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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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黒い羽根の使者

誰かの言葉を運ぶものが、必ずしも人とは限りません。


 黒い羽根。

 水路に浮かぶ影。

 忘れられた声を真似るもの。


 リゼはセレノを止めると決めました。

 ユノたちは灰の王国を抜け、海底都市アステラへ向かうため地下水路を進みます。


 けれど、その先で待っていたのは、セレノの意志を伝える不気味な使者でした。


 それは敵なのか。

 警告なのか。

 それとも、セレノ自身の壊れた心の欠片なのか。


 黒い羽根の使者が、ユノたちに新たな試練を運んできます。

地下水路の闇は、灰の王国のどの場所よりも湿っていた。


 天井から水が落ちる。


 ぽたり。


 ぽたり。


 その音が、黒い水面にいくつもの輪を作る。


 ユノたちは細い石の通路を歩いていた。


 右側には黒い水路。


 左側には苔むした石壁。


 足元は滑りやすく、少しでも気を抜けば水の中へ落ちそうだった。


 ミアはルグナの記憶灯を両手で抱え、慎重に歩いている。


「この水、絶対落ちたくない……」


 彼女が小さく呟いた。


 黒い水面は、光をほとんど反射しない。


 記憶灯の銀火を近づけても、そこには底も流れも見えなかった。


 ただ、黒い。


 まるで水ではなく、夜そのものが流れているようだった。


「触れない方がいいわ」


 リゼが言った。


「この水には、灰の王国の記憶が溶けている」


「また記憶……」


 ミアはげんなりした顔をした。


「水まで記憶持ってるの?」


「水は流れた場所を覚える。特に、涙や血や祈りを含んだ水は強い」


 カイが顔をしかめる。


「じゃあこの水、何を覚えてるんだ」


 リゼは水面を見つめた。


「地下で焼かれた人々の涙。王城から流された血。黒翼騎士団が捨てた名前」


 カイは黙り込んだ。


 ユノは星灯りの剣をいつでも呼び出せるように、右手首に意識を向ける。


 銀の輪は静かだった。


 だが、どこかで黒い羽根が見ているような気配がある。


 セレノ。


 リゼの姉が信じた騎士。


 名を捨て、世界を忘却で終わらせようとしている者。


 リゼは彼を止めると決めた。


 けれど、その決意がどれほど苦しいものか、ユノには契約を通して少しだけ伝わっていた。


 リゼの傷はまだ開いたままだ。


 彼女は歩いている。


 まっすぐに。


 けれど、心の奥では今も痛んでいる。


「リゼ」


 ユノが呼ぶ。


 銀の輪が淡く光る。


 リゼは振り返らずに答えた。


「いるわ」


「それだけ」


「確認?」


「ああ」


「あなたも?」


「いる」


 リゼは少しだけ頷いた。


 それだけのやり取りで、少し空気が落ち着いた。


 ミアが二人を見て、少し頬を膨らませる。


「なんか最近、二人だけで会話してる感じが増えた」


「そんなことないだろ」


「あるよ」


 カイも頷いた。


「ある」


「カイまで?」


「今の、なんか分かった感じだった」


 ユノは困ってリゼを見る。


 リゼは真顔で言った。


「契約の影響ね」


「そういう問題じゃないと思う」


 ミアはむっとしたままだったが、すぐに足元へ視線を戻した。


 冗談を言えるだけ、まだ余裕がある。


 ユノはそう思った。


 だが、その余裕は長く続かなかった。


 水路の奥から、音が聞こえた。


 羽ばたき。


 ばさり。


 ばさり。


 暗闇の中で、何かが翼を広げている。


 ミアが足を止めた。


「今の……鳥?」


 カイが木剣を構える。


「地下に鳥なんているのか?」


 リゼの表情が険しくなる。


「普通はいない」


 次の瞬間、黒い水面が盛り上がった。


 ばしゃり、と音を立てて、黒い羽根が水から浮かび上がる。


 一枚ではない。


 何十枚、何百枚。


 水面を覆うほどの黒い羽根が、まるで生き物の群れのように集まっていく。


 それらは渦を巻き、形を作った。


 鳥。


 いや、鳥に似たもの。


 大きな烏のような姿。


 だが頭部には顔がなく、胸には黒翼騎士団の紋章が浮かんでいる。


