アステリアの涙
涙は、弱さだけではありません。
守れなかった悔しさ。
忘れたくない祈り。
誰かの名前を未来へ残したいという願い。
水晶宮の扉を開いたユノたちは、海の巫女アステリアの記憶へ足を踏み入れます。
そこにあったのは、海底都市アステラが沈んだ日の真実。
そして、星喰いの王の名の二つ目の響きでした。
アステリアが流した涙は、都市を滅ぼすためではなく、記憶を守るための最後の光でした。
水晶宮の中は、海そのものが凍りついたような場所だった。
壁も床も天井も、透き通る水晶でできている。そこに青い光が流れ、まるで宮殿全体が静かに呼吸しているようだった。
ユノたちは、ゆっくりと回廊を進んだ。
足音はしない。
代わりに、遠くから水の歌が聞こえる。
人魚の歌とは違う。
もっと深く、もっと古い声。
海の底で眠る星が、夢の中で歌っているような音だった。
ミアは記憶灯を抱え、何度も周囲を見回していた。
「綺麗すぎて怖い……」
カイは木剣を胸に抱える。
「ここ、本当に誰か住んでたのか?」
リゼは静かに答えた。
「住んでいたというより、祈る場所だったのだと思う。水晶宮は海の巫女が星の記憶を読むための宮殿。アステラの心臓のような場所よ」
「心臓……」
ユノは胸元の星涙石に触れた。
石はずっと震えている。
王の名の欠片を入れた金属筒も、冷たく重い。
この奥にある。
星喰いの王の名の、二つ目の響き。
最初の一音――“ル”。
あれだけで、ユノの意識は闇に引きずられそうになった。
次の響きを聞いたら、どうなるのか。
怖かった。
だが、もう戻れない。
戻るために進む。
父の記憶の中で聞いた言葉を、ユノは胸の中で繰り返した。
回廊の奥に、大きな広間があった。
中央には水晶の祭壇。
祭壇の上には、涙の形をした青い宝石が浮かんでいる。
その宝石の中に、一人の女性の姿が眠っていた。
長い青銀の髪。
白い衣。
額には星形の飾り。
閉じた瞳。
リゼが息を呑む。
「アステリア……」
海の巫女アステリア。
彼女は宝石の中で眠っているように見えた。
だが、それは肉体ではない。
記憶だ。
アステラの最深部に沈められた、巫女の最後の記憶。
ユノが一歩近づいた瞬間、祭壇の宝石が光った。
水晶宮全体が震える。
そして、女性の声が響いた。
『名を保つ者たちよ』
ユノたちは身構えた。
『私の涙に触れるなら、見なければなりません。アステラが沈んだ夜を』
リゼが静かに言う。
「見ます」
ミアは不安そうにしたが、頷いた。
カイも唇を噛みながら頷く。
ユノは星灯りの剣を呼び出し、胸の前で構えた。
「見ます」
宝石から青い光が広がった。
次の瞬間、世界が変わった。
ユノたちは、水晶宮の広間ではなく、千年前のアステラに立っていた。
都市には人がいた。
白い橋を渡る人々。
星図を運ぶ巫女たち。
水晶窓から外の海を眺める子どもたち。
市場には貝殻の飾りや海藻の布、光る石が並んでいる。
歌が聞こえる。
明るい歌。
今のアステラに残る悲しい歌ではない。
生活の歌だった。
誰かが洗濯をしながら歌い、子どもが真似して笑う。老人が拍子を取り、若者が照れながら声を重ねる。
ミアが呟いた。
「生きてる……」
そう。
アステラは生きていた。
美しい墓標ではなく、生きた都市だった。
その中央の星図盤の前に、アステリアがいた。
彼女は今よりも若く見えた。
でも、その瞳には深い知性と優しさが宿っている。
アステリアの前には、星図が浮かんでいた。
黒い穴のような影が、その星図の一部を侵食している。
「星喰いが近づいています」
巫女の一人が言った。
アステリアは静かに頷く。
「海の底にも、ついに届いたのですね」
「都市を閉じますか?」
「閉じても長くは持ちません」
周囲の巫女たちが息を呑んだ。
アステリアは星図を見上げる。
「星喰いは場所ではなく記憶を追う。アステラには、あまりにも多くの記憶が集まりすぎました」
「では、私たちは……」
「逃げ場はありません」
