名を奪う剣
剣は、何を斬るためにあるのでしょうか。
ユノが手にした星灯りの剣は、忘却を斬り、失われた名前を照らす剣でした。
けれど、この世界にはその反対の剣があります。
名前を奪い、記憶を断ち、存在を世界から切り離す黒い剣。
このページでは、セレノが持つ“名を奪う剣”の存在が明らかになります。
星灯りの剣と、名を奪う剣。
二つの剣は、ユノとセレノの進む道の違いをはっきり映し出していきます。
セレノという名が、記録室に残っていた。
黒い羽根の者。
名を捨てた者。
忘却こそ救いだと語り、星喰いの王の名を完成させようとしている男。
その正体は、リゼの姉が信じた騎士だった。
リゼはしばらく動けなかった。
灰騎士たちの名を呼び戻したあと、記録室には静けさが戻っていた。床には灰が薄く積もり、棚に並ぶ記録板は冷たい沈黙を守っている。
ユノはリゼの隣に立っていた。
何か声をかけたい。
けれど、簡単な慰めでは届かないことも分かっていた。
だから、ただ名前を呼んだ。
「リゼ」
銀の輪が淡く光る。
リゼは小さく息を吐いた。
「いるわ」
それだけの返事だった。
でも、それでよかった。
今は、いると答えてくれるだけで。
ミアはルグナの記憶灯を抱えながら、セレノが残した航路図を見ていた。
「これ、海底都市アステラって書いてあるんだよね?」
「ええ」
リゼが少し遅れて答える。
「千年前、海の底に作られた星見の都市よ」
「海の底に都市って……どうやって行くの?」
「普通は行けない」
「普通じゃない方法があるってこと?」
「おそらく、灰の王国の地下水路から海へ出る道がある。そこにアステラへ降りる門が隠されているはず」
カイが木剣を握りしめたまま、眉を寄せる。
「海の底に行ったら、ネリオの手がかりもあるのか?」
「分からない」
ユノは正直に言った。
「でも、セレノがそこへ進ませたいなら、何かある。星喰いの王の名の手がかりも、ネリオの空白に繋がるものも」
カイは悔しそうに唇を噛んだが、頷いた。
「なら行く」
ユノは記録室の奥に開いた地下水路への扉を見た。
その向こうから、湿った風が流れている。
灰の王国の乾いた空気とは違う。
海の匂いがした。
だが、一歩踏み出そうとした時、星灯りの剣の模様が熱を持った。
ユノは手首を見る。
「何だ……?」
リゼも気づいた。
「剣が反応している」
「敵?」
「分からない。でも、まだこの記録室に何かある」
ミアがランタンを掲げた。
銀火が揺れ、部屋の隅を照らす。
そこには、黒い布に覆われた細長い箱があった。
さっきまでは見えなかった。
いや、見えていたのに認識できなかったのかもしれない。
空白に隠されていたような、不自然な存在感だった。
「これ……」
ユノは近づく。
リゼが鋭く言った。
「待って。触らないで」
リゼは慎重に箱の前へ立ち、魔法で黒い布を払った。
布が落ちる。
箱は黒い金属でできていた。
表面には無数の名前が刻まれている。
だが、その名前はすべて途中で途切れていた。
エリ――
アリ――
グレ――
セ――
リ――
名前の残骸。
呼ばれる前に切断された名。
ミアが顔を青くする。
「嫌な感じ……」
リゼの表情も硬かった。
「これは封印箱よ」
「何を封じてる?」
ユノが聞くと、箱の中から低い音がした。
泣き声にも、笑い声にも聞こえる音。
リゼは呟いた。
「まさか……」
箱の中央には鍵穴があった。
黒い羽根の形。
エリオの通行証と同じ形だ。
ユノは嫌な予感を覚えた。
「開ける必要あるのか?」
「あるわ」
リゼは言った。
「星灯りの剣が反応している。中に、対になるものがある」
「対?」
「光があるなら、影もある」
リゼは黒い羽根の鍵を差し込んだ。
箱が開いた。
中にあったのは、一本の剣だった。
