リゼの傷
傷は、見えない場所にも残ります。
血が出ていなくても。
誰にも気づかれなくても。
千年という時間が過ぎても。
セレノの名を知ったリゼは、心の奥に押し込めていた痛みと向き合うことになります。
姉が信じた騎士。
魔女を守るはずだった人。
そして今、世界を忘却で終わらせようとしている者。
このページでは、リゼの傷が静かに開きます。
そしてユノたちは、その痛みを消すのではなく、共に抱えて進むことを選びます。
地下水路へ続く通路は、灰の王国の中で初めて水の音がした。
ぽたり。
ぽたり。
天井から落ちる水滴が、黒い石の床に小さな円を作っている。
灰と焦げた匂いに満ちていた王城の地下で、その音だけは妙に澄んで聞こえた。
けれど、空気は重かった。
誰もすぐには話さなかった。
ユノは先頭を歩きながら、時々後ろを振り返った。
ミアは記憶灯を抱え、慎重に足元を見ている。カイは木剣を握り、口を固く結んでいた。
そしてリゼは、少し離れて歩いていた。
いつもなら誰よりも静かに、迷いなく歩く彼女の足取りが、今はわずかに乱れている。
理由は分かっていた。
セレノ。
その名前が、リゼの中の何かを壊した。
いや、壊したのではない。
ずっと塞がらないままだった傷を、もう一度開いたのだ。
「リゼ」
ユノが呼ぶと、銀の輪が淡く光った。
リゼは顔を上げる。
「何?」
「少し休むか」
「必要ないわ」
即答だった。
でも、その声はいつもより硬い。
ミアがユノの横に並び、小声で言った。
「必要ありそうな顔してるよ」
「だよな」
「止めないと倒れるやつ」
ユノは頷いた。
そして立ち止まった。
「ここで休む」
リゼが眉を寄せる。
「時間が惜しい」
「俺の肩が痛い」
ユノは自分の肩を押さえた。
灰騎士に切られた傷は、まだ完全には塞がっていない。
嘘ではない。
ただ、今すぐ歩けないほどではなかった。
リゼはユノをじっと見た。
「それは嘘ではないけれど、理由の全部ではないわね」
「顔に出てる?」
「かなり」
ミアが小さく笑った。
「ユノは本当に分かりやすい」
「二人して言うなよ」
カイが少し不思議そうに三人を見る。
張り詰めた空気がほんの少しだけ緩んだ。
リゼはため息をついた。
「分かったわ。少しだけ」
通路の途中に、崩れた小部屋があった。
かつては見張りの詰所だったのだろう。壁には錆びた武器掛けがあり、割れた椅子が転がっている。
ミアが火を起こそうとしたが、リゼが首を振った。
「ここで火は危険。地下水路に近いから、空気が淀んでいる」
「じゃあ記憶灯だけにするね」
ミアはランタンを中央に置いた。
銀色の火が小部屋を淡く照らす。
その光は弱いけれど、どこか懐かしい温かさがあった。
ルグナの火。
故郷の記憶。
ユノは壁にもたれ、肩の包帯を直した。
ミアがすぐに近づいてくる。
「見せて」
「大丈夫だって」
「信用してない」
「ひどいな」
「信用できる行動してから言って」
ミアは手際よく包帯を外し、傷口を確認した。
カイは少し離れた場所で木剣を抱えて座っている。
リゼはランタンの光から少し離れた影に座った。
膝を抱え、顔を伏せている。
ユノはその姿を見て、胸が痛くなった。
リゼは強い。
でも、強いから痛まないわけではない。
むしろ、痛みを抱えたまま立ち続けているだけなのだ。
包帯を巻き直しながら、ミアが小声で言った。
「リゼ、泣きそう」
「見ないふりした方がいいか?」
「分かんない」
ミアの声も揺れていた。
「でも、ひとりにしすぎるのも怖い」
ユノは頷いた。
包帯を巻き終えると、ミアはわざと明るい声で言った。
「はい、終わり。今度無茶したら縫うからね」
「縫うのは嫌だな」
「嫌なら無茶しない」
「善処する」
「それは無茶する人の返事」
カイがぼそっと言った。
「ユノって、怒られ慣れてるんだな」
「慣れてない」
ミアが即答する。
「慣れてるよ」
ユノは反論できなかった。
リゼが少しだけ顔を上げた。
その目元には涙はない。
でも、何かを必死に堪えている顔だった。
「リゼ」
ユノは静かに呼んだ。
彼女は答えない。
銀の輪だけが、微かに光る。
「今じゃなくてもいい」
ユノは続けた。
「話したくなったら、話せばいい」
リゼはしばらく黙っていた。
水滴の音だけが響く。
ぽたり。
ぽたり。
やがてリゼが小さく言った。
「話したら、崩れそう」
その声は、今まで聞いた中で一番弱かった。
ユノは何も言わずに待った。
ミアも、カイも黙っていた。
リゼはゆっくり顔を上げた。
「セレノは、姉様の味方だった」
言葉が、ぽつりと落ちる。
「王城で魔女への風当たりが強くなった時も、彼だけは姉様を守ろうとしていた。黒翼騎士団の中で、魔女を庇うことがどれほど危険か分かっていたのに」
ユノは黙って聞いた。
