた。
「あったかい……」
ユノもパンを口にした。
普通の食事。
それだけで身体の奥がほどける。
リゼはスープを見つめていた。
「食べないのか?」
ユノが聞くと、リゼは匙を持ち上げた。
「食べるわ。ただ、海の料理は久しぶりで」
「千年前ぶり?」
「そうね」
カイがぽかんとした。
「千年前って、何回聞いても変な感じだな」
リゼは真面目に頷いた。
「私も変な感じよ」
ミアが笑った。
その時、隣の席の船乗りたちの会話が聞こえてきた。
「また東の森の方で、星が落ちたらしいぞ」
「エルディアか?」
「ああ。森へ行った巡礼団が戻らないって話だ」
ユノたちは一斉に顔を上げた。
リゼの表情が険しくなる。
船乗りは続ける。
「星の森なんて、昔から近づくもんじゃないって言われてるだろ」
「でも、最近は森が歌うらしい」
「歌う?」
「ああ。夜になると、子どもの声で名前を呼ぶんだと。呼ばれて返事した奴は、朝にはいなくなる」
ミアが小さく息を呑んだ。
カイも魚を食べる手を止める。
ユノはリゼを見た。
「名前を呼ぶ森……」
「星の森エルディアは、古い記憶が多い場所。声が残っていても不思議ではないけれど」
リゼは低く言った。
「返事をした者が消えるのは普通ではない」
船乗りたちの会話はさらに続く。
「町長は森へ続く道を封鎖するつもりらしい」
「遅いくらいだ。あそこに行く奴は命知らずだよ」
「でも森には星薬草がある。病人を抱えた奴は行くしかない」
ユノは拳を握った。
エルディアへ行く必要がある。
だが、森はすでに異変に包まれている。
星喰いの影なのか。
王の名の三つ目の響きの影響なのか。
それとも、セレノが先に何かをしたのか。
食事が終わる頃、隅の席にいたフードの人物が立ち上がった。
そのままユノたちの席へ近づいてくる。
ユノは警戒した。
ミアがランタンに手を添える。
カイが木剣を握る。
リゼは静かに相手を見上げた。
フードの人物は、低い声で言った。
「あんたたち、エルディアへ行く気か」
女の声だった。
ユノは答える。
「だとしたら?」
「やめておけ、と言いたいところだけど」
彼女はフードを外した。
短い黒髪。
日焼けした肌。
鋭い緑色の目。
腰には短剣。
背には弓。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
旅慣れた雰囲気がある。
「その顔は、止めても行く顔だ」
ミアが小声でユノに言う。
「また顔に出てるって」
「もう分かったよ」
女は椅子を引いて勝手に座った。
「私はナギ。森番だ」
「森番?」
「エルディア周辺を管理する一族の生き残り。今は案内人みたいなことをしてる」
リゼの表情が変わった。
「森番の一族は、まだ残っていたのね」
ナギはリゼを見た。
「あんた、ただの旅人じゃないな」
「リゼ」
「名前だけ?」
「今はそれで十分」
ナギは少し目を細めたが、それ以上聞かなかった。
「エルディアへ行きたいなら、私が案内できる」
ユノは警戒を解かずに聞いた。
「なぜ?」
「森で弟が消えた」
その一言で、空気が変わった。
ナギは拳を握る。
「三日前、薬草を採りに行った。病人の子どもを助けるために。森の入口までは私も一緒だった。でも、奥から弟の名前を呼ぶ声がした」
リゼが眉をひそめる。
「返事をしたの?」
「ああ。止める前に」
ナギの声が低くなる。
「弟は森へ走った。追いかけたけど、霧に巻かれて見失った。次に見つけたのは、弟の弓だけだった」
カイが小さく聞く。
「名前は?」
ナギは彼を見る。
「弟の?」
「うん」
「ソラ」
ユノはすぐに言った。
「ソラ」
ミアも。
「ソラ」
リゼも静かに。
「ソラ」
カイも続けた。
「ソラ」
ナギの表情が少しだけ揺れた。
「……何のつもりだ」
ユノは答える。
「消えた人の名前は、呼んだ方がいい」
ナギはしばらくユノを見つめた。
からかっているのではないと分かったのか、ゆっくり息を吐いた。
「変な旅人だな」
「よく言われる」
「でも、嫌いじゃない」
ナギはテーブルに地図を広げた。
そこにはシェルカから内陸へ向かう道が描かれている。
「エルディアへ行くには、まず潮鳴り街道を北へ進む。半日ほどで石の鳥居がある。そこから先が森の境界だ」
「鳥居?」
ミアが聞く。
「森番が作った境界標だ。そこから先では、絶対に名前を不用意に呼ぶな」
ユノたちは顔を見合わせた。
「名前を呼ぶな?」
カイが不安そうに言う。
ナギは頷いた。
「森は名前を覚える。そして真似る。仲間の声で呼ばれても、すぐに返事をするな」
リゼが低く言った。
「名前を誘い出す森……」
「知ってるのか?」
ナギが聞く。
「古い魔女の記録で読んだことがある。エルディアには、星の木という存在がある。人の名を覚え、星へ記録する木」
「それが悪さしてるのか?」
「本来は違う。星の木は記録するだけ。名前を奪うものではない」
ユノは手首を見る。
星灯りの剣の模様が、かすかに光っていた。
「じゃあ、何かが森を歪めてる」
「そう考えるべきね」
ナギはユノたちを順番に見た。
「あんたたち、何者だ」
ユノは少し迷った。
星喰い。
魔女。
王の名。
海底都市。
セレノ。
すべてを話すには重すぎる。
だが、これから森へ案内してもらうなら、隠しすぎるのも危険だ。