黒い剣。
刃は光を反射しない。
むしろ周囲の光を吸い込んでいるようだった。
柄には黒い羽根の紋章が刻まれ、刃の根元にはひび割れた小さな黒水晶が埋め込まれている。
それを見た瞬間、ユノの胸元の星涙石が震えた。
星灯りの剣の模様が熱くなる。
リゼが低く言った。
「名を奪う剣……」
ミアが息を呑む。
「名前を……奪う?」
「星灯りの剣と対になる呪具よ。星灯りの剣が忘却を斬り、名前を呼び戻すのに対して、この剣は名前と記憶の繋がりを断つ」
「そんなもの、誰が作ったんだ」
ユノの声には怒りが滲んだ。
リゼは剣を見つめる。
「黒翼騎士団」
「魔女の技術を盗んで?」
「ええ。魔女を殺すために、魔女の魔法を歪めた」
その言葉に、リゼの声がわずかに震えた。
記録板にあった言葉。
黒翼騎士団は、魔女を殺すために魔女を学んだ。
その結果がこれなのだ。
名を奪う剣。
カイが後ずさった。
「それで斬られたらどうなるんだ」
リゼは答えた。
「名前を失う。周囲の記憶からも消える。深く斬られれば、存在そのものが世界から切り離される」
ミアが震える。
「星喰いと同じじゃん……」
「ええ。人間が作った、小さな星喰いのような剣」
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
銀色の刃が現れる。
その瞬間、箱の中の黒い剣が震えた。
二つの剣が互いに反応している。
銀の光と黒い影。
呼び戻す剣と、奪う剣。
ユノは歯を食いしばった。
「壊せるか?」
リゼは首を振った。
「今は無理。下手に壊せば、中に封じられている奪われた名が散ってしまう」
「じゃあどうする」
「封じ直すしかない」
リゼが箱に手を伸ばした瞬間。
黒い剣が跳ねた。
「リゼ!」
ユノが叫ぶ。
剣はひとりでに浮かび上がり、黒い霧をまとった。
その霧の中から声がした。
『返せ』
低い声。
いくつもの声が重なったような響き。
『名を返せ』
リゼが手をかざす。
「封印が緩んでいる!」
黒い剣から、細い影の糸が伸びた。
それはカイへ向かった。
「カイ!」
ユノは星灯りの剣で影を斬る。
影は弾けた。
だが次の瞬間、ユノの頭に記憶が流れ込んだ。
名前を奪われた騎士。
名を斬られた魔女。
故郷から切り離された子ども。
無数の喪失。
ユノはよろめく。
リゼが叫んだ。
「ユノ、深く触れないで!」
「分かってる……!」
黒い剣はさらに影の糸を伸ばす。
今度はミアのランタンへ。
ルグナの記憶灯を狙っている。
ミアはランタンを抱え込んだ。
「やだ! これは渡さない!」
ユノは剣を振る。
影を断つ。
リゼが銀の魔法で黒い剣を押さえつける。
だが、黒い剣は魔法を吸うように闇を強めた。
「魔法が吸われる……!」
リゼの顔が歪む。
カイが木剣を握りしめ、震えながら叫んだ。
「何かできないのか!」
ユノは黒い剣を見た。
星灯りの剣が反応している。
壊せない。
でも、ただ封じるだけでも足りない。
この剣の中には、奪われた名が閉じ込められている。
返せ。
そう叫んでいる。
「リゼ!」
「何!」
「この剣の中の名前を呼べば、鎮まるか?」
「危険よ! 多すぎる!」
「全部じゃなくていい。今暴れてる中心の名前だけ!」
リゼは黒い剣を見つめた。
「中心……」
ミアがランタンを掲げる。
銀火が黒い剣の刃を照らした。
すると、刃の根元にひとつの名前の欠片が浮かび上がる。
――セ……
リゼの表情が変わった。
「セレノ……?」
黒い剣が激しく震えた。
ユノは息を呑む。
「これ、セレノの剣なのか?」
リゼは苦しそうに頷いた。
「おそらく。彼が名を捨てる時、この剣で自分の名を斬った」
「自分の名前を……」
だから彼は名を捨てた者になった。
自分の名を切り離し、忘却の側へ進んだ。