 羽根の一枚一枚に、途切れた名前が刻まれていた。


 エリ。


 アリ。


 グレ。


 セ。


 リナ。


 マリ。


 名の欠片。


 黒い羽根の使者は、音もなく水面の上に立った。


『鍵』


 声がした。


 それはセレノの声に似ていた。


 けれど、完全に同じではない。


 いくつもの声が重なっている。


 男の声。


 女の声。


 子どもの声。


 老人の声。


 奪われた名前たちが、セレノの声を真似ているようだった。


 ユノは星灯りの剣を呼び出した。


 銀色の刃が黒い水路を照らす。


「セレノの使いか」


『使い。欠片。残響。どれでもよい』


 黒い羽根の使者は首を傾げた。


『セレノは待っている』


 リゼが一歩前へ出る。


「どこで」


『海の門の前』


「アステラへ続く門?」


『そう』


 使者の羽根が揺れる。


『だが、門は名を持たぬ者を通さない』


 ミアが眉をひそめる。


「全員名前あるよ。ユノ、ミア、リゼ、カイ」


『名があるだけでは足りぬ。名を守れるか、問われる』


 カイが不安そうにユノを見る。


「どういう意味だよ」


 使者は水面を滑るように近づいてきた。


 ユノは剣を構える。


 リゼが魔法の光を指先に灯す。


 ミアはランタンを抱え、カイは木剣を握る。


 使者は攻撃してこなかった。


 ただ、黒い羽根を一枚落とした。


 羽根は石の通路に触れると、黒い文字へ変わった。


 ――試練。


 リゼが低く言った。


「セレノの趣味ではないわね」


「どういうことだ」


「これはアステラの門の古い仕組み。海底都市は、記憶を守る都市だった。入る者に必ず問いを与える」


『そう』


 使者は言った。


『名を守れぬ者は、海に沈む』


 ミアの顔が青ざめる。


「沈むって、普通に死ぬってこと?」


『名を失えば、死より深く沈む』


「説明が怖すぎる!」


 ユノは使者を睨んだ。


「試練って何をするんだ」


『今、ここで始まる』


 その瞬間、黒い羽根が一斉に舞い上がった。


 水路が消えた。


 石の通路も、壁も、天井も。


 四人は真っ暗な空間に立っていた。


 足元には水がある。


 浅い。


 しかし、どこまでも黒い。


 ユノは仲間を探す。


「ミア! リゼ! カイ!」


 声が返らない。


 銀の輪も反応しない。


「リゼ!」


 何もない。


 胸が冷たくなる。


 ひとり。


 切り離された。


 ユノは自分の名前を呼ぶ。


「ユノ」


 声は暗闇に吸われていく。


 黒い羽根の使者の声が響いた。


『第一の問い。お前は誰だ』


「ユノだ」


『何者だ』


「ルグナの炭鉱町で生まれた。星涙石に選ばれた鍵。星灯りの剣を持ってる」


『それは役割』


 声が冷たく響く。


『お前は誰だ』


 ユノは眉を寄せる。


「だから、ユノだ」


『ユノとは何だ』


 暗闇に映像が浮かぶ。


 ルグナの屋根。


 父の手。


 ミアの怒った顔。


 ガルドの声。


 だが、ひとつずつ白く薄れていく。


『父を失った子か』


 父の姿が消える。


『星に選ばれた鍵か』


 星涙石が消える。


『魔女と契約した少年か』


 リゼの姿が消える。


『剣を持つ器か』


 星灯りの剣が消える。


『どれか一つを失った時、お前はまだユノか』


 ユノは息を呑んだ。


 自分は誰なのか。


 父の子だからユノなのか。


 ルグナで育ったからユノなのか。


 鍵だからユノなのか。


 誰かの名前を呼ぶからユノなのか。


 もしそれらを失ったら。


 自分はまだ自分でいられるのか。


 黒い水が足元から上がってくる。


 足首。


 膝。


 腰。


 冷たい。


 水に触れた場所から、記憶がぼやけていく。


 ユノは歯を食いしばった。


「俺は……」


 答えを探す。


 役割ではないもの。


 誰かに与えられた名前ではなく、自分が選ぶ自分。


「俺は、忘れたくないと思う者だ」


 水の上昇が止まった。


「父さんのことも、ルグナのことも、リゼのことも、ミアのことも、カイのことも。怖くても、痛くても、忘れたくない」


 ユノは胸に手を当てた。


「だから俺はユノだ」


 暗闇が揺れた。


 遠くで、誰かの声がした。


「ユノ!」


 ミアの声。


「ユノ!」


 カイの声。


「ユノ」


 リゼの声。


