海底都市アステラ
海の底には、忘れられた都市が眠っていました。
星を守るために作られた都市。
記憶を保管するために築かれた場所。
そして、星喰いの王の名へ近づくための新たな扉。
灰の王国を抜けたユノたちは、小舟に乗って黒い水路を進みます。
向かう先は、海底都市アステラ。
そこには、星涙石の秘密と、海に沈められた記憶が待っています。
小舟は、黒い水路を静かに進んでいた。
櫂を握っているのはユノだった。
けれど、水を漕いでいる感覚はほとんどない。
水面は黒く、重く、櫂を入れるたびに、まるで誰かの眠りを起こしてしまうような気がした。
ミアは舟の中央で記憶灯を抱えている。
ルグナの銀火は、小舟の揺れに合わせて小さく震えていた。
カイは舟の縁を両手で掴み、顔を強張らせている。
「俺、海って初めて見る」
「まだ海じゃないぞ」
ユノが言うと、カイはむっとした。
「水が多ければ海だろ」
「それは違うと思う」
ミアが小さく笑った。
「海はもっと広いよ。私もちゃんと見たことないけど」
「ミアも?」
「ルグナは山と炭鉱の町だからね。水なら井戸と配管くらい」
リゼは舟の先端に座り、前方の闇を見つめていた。
彼女の横顔は静かだった。
けれどユノには、まだ彼女の中にセレノの名が重く残っているのが分かった。
銀の契約は便利ではない。
リゼがよく言うその言葉の意味を、ユノは少しずつ理解していた。
相手が傷つけば、痛みが伝わる。
相手が不安なら、胸の奥がざわつく。
けれどそれは、完全に悪いことではなかった。
ひとりで沈んでいく前に、気づけるからだ。
「リゼ」
ユノが呼ぶと、彼女の手首の銀の輪が淡く光った。
「いるわ」
「うん」
「確認?」
「確認」
リゼは少しだけ振り返った。
「あなたも?」
「いる」
「ならいいわ」
それだけの会話だった。
けれど、ミアがまた頬を膨らませる。
「やっぱり二人だけで通じてる」
「そう見えるか?」
「見える」
カイも頷いた。
「見える」
リゼは真面目に考え込んだ。
「契約の影響を抑える方法もあるけれど」
「そういう話じゃない!」
ミアが言うと、リゼは少し困った顔をした。
その表情が珍しくて、ユノは思わず笑ってしまった。
灰の王国を出てから、空気が少しずつ変わっていた。
もちろん危険は消えていない。
セレノは海の門で待っている。
星喰いの王の名の欠片も、まだ揃っていない。
それでも、焼けた灰と怒号に満ちた王城の中よりは、この暗い水路の方が少しだけ息がしやすかった。
やがて、水路の先に青白い光が見えた。
最初は小さな点だった。
しかし近づくにつれ、それは丸い出口だと分かった。
地下水路の終わり。
外へ続く穴。
リゼが立ち上がる。
「海に出るわ」
小舟が光の中へ滑り込んだ。
その瞬間、視界が開けた。
ユノは息を呑んだ。
海だった。
どこまでも広がる水。
灰の王国の地下から流れ出した水路は、断崖の下にある静かな入り江へ繋がっていた。
空は曇っている。
けれど、遠くの水平線だけが青く光っていた。
波が岩に当たり、白い飛沫を上げている。
潮の匂い。
風の音。
ルグナにも、灰の王国にもなかった広さ。
カイが目を丸くした。
「これが……海」
ミアも言葉を失っていた。
「すごい……」
ユノも同じだった。
世界は広い。
知っていたつもりだった。
けれど本当に見たのは初めてだった。
こんなに大きな水がある。
こんなに遠くまで続く場所がある。
星が消えかけている世界にも、まだこんな景色が残っている。
それが少しだけ希望のように思えた。
リゼは海を見つめていた。
その表情は懐かしそうでもあり、寂しそうでもあった。
「千年前と同じ?」
ユノが聞くと、リゼは静かに首を振った。
「少し違うわ」
「どこが?」
「星の映り方」
ユノは空を見上げた。
昼なので星は見えない。
だが、リゼには何か違いが分かるのだろう。
「昔の海は、夜になると星を全部抱いていた。海面がもうひとつの空みたいに光っていた」
「今は?」
「星が少ないから、海も暗い」
リゼの声は沈んでいた。
ユノは何も言えなかった。
星が消えるということは、空だけの問題ではない。