ユノは言った。
「俺たちは、消えた名前を追ってる」
ナギは眉を上げた。
「消えた名前?」
「星喰いに奪われた名前。忘れられた人たちの記憶。そういうものを取り戻す旅をしてる」
ナギは笑わなかった。
むしろ、真剣な顔で聞いていた。
「なら、ソラも?」
「約束はできない」
ユノは正直に言った。
「でも、名前は呼べる。探すことはできる」
ナギは長い沈黙のあと、頷いた。
「十分だ」
ミアがほっと息を吐く。
「案内してくれる?」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「私も最後まで同行する。森の入口までじゃない。弟を見つけるまで」
ユノはリゼを見る。
リゼは少し考え、頷いた。
「森番の知識は必要よ」
「じゃあ決まりだ」
ナギは地図を畳んだ。
「出発は明日の朝。今夜は休め。エルディアに入ったら、まともに眠れると思うな」
ミアが小さく呻いた。
「また眠れない旅……」
カイは少しだけ不安そうだったが、魚の残りを食べ始めた。
「食べられる時に食べる」
「成長したな」
ユノが言うと、カイは真顔で頷いた。
「旅で学んだ」
その夜、四人は宿の部屋で休むことになった。
部屋は二つ。
ユノとカイ。
ミアとリゼ。
けれど寝る前に、四人は一度同じ部屋に集まった。
テーブルの上には、星図片、歌真珠、海涙石の容器、ルグナの記憶灯が並んでいる。
アステラで得たものたち。
そして、星図盤の予言。
名を集める者、やがて己の名を失う。
ミアは真剣な顔で言った。
「確認しよう。ユノが変になったら、すぐ名前を呼ぶ」
「変って何だよ」
「いつもより無茶した時」
「それは普段からじゃない?」
カイが言うと、ユノは言葉に詰まった。
リゼが静かに続ける。
「ユノが他人の記憶に引きずられた時、自分の名前を曖昧にした時、星灯りの剣を使いすぎた時。必ず止める」
「分かった」
ユノは頷いた。
ミアは歌真珠を手にした。
「私、これちゃんと使えるようにしておく。ミレイアがくれたから」
カイは木剣を握る。
「俺は……まだ弱いけど、名前覚える。ソラも」
リゼは小さく頷いた。
「私は王の名の響きを管理する。絶対に二つの音を繋げないように」
ユノは三人を見る。
「ありがとう」
ミアが少し怒ったように言う。
「お礼より、ちゃんと頼って」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
リゼがじっと見る。
「今のは本当ね」
「契約で確認するなよ」
「必要だから」
そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。
久しぶりに、穏やかな夜だった。
窓の外では潮鳴りの音がする。
波が岩に当たり、風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
その音の奥に、ほんの少しだけミレイアの歌が聞こえた気がした。
ユノは窓辺に立ち、海を見た。
アステラはもう見えない。
けれど海の底に、確かにある。
アステリア。
ミレイア。
その名前を胸の中で呼ぶ。
そして、新しい名前も。
ソラ。
ナギの弟。
星の森エルディアで消えた少年。
明日から、また旅が始まる。
森へ。
王がまだ王ではなかった頃の記憶へ。
ユノは自分の手を見た。
星灯りの剣の模様が、淡く光っている。
怖い。
でも、もう怖いと言える。
それだけで、以前より少しだけ強くなれた気がした。
背後でリゼが声をかける。
「ユノ」
「いる」
「明日、森へ入る前にもう一度名前を確認するわ」
「ああ」
「森の声を、簡単に信じないで」
「分かった」
「でも、私たちの声は信じて」
ユノは振り返った。
リゼはまっすぐ彼を見ていた。
ユノは頷く。
「信じる」
リゼの銀の輪が淡く光った。
潮鳴りの町シェルカの夜は、静かに更けていく。
けれど、その静けさの奥に、森から届くかすかな声が混ざっているような気がした。
誰かの名前を呼ぶ声。
まだ遠い。
でも確かに、ユノたちを待っている。
ユノは窓を閉め、最後に自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
小さな声だった。
けれど、すぐに仲間たちが応えた。
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
四つの名前が部屋に残る。
それを灯りのように抱いて、ユノたちは潮鳴りの夜を越えるのだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、海底都市アステラを出たユノたちが、潮鳴りの町シェルカへ辿り着きました。
久しぶりの生きた町。
温かい食事。
人々の声。
しかし、その町にも星喰いの影は近づいています。
そしてユノたちは、星の森エルディアへの案内人・ナギと出会いました。
森で消えた弟、ソラ。
名前を真似る森。
返事をした者が消えるという噂。
次の旅は、これまでとは違う危険を持っています。
次のページは『森番ナギ』です。
ナギの過去と森番の一族の役目、そして星の森エルディアへ入るための準備が描かれます。