 銀の輪が再び光った。


 ユノは叫んだ。


「いる!」


 暗闇が砕けた。


 視界が戻る。


 水路だった。


 だが、ミアとカイとリゼも、それぞれ苦しそうに膝をついていた。


 ミアはランタンを抱え、泣きそうな顔をしている。


「私……工具がなかったら何もできないって言われた……」


 カイは木剣を握りしめて震えている。


「ネリオを忘れたら、俺は空っぽだって……」


 リゼは顔色が悪かった。


 ユノは彼女の名を呼ぶ。


「リゼ」


「……いるわ」


 だが、その声は弱い。


 彼女は何を問われたのだろう。


 黒い羽根の使者は水面の上で羽ばたいた。


『第一の問いは越えた』


「第一ってことは、まだあるのかよ」


 ユノが睨む。


『海の門は三つ問う』


 ミアが叫んだ。


「先に言って!」


『第二の問い。名を奪われし者を、呼べるか』


 水面が盛り上がった。


 黒い水から、人影が現れる。


 灰騎士。


 違う。


 もっと曖昧な影。


 顔もない。


 胸も空っぽ。


 名前の欠片すら見えない。


 リゼが息を呑む。


「完全に名を奪われた者……」


「名前が分からないなら、どうやって呼ぶんだ」


 カイが叫ぶ。


 使者は答えた。


『呼べぬなら沈む』


 影たちはゆっくり近づいてくる。


 ユノは星灯りの剣を構えた。


 だがリゼが止める。


「斬っても名前は出ない。完全に奪われている」


「じゃあどうする!」


 ミアがランタンを掲げる。


「名前じゃなくても、呼べるものはないの?」


「何?」


「名前が分からなくても、その人が誰かにとって大事だったことは呼べないの?」


 リゼが目を見開いた。


「関係の名……」


「関係?」


「母、父、子、友、隣人、騎士、料理人。個人名ではないけれど、存在の輪郭になる」


 ユノは影たちを見た。


 名前がない。


 顔もない。


 でも、彼らは誰かだった。


 誰かの子で、誰かの親で、誰かの友で、誰かの帰りを待つ人だった。


 ユノは剣を下ろした。


 そして叫んだ。


「誰かの大切な人!」


 影たちが止まる。


 ミアも続けた。


「誰かを抱きしめた人!」


 カイが必死に叫ぶ。


「誰かの帰りを待ってた人!」


 リゼも声を上げた。


「誰かの名を呼んだ人!」


 影たちの輪郭が揺れる。


 まだ名前はない。


 けれど、完全な空白ではなくなった。


 ユノは続けた。


「名前がなくても、いたことは消えない!」


 ミアが涙声で言う。


「あなたたちは、誰かに必要だった人!」


 カイも叫ぶ。


「世界にいた人!」


 リゼが最後に言った。


「忘却に抗った人たち」


 黒い影たちは、ゆっくりと光になった。


 名前を取り戻したわけではない。


 でも、ただの空白ではなくなった。


 そこに“誰か”がいたという輪郭が戻ったのだ。


 黒い羽根の使者が沈黙する。


『第二の問いを越えた』


 ミアはその場に座り込みそうになった。


「もう無理……三つ目やだ……」


 カイも青い顔で頷く。


「俺も……」


 だが使者は容赦しない。


『第三の問い』


 水路の空気が凍った。


 使者の声が、今までより低くなる。


『お前たちは、仲間の名を差し出せるか』


 ユノは目を見開いた。


「は?」


『海の門は、名を守る者を通す。だが名を守るとは、名を選ぶことでもある』


 黒い水から、四つの黒い刃が浮かび上がった。


 小さな名を奪う剣のような刃。


『一人の名を差し出せば、他の三人は門を越えられる』


 ミアの顔が真っ白になる。


「そんなの……」


 カイが叫ぶ。


「ふざけるな!」


 リゼが冷たく言う。


「これはアステラの問いではない」


 使者が首を傾げる。


 リゼは続けた。


「海底都市は名を守る都市。仲間の名を差し出せとは問わない。これはセレノの問いね」


 黒い羽根の使者の胸の紋章が揺れる。


『……』


「セレノは、そうしてきた。誰かを守るために、誰かの名を捨てる。痛みから逃げるために、自分の名を斬る。だから同じ選択を私たちにもさせようとしている」


 ユノは星灯りの剣を握った。


「答えは決まってる」


 ミアもランタンを抱え直す。


「差し出さない」


 カイも木剣を構える。


「誰の名前も」


 リゼが静かに言った。


「ひとつも渡さない」