黒い剣が声を発する。
『セ……レ……』
だが名は途中で途切れる。
完全に呼べない。
ユノは星灯りの剣を握りしめた。
「俺が呼ぶ」
リゼが強く首を振った。
「駄目! セレノの名に触れれば、彼の記憶が流れ込む!」
「それでも、このままじゃミアの記憶灯が奪われる!」
ミアが叫ぶ。
「ユノ、無茶しないで!」
「無茶しない方法があれば教えてくれ!」
「ないけど!」
ユノは一歩踏み出した。
銀の輪が熱くなる。
リゼの恐怖が流れ込む。
セレノ。
姉が信じた騎士。
裏切った者。
救いを忘却と呼ぶ者。
その名を呼ぶことは、リゼの傷にも触れることだった。
ユノは振り返った。
「リゼ。呼んでいいか」
リゼは息を止めた。
勝手には呼ばない。
この名は、彼女にとって重すぎる。
リゼは震える手で胸元を押さえた。
長い沈黙。
黒い剣は暴れ続けている。
ミアのランタンの火が細くなる。
カイの輪郭も少し揺らいでいる。
やがて、リゼは小さく頷いた。
「呼んで」
声は震えていた。
「でも、呑まれないで」
「ああ」
ユノは黒い剣へ向き直る。
星灯りの剣を掲げた。
銀の光が、黒い刃を照らす。
ユノは名前を呼んだ。
「セレノ!」
黒い剣が悲鳴を上げた。
刃から黒い記憶が噴き出す。
ユノの視界が飲み込まれた。
そこは、千年前の星白王国だった。
白い訓練場。
若い騎士が剣を振っている。
銀色の髪の魔女が笑っている。
リゼの姉だ。
彼女は騎士へ言う。
「セレノ、あなたの剣は優しすぎる」
騎士は兜を脱ぐ。
若い男だった。
穏やかな目。
真面目そうな顔。
「優しい剣では、あなたを守れませんか」
「守れるわ。でも、あなた自身が傷つく」
「それでもいい」
セレノは微笑んだ。
「私はあなたを守ると誓った」
景色が変わる。
星喰いの夜。
王が狂い始め、黒翼騎士団が魔女を捕らえ始める。
セレノは魔女たちを逃がそうとしていた。
だが失敗した。
彼は捕らえられ、王の前に引き出される。
王は言う。
「魔女を守る騎士など不要だ」
黒い羽根の者――いや、まだ名を捨てる前のセレノ自身が、黒い剣を見つめている。
その剣は、騎士団の呪具として作られたばかりだった。
名前を奪う剣。
彼はそれを壊そうとした。
だが、できなかった。
剣の中には、すでに奪われた名前が多すぎた。
景色が変わる。
炎。
魔女裁判。
リゼの姉が、セレノへ向かって叫んでいる。
「忘れないで!」
セレノは鎖に繋がれ、動けない。
目の前で、守ると誓った人が消えていく。
彼は叫んだ。
叫び続けた。
だが声は炎に呑まれた。
その夜、セレノは黒い剣を握った。
自分の胸に刃を当てた。
「名があるから痛む」
彼は泣いていた。
「忘れなければ、耐えられない」
そして、自分の名を斬った。
セレノという名前が、彼から剥がれ落ちる。
だが完全には消えなかった。
リゼの姉が最後に呼んだ名だったから。
剣の奥に残り続けた。
呪いのように。
祈りのように。
ユノは現実へ戻った。
膝をつく。
黒い剣はまだ震えているが、暴走は弱まっていた。
リゼが彼の肩を掴む。
「ユノ!」
「見た……」
「言わないで」
リゼの声は震えていた。
「今は、言わないで」
ユノは頷いた。
「分かった」
彼女はまだ受け止められない。
それでいい。
無理に真実を突きつける必要はない。
ユノは黒い剣を見た。
「セレノ」
もう一度、静かに呼ぶ。
黒い剣が震えた。
「お前は名前を捨てた。でも、完全には消えてない」
刃の根元に刻まれた欠けた文字が、少しだけ戻る。
セレノ。
その名が、黒い剣の中で微かに光った。
リゼが震える声で続けた。
「セレノ」
黒い剣の動きが止まる。
リゼは唇を噛みながら、それでも名を呼んだ。
「あなたの名は、セレノ」
黒い剣から黒い霧が抜けていく。
