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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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水晶宮の扉

扉の向こうにあるものが、必ず希望とは限りません。


 それでも、開かなければ分からない真実があります。


 人魚の歌に導かれ、ユノたちは沈殿区へ降りていきます。

 そこは、アステラの記憶の中でも特に重く、深く沈んだ場所。


 そして、その最奥に眠っていたのは、水晶でできた宮殿でした。


 海の巫女アステリアの記憶。

 星喰いの王の名の二つ目の響き。

 そして、アステラが沈んだ本当の理由。


 このページでは、ユノたちが“水晶宮の扉”へ辿り着きます。

沈殿区は、海の底のさらに底にあった。


 水の中を降りているはずなのに、不思議と息はできた。

 ただ、身体が重い。


 一歩進むたび、誰かの思い出を背負っているようだった。


 周囲には、無数の光が漂っている。


 それは星ではない。

 泡でもない。

 記憶だった。


 笑い声。

 泣き声。

 祈り。

 約束。

 名前を呼ぶ声。

 別れの言葉。


 それらが小さな光となって、青い闇の中をゆっくり沈んでいる。


 ユノは手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。


 触れてはいけない。


 触れれば、誰かの人生が流れ込んでくる。


 今の自分には、もうすでに多くの名前がある。


 灰の王国で呼んだ人々。

 フェルカで出会った人々。

 ネリオの記憶。

 セレノの痛み。


 これ以上、何も考えずに抱え込めば、自分が沈む。


 人魚の言葉を思い出す。


 ――抱えすぎれば沈みます。

 ――手放しすぎれば自分を失います。

 ――分け合いなさい。


 ユノは小さく息を吸った。


「ユノ」


 自分の名を呼ぶ。


 すると、すぐ横からミアの声がした。


「ミア」


 少し後ろからカイ。


「カイ」


 そしてリゼ。


「リゼ」


 四つの名前が、水の中に小さく広がった。


 それだけで、沈みそうだった心が少し浮き上がる。


 ミアはルグナの記憶灯を胸に抱えていた。


 銀色の火は、水の中でも消えていない。透明な膜に包まれているように、ゆらゆらと揺れている。


「不思議……水の中なのに火が消えない」


 ミアが呟く。


 リゼが答えた。


「記憶の火だから。普通の水では消えないわ」


「じゃあ、何なら消えるの?」


「忘却」


 その一言で、ミアはランタンを強く抱きしめた。


「絶対消さない」


 カイは沈んでいく記憶の光を見つめていた。


「この中に、ネリオの記憶もあるのかな」


「あるかもしれない」


 ユノは答えた。


「アステラは色んな場所の記憶を集めていたみたいだから」


「父さんの顔も?」


 その声は、小さかった。


 ユノはすぐには答えられなかった。


 カイの父。

 木剣を作ってくれた大きな手。

 けれど顔はまだぼやけている。


 もしこの沈殿区に、その顔が残っていたら。


 カイは取り戻せるのだろうか。


 それとも、取り戻したことでさらに失った痛みを知るのだろうか。


 リゼが静かに言った。


「見つかったとしても、急に触れないで。深く沈んだ記憶は重い。特に失われた故郷の記憶は、引き上げる時に心を巻き込む」


 カイは唇を噛んだ。


「でも、見たい」


「分かるわ」


 リゼの声は優しかった。


「だからこそ、ひとりで触れないで」


 カイは少し驚いたようにリゼを見た。


 そして、小さく頷いた。


「うん」


 沈殿区の道は、道というより光の流れだった。


 足元に青白い線があり、それを辿ると自然に前へ進める。


 周囲の記憶は、深くなるほど大きくなっていった。


 最初は小さな光だったものが、やがて水晶の欠片のようになり、その中に映像を宿している。


 アステラの子どもが走る姿。

 巫女たちが星図盤の前で祈る姿。

 海の上から来た旅人たちが、記憶を預ける姿。


 そして、黒い影。


 星喰い。


 海の外側から、ゆっくりと都市へ近づいてくる巨大な闇。


 その影が映るたび、ユノの胸元にある王の名の欠片が冷たく震えた。


「近いな」


 ユノが呟く。


 リゼも頷いた。


「王の名の響きが、この先にある」


「二つ目……」


 最初の響きは“ル”だった。


 たった一音なのに、ユノの心を深く揺らした。


 二つ目を聞いたらどうなるのか。


 考えるだけで、喉が乾いた。


 けれど逃げるわけにはいかない。


 しばらく進むと、前方に巨大な影が見えてきた。


 最初は岩かと思った。