 使者の羽根が逆立つ。


『ならば全員沈む』


「沈まない」


 ユノは一歩前へ出た。


「俺たちは名前を選ばない。全部呼ぶ」


 銀の剣が光る。


「ユノ!」


 ミアが叫ぶ。


「ミア!」


 ユノが返す。


「リゼ!」


 カイが叫ぶ。


「カイ!」


 リゼが続ける。


「ルグナ!」


 ミアが叫ぶ。


「ネリオ!」


 カイが叫ぶ。


「フェルカ!」


 ユノが叫ぶ。


「マリア! エナ! エリオ! リナ! アリア! アーヴェル! セレノ!」


 名前が水路に響く。


 黒い刃が震える。


 使者の身体が崩れ始める。


『選べ。選べ。選べ』


「選ばない!」


 ユノは星灯りの剣を振った。


 黒い刃をすべて斬る。


 瞬間、無数の名前の欠片が弾けた。


 それらは水面に落ちず、銀の火に照らされて空中に浮かんだ。


 ミアの記憶灯が強く光る。


 リゼの銀の輪が輝く。


 カイの木剣にも、小さな光が宿る。


 黒い羽根の使者が悲鳴を上げた。


『なぜ選ばない。守るとは選ぶことだ』


「違う」


 リゼが言った。


「守るとは、簡単に捨てないことよ」


 使者の身体が崩れる。


 羽根が一枚ずつ水へ落ちていく。


 最後に、セレノの声が聞こえた。


『リゼ……君はまだ、そんなことを言えるのか』


 リゼはまっすぐ使者を見た。


「言えるわ」


『すべてを守れなかった時、君は壊れる』


「壊れそうになったら、名前を呼んでくれる人がいる」


 リゼはユノたちを見た。


「私はもう、一人ではない」


 使者は沈黙した。


 そして、最後の黒い羽根となって水面へ落ちた。


 水路の闇が晴れていく。


 奥に、鉄の橋が現れた。


 その先に、小さな船着き場がある。


 古い小舟が一艘、鎖に繋がれて浮かんでいた。


 ミアが大きく息を吐いた。


「終わった……?」


 リゼは水面を見た。


「試練は越えた」


 カイは座り込んだ。


「もう名前の試練は嫌だ……」


 ユノも同感だった。


 だが、足元に落ちた黒い羽根を見る。


 そこには、うっすらと文字が浮かんでいた。


 ――海の門で待つ。


 セレノからの最後の伝言。


 ユノは羽根を拾わず、そのまま水へ流した。


「待ってろ」


 小さく呟く。


 リゼが横に立つ。


「行きましょう」


「ああ」


 ミアは記憶灯を抱え、カイは木剣を握り直した。


 四人は船着き場へ向かった。


 小舟は千年前のものとは思えないほど綺麗だった。


 船体には魔女の保存文字が刻まれている。


 リゼが確認して頷いた。


「使えるわ」


 ミアが恐る恐る船を見た。


「沈まないよね?」


「たぶん」


「その“たぶん”が一番怖い!」


 ユノは少し笑った。


 笑えることが、少しだけありがたかった。


 黒い羽根の使者は消えた。


 だが、その問いは残っている。


 お前は誰だ。

 名を奪われた者を呼べるか。

 仲間の名を差し出せるか。


 ユノたちは答えた。


 誰の名も差し出さない、と。


 それがどれほど難しいことなのか、これから先で思い知るのかもしれない。


 それでも今は、その答えを信じたかった。


 ユノ。

 ミア。

 リゼ。

 カイ。


 四つの名前を抱えて、小舟は黒い水路へ滑り出した。


 水は暗い。


 先は見えない。


 けれど遠くから、かすかに波の音が聞こえた。


 海が近い。


 海底都市アステラへの道が、少しずつ開かれようとしていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、セレノの意志を伝える“黒い羽根の使者”が現れました。


 使者はユノたちに三つの問いを投げかけます。


 自分は誰なのか。

 名を奪われた者をどう呼ぶのか。

 仲間の名を差し出せるのか。


 ユノたちは、そのどれにも逃げずに向き合いました。


 特に最後の問いに対して、四人は「誰の名前も差し出さない」と答えます。


 守るために誰かを捨てるのではなく、簡単に捨てないことこそ守ること。

 リゼがそう言えたのは、彼女がもう一人ではないからです。


 次のページは『海底都市アステラ』です。

 ユノたちは小舟に乗り、灰の王国を抜け、ついに海の底に眠る記憶の都市へ向かいます。

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