失われた名前を呼ぶ者
名前を呼ぶことは、ただ音を届けることではありません。
あなたは確かにここにいた。
あなたの歌は残っている。
あなたを忘れていない。
海の巫女アステリアの記憶に触れたユノたちは、人魚の歌守りの本当の名を知りました。
ミレイア。
このページでは、失われた名前を呼ぶことで、アステラに新しい光が灯ります。
水晶宮を出ると、沈殿区の青は少しだけ明るく見えた。
来た時と同じ道のはずだった。
深い海の底。
無数に沈む記憶の光。
誰かの笑い声や祈りが泡のように漂う場所。
けれど、ユノには違って感じられた。
アステリアの涙を見たからだ。
都市を沈めた悲しみ。
忘却に渡さないための決意。
そして、最後まで歌を信じた祈り。
それを知った今、沈殿区に漂う光のひとつひとつが、ただの記憶ではなく、誰かが必死に残そうとした命の跡に見えた。
ユノは胸元に手を当てた。
王の名の二つ目の響き――“ナ”。
声に出してはいけない。
リゼにそう言われた。
最初の響き“ル”と、二つ目の響き“ナ”。
二つが心の奥で近づこうとするたび、ユノの名前が少しだけ揺らぐ。
だから彼は何度も自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
すぐに、隣から声が返る。
「ミア」
少し後ろから。
「カイ」
そして静かな声で。
「リゼ」
四つの名前が、沈んだ記憶の間に小さく響いた。
リゼは青い容器を大事に抱えていた。
中にはアステリアの涙――海涙石が入っている。
そこに王の名の二つ目の響きが封じられている。
けれど今、リゼの表情はそれだけを見ているものではなかった。
「ミレイア」
彼女が小さく呟いた。
その名前を口にした瞬間、遠くで歌が揺れた。
人魚の歌。
さっきまで優しく悲しかった旋律の奥に、かすかな震えが混ざる。
まるで、名前を呼ばれる前から、その音を待っていたように。
ミアがランタンを抱え直した。
「早く教えてあげたいね」
「うん」
カイも頷いた。
「名前が分かったのに、まだ知らないなんて嫌だ」
ユノは前を見た。
沈殿区から戻る水の門が、青い光の向こうに見えている。
その先に、歌守りが待っている。
名前を海に沈め、役割だけを残して歌い続けていた人魚の記憶。
ミレイア。
アステリアの妹。
歌が好きで、泣き虫で、誰よりも人々の声を覚える子。
ユノはその名を胸に刻んだ。
忘れないように。
水の門をくぐると、ふわりと身体が軽くなった。
沈殿区の重さが少し遠ざかり、透明な膜に包まれた円形の広場へ戻ってくる。
そこには、人魚の歌守りがいた。
白い貝殻の椅子に座り、目を閉じて歌っている。
けれど、彼女の歌はどこか不安定だった。
音が時々揺れ、途切れそうになる。
アステリアの記憶が開かれたことで、彼女自身の沈んだ名も揺さぶられているのかもしれない。
ユノたちが近づくと、人魚はゆっくり目を開けた。
『戻ったのですね』
声は穏やかだった。
だが、その奥にはかすかな期待と恐れがあった。
『アステリア様の記憶は、見つかりましたか』
リゼが一歩前へ出た。
「見つけたわ」
『そうですか』
人魚は微笑んだ。
その笑みは、嬉しそうなのに悲しそうだった。
『アステリア様は、最後まで都市を守ったのですね』
「ええ」
リゼの声が少し震える。
「あなたのことも、覚えていた」
人魚の瞳が揺れた。
『私のことを?』
「ええ」
リゼはゆっくり息を吸った。
「あなたの名前を教えてくれた」
その瞬間、歌が止まった。
海の外側を泳いでいた魚の群れまで、動きを止めたように見えた。
人魚は、信じられないものを見るようにリゼを見つめている。
『私の……名前……』
ユノは一歩前へ出た。
胸が熱くなる。
名前を呼ぶ瞬間は、いつも怖い。
それが誰かを救うかもしれないと分かっていても、同時に傷を開くこともあるからだ。
けれど、呼ばなければ始まらない。
ユノは人魚を見つめた。
「あなたの名前は、ミレイア」
人魚の身体が震えた。
ミアも続ける。
「ミレイア」
カイも。
「ミレイア」
リゼが最後に、静かに、強く呼んだ。
「ミレイア」
その名が広場に響いた瞬間、人魚の周囲の水晶が一斉に光った。
海の中に沈んでいた歌が、音を取り戻す。
失われていた旋律の一部が戻るように、歌が広がっていく。
人魚――ミレイアは、両手で胸を押さえた。
『ミレイア……』
彼女は自分の名を、初めて聞くように呟いた。
『私……私は……ミレイア……』
声が震える。
その瞳から、涙がこぼれた。
涙は水の中に溶けず、小さな真珠のような光になって浮かんだ。
『姉様……』
ミレイアは泣いた。
歌ではなく、声で。
『姉様、私は……覚えて……』
言葉の途中で、彼女の身体から青い光が溢れた。
