世界が泣く音
世界は、泣くことがあるのでしょうか。
人が消え、名前が消え、記憶が削られていく時。
誰にも聞こえない場所で、世界そのものが痛みに震えているとしたら。
王城の門を前に、ユノたちは一夜を越えました。
魔女と少年。
幼馴染の少女。
故郷を失った少年。
それぞれの名前を確かめ合いながら、四人は灰の王国の中心へ足を踏み入れます。
第一章の最後となるこのページでは、ユノたちは“世界が泣く音”を聞きます。
それは星喰いの足音なのか。
失われた人々の声なのか。
それとも、世界がまだ生きている証なのか。
どうか見届けてください。
朝は、音もなく訪れた。
灰の王国の空は相変わらず薄暗く、太陽は雲の向こうに隠れている。光はあるのに、暖かさはなかった。
ユノは目を開けて、最初に自分の名前を確かめた。
「ユノ」
声は少し掠れていた。
けれど、ちゃんと聞こえた。
次に、眠っている仲間たちを見る。
記憶灯を抱えたまま眠るミア。
木剣を握りしめて丸くなっているカイ。
壁に背を預け、目を閉じているリゼ。
ユノは順番に名前を呼んだ。
「ミア」
ミアが小さく眉を動かす。
「カイ」
カイが寝返りを打つ。
「リゼ」
リゼの左手首にある銀の輪が、淡く光った。
彼女は目を開けた。
「聞こえているわ」
「おはよう」
「……おはよう」
その言葉は、少しだけぎこちなかった。
リゼにとって、誰かと朝の挨拶を交わすこと自体が久しぶりなのかもしれない。
ユノはそれを思うと、胸の奥が少し温かくなった。
ミアも起きた。
「寒い……眠い……帰りたい……」
「朝から正直だな」
「嘘つく元気がない」
ミアはランタンの火を確認した。
銀色の小さな火は、まだ消えていなかった。
「よかった……」
彼女は本当にほっとした顔をした。
カイも目を覚ます。
起きてすぐに、自分の名前を口にした。
「カイ。ネリオ」
ユノは頷いた。
「カイ。ネリオ」
ミアも続ける。
「カイ。ネリオ」
リゼも静かに言う。
「カイ。ネリオ」
カイの表情が少しだけ和らいだ。
四人は簡単に食事を済ませた。
硬いパンと少しの干し肉。
水も残り少なくなってきている。
ミアが荷物を確認しながら眉を寄せた。
「王城の中で補給できるとは思えないよね」
「できないだろうな」
「ですよね……」
カイが干し肉をかじりながら言った。
「王城って、怖い場所なのか」
ユノは門を見上げた。
巨大な黒い門。
そこには黒翼騎士団の紋章が刻まれている。
見るだけで胸の奥が重くなる。
「たぶん、怖い」
ユノは正直に答えた。
「でも行く」
「うん」
カイは木剣を握った。
「俺も行く」
リゼは立ち上がった。
「門を開けるわ」
ユノたちは王城の門へ向かった。
門の前に並ぶ石像は、昨日と同じ姿で立っている。
黒い鎧。
黒い羽根。
空洞の目。
だが朝の光の中で見ると、石像の足元に文字が刻まれているのが分かった。
リゼがそれを読む。
「王に従い、星を守る者」
ミアが顔をしかめる。
「星を守るって……魔女を殺してたくせに」
「彼らはそう信じていたのよ」
リゼの声は冷たい。
「星を守るために魔女を殺す。そういう嘘を、王が与えた」
ユノはエリオを思い出した。
妹を守りたかった騎士。
呪印で怪物にされた男。
もし彼も、この言葉を信じさせられていたのだとしたら。
怒りと悲しみが胸の中で混ざった。
リゼは黒い羽根の鍵を取り出した。
灰騎士エリオが残したものだ。
門の中央には、羽根の形をした鍵穴があった。
リゼが鍵を差し込む。
ガチリ。
低い音が響いた。
門全体に赤黒い線が走る。
カイが一歩後ずさる。
「動いた……」
門はゆっくり開き始めた。
重い石が擦れる音。
長い間閉ざされていた場所が、無理やり目覚める音。
中から冷たい風が吹き出した。
それは風というより、ため息だった。
