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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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最初の怪物

怪物とは、最初から怪物だったのでしょうか。


 それとも、誰かの恐怖や憎しみ、失われた記憶が積み重なった果てに、怪物と呼ばれるものへ変わってしまうのでしょうか。


 銀色の契約を結んだユノとリゼは、ミアと共に灰の王国へ向かいます。


 そこは、千年前に魔女を裏切った国。

 そして、黒い羽根の者が待つ場所。


 このページでは、ユノたちは“最初の怪物”と出会います。


 星喰いとは違う。

 けれど確かに、星喰いによって壊された存在。


 その出会いは、ユノたちに問いかけます。


 本当に倒すべきものは、怪物なのか。

 それとも、怪物を生み出した世界なのか。

朝になっても、灰の王国は灰色だった。


 夜明けの光が平原を照らしても、遠くに見える城壁だけは色を取り戻さない。白かったはずの石は焼け焦げたように黒ずみ、ところどころ崩れた塔が、折れた骨のように空へ突き出していた。


 ユノは丘の上から、その国を見下ろしていた。


 胸の奥が重い。


 ルグナやフェルカとは違う。


 この場所には、まだ足を踏み入れる前から、何かが沈んでいる。


 古い憎しみ。

 忘れられた叫び。

 灰に埋もれた記憶。


 そんなものが、風に混ざって肌にまとわりつくようだった。


「ここが、灰の王国……」


 ミアが小さく呟いた。


 彼女は工具袋を腰に下げ、いつもより口数が少ない。昨日の夜、銀色の契約を見届けてから、ミアは何度かユノとリゼの手首をちらちら見ていた。


 ユノの右手首には、銀色の輪が浮かんでいる。


 リゼの左手首にも同じ輪がある。


 光は弱く、普段は細い糸のようにしか見えない。


 けれど互いの名前を呼ぶと、かすかに温かくなる。


 ユノは無意識にその輪へ触れた。


「痛む?」


 リゼが聞いた。


「いや。少し気になるだけ」


「契約が馴染むまでは違和感があるわ」


「馴染んだら?」


「互いの異常に気づきやすくなる」


「便利だな」


「便利ではないわ」


 リゼはいつものように言った。


「相手の苦しみも伝わることがある」


 ユノは手首から指を離した。


「……それ、先に言ってほしかった」


「言えば契約しなかった?」


「したけど」


「なら同じよ」


 リゼは平然としていた。


 ミアが少し呆れたように言う。


「二人とも、契約してからちょっと変」


「変?」


 ユノが聞くと、ミアはむっとした顔をした。


「何か、二人だけで通じてる感じがする」


「そんなことないだろ」


「ある」


 ミアは即答した。


 リゼは不思議そうに首を傾げる。


「契約したのだから、多少は通じるわ」


「そういう意味じゃなくて!」


 ミアは頬を膨らませた。


 ユノは少し笑いそうになったが、すぐに遠くの城壁へ視線を戻した。


 笑っていられる場所ではない。


 灰の王国の外縁には、かつて町だったらしい廃墟が広がっていた。


 焼けた家々。

 崩れた石畳。

 首のない像。

 煤けた井戸。

 折れた旗竿。


 人の姿はない。


 だが、何かの気配はある。


 リゼもそれを感じているのか、表情を険しくしていた。


「ここから先は、名前を絶やさないで」


「空白があるのか?」


「空白というより、記憶の灰が濃い」


「記憶の灰?」


「失われた記憶が燃え残ったものよ。吸い込みすぎると、過去と現在の境目が曖昧になる」


 ミアが嫌そうな顔をする。


「また怖い説明が増えた」


「怖がって正しいわ」


 リゼは灰色の城壁を見つめる。


「この国は、千年前の罪をまだ燃やし続けている」


 三人は丘を下り、廃墟へ向かった。


 足元の草は枯れていた。


 踏むたびに、灰のような粉が舞う。


 空気は乾いていて、喉が痛くなる。風が吹くと、どこからともなく焦げた匂いがした。