周囲に記憶が広がる。
幼いミレイアが、白い橋の上で歌っている。
アステリアがそれを聞いて微笑んでいる。
「ミレイア、あなたの歌は海より遠くまで届くわ」
「本当?」
「ええ。だから、いつかみんなが迷った時、あなたが歌ってあげて」
「じゃあ、姉様が迷った時も歌う」
「その時はお願いね」
幼いミレイアは誇らしげに笑った。
記憶が変わる。
星喰いが迫る夜。
人々が名前と記憶を預け、歌いながら沈んでいく。
ミレイアは泣きながら歌っていた。
喉が枯れても、声が震えても、歌を止めなかった。
アステリアが水晶宮へ向かう前、ミレイアを抱きしめる。
「あなたは歌を守って」
「姉様は?」
「私は都市を守る」
「一緒がいい!」
「ミレイア」
アステリアは妹の髪を撫でた。
「あなたの歌があれば、誰かがいつかここへ辿り着く。その時、私たちの名前を未来へ渡して」
ミレイアは泣きながら頷いた。
「歌う。ずっと歌う」
「ありがとう」
その記憶が光に変わり、現実へ戻る。
ミレイアは涙を流していた。
『私は、約束していたのですね』
リゼが頷く。
「ええ。あなたは守っていたわ。ずっと」
『でも、名前を忘れていた』
「それでも歌は残った」
ユノが言った。
「あなたの歌があったから、俺たちはアステリアの記憶へ行けた。あなたは約束を守っていた」
ミレイアはユノを見つめた。
『名前を忘れても、約束は残るのですね』
「残る」
ユノは頷いた。
「でも、名前が戻ればもっと強く残る」
その言葉に、ミレイアは静かに微笑んだ。
彼女の尾の鱗が、銀色から淡い青へ変わっていく。
失われていた記憶が戻り、存在の輪郭がはっきりしていくようだった。
広場の外、アステラの街が光り始めた。
遠くの塔。
星形の街灯。
水晶窓。
白い橋。
沈んだ記憶の光。
それらが一つずつ、歌に合わせて輝く。
ミアが息を呑んだ。
「街が……」
リゼも目を見開く。
「ミレイアの名が戻ったことで、歌に結びついていた記憶が安定している」
「つまり?」
カイが聞く。
「アステラが少し目覚めたのよ」
その時、遠くから歌声が重なった。
ミレイア一人の歌ではない。
アステラの人々の記憶が、彼女の名に応えるように歌い始めていた。
誰かの子守歌。
誰かの祈り。
誰かの別れ。
誰かの愛。
それらが重なり、美しい合唱になる。
ユノは胸が熱くなった。
これが、失われた名前を呼ぶこと。
ただ一人を救うだけではない。
その人に繋がっていた記憶まで、光を取り戻す。
ミレイアは涙を拭い、歌い始めた。
今度の歌は、悲しみだけではなかった。
再会の歌だった。
名前を取り戻した者の歌。
その歌の中に、アステリアの名も聞こえた。
アステリア。
ミレイア。
二つの姉妹の名が、海底都市に響く。
リゼはその歌を聞きながら、静かに涙を流していた。
ユノは何も言わず、隣に立った。
リゼは小さく呟く。
「姉妹の名前が、戻ったのね」
「ああ」
「よかった」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
リゼと姉。
アステリアとミレイア。
重なるものがあったのだろう。
ミレイアは歌を終えると、ユノたちに向き直った。
『ありがとう。名を呼ぶ者たち』
「俺たちは、教えてもらった名前を呼んだだけだ」
『それが、どれほど大きなことか』
ミレイアは微笑んだ。
『名前は、知っているだけでは戻りません。呼ぶ者がいて、初めて世界に戻るのです』
ユノはその言葉を胸に刻んだ。
知るだけでは足りない。
呼ばなければならない。
呼ぶことで、存在は世界へ戻る。
『あなたたちは、失われた名前を呼ぶ者です』
ミレイアの声が静かに響く。
『その力は、星喰いにとって最も恐ろしいもの』
リゼが表情を引き締めた。
「星喰いは名前を喰う。だから、名前を呼ぶ者を恐れる」
『はい』
ミレイアはユノを見た。
『特にあなた。星灯りの剣を持つ鍵の少年。あなたは忘却を斬るだけでなく、名を世界へ戻す声を持っている』
「俺の声……」
『ですが、気をつけてください。多くの名を呼ぶ者ほど、自分の名が薄れます』
ユノの胸が冷たくなる。
リゼがすぐに言った。
「やっぱり、代償があるのね」
『はい。名前を呼び戻すたび、呼ぶ者の内側には他者の記憶が流れ込みます。やがて、自分と他者の境目が曖昧になる』
ミアが青ざめる。
「それって、ユノがユノじゃなくなるってこと?」
『可能性はあります』
カイが強く首を振った。
「駄目だ!」
ユノは手首を見る。
銀の輪が淡く光っている。
リゼが静かに言った。
「だから、呼び返す声が必要なのね」
『はい』
ミレイアは頷いた。
『ユノが誰かの名を呼ぶなら、あなたたちはユノの名を呼び続けなければなりません』
