魔法と少年
魔女と少年。
本来なら、出会うはずのなかった二人でした。
千年を眠った魔女リゼ。
炭鉱町で育った少年ユノ。
背負っているものも、見てきた景色も、失った時間もまるで違う二人。
けれど、星喰いに抗う旅の中で、二人は少しずつ互いの孤独に触れていきます。
空白地帯を越え、灰の王国の王城を前にした夜。
ユノとリゼは、銀色の契約を通して互いの記憶を垣間見ることになります。
これは、戦いの前の静かな時間。
そして、魔女と少年が“仲間”として確かに繋がる夜です。
王城は、夜の中で沈黙していた。
灰の王国の奥にそびえるその城は、遠くから見た時よりもずっと巨大だった。黒く焼けた城壁は空を塞ぐように高く、尖塔は折れた剣のように雲へ突き刺さっている。
門の前には、黒翼騎士団の石像が並んでいた。
どれも同じ姿をしている。
黒い鎧。
伏せた顔。
背中に広がる羽根。
そして胸に刻まれた黒い紋章。
石像の目は空洞だった。
けれど、見られている気がした。
ユノたちは門から少し離れた崩れた礼拝所の陰で足を止めた。
空白地帯を越えた直後で、全員が疲れ切っていた。
ミアはルグナの記憶灯を抱えたまま座り込んだ。
「もう一歩も歩きたくない……」
カイも壁にもたれ、木剣を膝に置いている。
強がってはいるが、顔色は悪い。
「俺は、まだ歩ける」
「嘘つかないの」
ミアがすぐに言った。
「足、震えてる」
「震えてない」
「震えてる」
「……少しだけ」
カイは悔しそうに俯いた。
ユノは苦笑しながら、自分も壁際に腰を下ろした。
正直、ユノも限界に近かった。
星灯りの剣を使い、空白を斬った。
その時に流れ込んできたネリオの記憶が、まだ頭の奥に残っている。
知らないはずの村の匂い。
カイの父の笑い声。
母のパンの味。
消える夜の恐怖。
それらがユノの中で、自分の記憶のように疼いていた。
リゼは門を見つめたまま立っていた。
銀色の髪が夜風に揺れている。
彼女の横顔は静かだった。
けれど、ユノには分かった。
銀の契約があるからだ。
リゼは落ち着いているのではない。
怖さを押し殺している。
この王城には、リゼの過去がある。
魔女を裏切った王。
黒翼騎士団。
魔女裁判。
炎。
時計塔で過去に呑まれかけたばかりなのに、彼女はまたその中心へ向かおうとしている。
「リゼ」
ユノが呼ぶと、彼女の手首の銀の輪が淡く光った。
リゼは振り返る。
「何?」
「少し休もう」
「時間が惜しいわ」
「休まないと動けない」
「私は動ける」
「そういう話じゃないだろ」
リゼは少しだけ眉を寄せた。
ミアが横から口を挟む。
「リゼも休んで。顔色悪いよ」
「魔女の顔色は元々白いわ」
「そういう言い訳、ユノに似てきた」
「似ていない」
「似てる」
ミアはきっぱり言った。
ユノは少し笑った。
リゼは不満そうだったが、やがて諦めたように礼拝所の壁際へ腰を下ろした。
小さな火は起こさなかった。
王城の前で目立つのは危険だったからだ。
代わりに、ミアが抱えている記憶灯の銀火が、四人の顔をほんのり照らしていた。
その火を見ると、ユノはルグナを思い出す。
採掘塔の音。
ガルドの声。
煤けた石畳。
帰る場所。
カイはその火をじっと見つめていた。
「それ、ルグナの火なんだよな」
「うん」
ミアが答える。
「ユノと私の故郷の記憶が入ってるみたい」
「ネリオにも、そういう火があったのかな」
カイの声は小さかった。
ユノは少し考えてから言った。
「あったかもしれない」
「でも消えた」
「まだ分からない」
「……」
カイは木剣を握った。
「俺、ネリオを取り戻せるかな」
ユノはすぐには答えられなかった。
取り戻せる。
そう言ってやりたい。
けれど嘘はつけない。
ネリオは空白に呑まれた。
村そのものがどれだけ残っているのか分からない。
戻せる保証なんてない。
「全部は難しいかもしれない」
ユノは正直に言った。
カイの目が揺れる。
「でも、名前は取り戻した」
「……うん」
「カイが覚えてる。俺たちも覚えた。ネリオっていう村があったことは、もう一人じゃない」
カイは唇を噛んだ。
「それだけで、足りるのかよ」
「足りない」
ユノは言った。
「でも、始まりにはなる」
カイはしばらく黙った。
やがて、小さく頷く。
「ネリオ」