「姉様は、彼を信じていた。私も……少しだけ信じていた」
リゼの指が外套を握る。
「魔女が人間を信じることは、簡単ではなかった。でも姉様は言ったの。人間の中にも、星を守ろうとする人はいるって」
リゼの声が震えた。
「だから私は、信じたかった」
「うん」
「でも、魔女狩りが始まった時、黒翼騎士団の先頭にいたのはセレノだった」
ミアが息を呑む。
「その時は……」
「分からなかった。裏切ったのだと思った。姉様も、きっとそう思っていた」
リゼは目を閉じた。
「でも違った。彼は守ろうとして、守れなくて、壊れた。そして今、世界を忘れさせようとしている」
「リゼ」
「ねえ、ユノ」
リゼはユノを見る。
赤い瞳が揺れている。
「人は、守れなかった痛みで、あんなふうになるの?」
ユノはすぐに答えられなかった。
セレノの記憶を少し見た。
守ると誓った相手を失った瞬間。
自分の名を斬った瞬間。
あの痛みは本物だった。
だが、それで世界を消していい理由にはならない。
「なるのかもしれない」
ユノは正直に言った。
「でも、なったら止めなきゃいけない」
リゼは目を伏せる。
「私も、そうなっていたかもしれない」
「リゼが?」
「ええ」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「もし封印の中で眠らずに、千年間ずっと起きていたら。もし姉様を失った瞬間から、憎しみだけで生きていたら。私は人間を全部滅ぼしたいと思ったかもしれない」
ユノは何も言えなかった。
リゼは続ける。
「セレノを責める資格が、私にあるのか分からなくなる」
「あるよ」
ユノは即答した。
リゼが顔を上げる。
「なんで」
「リゼは、そうならなかった」
「眠っていたから」
「それでも、今そうなってない」
ユノはリゼを見た。
「怒ってる。傷ついてる。憎んでるかもしれない。でも、エリオの名前を呼んだ。灰騎士たちの名前も呼んだ。セレノの名前も呼んだ」
リゼの瞳が揺れる。
「それは、同じじゃない」
ミアも頷いた。
「リゼは怖い時もあるけど、ちゃんと止まれる。ちゃんと誰かを見てる」
カイも小さく言った。
「俺、リゼ怖い人だと思ってた」
リゼが少しだけ眉を動かす。
「そう」
「でも、空白地帯で俺の名前呼んでくれた。だから……怖いけど、悪い人じゃない」
ミアが苦笑する。
「カイ、それ褒めてる?」
「褒めてる」
カイは真顔だった。
リゼは少しだけ困ったような顔をした。
それから、小さく息を吐く。
「不思議ね」
「何が?」
ユノが聞く。
「千年前、私は人間を信じることが怖くなった。目覚めてからも、ずっとそうだった。でも今、私は人間に慰められている」
「嫌か?」
「嫌ではない」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「ただ、慣れない」
ユノは笑わなかった。
リゼが本気で言っていると分かったからだ。
慣れていない。
信じることにも。
慰められることにも。
誰かに弱さを見せることにも。
千年の孤独は、そう簡単には溶けない。
リゼは手首の銀の輪を見つめた。
「セレノの記憶を、あなたは見たのね」
ユノは息を止めた。
「少しだけ」
「話して」
「今は言わないでって」
「今は聞きたい」
ユノはリゼを見た。
彼女の表情は怖かった。
でも目を逸らしていなかった。
「全部じゃない」
「ええ」
「セレノは、最初から裏切ったわけじゃなかった。姉さんを守ろうとしてた。黒翼騎士団の呪具だった名を奪う剣を壊そうとしてた。でも……できなかった」
「なぜ」
「剣の中に、奪われた名前が多すぎたから」
リゼは唇を噛む。
「そして魔女裁判の日、姉さんがセレノに言ったんだ」
「何を」
「忘れないで、って」
リゼの肩が震えた。
ユノは続ける。
「セレノはその言葉を守ろうとした。でも、守る方法を間違えた。忘れないために、全部終わらせようとしてる」
リゼは目を閉じた。
長い沈黙。
そして、ぽつりと言った。
「姉様らしい」
「え?」
「助けてではなく、忘れないでと言うところ」
リゼは苦しそうに笑った。
「姉様はいつも、そうだった。自分が消えることより、誰かが忘れることを怖がっていた」
ユノは何も言えなかった。
リゼの姉は、星を読む魔女だった。
記憶がどれほど大切か、誰よりも知っていたのだろう。
「でも」
リゼの声が少し強くなる。
「姉様は、世界を終わらせてほしいなんて望まなかった」
「ああ」
「セレノを止めなければならない」
「ああ」
「たとえ、姉様が最後に信じた人でも」
リゼは顔を上げた。
赤い瞳には涙が浮かんでいた。
でも、こぼれてはいなかった。
強さではなく、決意の涙だった。
「私は、セレノを止める」
ユノは頷いた。