千年分の息が、一気に吐き出されたような。
ユノは手首に触れた。
星灯りの剣の模様が、かすかに熱を持っている。
リゼの銀の輪も光っていた。
「準備はいい?」
リゼが聞いた。
ユノは頷く。
「行こう」
四人は門をくぐった。
王城の中は、外よりも暗かった。
広い中庭。
枯れた噴水。
崩れた回廊。
壁には黒い煤がこびりつき、あちこちに白い星の紋章が割れて落ちている。
中庭の中央には、大きな石像が倒れていた。
王の像だろうか。
頭部は砕け、顔は分からない。
胸には、黒い羽根の紋章が深く刻まれていた。
ミアがランタンを掲げる。
銀火が周囲を照らした。
「ここ……空気が重い」
「王城は記憶の中心よ」
リゼが言った。
「この国で起きたことの多くが、ここに残っている」
「残ってるって、幽霊みたいに?」
「記憶の残響として」
「もう幽霊でいいってば……」
ミアが小さく呟いた。
その時。
音が聞こえた。
最初は風かと思った。
けれど違う。
低く、長く、震えるような音。
どこか遠くで巨大な獣が呻いているような。
あるいは、深い海の底から響く声のような。
ユノは足を止めた。
「今の……」
カイが青ざめる。
「聞こえた」
ミアも頷く。
「泣いてるみたい」
リゼの表情が変わった。
彼女は中庭の奥を見つめている。
「世界が泣いている」
ユノは彼女を見た。
「世界が?」
「星喰いに喰われた場所では、時々こういう音がする。世界が自分の傷を認識している音」
「世界って、痛みを感じるのか」
「ええ」
リゼは静かに言った。
「星も、土地も、記憶も、すべて世界の一部だから」
また音が響いた。
ォォォォン――。
胸の奥が震える。
悲しみだけではない。
痛み。
怒り。
恐怖。
それらが混ざり合った音。
ユノは思わず胸を押さえた。
星涙石が震えている。
ルグナの石も、フェルカの石も。
まるでその音に応えているようだった。
「どこから聞こえる?」
ユノが聞くと、リゼは王城の奥を指した。
「地下」
「また地下か」
ミアが嫌そうな顔をする。
「重要なものって、だいたい地下にあるね……」
カイは木剣を握りしめた。
「ネリオの手がかりも?」
「分からない」
ユノは正直に答えた。
「でも、ここに何かある」
中庭を進むと、回廊の奥に大きな扉があった。
白い石で作られていたが、黒く焼け焦げている。
扉には文字が刻まれていた。
リゼが読もうと近づいた瞬間、彼女の身体が強張った。
「リゼ?」
ユノが声をかける。
リゼは扉の文字を見つめたまま、低く言った。
「ここは……裁きの間」
「魔女裁判の?」
「ええ」
ミアの表情が曇る。
カイも不安そうに後ずさった。
扉の向こうから、声が聞こえてきた。
ざわめき。
怒号。
泣き声。
そして王の声。
――魔女は星を盗んだ。
リゼの手首の銀の輪が熱を帯びる。
ユノにも、その痛みが伝わった。
「リゼ」
ユノは名前を呼んだ。
「ここにいる」
リゼは目を閉じ、息を整えた。
「大丈夫」
「無理なら」
「無理でも進む」
その言葉には迷いがなかった。
ユノは頷いた。
扉を押す。
重い音を立てて、裁きの間が開いた。
中は広い円形の広間だった。
天井は高く、割れたステンドグラスから灰色の光が差し込んでいる。
中央には黒い石の床。
周囲には段状の座席。
そこに、無数の影が座っていた。
人影。
けれど実体はない。
過去の残響だ。
裁判を見ていた王国の民。
黒翼騎士団。
貴族。
神官。
彼らの顔はすべて白くぼやけていた。
中央には、鎖の跡が残る台がある。
魔女たちが立たされた場所。
リゼはそこを見て、足を止めた。
ユノはそっと隣に立つ。
すると広間の奥に、黒い外套の者が現れた。
黒い羽根の紋章。
顔は相変わらず見えない。
「よく来た」
その声は静かだった。
「鍵よ。魔女よ。故郷を持つ娘よ。故郷を失った少年よ」