その声は悲しかった。
けれど、絶望に沈んではいなかった。
「ですが、守る方法はあります」
景色が変わった。
都市の広場。
アステリアは人々の前に立っていた。
誰もが不安な顔をしている。
母親が子どもを抱きしめ、老人が震える手で杖を握り、若者たちは門の方を見つめている。
アステリアは人々に言った。
「星喰いはこの都市へ来ます」
ざわめきが広がる。
「逃げることはできません。けれど、記憶を守ることはできます」
一人の男が叫ぶ。
「記憶を守って何になる! 命はどうなる!」
アステリアは目を伏せた。
「命を守る方法は、もう残されていません」
広場が静まり返った。
残酷な言葉だった。
けれど、彼女は嘘をつかなかった。
「ですが、あなたたちがここに生きていたこと。愛したこと。名前を呼び合ったこと。それだけは、星喰いに渡してはなりません」
子どもが泣き出した。
母親がその子の名前を呼ぶ。
アステリアは続けた。
「記憶を都市へ預けてください。歌を残してください。名前を水晶へ刻んでください。肉体は海へ還っても、記憶は星へ残ります」
ユノは胸が痛くなった。
それは救いではない。
少なくとも、すぐに頷けるようなものではない。
人々も同じだった。
泣く者。
怒る者。
アステリアを責める者。
祈る者。
それでも、やがて一人が前へ出た。
白髪の老婆だった。
「私は、孫の笑い声を残したい」
次に、若い母親。
「この子の名前を」
次に、職人。
「私が作った橋を覚えていてほしい」
ひとり、またひとり。
人々は記憶を預け始めた。
景色がさらに変わる。
アステラの門。
水晶台に手を置く人々。
自分の名を告げ、大切な記憶を都市へ預ける。
歌が始まった。
最初は誰か一人の小さな声。
それに、別の声が重なる。
また別の声が。
やがて都市全体が歌い始めた。
悲しく、優しく、強い歌。
人魚の歌守りが守っていた歌だ。
リゼが小さく呟いた。
「この歌は……別れの歌だったのね」
ミアは涙をこぼしていた。
カイは木剣を握りしめ、震えている。
ユノも、喉の奥が熱くなった。
景色が暗くなる。
海の外側から、黒い影が迫っていた。
星喰い。
巨大な闇が、透明な都市膜に触れる。
アステラ全体が震えた。
街灯が消える。
人々の歌が揺れる。
子どもの泣き声。
水晶が割れる音。
巫女たちの祈り。
それでも、歌は止まらない。
アステリアは水晶宮の祭壇に立っていた。
彼女の前には、巨大な青い宝石がある。
涙の形の宝石。
海涙石。
星涙石とは似ているが、もっと深く青い。
「アステリア様!」
巫女が叫ぶ。
「都市膜が破られます!」
「分かっています」
「これ以上は……!」
アステリアは宝石に手を置いた。
「ならば、都市を沈めます」
巫女たちが凍りついた。
「沈める……?」
「アステラを記憶ごと、沈殿区へ沈める。星喰いが喰らうより深く。海と星の間へ」
「そんなことをすれば、あなたは……」
「私は都市の核になります」
アステリアは静かに言った。
「私の名も、記憶も、涙も、すべてを使ってアステラを沈めます」
巫女は泣きながら首を振った。
「なりません! アステリア様まで失えば、この都市は……!」
「失われません」
アステリアは微笑んだ。
「私が泣いたことも、あなたたちが歌ったことも、すべて残ります」
彼女は空を見上げるように、海の天井を見つめた。
「忘却に渡すくらいなら、涙の底に沈めます」
その時だった。
黒い影の中から、声が聞こえた。
星喰いの王の声。
ユノは全身が凍りついた。
言葉ではない。
名前の響き。
最初の一音“ル”が、胸元の金属筒で震える。
そして、次の響きが来た。
――ナ。
たった一音。
けれど、それは海全体を震わせるほど重かった。
ユノの意識が揺らぐ。
ル。
ナ。
二つの音が頭の中で繋がろうとする。
その瞬間、視界が黒く染まった。
誰かがユノの名前を呼んでいる。
遠い。
沈む。
水の底へ。
名前がほどける。
ユノ。
ユノ?