 ユノは鼻を押さえた。


「まだ燃えてるみたいな匂いだ」


「実際には燃えていないわ」


 リゼが答える。


「でも、記憶が燃え続けている」


「記憶が燃えるって、どういう状態なのよ……」


 ミアが呟く。


 ユノにも分からなかった。


 だが、一歩進むごとに、何かが耳元で囁くような感覚があった。


 助けて。

 裏切り者。

 魔女を焼け。

 違う、私たちは守ろうとした。

 星が消える。

 子どもを隠せ。

 火を放て。

 王の命令だ。

 嫌だ。

 死にたくない。

 忘れたくない。


 声は小さく、重なり合い、意味を失っていく。


 ユノは頭を振った。


「ユノ」


 リゼの声。


 手首の銀の輪が温かくなる。


 ユノははっとした。


「あ……悪い」


「記憶の灰に触れすぎている。意識を今に戻して」


「今に?」


「自分の名前。仲間の名前。今の目的」


 ユノは頷いた。


「ユノ。ミア。リゼ。目的は、星涙石と王の名の欠片を探すこと」


 ミアも続けた。


「ミア。ユノ。リゼ。灰の王国に向かってる」


 リゼも静かに言う。


「リゼ。ユノ。ミア。黒翼騎士団の痕跡を追う」


 名前を呼ぶと、声の群れが少し遠ざかった。


 廃墟の入口には、崩れた門があった。


 門の上には古い紋章が残っている。


 白い星を抱く王冠。


 だがその星には、黒い斜線が刻まれていた。


 リゼがその紋章を見上げる。


「星白王国の紋章……」


「昔の名前だっけ」


「ええ」


 リゼは手を伸ばし、門の石に触れた。


 瞬間、彼女の表情が歪んだ。


 銀の輪が熱くなる。


 ユノの胸にも、知らない痛みが走った。


「リゼ?」


「大丈夫」


 言葉とは裏腹に、リゼの顔は白い。


 ユノはすぐに彼女の手首を掴んだ。


「大丈夫じゃないだろ」


 リゼは門から手を離した。


 呼吸が少し乱れている。


「ここで……魔女が吊るされた」


 ミアが息を呑んだ。


 リゼは門を見つめたまま続ける。


「入城を求めた魔女たちがいた。星喰いから逃げてきた人々を連れて。この国は門を閉ざし、魔女だけを捕らえた」


「ひどい……」


「その時、王は宣言した」


 リゼの声が低くなる。


「星が消えるのは、魔女が星を盗んだからだと」


 ユノは拳を握った。


「違うのに」


「真実よりも、分かりやすい嘘の方が人を動かすことがある」


 リゼはそう言って、門をくぐった。


 ユノとミアも後に続く。


 廃墟の中は静かだった。


 静かすぎるほどに。


 建物は焼け落ち、窓枠だけが残っている。井戸の中には水がなく、底には灰が積もっていた。広場の中央には、黒く焦げた柱が何本も立っている。


 処刑台の跡。


 ユノはすぐにそう悟った。


 リゼはそこを見ないように歩いていた。


 けれど、見ないようにしていること自体が、彼女がそこに何があったか知っている証だった。


「リゼ」


 ユノは小さく呼んだ。


 銀の輪が淡く光る。


 リゼは足を止めなかった。


「大丈夫」


「嘘だろ」


「ええ」


「認めるのかよ」


「契約で分かるでしょう」


 確かに、ユノの胸にはリゼの痛みが少しだけ流れてきていた。


 熱い。


 喉が焼けるような痛み。


 手首を縛られる感覚。


 怒号。


 石を投げられる音。


 泣き叫ぶ子ども。


 そして、炎。


 ユノは思わず息を詰めた。


 これがリゼの記憶なのか。


 千年前、この国で見たもの。


 リゼはそれを、ずっと抱えていた。


「ごめん」


 ユノが言うと、リゼは振り返った。


「なぜ謝るの」


「勝手に感じた」


「契約のせいよ。あなたのせいではない」


「でも」


「なら、覚えておいて」


 リゼは前を向いた。


「ここで何があったかを」


 その時だった。


 ミアが急に足を止めた。


「何か聞こえない?」


 ユノも耳を澄ませる。


 最初は風の音かと思った。


 だが違う。


 低い唸り声。


 建物の影の奥から聞こえる。


 獣のようで、獣ではない。


 喉の奥で石を擦り合わせるような音。


 リゼが手を上げた。


