銀色の契約
契約とは、ただの約束ではありません。
守るものを決めること。
失う覚悟をすること。
そして、ひとりでは背負えない運命を、誰かと分け合うこと。
灰の王国を目前にして、ユノは自分の力の危うさを知りました。
星涙石を通して魔法に触れれば、仲間を守れる。
けれどその代償は、いつかユノ自身の記憶に届くかもしれない。
このページでは、ユノとリゼが“銀色の契約”を結びます。
それは魔女と鍵を結ぶ契約。
互いを縛り、互いを守り、そして互いの孤独に触れるための誓いです。
夕暮れの平原は、赤く燃えていた。
空の端に沈みかけた太陽が、枯れ草を血のような色に染めている。遠くには灰色の山脈が横たわり、その麓に黒ずんだ城壁の影が見えた。
灰の王国。
千年前、魔女を裏切った最初の国。
その名を聞くだけで、リゼの表情は硬くなる。
ユノは平原の丘に立ち、遠くの城壁を見つめていた。
胸元には二つの星涙石。
ルグナの欠片と、フェルカの欠片。
どちらも淡く光っている。だが、ルグナの石は橋で結界を張った時に力を使ったせいか、少しだけ輝きが弱くなっていた。
それを見るたびに、ユノは思い出す。
魔法には代償がある。
今は星涙石が肩代わりしているかもしれない。
でも、いつかその代償が自分自身に届くかもしれない。
名前を忘れるかもしれない。
父の顔を忘れるかもしれない。
ミアの声を忘れるかもしれない。
リゼの赤い瞳を忘れるかもしれない。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
「怖い?」
横から声がした。
リゼだった。
彼女は外套の裾を風に揺らしながら、ユノの隣に立った。
「顔に出てる?」
「かなり」
「そんなにか」
「ええ」
リゼは遠くの城壁へ視線を向けた。
「あれが灰の王国の外縁。昔は白い城壁だった」
「今は灰色に見える」
「燃えたから」
短い言葉だった。
でも、その中に千年前の炎が見えた気がした。
「魔女狩りの時?」
「ええ」
リゼは静かに頷いた。
「灰の王国は、かつて星白王国と呼ばれていた。星を祀り、魔女を保護し、世界で最も美しい都を持つ国だった」
「それが、なんで魔女を裏切ったんだ」
「恐れたのよ」
リゼの声は風に混ざった。
「星喰いが現れて、町や村が消え始めた。人々は理由を求めた。誰かのせいにしたかった。そして、魔女がいた」
「星喰いと戦ってたのに?」
「戦えるほど強かったから、疑われた」
ユノは歯を食いしばった。
「おかしいだろ」
「人は、怖い時ほど正しさを失う」
リゼは淡々と言った。
けれど、その淡々とした声の奥に、深い傷があるのが分かった。
「最初に魔女を裁いたのが、灰の王国の王。そこから魔女狩りは各地へ広がった」
「黒い羽根の騎士団も?」
「ええ。正式名称は《黒翼騎士団》。王直属の魔女狩り部隊だった」
ユノは夜空の墓場で拾った黒い羽根を思い出した。
そしてフェルカで見た黒い外套の者。
千年前の騎士団が、なぜ今も動いているのか。
その謎はまだ解けない。
「リゼは、灰の王国に行くの嫌なんじゃないか」
ユノが聞くと、リゼは少しだけ目を細めた。
「嫌よ」
「なら……」
「でも行く」
言葉は迷いなく続いた。
「王の名の欠片があるなら、避けられない」
「……強いな」
リゼはユノを見た。
「強くはないわ」
「でも逃げない」
「逃げる場所がないだけ」
その言葉は、あまりにも寂しかった。
ユノは何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
少し離れた場所では、ミアが野営の準備をしていた。
木の枝を集め、小さな火を起こそうとしている。
「ねえ! 火打ち石どこ!?」
「袋の右側!」
ユノが叫ぶ。
「右側ってどっちの袋!?」
「工具袋じゃない方!」
「最初からそう言って!」
ミアの怒った声が返ってくる。
ユノは少し笑った。
リゼもほんのわずかに口元を緩めた。
その表情を見て、ユノは思った。
リゼはきっと、笑い方を忘れているだけなのだ。
千年という時間の中で。
失いすぎたせいで。
火がつく頃には、空は濃い藍色に沈んでいた。
星はほとんど見えない。
けれど、まったくの闇ではなかった。
火の光が三人の顔を照らしている。
硬いパンと干し肉を分け合い、水を少しずつ飲む。
旅の食事は味気なかった。
それでも、ミアは文句を言いながら食べた。