海も、森も、人の心も、世界すべてが少しずつ暗くなっていくのだ。
その時、舟の下で何かが光った。
ミアが声を上げる。
「今、下!」
ユノは舟の縁から覗き込んだ。
海の底に、青い光の線が走っている。
それは道のようだった。
海底に描かれた星図。
光の線は入り江の沖へ続いている。
リゼが言った。
「アステラへの導き星」
「これを辿ればいいのか」
「ええ。ただし、ここからは普通の海ではない」
「どういう意味だ?」
リゼは海面に手を伸ばした。
水が彼女の指先に触れると、銀色の輪が広がる。
「この海の下には、記憶の膜がある。アステラはその下に沈んでいる。門を開けば、舟ごと海底へ降りる」
ミアが青ざめた。
「舟ごと沈むってこと?」
「沈むというより、降りる」
「違いが分からない!」
「息はできるはずよ」
「“はず”!」
カイも不安そうに水面を見る。
「俺、泳げない」
「俺も泳げない」
ユノが言うと、カイが絶望した顔をした。
「先に言えよ!」
「今言った」
「遅い!」
ミアが頭を抱えた。
「全員不安しかない……」
リゼは平然としている。
「門が正常なら問題ないわ」
「正常じゃなかったら?」
「溺れる」
「さらっと言わないで!」
ユノは苦笑した。
怖い。
でも進むしかない。
小舟は青い光の線を辿って沖へ出た。
波は不思議と穏やかだった。
入り江の外は荒れているように見えるのに、導き星の上だけは静かな水路のように凪いでいる。
やがて、海面に大きな円が見えてきた。
青白い光で描かれた円。
その内側に、星の紋様が浮かんでいる。
海の門。
リゼが立ち上がった。
「ここね」
その瞬間、空から黒い羽根が落ちてきた。
一枚。
また一枚。
波に触れても沈まず、海面に浮かんで円を描く。
セレノの気配。
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
ミアは記憶灯を抱え、カイは木剣を構える。
黒い羽根が集まり、海面の上に人影を作った。
セレノだった。
黒い外套。
黒い羽根の紋章。
顔は影で隠れている。
『よく来た』
その声は穏やかだった。
リゼが前に出る。
「セレノ」
『その名を呼ぶのだね』
「呼ぶわ。あなたが捨てても、私は忘れない」
『残酷だ』
「あなたほどではない」
セレノは静かに笑った。
『海底都市アステラには、二つ目の王の名の手がかりがある』
「なぜ教える」
ユノが問う。
『君たちが進まなければ、王の名は完成しない』
「俺たちは完成させるために進んでるんじゃない」
『結果は同じだ』
ユノは剣を握る手に力を込めた。
リゼが小さく言う。
「挑発に乗らないで」
「分かってる」
セレノは海の門を見下ろした。
『アステラは記憶を守る都市だった。だが記憶を守る者ほど、忘却を恐れる』
「何が言いたい」
『中へ入れば分かる。海は優しい。沈めば、苦しみも声も遠くなる』
「私たちは沈まない」
リゼの声は強かった。
『そう願っているだけだ』
セレノの影が薄れていく。
最後に彼はユノを見た。
『鍵よ。海底で君は、名前を呼べない記憶に出会う』
「また試練か」
『いいや。真実だ』
黒い羽根が散った。
セレノの姿は消えた。
残された海の門が、青く輝きを増している。
ミアが震えた声で言った。
「絶対嫌なこと言い残していったよね」
「いつもそうだな」
ユノは息を吐いた。
リゼは門へ手をかざす。
「行くわ」
「待って」
ミアが声を上げた。
「入る前に、名前を確認しよう」
ユノは頷いた。
「そうだな」
小舟の上で、四人は互いを見た。
「ユノ」
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
それから続けた。
「ルグナ」
「ネリオ」
「フェルカ」
「セレノ」
リゼがその名を呼んだ時、海面に落ちていた黒い羽根が一瞬だけ震えた。
けれどもう襲ってはこない。
ユノは星灯りの剣を手首へ戻し、櫂を握った。
「行こう」
小舟が海の門へ入った。
青い円が光る。
次の瞬間、海面が割れた。
いや、割れたのではない。
水が透明な階段のようになり、小舟をゆっくり下へ導き始めた。