「下がって」


 次の瞬間。


 廃屋の壁が内側から砕けた。


「っ!」


 灰が舞う。


 黒い影が飛び出してくる。


 ユノは反射的にミアを庇った。


 目の前に現れたのは、異様な怪物だった。


 人の形をしている。


 だが、人間ではない。


 背丈はガルドよりも大きい。全身が灰色の皮膚に覆われ、ところどころ焼け爛れている。腕は異常に長く、指先には鉤爪のような黒い爪が生えていた。


 顔には目がひとつしかない。


 口は縫い合わされたように閉じられ、その隙間から灰が漏れている。


 胸には、黒い羽根の紋章が焼きついていた。


「星喰い……?」


 ミアが震える声で言う。


 リゼは首を振った。


「違う」


「じゃあ何だよ」


 ユノが聞くと、怪物が唸った。


 その声の奥に、人の声が混ざっていた。


「……まじょ……」


 ユノは息を止めた。


 今、確かに言った。


 魔女、と。


 リゼの顔が強張る。


「これは……灰騎士」


「灰騎士?」


「魔女狩りの騎士たちの成れの果て」


 怪物が地面を蹴った。


 速い。


 ユノは星涙石を握り、咄嗟に叫ぶ。


「守れ!」


 青白い結界が前に展開する。


 怪物の爪が結界に叩きつけられた。


 衝撃。


 ユノの腕に痛みが走る。


 リゼの銀の輪も強く光った。


「ユノ、力を入れすぎないで!」


「無茶言うな!」


 怪物は何度も爪を叩きつけてくる。


 結界に亀裂が入る。


 ミアが横から叫んだ。


「右に崩れた壁! 足場が悪い! 誘導して!」


「分かった!」


 ユノは結界を保ちながら後退する。


 怪物は唸り声を上げ、ユノを追ってきた。


 右へ。


 崩れた壁の近くへ。


 ミアが地面に転がっていた鎖を掴む。


「リゼ!」


「ええ」


 リゼが手をかざす。


 銀の氷が鎖を覆い、一瞬で硬く張り詰めた。


 ミアが鎖を引く。


 怪物の足元に絡まる。


 怪物がバランスを崩した。


 ユノは叫んだ。


「今だ!」


 リゼが魔法を放つ。


「凍りなさい!」


 銀色の氷が怪物の腕を覆う。


 だが、完全には止まらない。


 怪物の胸の黒い羽根紋章が赤黒く光った。


 氷が灰になって崩れる。


「魔法が効かない!?」


 ミアが叫ぶ。


 リゼの表情が険しくなる。


「黒翼の呪印……魔女の魔法を分解する刻印よ」


「じゃあどうする!」


 怪物が再び立ち上がる。


 口の縫い目から灰が噴き出した。


「まじょ……ころす……」


 その声は、憎しみに濁っていた。


 だが同時に、苦しそうでもあった。


 ユノは一瞬、攻撃をためらった。


 この怪物は、もともと人間だった。


 魔女狩りの騎士。


 憎むべき相手かもしれない。


 でも今、目の前にいるものは、苦しみ続ける残骸のようにも見えた。


「ユノ!」


 リゼの声。


 怪物の爪が迫る。


 ユノは結界を張るのが遅れた。


 爪が肩を掠める。


「ぐっ!」


 血が飛んだ。


 ミアが悲鳴を上げる。


「ユノ!」


 リゼの銀の輪が激しく光る。


 彼女の顔にも痛みが走った。


 契約で、傷の痛みが少し伝わったのだ。


「大丈夫だ!」


 ユノは歯を食いしばる。


 怪物は再び腕を振り上げる。


 その時、ユノの胸元のフェルカの星涙石が光った。


 頭の中に声が流れ込む。


 ――エリオ。


 知らない名前だった。


 ユノは息を止めた。


 怪物の動きが一瞬止まる。


 もう一度、声が響く。


 ――エリオ。帰ってきて。


 女の声。


 誰かがこの怪物を呼んでいる。


 ユノは叫んだ。


「エリオ!」


 怪物が硬直した。


 リゼが目を見開く。


「ユノ?」


「こいつの名前だ!」


 怪物の身体が震える。


 口の縫い目から、かすれた声が漏れた。


「え……り……お……?」


 ミアが息を呑む。


「名前を思い出してる……?」


 ユノは星涙石を握った。


 フェルカの村で、名前を呼び戻した時と同じ感覚。


 この怪物にも、名前がある。


 名前が残っている。