カイが木剣を構える。
「お前がネリオを消したのか!」
「直接ではない」
「じゃあ誰が!」
「星喰いだ」
黒い外套の者は穏やかに答えた。
「だが、消えるべきだったとも言える」
「ふざけるな!」
カイが飛び出しそうになる。
ユノが腕で止めた。
「挑発だ」
「でも!」
「分かってる」
ユノは黒い外套の者を睨む。
「ここに呼んだ目的は何だ」
「聞かせるためだ」
「何を」
黒い外套の者は両手を広げた。
裁きの間全体が震える。
影たちが一斉に立ち上がった。
ざわめきが大きくなる。
そして、広間の中央に過去の光景が浮かんだ。
魔女たちが立たされている。
鎖に繋がれ、傷つき、それでも顔を上げている。
その中にリゼの姉がいた。
金色の瞳。
そして幼いリゼ。
ユノはリゼの手首の銀の輪を感じた。
痛みが伝わる。
でもリゼは目を逸らさなかった。
黒い外套の者が言う。
「魔女リゼ。君はこの裁判を、被害者として覚えている」
「当然でしょう」
「だが、すべての記憶には別の面がある」
「何が言いたいの」
「王は、ただ愚かだったわけではない」
その言葉に、リゼの目が鋭くなる。
「王を擁護するつもり?」
「いいや。罪は罪だ。だが、彼もまた星喰いに触れていた」
ユノは眉をひそめた。
「王も?」
「そうだ。王は星喰いの王の名の欠片を聞き、狂った」
裁きの間に、王の幻が現れた。
白いマント。
金の王冠。
だが顔は黒く塗りつぶされている。
王は頭を抱え、震えていた。
耳元に黒い霧がまとわりついている。
その霧が囁く。
――忘れろ。
――恐れを誰かに渡せ。
――罪の名を他者につけろ。
――魔女だ。
――魔女が奪った。
――魔女を焼け。
ユノの背筋が冷えた。
星喰いの囁き。
フェルカの地下で聞いた声と同じ。
王はそれに呑まれていた。
けれど。
「だからって、魔女を殺していい理由にはならない」
ユノは言った。
黒い外套の者がこちらを見る。
「その通りだ」
「なら何が言いたい」
「罪は一人では生まれない。恐怖があり、嘘があり、忘却があり、それを信じた民がいた。世界は誰か一人を裁けば終わるほど単純ではない」
リゼは唇を噛んだ。
その言葉は、彼女にとって残酷だった。
王だけを憎めたなら楽だったかもしれない。
黒翼騎士団だけを憎めたなら。
人間だけを憎めたなら。
でも真実はもっと複雑で、もっと救いがない。
恐怖に負けた者たちが、誰かを犠牲にした。
その罪が、千年経っても灰の王国を縛っている。
裁きの間に、世界が泣く音が響いた。
ォォォォン――。
さっきより近い。
床の下から聞こえる。
ユノの星涙石が強く震えた。
黒い外套の者が言った。
「地下へ行け。そこに、この国が隠した最初の傷がある」
「また誘導か」
「そうだ」
「どうして俺たちに進ませる」
「君が見なければ、王の名は完成しない」
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
銀色の刃が裁きの間を照らす。
影たちがざわめく。
「お前の思い通りにはならない」
「ならなくていい」
黒い外套の者は笑った。
「君が進むだけで、名は近づく」
ユノは踏み込もうとした。
だがその瞬間、床の影が動いた。
黒い手がユノの足を掴む。
「っ!」
リゼが叫ぶ。
「ユノ!」
星灯りの剣を振り下ろす。
黒い手は斬れた。
だが記憶が流れ込む。
裁きの間にいた民衆の記憶。
恐怖。
星が消える夜。
家族を失った悲しみ。
誰かのせいにしなければ壊れてしまう心。
魔女を憎めば、自分の不安が少しだけ形を持った。
ユノは膝をついた。
「ユノ!」
ミアが駆け寄る。
ユノは荒く息をした。
「大丈夫……」
リゼがユノの肩を掴む。
「無理に受け止めないで。全部あなたのものではない」
「でも……」