「ネリオ」
ユノも呼んだ。
ミアも、リゼも続けた。
「ネリオ」
その名前は、王城の前の静かな夜に、小さく響いた。
しばらくして、ミアとカイは眠りについた。
疲れ切っていたのだろう。
ミアはランタンを抱えたまま壁に寄りかかり、カイは木剣を握ったまま丸くなっていた。
ユノは眠れなかった。
リゼも眠っていない。
二人は少し離れて座り、王城を見上げていた。
巨大な門は閉ざされている。
黒い羽根の鍵があれば開くのだろう。
だが、今開けるべきではない。
身体も心も、まだ戦う準備ができていなかった。
「リゼ」
「何?」
「怖いか?」
リゼはすぐには答えなかった。
風が吹く。
灰が細かく舞った。
「怖いわ」
やがて、彼女は言った。
「この城には、私が失ったものが多すぎる」
「入るの、やめるか?」
言った瞬間、答えは分かっていた。
リゼは首を振る。
「やめない」
「だよな」
「でも、少しだけ……」
リゼは自分の手を見た。
「足がすくむ」
その言葉が、ユノには意外だった。
リゼはいつも前を向いているように見えた。
怖くても進む。
痛くても立つ。
そういう強さがあると思っていた。
けれど今、彼女は自分の弱さを口にした。
それは弱さというより、信頼のように思えた。
「俺も怖い」
ユノは言った。
「王の名の欠片も、黒い羽根のやつも、星灯りの剣も。全部、俺には大きすぎる」
「あなたはいつも、大きすぎるものに手を伸ばす」
「そうしないと届かないからな」
リゼはユノを見た。
「手を伸ばした先で、落ちるかもしれない」
「その時は引っ張ってくれ」
「契約があるから?」
「それもあるけど」
ユノは銀の輪に触れた。
「リゼなら、引っ張ってくれると思うから」
リゼの赤い瞳が少し揺れた。
「私は、誰かを守るのが得意ではない」
「でも守ってくれてる」
「守りきれなかったものの方が多い」
「それでも、今ここにいる俺たちは守られてる」
リゼは何も言わなかった。
ユノは続けた。
「リゼは、自分が残されたって言ったよな」
「ええ」
「でも、残ったから俺たちと会えた」
リゼが顔を上げる。
「それを良かったなんて、簡単に言えないけど……でも俺は、リゼに会えてよかったと思ってる」
言ったあと、少し恥ずかしくなった。
灰の王国の夜が静かすぎて、自分の声だけが大きく聞こえる。
リゼはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「あなたは本当に、まっすぐすぎる」
「悪いか?」
「悪くない」
リゼは膝を抱えた。
「私も、あなたに会えてよかった」
ユノは驚いてリゼを見た。
リゼは目を逸らした。
「何?」
「いや、今のもう一回言って」
「言わない」
「聞き間違いかもしれない」
「聞き間違いではないわ」
「じゃあ――」
「言わない」
リゼの声はいつも通りだったが、耳が少し赤い気がした。
ユノは笑いそうになったが、我慢した。
その時、銀の輪がふいに強く光った。
ユノは手首を見る。
「何だ?」
リゼも自分の手首を見ていた。
光が二人の間に細い糸のように伸びている。
「契約が反応している」
「どうして」
「この場所の記憶が強すぎるのかもしれない」
リゼが言い終える前に、ユノの視界が揺れた。
世界が灰色に染まる。
ユノは思わず目を閉じた。
次に開いた時、彼は知らない部屋にいた。
いや、知らないはずなのに、知っている。
そこは千年前の王城だった。
白い石壁。
長い廊下。
星をかたどった燭台。
窓の外には、まだ燃える前の美しい都が見える。
ユノの前に、幼いリゼが立っていた。
今より少し小さく、髪も短い。
彼女は大きな本を抱え、廊下を走っている。
「姉様!」
その先に、金色の瞳の少女がいた。
第七坑道の棺で見た少女。
リゼの姉。
彼女は振り返り、優しく微笑む。
「走ると転ぶわよ、リゼ」
「転ばないもの」
幼いリゼは頬を膨らませた。
その顔は、今のリゼからは想像できないほど表情豊かだった。
ユノは息を呑んだ。
これが、千年前のリゼ。
まだ世界を失う前の。
姉は本を覗き込む。
「また星図?」
「昨日見えた黒い星が載っていないの」
幼いリゼは真剣だった。
「あれ、変よ。空にあるのに、星じゃないみたい」
姉の表情がわずかに曇る。