「エリオ!」


 ユノはもう一度叫んだ。


「お前はエリオだ!」


 怪物は頭を抱えた。


 苦しそうに呻く。


 灰色の皮膚の下で、何かが脈打っている。


 黒い羽根の呪印が赤く光る。


「まじょ……ころす……」


「違う!」


 ユノは一歩踏み出した。


 リゼが止めようとする。


「近づかないで!」


「でも、名前に反応してる!」


「呪印がある。無理に記憶を戻せば暴走する!」


「じゃあ見捨てるのか!」


 リゼの顔が歪んだ。


 ユノはその表情を見て、言いすぎたと思った。


 でも、もう止まれない。


 怪物――エリオは、両手で頭を掻きむしっている。


 口の縫い目が裂け、灰が噴き出す。


「わたし……は……」


 声が変わった。


 獣の唸りではない。


 人間の声。


「わたしは……誰だ……」


 ユノは星涙石を掲げた。


「エリオ!」


 青白い光が広がる。


 ユノの視界が揺れた。


 記憶が流れ込む。


 白い城壁。


 若い騎士。


 名前はエリオ。


 星白王国の門番だった。


 彼には妹がいた。


 妹は病弱で、魔女に救われたことがあった。


 だからエリオは魔女を憎んでいなかった。


 むしろ感謝していた。


 だが星喰いが現れ、王国に恐怖が広がった時、黒翼騎士団は彼に命じた。


 魔女を捕らえろ。


 逆らえば妹を反逆者として処刑する。


 エリオは従った。


 従うしかなかった。


 門の前で、助けを求める魔女たちを捕らえた。


 その中に、銀髪の少女がいた。


 幼いリゼだった。


 ユノは息を呑む。


 記憶の中のエリオは、震えていた。


 リゼを見て、剣を下ろした。


「こんな子どもまで……」


 しかし背後の黒翼騎士が言った。


「魔女に年齢はない。災厄に情けをかけるな」


 エリオは泣きそうな顔でリゼを捕らえた。


 そして、その夜。


 彼の妹は消えた。


 星喰いに喰われた。


 誰も覚えていなかった。


 エリオだけが覚えていた。


 彼は黒翼騎士団に訴えた。


 妹がいた。

 魔女のせいではない。

 星喰いが本当の敵だ。


 だが騎士団は、彼を黙らせた。


 記憶を持ち続ける者は危険だとして。


 エリオの身体に黒翼の呪印を刻み、魔女への憎しみだけを残した。


 妹の名前も、顔も、愛した記憶も奪い。


 ただ「魔女を殺せ」という命令だけを残した。


 それが、灰騎士。


 人が作った怪物。


 ユノは現実に戻った。


 息が荒い。


 頬に涙が伝っていた。


「エリオは……魔女を憎んでたんじゃない」


 リゼが固まる。


「何を見たの」


「こいつも、奪われたんだ。妹の記憶を。自分の心を」


 エリオの身体が震えている。


 黒翼の呪印が激しく光り、彼を再び怪物に戻そうとしている。


「まじょ……ころ……」


「違う!」


 ユノはエリオへ駆け寄った。


 リゼが叫ぶ。


「ユノ!」


 怪物の爪がユノへ向かう。


 だがユノは避けなかった。


 星涙石をエリオの胸の呪印へ押し当てる。


 激痛。


 黒い呪いが腕を伝ってくる。


 記憶が削られる。


 自分の名前が遠ざかる。


 ユノ。


 ユノ。


 誰だ。


 その時、銀の輪が強く光った。


「ユノ!」


 リゼの声が響く。


 続いてミアも叫んだ。


「ユノ! あんたはユノ!」


 名前が戻る。


 ユノは歯を食いしばった。


「エリオ! 思い出せ!」


 星涙石が眩く光る。


 黒翼の呪印がひび割れる。


 エリオが絶叫した。


 それは怪物の声ではなかった。


 人間の悲鳴だった。


「妹の名前を!」


 ユノは叫ぶ。


「お前が忘れたくなかった名前を!」


 エリオの一つ目から、灰色の涙が流れた。


「……リ……ナ……」


 リゼが息を呑む。


 エリオは震えながら言った。


「妹の名は……リナ……」


 呪印が砕けた。


 黒い羽根の紋章が灰になって崩れる。


 エリオの巨大な身体も、少しずつ崩れ始めた。


 灰が風に舞う。


 ユノは支えようとしたが、触れた手の中で彼の腕は崩れていった。


