人魚の歌
歌は、言葉よりも長く残ることがあります。
名前を忘れても。
顔を忘れても。
声だけが、海の底で揺れ続けることがあります。
沈殿区へ向かうユノたちは、アステラの奥で美しい歌に導かれます。
その歌を守っていたのは、人魚の記憶でした。
けれど、その歌には優しさだけでなく、深い悲しみも沈んでいます。
水晶の階段は、海の底へ向かって続いていた。
上を見上げれば、アステラの街灯りが遠くに揺れている。真珠色の塔も、星図盤の青い光も、少しずつ小さくなっていく。
下へ降りるほど、周囲の青は深くなった。
薄い水色から、濃い藍色へ。
まるで夜の中へ降りていくようだった。
ユノは一段ずつ慎重に足を運んだ。
階段の外側には手すりがない。すぐ横には透明な膜があり、その向こうには本物の海が広がっている。
魚の群れが通り過ぎる。
光るクラゲがふわりと浮かぶ。
遠くでは、巨大な影がゆっくり泳いでいた。
カイがそれを見て、顔を引きつらせた。
「今の、魚か?」
「魚だと思いたい」
ユノが答えると、ミアが小さく震えた。
「思いたいって何……」
リゼは前方を見つめている。
彼女の耳には、何かが聞こえているようだった。
「歌が近い」
その言葉通り、下へ進むほど歌声ははっきりしてきた。
優しい声だった。
けれど、明るい歌ではない。
子守歌のように柔らかいのに、どこか泣いているような響きがある。
歌詞は聞き取れない。
いや、言葉ではないのかもしれない。
波の音。
祈り。
名前を呼ぶ声。
それらが混ざったような歌だった。
ミアがランタンを抱えながら呟く。
「綺麗なのに、胸が苦しくなる」
「記憶の歌だから」
リゼが答えた。
「この歌には、誰かが残した想いが宿っている」
カイは黙って歌を聞いていた。
やがて、小さく言う。
「母さんの歌に似てる」
ユノはカイを見る。
「覚えてるのか?」
「少しだけ」
カイは木剣を握りしめた。
「ネリオが消えた時、母さんの顔はぼやけた。でも歌は少し残ってる。寝る時に歌ってくれたやつ」
「どんな歌?」
ミアが優しく聞いた。
カイは少し口を開きかけて、すぐ閉じた。
「分かんない。歌おうとすると消えそうになる」
ユノは胸が痛くなった。
名前だけではない。
顔だけでもない。
歌もまた、消えかける記憶なのだ。
リゼが静かに言う。
「無理に思い出さなくていい。消えそうな記憶は、急に引っ張ると千切れることがある」
カイは頷いた。
「うん」
階段の終わりに、小さな円形の広場があった。
そこは海中に浮かぶ舞台のような場所だった。
水晶でできた床。
周囲を囲む透明な膜。
その外側には、深い海が広がっている。
広場の中央には、白い貝殻のような椅子がひとつ置かれていた。
そして、その椅子に座っている影があった。
人ではない。
上半身は少女のようだった。
長い髪が水の中で揺れるように広がり、肌は淡い青白さを帯びている。
けれど下半身は魚の尾だった。
鱗は銀色で、星の光を閉じ込めたように輝いている。
人魚。
ユノはそう思った。
人魚の少女は、目を閉じて歌っていた。
声は彼女から出ている。
けれど同時に、海全体から聞こえているようでもあった。
ミアが息を呑む。
「人魚……?」
リゼは低く言った。
「実体ではないわ。記憶よ」
人魚の歌が止まった。
少女はゆっくり目を開ける。
瞳は深い海の色をしていた。
『来たのね』
声は歌と同じだった。
優しく、悲しい。
ユノは一歩前へ出る。
「あなたは?」
『私は歌守り。名は、もう海に沈みました』
「名前がないのか」
『ありました。でも、歌を守るために置いてきた』
その言葉に、カイが反応した。
「名前を置いてきたら、寂しくないのか」
人魚はカイを見る。
『寂しいという感覚は、歌の中に残っています。でも、私が誰として寂しかったのかは分からない』
アステラの記憶管理者と同じような答えだった。
役割だけが残り、名前がない存在。
ユノは拳を握った。
「どうして歌を守ってるんだ」
『アステラの人々が沈む時、最後に残したものだから』
人魚は手を伸ばした。
すると周囲の海に、無数の光が浮かび上がった。
記憶片だ。
人々が歌っている。
子どもを抱く母親。
手を繋ぐ夫婦。
祈る老人。
星図盤の前で泣く少女。
街中の人々が、同じ歌を歌っている。
『星喰いが海へ降りてきた夜、人々は名前を預け、記憶を沈めました。けれど、すべてを預ける時間はなかった』