「リゼ、その話は他の人にしないで」
「どうして?」
「怖がる人がいるから」
「怖いものは、名前をつければ怖くなくなるって姉様が言った」
「そうね」
姉はリゼの頭を撫でた。
「でも、名前をつけることで、もっと怖くなるものもあるの」
景色が揺れる。
今度は王城の広間。
王が魔女たちを迎えている。
リゼと姉もそこにいた。
まだ王国は魔女を敬っていた頃だ。
王は笑っていた。
人々も魔女に頭を下げていた。
けれど、広間の隅には黒い羽根の紋章をつけた若い騎士が立っている。
その顔は見えない。
ユノは胸がざわついた。
黒い羽根の者だろうか。
景色がまた揺れる。
今度は地下牢。
リゼと姉が引き離されている。
「姉様!」
「リゼ、目を閉じないで!」
姉が叫ぶ。
「見て、覚えて! 私たちが何をされたのか、忘れないで!」
幼いリゼは泣き叫んでいる。
鎖。
炎。
黒い羽根。
そして、姉の声。
――あなたは生きて。
――忘れないで。
――でも、憎しみだけで生きないで。
ユノは胸が苦しくなった。
リゼの記憶が流れ込んでいる。
その痛みは想像以上だった。
次の瞬間、景色が変わった。
今度はルグナだった。
ユノの記憶。
屋根の上で空を見る幼いユノ。
ミアが下から怒鳴っている。
「ユノー! 落ちるよ!」
「落ちない!」
幼いユノは笑っている。
そこへ父が現れる。
大きな手でユノを抱き上げる。
「屋根は空を見る場所じゃないぞ」
「じゃあどこで見るの?」
「地面でいいだろ」
「地面だと煙突が邪魔」
父は笑った。
その笑い声に、現在のユノの胸が痛む。
記憶の中の父は生きている。
温かくて、大きくて、絶対に消えないと思っていた。
景色が変わる。
父の葬儀。
黒い服。
雨。
ユノは泣いていなかった。
泣き方が分からなかった。
ガルドが隣に立ち、震える手でユノの肩を掴んでいた。
ミアは少し離れた場所で泣いていた。
ユノだけが、何も感じていないような顔をしていた。
でも本当は違った。
感じすぎて、何も出てこなかったのだ。
さらに景色が変わる。
ユノがひとりで屋根にいる夜。
星が減っていることに気づいた夜。
誰にも言えず、ただ空を睨んでいた夜。
その孤独がリゼへ流れていく。
ユノははっとした。
これは自分の記憶も、リゼへ見えている。
恥ずかしい。
怖い。
でも止められない。
記憶が混ざる。
リゼの姉の声。
ユノの父の手。
炎。
採掘塔の音。
鎖。
屋根の上の風。
黒い星。
消える星。
そして、二人の名前。
ユノ。
リゼ。
「ユノ!」
現実の声がした。
ユノは目を開けた。
灰の王国の夜。
礼拝所の陰。
目の前にはリゼがいる。
彼女も息を切らしていた。
銀の輪が強く光っている。
「今の……」
ユノは言いかけた。
リゼは頷く。
「互いの記憶が流れた」
「見えたのか。俺の」
「ええ」
「どこまで」
「屋根。あなたの父。雨の日。ミア。星のない夜」
ユノは顔を伏せた。
「見られたくないものまで見えたな」
「私も同じよ」
リゼの声は静かだった。
「姉様のこと、見たでしょう」
「ああ」
「怖かった?」
「怖かった」
正直に言った。
「でも、それ以上に……悲しかった」
リゼは目を伏せた。
「私は、姉様に“憎しみだけで生きるな”と言われた」
「うん」
「でも私は、憎んでいた。人間を。王国を。黒翼騎士団を。星喰いを。目覚めたあとも、ずっと」
「当然だろ」
「当然でも、姉様との約束を守れていない」
リゼの声が少し震えた。
ユノは首を振った。
「守れてるよ」
「どこが?」
「エリオの名前を呼んだ」
リゼが顔を上げる。
「あいつは魔女狩りの騎士だった。でもリゼは、最後に名前を呼んだ。リナの名前も」
「……」
「憎しみだけだったら、呼べなかったと思う」
リゼは黙った。
長い沈黙のあと、小さく言った。
「あなたは、人の傷に勝手に光を当てる」
「悪い」
「悪くない」
その言葉は、とても小さかった。
ユノも自分の手を見た。
父の記憶を見られた。
泣けなかった葬儀も、孤独だった夜も。
恥ずかしいはずなのに、不思議と少し軽くなっていた。
誰にも見せられなかったものを、リゼが見た。
そして、そこにいてくれた。
それだけで、ひとりではなくなった気がした。
「リゼ」
「何?」