「ありがとう……」


 エリオの声は、もう怪物ではなかった。


 「思い出せた……あの子の名前を……」


 リゼは動けずにいた。


 エリオは彼女を見た。


 たった一つの目に、後悔が宿っていた。


「魔女……すまない……」


 リゼの唇が震える。


 千年前、自分を捕らえた騎士。


 魔女狩りの一人。


 許せるはずがない。


 許さなくてもいい。


 ユノはそう思った。


 けれどリゼは、ゆっくり口を開いた。


「あなたの罪は、消えない」


「……ああ」


「私も、あなたを許せるか分からない」


「それでいい……」


 エリオは灰になりながら微笑んだ。


「でも……妹の名前を……思い出せた……」


 彼の身体は、完全に崩れた。


 灰だけが残った。


 その灰の中に、小さな金属片が落ちていた。


 黒い羽根の形をした鍵。


 リゼがそれを拾う。


「黒翼騎士団の通行証」


「灰の王国へ入るための?」


「おそらく」


 ユノは地面に膝をついたまま、息を整えた。


 腕が黒く痺れている。


 星涙石の光はさらに弱くなっていた。


 リゼがユノの腕を掴む。


「無茶をしすぎ」


「でも、助けられた」


「助けたと言えるの?」


 ユノは灰を見た。


 エリオは消えた。


 完全に救えたわけではない。


 けれど、最後に名前を思い出した。


 妹の名前を。


 自分の罪を。


 それは救いだったのか。


 ユノには分からない。


「分からない」


 正直に言った。


「でも、怪物のまま終わらせたくなかった」


 リゼは何も言わなかった。


 ミアがそっとユノの肩の傷に包帯を巻く。


「ほんと、見てるこっちの心臓がもたない」


「悪い」


「謝るくらいなら、次はもう少し考えて」


「努力する」


「絶対しない返事だ」


 ミアは涙目で怒っていた。


 ユノは何も言えなかった。


 リゼは灰の上に立ち、静かに目を閉じた。


「エリオ」


 彼女が名前を呼んだ。


「リナ」


 灰がかすかに光った。


 まるで、最後にその名前を受け取ったように。


 廃墟の空に、風が吹いた。


 灰が舞い上がり、遠くへ流れていく。


 最初の怪物。


 ユノたちが灰の王国で出会ったそれは、星喰いではなかった。


 人が恐怖で作り、人が罪を隠すために壊し、千年もの間苦しみ続けた存在だった。


 ユノは立ち上がった。


 遠くの城壁を見る。


 あの奥には、もっと多くの灰が眠っているのだろう。


 もっと多くの名前が、忘れられたまま。


 そして黒い羽根の者は、そこで待っている。


 ユノは手首の銀の輪に触れた。


「リゼ」


 彼女が振り返る。


「行こう」


「ええ」


「ミア」


「分かってる」


 三人は再び歩き出した。


 灰の王国の奥へ。


 怪物を倒すためではなく。


 怪物にされた者たちの名前を、少しでも取り戻すために。


 空は相変わらず灰色だった。


 けれどユノには、エリオの灰が風に溶ける瞬間、ほんの一瞬だけ銀色に光ったように見えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、灰の王国で“最初の怪物”と出会いました。


 星喰いそのものではなく、人が作り出した怪物――灰騎士エリオ。


 彼は魔女を憎む怪物として残されていましたが、本当は妹を守りたかったひとりの騎士でした。

 星喰いに妹の存在を奪われ、黒翼騎士団に心を壊され、千年もの間「魔女を殺せ」という命令だけを残されていた存在です。


 ユノは彼を完全には救えませんでした。

 けれど、最後にエリオは妹の名前を思い出しました。


 リナ。


 名前を取り戻すことは、存在を取り戻すこと。

 この物語において、その意味は少しずつ重くなっていきます。


 次のページは『壊れた時計塔』です。

 灰の王国の奥へ進むユノたちは、止まった時間の中に閉じ込められた街区へ入り、そこで“同じ一日を繰り返す人々”の記憶に触れることになります。

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