 だが近づくにつれ、それが建物だと分かった。


 水晶でできた宮殿。


 海底の青い闇の中に、透明な塔がいくつも立っている。壁も柱も階段も、すべて淡く光る水晶でできていた。


 宮殿の周囲には、記憶の光が輪を描くように漂っている。


 まるで星々が宮殿を守っているようだった。


 ミアが息を呑む。


「綺麗……」


 カイも目を丸くした。


「これ、全部水晶?」


 リゼの表情が引き締まる。


「水晶宮。海の巫女アステリアが、最後に記憶を沈めた場所よ」


 ユノは宮殿を見上げた。


 美しい。


 けれど、同時に怖い。


 美しすぎるものは、時々、悲しみを隠している。


 灰の王国の玉座の間がそうだったように。


 水晶宮の正面には、大きな扉があった。


 扉もまた透明な水晶でできている。


 その表面には、無数の名前が刻まれていた。


 アステラの人々の名。


 預けられた記憶の持ち主たち。


 リゼが扉へ近づき、文字を読んだ。


「ここに名を預けし者、海に沈まず、星に沈む」


「どういう意味?」


 ミアが聞く。


「肉体は滅びても、記憶は星の記録へ残るという意味だと思う」


 ユノは扉に刻まれた名前を見た。


 知らない名前ばかりだ。


 けれど、そのひとつひとつに人生があった。


 ここへ記憶を預けた人々。


 帰れると信じていた人。

 もう帰れないと分かっていた人。

 誰かのために自分の記憶を残した人。


 扉の中央には、手を置くための水晶台があった。


 門の時と同じ。


 だが、今度の水晶台は黒く濁っていた。


 リゼが眉を寄せる。


「汚染されている」


「星喰いに?」


「ええ。アステリアの記憶に触れた何かが、ここを蝕んでいる」


 ユノは星灯りの剣を呼び出した。


 銀の刃が水晶宮の前で光る。


 黒く濁った水晶台が、それに反応して低く唸った。


 ミアがランタンを掲げる。


「これ、斬るの?」


「いきなり斬るのは危険よ」


 リゼが言った。


「扉そのものが記憶でできている。壊せば、中の記憶も砕ける」


「じゃあ開けるには?」


 リゼは扉の文字をさらに読む。


「預けた記憶を示せ。失わず、縛られず、今へ戻れる者のみ入ることを許す」


 ユノは胸が重くなる。


 やはり、ここで預けた記憶と向き合うのだ。


 父と星を見た夜。


 ミアは時計。


 カイは木剣。


 リゼは姉に髪を結ってもらった朝。


 四人それぞれが、大切な記憶を預けている。


 それを示さなければ、この扉は開かない。


「ひとりずつ?」


 ミアが不安そうに聞く。


 リゼは首を振った。


「おそらく全員同時。水晶宮は個人ではなく、共鳴を求めている」


「共鳴?」


「預けた記憶に呑まれず、それぞれが今の名前を保つこと。そして仲間の声で戻れること」


 カイが顔をしかめる。


「難しい」


「簡単に言えば」


 リゼは少し考えてから言った。


「思い出しても、沈まないこと」


 ミアが小さく呻いた。


「やっぱり難しい……」


 ユノは水晶台を見た。


 黒く濁った表面に、自分の顔が映っている。


 少し疲れた顔。


 旅に出る前とは違う顔。


 だが、それでも自分だ。


「やろう」


 ユノは言った。


「ここで止まっても仕方ない」


 ミアがため息をつく。


「ユノは本当にすぐ前に出る」


「今回は全員同時だろ」


「そうだけど」


 カイが木剣を握った。


「俺もやる。父さんの顔、思い出せるかもしれない」


 リゼが彼を見る。


「無理に掴まないで。見えたものを追いかけすぎると戻れなくなる」


「分かった」


 カイは不安そうだったが、逃げなかった。


 リゼも水晶台の前に立つ。


 彼女の表情は静かだった。


 けれどユノは銀の輪を通して、彼女の胸が少し震えているのを感じた。


 姉との朝。


 優しい記憶ほど、失うのが怖い。


 ユノは小さく呼んだ。


「リゼ」


「いるわ」


「戻れなくなったら呼ぶ」


「私も呼ぶ」


 ミアが横から言う。


「私も呼ぶよ。全員呼ぶ」


 カイも頷く。


「俺も。たぶん声小さいけど」


「大きく呼べ」


 ユノが言うと、カイは少しだけ笑った。


「分かった」


 四人は水晶台に手を置いた。


 冷たい感触。


 次の瞬間、黒く濁った水晶が青白く光った。


 視界が揺れる。


 水晶宮が遠ざかる。


 ユノは、自分が屋根の上にいることに気づいた。


 ルグナ。


 夜。


 煤けた屋根。


 見上げれば、星がある。


 たくさんの星が。


 今よりずっと多い。


 隣には父が座っていた。


 大きな背中。


 無精ひげ。


 少し煤けた頬。


 懐かしい声。


「ユノ」


 父が言った。


「また屋根に登ったのか」


 ユノは息を呑んだ。