光の中で、人々が次々と海へ沈んでいく。
悲鳴ではなく、歌が響いていた。
『だから彼らは歌を残した。名前が消えても、誰かがここにいたと伝えるために』
ミアの目に涙が浮かんだ。
「歌って、そういうものだったんだ……」
『はい。歌は、名前ほどはっきり存在を示せません。でも、名前より遠くまで届くことがあります』
ユノは歌を聞いた。
確かに、誰の歌かは分からない。
でも、誰かがここにいたことは伝わる。
生きていた。
愛していた。
怖かった。
それでも忘れられたくなかった。
その想いが、歌になって海の底に残っている。
リゼが人魚に問いかけた。
「沈殿区へ行きたい。海の巫女アステリアの記憶を探している」
人魚の表情が少し変わった。
『アステリア様の記憶は、歌の底にあります』
「通してくれる?」
『通すことはできます。でも、その前に歌を聞かなければなりません』
ミアが不安そうにする。
「聞くだけ?」
『聞くだけです。けれど、歌は心の底に沈んだ記憶を揺らします』
ユノの胸がざわついた。
また記憶。
預けた記憶と向き合う前に、さらに歌が心を揺らす。
怖くないわけがなかった。
けれど、進むには避けられない。
「分かった」
ユノは頷いた。
「聞く」
人魚はゆっくり歌い始めた。
今度の歌は、さっきよりも近かった。
耳で聞くのではない。
胸の中で響く。
最初に揺れたのは、ユノの記憶だった。
ルグナの屋根。
星の夜。
父の横顔。
けれど門に預けた記憶の一部は、薄い水の向こうにある。
はっきり思い出せない。
そのもどかしさが胸を締めつける。
父さん。
声に出そうとして、ユノは息を詰まらせた。
歌は優しい。
でも優しすぎる。
その優しさに身を委ねたら、預けた記憶の中へ沈んで戻れなくなりそうだった。
銀の輪が光る。
「ユノ」
リゼの声。
ユノは目を開けた。
「いる」
次に、ミアが震えた。
ランタンを抱えた手に力が入る。
「お父さん……」
彼女の目には、工房の記憶が映っているのだろう。
初めて時計を直した日。
父に褒められた記憶。
ミアは泣き笑いのような顔をした。
「まあまあだなって……本当に褒めてたのかな」
ユノは言った。
「褒めてたよ」
「見てないじゃん」
「ミアの父さんなら、そう言う時は絶対褒めてる」
ミアは小さく笑った。
涙が一粒落ちた。
「うん」
カイは木剣を抱きしめていた。
歌に揺さぶられ、父が木剣を作ってくれた記憶へ近づいているのだろう。
「父さんの手……大きかった」
カイは呟いた。
「でも、顔が……まだぼやける」
リゼが言った。
「焦らないで。手を覚えているなら、それも大切な記憶よ」
カイは頷いた。
「うん……」
最後にリゼが揺れた。
彼女の表情が変わる。
いつも冷静な赤い瞳が、幼い子どものように不安げになる。
姉に髪を結ってもらった朝。
その記憶が、歌に呼ばれている。
「姉様……」
リゼの声は小さかった。
ユノは銀の輪を通して、柔らかな記憶の温度を感じた。
朝の光。
櫛が髪を通る感覚。
姉の指先。
優しい声。
――リゼ、じっとしていて。
――くすぐったい。
――綺麗に結べないでしょう。
リゼの頬に、涙が落ちた。
彼女自身も驚いたように目を見開いた。
「私……」
涙。
千年眠って、姉の棺を見ても出なかった涙。
それが今、静かにこぼれていた。
ユノは何も言わなかった。
ミアも、カイも黙っていた。
人魚の歌だけが続いている。
リゼは涙を拭おうとしたが、手が止まった。
そして、そのまま泣いた。
声を上げずに。
ただ静かに。
長い時間、閉じ込めていたものが少しだけ流れ出すように。
ユノは小さく名前を呼んだ。
「リゼ」
彼女は涙をこぼしたまま答えた。
「いるわ」
「うん」
「私……泣けたのね」
「ああ」
リゼは少しだけ笑った。
痛そうな笑顔だった。
でも、確かに笑顔だった。
「忘れていたわ。涙の出し方」
人魚の歌が少しずつ静かになった。
最後の音が海へ溶けていく。
広場に静寂が戻った。
けれど、さっきまでの静寂とは違った。
少しだけ温かい。
少しだけ痛みが軽い。
人魚は目を開けた。
『歌は、沈んだものを揺らします。無理に引き上げることはできません。でも、そこにあると知らせることはできます』
ユノは頷いた。
「ありがとう」
『礼は不要です。私は歌を守るだけ』
リゼが涙を拭い、まっすぐ人魚を見た。