「違う」
リゼの声は強かった。
「あなたは記憶を受け取る人であって、罪をすべて背負う人ではない」
その言葉で、ユノは少しだけ息ができた。
黒い外套の者は遠くから見ていた。
「魔女が少年を支えるか。美しいね」
リゼが鋭く睨む。
「黙りなさい」
「怒りを忘れるな、リゼ。君の怒りは、王の名を近づける」
「あなたの言葉では動かない」
「そう願っているだけだ」
黒い外套の者の姿が薄れていく。
「地下で会おう」
最後にそう言って、彼は黒い羽根となって消えた。
裁きの間の影たちも、少しずつ薄れていく。
だが、世界が泣く音は消えない。
むしろ強くなっている。
床の中央に亀裂が走った。
そこから銀色の光が漏れる。
リゼが息を呑む。
「地下への封印が壊れかけている」
「行くしかないな」
ユノが立ち上がる。
ミアが心配そうに言う。
「ユノ、少し休んだ方が」
「音が強くなってる。放っておけない」
「でも」
「大丈夫」
ミアは怒りかけたが、ユノの顔を見て言葉を止めた。
「……無理したら、今度こそ本気で怒るから」
「ああ」
カイが不安そうに近づく。
「俺も行く」
「もちろん」
ユノは答えた。
「カイも仲間だ」
カイの目が少しだけ大きくなる。
仲間。
その言葉を噛みしめるように、彼は木剣を握った。
「うん」
リゼは床の亀裂に手を当てた。
銀色の魔法が広がる。
亀裂が大きく開き、地下へ続く階段が現れた。
そこから吹き上がる風は冷たく、涙のような匂いがした。
世界が泣いている。
本当にそう思った。
ユノは階段の前に立つ。
右手には星灯りの剣。
胸元には二つの星涙石。
手首には銀の契約。
背後にはミア、リゼ、カイ。
そしてランタンに灯るルグナの記憶。
第一章の始まりで、ユノは屋根の上から星が消えるのを見ていた。
あの時は、何が起きているのか分からなかった。
ただ、おかしいと思っただけだった。
今は違う。
星が消える理由を知った。
名前が消える痛みを知った。
魔女の孤独を知った。
人が怪物になる悲しみを知った。
世界が泣く音を聞いた。
それでも、まだ全部は分からない。
星喰いの王とは何なのか。
黒い羽根の者の正体。
ユノが鍵である理由。
父が残した本当の願い。
進まなければ、何も分からない。
「ユノ」
リゼが呼んだ。
「いる」
ユノは答える。
「ミア」
「いる」
「カイ」
「いる」
「リゼ」
「いるわ」
四人の名前が裁きの間に響く。
世界が泣く音の中でも、確かに聞こえた。
ユノは階段を降り始めた。
一歩。
また一歩。
地下へ。
灰の王国の最初の傷へ。
階段の奥から、泣き声のような音が響いている。
それは恐ろしく、悲しく、そしてどこか生きていた。
世界は泣いている。
なら、まだ死んではいない。
ユノはそう思った。
泣けるなら、まだ痛みを感じている。
痛みを感じているなら、まだ救えるかもしれない。
星灯りの剣が、淡く光った。
まるでその考えに応えるように。
そして四人は、灰の王国の地下へ消えていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページで第一章は大きな区切りを迎えます。
ユノたちは王城の門を開き、灰の王国の中心へ足を踏み入れました。
そこで聞こえたのは、“世界が泣く音”。
それは星喰いに傷つけられた世界そのものの痛みでした。
裁きの間では、灰の王国の王もまた星喰いの囁きに触れていたことが明かされます。
けれど、それは罪の免罪ではありません。
恐怖に負け、嘘を信じ、誰かを犠牲にした人々。
その罪と痛みが、千年経っても王城に残り続けています。
次のページからは第二章『灰の王国』が始まります。
21ページは『焼け落ちた城』です。
ユノたちは地下で、この国が隠した“最初の傷”と向き合うことになります。