ミアが悲鳴を上げる。
「沈んでる! 沈んでるよ!」
「降りてる!」
ユノも半分叫びながら言った。
「同じだよ!」
カイは目をぎゅっと閉じている。
「ネリオネリオネリオネリオ……!」
リゼだけが冷静だった。
「息はできるわ」
確かに、舟は海の中へ入っているのに、呼吸はできた。
周囲には透明な膜のようなものがあり、水が直接入ってこない。
膜の向こうを、魚の群れが泳いでいく。
銀色の小魚。
青い尾を持つ大きな魚。
光るクラゲのような生き物。
ユノは恐怖を忘れて見入った。
海の中は、空の中のようだった。
暗いのに光がある。
静かなのに命が動いている。
小舟は青い光の道を下っていく。
上を見れば、海面が遠ざかっていく。
下には、深い青の世界が広がっていた。
ミアが少しずつ顔を上げる。
「……綺麗」
カイも恐る恐る目を開けた。
「すげぇ……」
リゼは遠くを指差した。
「見えてきた」
ユノは前方を見た。
海の底に、都市があった。
海底都市アステラ。
巨大な透明の丸い膜に包まれた都市。
その中に、白い塔がいくつも立っている。
塔の先端には星の形をした灯りが灯り、青い水の中でゆらゆらと揺れている。
道は真珠のように白く、建物の壁には貝殻のような光沢がある。
都市の中央には、巨大な星図盤が浮かんでいた。
ゆっくり回転しながら、消えかけた星の位置を示している。
美しかった。
息を忘れるほど。
けれど同時に、どこか寂しかった。
都市の灯りはある。
建物も残っている。
でも、人の気配がない。
まるで美しい墓標のようだった。
「人、いないの?」
ミアが小さく聞く。
リゼは答えなかった。
代わりに、星図盤を見つめていた。
「千年前、アステラには星の記憶を守る人々がいた。海の底なら星喰いから逃れられると考えられていた」
「でも、誰もいない」
カイが言う。
ユノは胸がざわついた。
星喰いから逃れるための都市。
記憶を守るための都市。
そこが今、沈黙している。
何かがあったのだ。
小舟は都市の膜に近づいた。
入口には巨大な門があった。
貝殻と白石で作られた門。
そこに古い文字が浮かんでいる。
リゼが読んだ。
「名を持つ者よ、記憶を置いて進め」
「記憶を置く?」
ユノが聞く。
門の前に小さな水晶台があった。
その上に手を置くようになっている。
リゼの表情が険しくなる。
「入城記録ね。アステラに入る者は、自分の記憶の一部を都市に預ける決まりがあった」
「なんで?」
「もし星喰いに喰われても、都市に記憶が残るように」
ミアが不安そうに水晶台を見る。
「預けた記憶って戻るの?」
「本来なら」
「本来ならって言い方やめて……」
門は閉じたままだった。
進むには、記憶を預けるしかない。
ユノは水晶台へ手を伸ばしかけた。
リゼが止める。
「最初は私が」
「危ないだろ」
「私は魔女。記憶の扱いには慣れている」
「でも」
「ユノ」
リゼは静かに言った。
「あなたはもう多くの記憶を抱えている。ここでは、すぐに前へ出ないで」
ユノは言葉に詰まった。
確かに、灰の王国で背負った名前と記憶は多い。
無茶をすれば、自分だけでなく仲間も危険にする。
「分かった」
ユノは一歩下がった。
リゼは水晶台に手を置いた。
水晶が青く光る。
リゼの髪がふわりと浮いた。
門の文字が変わる。
――名を示せ。
「リゼ」
彼女は答えた。
――預ける記憶を示せ。
リゼは少し黙った。
ユノは胸がざわついた。
記憶を預ける。
それは簡単なことではない。
何を差し出すのか。
リゼは静かに言った。
「姉様に髪を結ってもらった朝」
ユノは息を呑んだ。
それは、きっとリゼにとって大切な記憶だ。
戦いや裏切りではない。
ただ優しい朝の記憶。
水晶が光を吸い込む。
リゼの表情が一瞬だけ揺れた。
けれど彼女は手を離さなかった。
門が少し開く。
次はミアだった。
ミアは不安そうにユノを見る。
「何を預ければいいのかな」
「大事だけど、失くしたくないものは駄目だ」
「それ全部じゃん」
ミアは苦笑した。
そして水晶台に手を置く。
――名を示せ。
「ミア」
――預ける記憶を示せ。
ミアは少し考えた。