「一緒に止めよう」
「ええ」
ミアも言った。
「私も」
カイも。
「俺も。よく分かんないことも多いけど、名前を奪うのは駄目だ」
リゼは三人を見た。
少しだけ、表情が緩む。
「ありがとう」
その言葉は、とても静かだった。
でも確かに届いた。
休憩を終え、四人は再び歩き出した。
地下水路への道はさらに湿っていく。
灰の王国の乾いた死の匂いから、少しずつ海の匂いへ変わっていく。
通路の壁には、黒翼騎士団が残した文字が続いていた。
――名を失えば恐れは消える。
――記憶を失えば罪は消える。
――個は不要。役割のみ残せ。
――灰騎士は死なぬ。命令が残る限り。
カイが吐き捨てるように言った。
「気持ち悪い」
「ええ」
リゼが同意した。
「名前を奪う者は、人を道具にする」
ミアがランタンを見つめる。
「でも、私たちは名前を呼ぶ」
ユノが頷く。
「ああ」
その時、前方から水の流れる音が大きくなった。
通路が開け、巨大な地下水路へ出る。
そこには黒い水が流れていた。
幅の広い水路。
天井には錆びた鉄の橋が架かり、壁には古い排水管がいくつも口を開けている。
水路の先は暗く、奥から潮の匂いがした。
リゼが地図を広げる。
「この水路を下れば、外海へ出る」
「船は?」
ミアが聞く。
「記録によれば、水路の奥に緊急用の小舟が保管されているはず」
「千年前の小舟がまだ使えると思う?」
「普通は無理ね」
「だよね!」
「でも魔女の保存術が残っていれば可能性はある」
ミアはため息をついた。
「普通じゃないことばっかり」
ユノは水路の黒い水を見た。
そこに自分の顔が映っている。
少し疲れた顔だった。
旅に出る前より、少しだけ別人に見える。
星灯りの剣。
王の名。
灰騎士たちの記憶。
セレノの真実。
リゼの傷。
短い時間で、あまりにも多くのものを知った。
でも、進むしかない。
リゼが隣に立つ。
「ユノ」
「何?」
「さっきの話」
「ああ」
「聞いてよかった」
ユノは彼女を見る。
リゼは水面を見つめていた。
「痛かったけれど、知らないまま憎むよりはよかった」
「そうか」
「ええ」
彼女は手首の銀の輪に触れた。
「傷は消えない。でも、何が刺さっているのか分かれば、抜く方法を探せる」
ユノはその言葉を胸に刻んだ。
リゼの傷は深い。
セレノの名は、その傷にさらに深く刺さった。
けれど彼女は、それを見つめようとしている。
逃げずに。
忘れずに。
「リゼ」
「何?」
「強いな」
リゼは少しだけ目を細める。
「強くないわ」
「じゃあ、進んでる」
彼女はしばらく黙った。
やがて小さく頷く。
「それなら、少しだけ」
水路の奥で、何かが動いた。
黒い水面に波紋が広がる。
ユノは星灯りの剣を呼び出す。
ミアがランタンを高く掲げる。
カイが木剣を構える。
リゼが魔法の光を指先に灯す。
波紋の中心から浮かび上がったのは、黒い羽根だった。
一枚。
水に濡れた黒い羽根。
それはゆっくりと流れ、ユノたちの足元へ近づいてきた。
リゼが低く言う。
「セレノが通った跡ね」
「先にいるのか」
「おそらく」
ユノは水路の奥を見る。
海へ続く暗い道。
その先に、セレノがいる。
そして海底都市アステラへの門も。
リゼは黒い羽根を拾わなかった。
ただ、静かに見下ろした。
「セレノ」
彼女は名を呼んだ。
その声には痛みがあった。
でも、もう震えてはいなかった。
「私はあなたを止める」
水面が小さく揺れた。
まるで、その言葉が奥へ届いたように。
ユノは剣を下ろし、仲間たちを見た。
「行こう」
ミアが頷く。
「うん」
カイも。
「行く」
リゼも静かに答えた。
「ええ」
四人は地下水路の奥へ進んだ。
灰の王国の終わりへ。
海の底へ続く道へ。
リゼの傷は、まだ塞がらない。
でも、その傷を隠したままではなく、仲間と共に抱えて歩き始めた。
それは小さな変化だった。
けれど、千年止まっていた魔女にとっては、とても大きな一歩だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、セレノの真実を知ったリゼの心の傷を描きました。
リゼにとってセレノは、ただの敵ではありません。
姉が信じた騎士であり、かつて魔女を守ろうとした人でした。
だからこそ、その人が今、世界を忘却で終わらせようとしている事実は、リゼにとって大きな痛みです。
けれどリゼは逃げませんでした。
セレノの名を呼び、彼を止めると決めました。
傷は消えません。
でも、何が刺さっているのか分かれば、向き合うことはできる。
ユノ、ミア、カイもまた、その痛みを一緒に抱えて進むことを選びました。
次のページは『黒い羽根の使者』です。
地下水路の奥で、ユノたちはセレノの意志を伝える不気味な使者と遭遇します。