「俺、父さんが死んだ時、泣けなかった」
「見たわ」
「ずっと、それが嫌だった。薄情なんじゃないかって」
リゼは静かに首を振った。
「違うわ」
「分かるのか?」
「分かる」
彼女はまっすぐユノを見た。
「悲しみが大きすぎると、涙は出ないことがある。私も、姉様が消えた時、泣けなかった」
ユノは息を止めた。
「そうなのか」
「ええ。封印の中で千年眠って、目覚めて、姉様の棺を見て……それでも涙は出なかった」
「今は?」
リゼは少しだけ考えた。
「分からない。でも、痛い」
「それでいいんじゃないか」
「痛いだけで?」
「痛いってことは、忘れてないってことだろ」
リゼは以前にも聞いたその言葉を、今度は黙って受け取った。
銀の輪が静かに光る。
その光は、さっきよりも穏やかだった。
夜が深くなる。
王城の門は、まだ沈黙している。
その向こうに何が待っているのかは分からない。
黒い羽根の者。
王の名の手がかり。
星喰いの罠。
灰の王国のさらなる罪。
けれどユノは、少しだけ怖さが変わった気がした。
恐怖がなくなったわけではない。
でも、ひとりで抱えている恐怖ではなくなった。
リゼも同じなのか、彼女は静かに息を吐いた。
「ユノ」
「何?」
「あなたの父は、優しい人だったのね」
ユノの胸がきゅっと痛んだ。
「うん」
「あなたが人の名前を呼び続ける理由が、少し分かった」
「俺も、リゼが忘れたくない理由が少し分かった」
リゼは王城を見た。
「私は魔女」
「ああ」
「あなたは少年」
「そうだな」
「本来なら、交わらない時間を生きている」
「でも今は一緒にいる」
「ええ」
リゼは小さく頷いた。
「不思議ね」
「そうか?」
「ええ。千年眠った私が、炭鉱町の少年と王城の前にいるなんて」
「俺も、空から落ちてきた魔女と旅するとは思ってなかった」
「でしょうね」
二人は少しだけ笑った。
その笑い声は小さく、すぐに夜へ溶けた。
でも確かにあった。
魔女と少年。
千年の孤独と、炭鉱町の寂しさ。
二つの違う傷が、銀色の契約で少しだけ繋がっている。
それは危うい絆だった。
代償もある。
痛みも流れ込む。
見たくない記憶も見えてしまう。
それでもユノは、この契約を結んでよかったと思った。
「そろそろ寝た方がいいわ」
リゼが言った。
「リゼは?」
「少し見張る」
「交代する」
「今のあなたは休むべき」
「それ、リゼもだろ」
「私は魔女だから」
「便利じゃないんだろ?」
リゼは言葉に詰まった。
ユノは笑った。
「少し寝ろよ。俺が見てる」
「でも」
「名前を呼ぶから」
リゼはユノを見る。
ユノは言った。
「リゼ。ここにいる。だから少し休め」
銀の輪が温かく光る。
リゼはしばらく抵抗するように目を伏せていたが、やがて小さく頷いた。
「少しだけ」
「ああ」
リゼは壁にもたれ、目を閉じた。
その横顔は、眠るというより、ようやく力を抜いたように見えた。
ユノは王城の門を見張りながら、三人の名前を小さく呼んだ。
「ミア。カイ。リゼ」
それから自分の名も。
「ユノ」
夜の灰の中で、四つの名前は消えずに残った。
王城の向こうから、かすかに黒い羽根が舞う音がした。
だがユノは目を逸らさなかった。
明日、門を開く。
そして灰の王国の中心へ入る。
魔女と少年は、もうただの偶然ではなかった。
互いの痛みを知り、互いの名前を呼び合う仲間になった。
それがどれほど小さな光でも。
星のない夜を歩くには、十分だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、王城へ入る前の静かな夜を描きました。
ユノとリゼは、銀色の契約を通して互いの記憶に触れます。
リゼが姉と過ごした千年前の記憶。
魔女裁判の恐怖。
ユノが父を失った日の記憶。
泣けなかった悲しみ。
星を見上げ続けた孤独。
二人はまったく違う時間を生きてきました。
けれど、“忘れたくない痛み”を抱えているという点では似ています。
魔女と少年。
本来なら出会うはずのなかった二人が、互いの名前を呼び合える関係になりました。
次のページは『世界が泣く音』です。
第一章の締めくくりとして、王城の門が開き、ユノたちは灰の王国の中心で“世界そのものが泣いている”ような音を聞くことになります。