「初めて一人で壊れた時計を直した日の記憶」
水晶が青く光る。
ミアは目を閉じた。
「お父さんが、まあまあだなって言った。あれ、たぶんすごく褒めてた」
門がさらに開く。
次はカイ。
彼は震えながら水晶台に手を置いた。
――名を示せ。
「カイ」
――預ける記憶を示せ。
カイは唇を噛んだ。
「父さんが木剣を作ってくれた日の記憶」
ユノはカイを見た。
「大丈夫か?」
「うん」
カイは涙をこらえるように言った。
「取り戻すために預ける。失くすためじゃない」
水晶が光る。
門がさらに開く。
最後はユノだった。
彼は水晶台の前に立った。
胸が緊張で重くなる。
何を預ける。
父の記憶。
ルグナの記憶。
ミアとの記憶。
リゼとの契約。
どれも失いたくない。
けれど、この門は奪うためのものではない。
守るために預ける場所。
ユノは手を置いた。
水晶は冷たかった。
――名を示せ。
「ユノ」
――預ける記憶を示せ。
ユノは目を閉じた。
思い浮かんだのは、屋根の上の夜だった。
父が生きていた頃。
星がまだ多かった夜。
父と並んで空を見た記憶。
大切すぎる。
でも、この都市に預けるなら。
守るためなら。
「父さんと星を見た夜の記憶」
水晶が強く光った。
胸の奥から、温かいものが一瞬だけ抜ける感覚があった。
ユノは息を止めた。
父の顔は覚えている。
声も覚えている。
ただ、その夜の細かな温度だけが少し遠くなった。
寂しい。
けれど消えたわけではない。
門の奥から、優しい光が返ってきた。
まるで「預かった」と告げるように。
海底都市アステラの門が、完全に開いた。
中から青い光が溢れる。
小舟はゆっくり都市の中へ滑り込んだ。
膜を越えた瞬間、水の圧力が消えた。
舟は白い水路に浮かび、静かに停まった。
周囲には、美しい街並みが広がっている。
真珠色の橋。
星形の街灯。
貝殻の屋根。
水晶の窓。
けれど、やはり人はいない。
ただ、遠くで歌声が聞こえた。
女の声。
子どもの声。
いくつもの声が重なる、海の底の子守歌。
リゼが顔を上げる。
「記憶の歌……」
ユノは胸元の星涙石が震えるのを感じた。
この都市には、まだ何かが生きている。
人ではないかもしれない。
でも、記憶が。
名前が。
星の光が。
アステラの中央に浮かぶ星図盤が、ゆっくり回転した。
その一部に、黒い穴のような影がある。
星喰いの傷跡。
そしてその近くに、小さな黒銀の光が瞬いた。
王の名の手がかり。
ユノは仲間たちを見た。
「ここからだな」
ミアはランタンを抱え直す。
「うん」
カイは木剣を握る。
「ネリオのことも、探す」
リゼは静かに頷いた。
「アステラは記憶の都市。ここなら、失われた村の記録も残っているかもしれない」
カイの目に小さな希望が灯った。
ユノは海底都市の静かな道を見つめた。
美しい都市。
沈黙した都市。
記憶を預かる都市。
そして、セレノが待つ海の門の先。
星喰いの王の名へ続く道は、また深くなった。
ユノは自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
仲間たちも続ける。
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
海底都市アステラの門が、背後で静かに閉じた。
四人は、海の底に眠る記憶の都市へ足を踏み入れた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ついに海底都市アステラへ到着しました。
灰の王国とは違う、美しく静かな海の底の都市。
けれどそこにも、人の気配はありません。
アステラへ入るため、ユノたちはそれぞれ大切な記憶を都市へ預けました。
リゼは姉との朝。
ミアは初めて時計を直した日。
カイは父に木剣を作ってもらった日。
ユノは父と星を見た夜。
記憶を失うためではなく、守るために預ける。
それがアステラという都市の在り方です。
次のページは『沈んだ記憶』です。
アステラの街を進むユノたちは、海に沈められた無数の記憶と、都市に残された不思議な歌の正体へ近づいていきます。