誰だ。
「ユノ!」
リゼの声が突き刺さった。
銀の輪が灼けるように熱い。
「ユノ、戻って!」
ミアも叫ぶ。
「ユノ!」
カイも。
「ユノ!」
ユノは歯を食いしばった。
「俺は……ユノ!」
星灯りの剣が光る。
黒い闇が少しだけ裂けた。
現実ではない。
まだアステリアの記憶の中だ。
だが、ユノは踏みとどまった。
アステリアは王の名の響きを聞いていた。
“ル”。
“ナ”。
彼女もまた、膝をついた。
だが、倒れなかった。
海涙石に手を置き、涙を流している。
その涙が青い宝石へ落ちた。
一滴。
また一滴。
涙が宝石に溶けるたび、都市全体が青く光る。
「沈みなさい、アステラ」
アステリアは言った。
「忘れられるためではなく、覚えているために」
都市が沈み始めた。
建物も、橋も、歌も、人々の記憶も。
すべてが深い青の底へ降りていく。
星喰いの闇が追いかけてくる。
だが、アステリアの涙が作った膜が、それを押し返した。
闇は完全には退かない。
でも、都市の記憶を喰らうことはできなかった。
アステリアは最後に、自分の名前を宝石へ刻んだ。
――アステリア。
その文字が光る。
けれど次の瞬間、彼女は自分の名前の一部を削った。
都市を守るために。
自分の名を沈めたのだ。
ユノは叫んだ。
「やめろ!」
声は届かない。
過去だ。
これはもう起きたことだ。
アステリアの身体が光になって崩れる。
最後に彼女は泣いていた。
悲しいからではない。
怖いからだけでもない。
人々の記憶を守るため。
都市を忘却へ渡さないため。
涙を流しながら、彼女は笑った。
「どうか、いつか誰かが」
その声が、ユノたちに向けられているように聞こえた。
「この歌を、名前へ戻してくれますように」
記憶が砕けた。
ユノたちは水晶宮の広間へ戻っていた。
祭壇の宝石は強く光っている。
その中で、アステリアの姿が揺れていた。
ユノは膝をついた。
頭が割れるように痛い。
金属筒の中で、王の名の欠片が暴れている。
“ル”。
“ナ”。
二つの響きが繋がろうとしている。
リゼがユノの肩を掴む。
「ユノ! 聞きすぎないで!」
「……ナ」
「言わないで!」
リゼの声が鋭かった。
ユノは口を閉じる。
分かっている。
王の名は、完全に繋げてはいけない。
まだ。
今の自分には耐えられない。
ミアが震える声で言った。
「アステラは……自分から沈んだの?」
リゼが頷く。
「星喰いに喰われる前に、記憶を守るために」
カイは目を赤くしていた。
「みんな、歌ってた」
「ええ」
リゼの頬にも涙があった。
「最後まで、名前を残そうとしていた」
祭壇の宝石から、青い涙のような光が一滴落ちた。
それは空中で固まり、小さな欠片になった。
リゼがそれを受け止める。
「海涙石……アステリアの涙」
「それが二つ目の手がかり?」
「ええ。王の名の二つ目の響きを封じている」
ユノは胸を押さえた。
「“ナ”……」
リゼが睨む。
「声に出さないで」
「悪い」
「響きは、音にすると強くなる。今は心に固定しないで。石に預けて」
ユノは頷いた。
リゼは海涙石を小さな青い容器に入れ、王の名の欠片とは別に封じた。
青い容器は震え続けている。
アステリアの記憶。
涙。
二つ目の響き。
ユノは祭壇の宝石を見上げた。
アステリアの姿は薄れていた。
だが、完全には消えていない。
『見届けてくれたのですね』
彼女の声がした。
リゼが静かに答える。
「あなたの涙を見ました」
『私は守れましたか』
その問いは、あまりにも切実だった。
海の巫女。
都市を沈めた者。
人々の記憶を守るために、自分の名さえ沈めた人。