「あなたの名前を探すことはできる?」
人魚は少し驚いたように瞬きをした。
『私の名?』
「ええ。あなたにも名前があったのでしょう」
『ありました。でも、必要ありません。私は歌守りです』
「役割だけでは、寂しいでしょう」
リゼの声は静かだった。
人魚はしばらく黙った。
海の向こうで、光る魚が通り過ぎる。
『寂しい、という歌は残っています』
「なら、名前を探したい」
ユノも頷いた。
「俺たちにできるなら」
ミアも言った。
「歌を守ってくれた人の名前、私も知りたい」
カイも少し照れながら。
「名前ないの、嫌だろ」
人魚は四人を見つめた。
その瞳の奥で、青い光が揺れた。
『私の名は、歌の底に沈んでいます。沈殿区へ行けば、見つかるかもしれません』
「じゃあ探す」
ユノは言った。
『でも、私の名を探すことは、アステリア様の記憶へ近づくことでもあります。危険です』
「危険じゃない道なんて、もうなさそうだし」
ミアがため息混じりに言う。
「ほんと、それ」
カイが頷いた。
リゼは人魚へ言った。
「道を示して」
人魚は歌うように手を上げた。
広場の奥に、海へ続く門が現れる。
透明な水の膜でできた門。
その向こうには、さらに深い青が広がっていた。
『この先が沈殿区です』
ユノは門を見た。
胸元の星涙石が震えている。
王の名の欠片を入れた金属筒も、かすかに冷たくなった。
間違いない。
この先に、星喰いの王の名の二つ目の響きがある。
『沈殿区では、記憶は水より重くなります』
人魚が言った。
『抱えすぎれば沈みます。手放しすぎれば自分を失います』
「どうすればいい」
ユノが聞く。
『分け合いなさい』
人魚は静かに答えた。
『ひとりで抱える記憶は重すぎる。歌があるのは、ひとりでは支えられないものを、誰かと分けるためです』
ユノは仲間たちを見た。
ミア。
リゼ。
カイ。
それから自分の右手首に光る銀の輪。
名前を呼ぶこと。
記憶を分け合うこと。
ここまで何度も学んできたはずだった。
でも、まだ足りない。
これから先、もっと必要になる。
「分かった」
ユノは言った。
「ひとりで抱えない」
ミアがすぐに言う。
「本当に?」
「本当に」
「怪しい」
「信用ないな」
「前科が多いから」
カイも頷く。
「ユノはすぐ一人で前に出る」
「カイまで言うか」
リゼが静かに続けた。
「だから、私たちが止める」
ユノは少し笑った。
「頼む」
人魚の歌守りは、そのやり取りを見て、ほんの少し微笑んだように見えた。
『名を持つ者たちよ。歌を忘れずに』
彼女は再び歌い始めた。
今度の歌は、先ほどより少し明るかった。
悲しみはある。
けれど、その奥に小さな光があった。
ユノたちは門へ向かった。
くぐる直前、リゼが振り返った。
「必ず、あなたの名前も探すわ」
人魚は目を閉じたまま答えた。
『もし見つかったなら、呼んでください』
「ええ」
ユノも言った。
「必ず」
四人は水の門をくぐった。
冷たい感覚が身体を包む。
息はできる。
だが、足元がふわりと浮いた。
沈んでいるのか、降りているのか分からない。
周囲には無数の記憶の光が漂っている。
歌が遠ざかる。
でも完全には消えない。
人魚の歌は、背中を押すように、海の底から響き続けていた。
ユノは目を閉じ、自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
ミアが続ける。
「ミア」
リゼも。
「リゼ」
カイも。
「カイ」
そして、まだ見つからない名前へ向けて、ユノは小さく呟いた。
「歌守り」
いつか、その本当の名を呼ぶために。
四人は沈殿区へ降りていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、アステラの奥で“人魚の歌”を守る記憶と出会いました。
人魚は実体ではなく、アステラの人々が最後に残した歌を守る存在です。
名前は海に沈み、役割だけが残っています。
彼女の歌によって、ユノたちはそれぞれ預けた記憶に触れました。
ユノは父と星を見た夜。
ミアは父に褒められた記憶。
カイは父の手と木剣。
リゼは姉に髪を結ってもらった朝。
そしてリゼは、千年越しに涙を流すことができました。
次のページは『水晶宮の扉』です。
沈殿区へ降りたユノたちは、海の巫女アステリアの記憶が眠る水晶宮へ辿り着きます。