ミアのランタンの火が戻る。
カイの輪郭も安定する。
リゼは涙をこらえるように目を閉じた。
「姉様が呼んだ名を、私は忘れない。だから……これ以上、その名で誰かを奪わないで」
黒い剣はゆっくり箱の中へ戻った。
封印箱の蓋が閉じる。
リゼが魔法で銀の封印を重ねた。
今度は箱の表面に、ひとつだけ完全な名前が浮かんだ。
セレノ。
ミアが小さく息を吐く。
「止まった……」
カイも座り込む。
「怖かった……」
ユノは頭を押さえた。
セレノの記憶が少しだけ残っている。
守れなかった痛み。
名を捨てた瞬間の絶望。
それは同情を誘うほど重かった。
だが、それでも。
「間違ってる」
ユノは呟いた。
リゼが見る。
「セレノがどれだけ苦しかったとしても、世界を忘れさせる理由にはならない」
リゼは静かに頷いた。
「ええ」
「止めよう」
「ええ」
その声には、さっきまでの震えは少しだけ消えていた。
ミアが封印箱を見た。
「これ、置いていくの?」
リゼは首を振る。
「危険すぎる。セレノが取り戻せば、また名前を奪われる」
「持っていくの!?」
ミアが思わず声を上げる。
「もっと危ない気がするんだけど!」
「封印した状態なら、私が管理できる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん!?」
ユノは苦笑した。
「でも置いていくよりいい」
「そうだけど……」
ミアは不満そうにしながらも頷いた。
リゼは封印箱を布で包み、自分の荷物へ入れた。
その手は少し震えていたが、彼女はもう目を逸らさなかった。
ユノは思った。
名を奪う剣は、セレノの罪そのものだ。
だが同時に、彼が壊れた証でもある。
救うために忘れさせる。
その考えがどれだけ間違っていても、そこに至るまでの痛みは確かにあった。
だからこそ、止めなければならない。
痛みを理由に、世界を消させてはいけない。
記録室の奥の地下水路から、海の匂いが強くなった。
次へ進む時間だ。
灰の王国で得たものは多かった。
王の名。
灰騎士たちの名。
セレノの名。
名を奪う剣。
そして海底都市アステラへの道。
背負うには重すぎる。
でも、四人でなら運べる。
ユノは自分の名前を呼んだ。
「ユノ」
ミアが続ける。
「ミア」
カイも。
「カイ」
リゼも。
「リゼ」
そして、少し間を置いて。
「セレノ」
リゼがその名を呼んだ。
痛みを伴う声だった。
けれど、その声には逃げない強さがあった。
ユノも続けた。
「セレノ」
ミアとカイも、恐る恐るその名を呼んだ。
「セレノ」
「セレノ」
封印箱の中で、黒い剣が一度だけ静かに震えた。
名を奪う剣。
名前を切り離すために作られた黒い刃。
けれど今、その剣は名前によって封じられている。
それは皮肉であり、希望でもあった。
ユノたちは地下水路へ向かって歩き出した。
灰の王国を抜け、海へ。
海底都市アステラへ。
星喰いの王の名をめぐる旅は、さらに深い場所へ進もうとしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星灯りの剣と対になる存在――“名を奪う剣”が登場しました。
星灯りの剣が忘却を斬り、名前を呼び戻す剣なら、名を奪う剣はその逆です。
名前と記憶の繋がりを断ち、人を世界から切り離してしまう黒い剣。
そしてその剣は、セレノが自らの名を斬った剣でもありました。
リゼにとって、セレノの名を呼ぶことはとても苦しいことです。
けれど彼女は逃げずに、その名を呼びました。
忘れないために。
そして、これ以上誰かの名前を奪わせないために。
次のページは『リゼの傷』です。
セレノの真実を知ったリゼが、長く押し込めてきた痛みと向き合う回になります。