ユノは立ち上がった。
「守ったと思います」
アステリアの光が揺れる。
「アステラの歌は残ってる。街の灯りも残ってる。人魚の歌守りも、あなたのことを守ってる」
『歌守り……』
アステリアの声がわずかに震えた。
『あの子は、まだ歌っているのですね』
「知っているの?」
ミアが聞いた。
『私の妹です』
四人は息を呑んだ。
人魚の歌守り。
名前を海に沈め、歌だけを守り続けていた記憶。
彼女は、アステリアの妹だった。
『あの子の名は、ミレイア』
アステリアは静かに言った。
『歌が好きな子でした。泣き虫で、優しくて、誰よりも人々の声を覚える子でした』
ユノは胸が熱くなった。
人魚の名前。
ミレイア。
見つけた。
リゼが涙を拭いながら頷く。
「必ず呼びます」
『ありがとう』
アステリアの光が少し薄くなる。
『そして、鍵の少年』
ユノは顔を上げた。
『王の名を追うなら、覚えていてください。名は力であり、檻でもあります』
「檻?」
『星喰いの王は、名を失ったから飢えているのではありません。名に縛られたから、すべての名を喰らおうとしているのです』
ユノは眉をひそめた。
意味はまだ分からない。
だが、重要な言葉だと分かった。
『王を倒すだけでは、忘却は終わりません。王の名を知り、その名がなぜ呪いになったのかを知らなければ』
「どうすれば分かる?」
『次は森へ』
アステリアの声が遠くなる。
『星の森エルディア。そこに、王がまだ王ではなかった頃の記憶が眠っています』
リゼが息を呑む。
「エルディア……魔女たちの最初の森」
『海底都市の記憶だけでは足りません。森へ行きなさい。そこに三つ目の響きがあります』
アステリアの姿が透明になっていく。
ユノは叫んだ。
「待って! あなたの名前は残ってる! アステリア!」
ミアも続けた。
「アステリア!」
カイも。
「アステリア!」
リゼも静かに、強く呼んだ。
「アステリア」
水晶宮が光に包まれた。
アステリアは微笑んだ。
『ありがとう。名を呼ばれるのは、こんなにも温かいのですね』
その姿は、青い光となって祭壇へ溶けた。
完全に消えたわけではない。
水晶宮そのものに戻ったようだった。
そして遠くから、人魚の歌が聞こえた。
でもその歌は、少し変わっていた。
どこかで名前を待っているような歌。
ミレイア。
早く呼んであげたい。
ユノはそう思った。
リゼが海涙石の容器を胸に抱えた。
「戻りましょう。歌守りに名を返す」
「ああ」
ユノは頷いた。
水晶宮の扉が、再び開いた。
その向こうには、沈殿区へ戻る青い道が続いている。
ユノは最後に祭壇を振り返った。
アステリアの涙。
都市を沈めた涙。
でもそれは、終わりの涙ではなかった。
守るための涙。
記憶を未来へ渡すための涙。
ユノは胸の中でその名を呼んだ。
アステリア。
忘れない。
そして四人は、水晶宮を後にした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、海の巫女アステリアの記憶が明かされました。
アステラは星喰いに滅ぼされたのではなく、記憶を守るために自ら沈んだ都市でした。
アステリアは自分の涙と名を使い、都市を沈殿区へ沈めました。
忘却に喰われるくらいなら、涙の底で記憶を守ることを選んだのです。
そしてユノたちは、星喰いの王の名の二つ目の響きを知ります。
“ナ”。
さらに、人魚の歌守りの本当の名前も明かされました。
ミレイア。
次のページは『失われた名前を呼ぶ者』です。
ユノたちは人魚の歌守りへ戻り、その名を呼ぶことで、アステラに新たな光を灯します。