 これは預けた記憶。


 父と星を見た夜。


 水晶宮の扉が見せている記憶だ。


 分かっている。


 でも、父がそこにいる。


 温かい。


 生きている。


「父さん……」


 声が震えた。


 父は笑った。


「どうした。変な顔して」


 ユノは泣きそうになった。


 駄目だ。


 これは記憶。


 沈んではいけない。


 でも、もう少しだけ見ていたい。


 もう少しだけ、父の声を聞いていたい。


 父は空を見上げた。


「星が綺麗だな」


「ああ」


「覚えておけよ」


「何を」


「こういう夜を」


 父は言った。


「人間は、悲しいことばかり覚えてしまう。でも本当は、何でもない夜の方が大事だったりする」


 ユノの胸が詰まった。


 何でもない夜。


 父と並んで星を見るだけの夜。


 特別な事件もなく、約束もなく、ただそこにいた記憶。


 それを、自分はアステラに預けた。


 守るために。


 けれど今、その記憶があまりにも温かくて、手放したくなかった。


 遠くから声がする。


「ユノ!」


 ミアの声。


「ユノ!」


 カイの声。


「ユノ」


 リゼの声。


 父がユノを見る。


「行くのか」


 ユノは唇を噛む。


「まだ……」


「まだいたいか」


「うん」


 父は笑った。


「なら、覚えておけ。ここへ戻るために、今は行け」


「戻れる?」


「お前が忘れなければ」


 父はユノの頭を撫でた。


 その手の温かさが、胸に焼きつく。


「ユノ」


 リゼの声が強くなる。


「戻ってきて」


 ユノは目を閉じた。


「俺は、ユノ」


 屋根の景色が揺れる。


 父が遠ざかる。


「父さん」


「生きろ」


 その声を最後に、ユノは現実へ戻った。


 水晶宮の扉の前。


 手はまだ水晶台に置かれている。


 隣でミアが涙をこぼしていた。


「お父さん……本当に、まあまあって言ってた……」


 彼女は笑いながら泣いている。


「やっぱり褒めてた……」


 カイは息を震わせていた。


「父さんの顔……少し見えた。全部じゃないけど、笑ってた」


 彼は木剣を強く抱きしめている。


「俺、忘れたくない」


 リゼは目を閉じていた。


 頬には涙があった。


 けれど表情は穏やかだった。


「姉様の手……温かかった」


 ユノはリゼを見る。


 リゼも目を開けた。


「戻ったな」


「ええ」


「全員?」


 ミアが頷く。


「戻った」


 カイも。


「戻った」


 四人の手元で、水晶台の黒い濁りが薄れていく。


 完全ではない。


 だが、青い光が戻った。


 扉に刻まれた名前たちが、一斉に輝き始める。


 水晶宮の扉が、ゆっくり開いた。


 中から、深い青の光が溢れる。


 そして、声が聞こえた。


 女性の声。


 静かで、強く、海の底の星のような声。


『名を保つ者たちよ』


 リゼが息を呑む。


「アステリア……」


 声は続いた。


『私の記憶へ入るなら、覚悟なさい。そこには星喰いの王の響きが沈んでいます』


 ユノの胸元で、王の名の欠片が冷たく震えた。


『聞けば、あなたたちの名も揺らぐでしょう』


 ミアがランタンを抱え直す。


 カイが木剣を握る。


 リゼが銀の輪に触れる。


 ユノは星灯りの剣を呼び出した。


 扉の向こうには、水晶の回廊が続いている。


 その奥に、海の巫女アステリアの記憶がある。


 星喰いの王の名の二つ目の響きがある。


 ユノは自分の名前を呼んだ。


「ユノ」


 仲間たちも続ける。


「ミア」


「リゼ」


「カイ」


 四人は水晶宮の扉をくぐった。


 背後で扉が静かに閉まる。


 もう戻れない。


 けれど、戻るために進むのだ。


 父が言ったように。


 何でもない夜へ、いつか帰るために。


 ユノは剣を握り、水晶の回廊の奥へ歩き出した。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、沈殿区の奥にある“水晶宮”へ辿り着きました。


 水晶宮に入るため、ユノたちはそれぞれ預けた記憶と向き合います。


 ユノは父と星を見た夜。

 ミアは父に時計修理を褒められた日。

 カイは父に木剣を作ってもらった日。

 リゼは姉に髪を結ってもらった朝。


 どれも優しい記憶です。

 だからこそ、沈みたくなるほど危うい記憶でもありました。


 けれど四人は互いの名前を呼び合い、今へ戻ってきました。


 そして水晶宮の扉は開かれます。


 次のページは『アステリアの涙』です。

 海の巫女アステリアの記憶に触れ、ユノたちはアステラが海に沈んだ本当の理由を知ることになります。

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