ミアはすぐに言った。
「呼ぶ。何回でも」
カイも頷く。
「俺も呼ぶ」
リゼはユノを見た。
「最初からそのつもりよ」
ユノは胸が温かくなった。
怖さは消えない。
でも、ひとりではない。
それだけで、立っていられる。
ミレイアは手を差し出した。
彼女の掌に、小さな真珠のような光が生まれる。
『これは、歌真珠です』
「歌真珠?」
ミアが聞く。
『私の歌の一部を宿したもの。沈んだ記憶の中で道を失った時、この真珠を鳴らしてください。歌が現在へ導きます』
ユノが受け取ろうとすると、ミレイアは首を振った。
『これは、彼女へ』
ミレイアが見たのはミアだった。
ミアは驚く。
「私?」
『あなたは火を守る者。歌と火は似ています。どちらも、消えそうなものを誰かへ渡すためにある』
ミアは戸惑いながら、歌真珠を受け取った。
真珠は小さく、淡い青色に光っている。
「私に使えるかな」
『あなたなら』
ミアは真珠を大切に握った。
「ありがとう、ミレイア」
名前を呼ばれたミレイアは、嬉しそうに目を細めた。
『はい』
それだけの返事なのに、そこには深い喜びがあった。
自分の名前に返事をすること。
それは、名前を取り戻した者だけに許される温かさだった。
広場の奥に、新しい道が現れた。
青い光の階段。
上へ向かって続いている。
『この道を進めば、アステラ中央の星図盤へ戻れます。海涙石を星図盤にかざせば、次の目的地が示されるでしょう』
「星の森エルディア?」
リゼが聞く。
『はい。森には、王がまだ王ではなかった頃の記憶があります』
ユノは眉をひそめた。
星喰いの王が、王ではなかった頃。
それはどういう意味なのか。
星喰いの王にも、名前を持つ前の過去があるのか。
ミレイアは静かに続けた。
『王をただ倒そうとしても、忘却は終わりません。アステリアが言った通り、名が呪いになった理由を知らなければ』
リゼが頷く。
「覚えておくわ」
『そして、セレノには気をつけてください』
その名が出た瞬間、リゼの表情が少し強張った。
ミレイアは悲しげに言う。
『彼はかつて、この都市へ来ました』
「セレノが?」
ユノが聞く。
『はい。魔女を守る騎士として。アステリア様とも話していました』
リゼが驚く。
「姉様だけじゃなく、アステリアとも……」
『彼は最初から忘却を望んでいたわけではありません。むしろ、忘れないために必死だった』
ユノは名を奪う剣の記憶を思い出した。
セレノが壊れていく過程。
守れなかった痛み。
自分の名を斬った瞬間。
ミレイアは言った。
『忘れないために生きていた人が、忘却を救いと呼ぶ時、その心は深く壊れています』
リゼは目を伏せた。
「分かっている」
『ならば、彼を止めてください』
「ええ」
リゼの声は静かだった。
でも、もう震えていなかった。
「必ず止める」
ミレイアは頷いた。
『ありがとう。リゼ』
リゼは少し驚いたように目を見開いた。
自分の名前を、取り戻したばかりのミレイアに呼ばれたからかもしれない。
彼女は小さく頷いた。
「ええ」
ユノたちは青い階段へ向かった。
上へ戻る前に、ユノは振り返った。
「ミレイア」
人魚は顔を上げる。
「また歌ってくれるか」
『はい』
彼女は微笑んだ。
『この都市に名前がある限り、私は歌います』
その言葉に、ユノは安心した。
完全な救いではない。
アステラの人々が戻ってきたわけではない。
沈んだ記憶がすべて解放されたわけでもない。
けれど、歌守りには名前が戻った。
ミレイア。
彼女が歌う限り、アステラの記憶はもう少し強く残る。
四人は階段を上り始めた。
背後から、ミレイアの歌が聞こえる。
今度は、名前を持つ歌だった。
その歌は海の底を満たし、沈んだ記憶たちを優しく揺らした。
ユノは自分の名前を呼ぶ。
「ユノ」
すぐに仲間たちの声が続く。
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
そして遠くから、歌に乗ってもうひとつの名前が返ってきた。
『ミレイア』
失われた名前は、確かに世界へ戻った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、人魚の歌守りへ本当の名前を返しました。
ミレイア。
彼女は海の巫女アステリアの妹であり、アステラの人々が最後に残した歌を守り続けていた存在でした。
名前を取り戻したことで、ミレイアの歌は強くなり、アステラの街にも新たな光が灯ります。
そしてユノたちは、自分たちが“失われた名前を呼ぶ者”であることを知ります。
次のページは『星図盤の予言』です。
アステラ中央の星図盤に海涙石をかざした時、次なる目的地――星の森エルディアへの道が示されます。