「ルグナの黒パンの方がまだまし」
「そんなに変わらないだろ」
「全然違う。これは歯が折れる」
「大げさだな」
「ユノの歯が頑丈すぎるの」
リゼはパンをじっと見つめていた。
「どうした?」
「食べ物は、千年前とあまり変わらないのね」
「パンはパンだろ」
「もっと変わっているかと思った」
「千年経っても、硬いパンは硬いってことだね」
ミアが言うと、リゼは真面目に頷いた。
「興味深いわ」
「そこ興味持つんだ……」
火を囲んでいると、一瞬だけ旅ではないような気がした。
ただ三人で夜を過ごしているだけ。
けれど、遠くの灰色の城壁を見るたび、現実へ引き戻される。
明日には、灰の王国の領域へ入る。
そこには黒い羽根の者が待っている。
ユノは星涙石を取り出した。
二つの石が火の光を受けて輝く。
リゼがそれを見て、表情を引き締めた。
「ユノ」
「ん?」
「今夜、契約を結ぶ」
「契約?」
ミアも顔を上げる。
「何それ」
「魔女と鍵を結ぶ契約よ」
ユノは眉をひそめた。
「何のために?」
「あなたが力を使う時、代償が直接あなたへ流れ込むのを防ぐため」
「そんなことできるのか?」
「完全には無理。でも私が契約の受け皿になれば、記憶の崩壊を遅らせることはできる」
ユノはすぐに首を振った。
「駄目だ」
リゼは少し驚いた顔をした。
「まだ説明していない」
「今ので十分だろ。つまり俺の代償をお前も受けるってことだろ」
「一部だけよ」
「一部でも駄目だ」
リゼの目が細くなる。
「あなたは自分が危険になるのはいいのに、他人が危険になるのは嫌なのね」
「当たり前だろ」
「矛盾している」
「してない」
「しているわ」
リゼは静かに言った。
「あなたが倒れれば、私たちも危険になる。あなたが記憶を失えば、星涙石は扱えない。鍵であるあなたを守ることは、全員を守ることに繋がる」
「でも」
「それに、これは私の意思よ」
ユノは言葉に詰まった。
リゼの赤い瞳はまっすぐだった。
「私はもう、守られるだけの封印の核ではいたくない」
「リゼ……」
「千年前、私は眠ることしかできなかった。姉様も、仲間も、魔女たちも、みんな私のために命を差し出した。私は生き残ったんじゃない。生かされた」
火がぱちりと鳴った。
リゼの声は静かだった。
「だから今度は、私が選ぶ。誰かを守るために、自分の力を使う」
ユノは何も言えなかった。
その言葉を否定することは、リゼの覚悟を否定することになる。
ミアが小さく聞いた。
「契約したら、リゼはどうなるの?」
「ユノが星涙石を使った時、記憶の反動が私にも流れる。体力や魔力も消耗する」
「危ないじゃん」
「危険ではあるわ」
「正直だね……」
「嘘をついても意味がない」
ミアは不安そうにユノを見る。
「でも、何もしないのも危ないんだよね」
「ああ」
ユノは拳を握った。
自分ひとりで抱えればいいと思っていた。
でも、それは違うのかもしれない。
ひとりで抱えようとすることは、仲間を信じていないのと同じなのかもしれない。
ガルドの言葉を思い出す。
無理に全部背負うな。
父の言葉も。
魔女を信じろ。
ユノはリゼを見た。
「契約したら、お前が俺を守るのか」
「ええ」
「じゃあ、俺もお前を守る」
リゼは瞬きをした。
「契約上、その必要はないわ」
「俺にはある」
「……」
「お前が俺の代償を少し背負うなら、俺もお前の孤独を少し背負う」
言ったあと、少し恥ずかしくなった。
ミアが横で目を丸くしている。
「ユノ、たまにすごいこと言うよね」
「うるさい」
リゼはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ目を伏せる。
「孤独は、契約で分けられるものではないわ」
「でも、名前は呼べる」
ユノは言った。
「お前が自分を見失いそうになったら、俺がリゼって呼ぶ」
リゼの赤い瞳が揺れた。
火の光を受けて、涙のように光った。
「……本当に、あなたは無謀ね」
「知ってる」
「そして、少し残酷」
「それも前に言われた」
「でも」
リゼは小さく息を吐いた。
「嫌いではないわ」
契約は、月が雲の隙間から顔を出した時に始まった。
リゼは火の前に膝をつき、地面に銀色の粉で円を描いた。
粉は星の骨を砕いたものだという。
夜空の墓場で拾った、小さな欠片。
その粉で描かれた円の中に、ユノは座った。
ミアは少し離れた場所で見守っている。
「絶対に危なくなったら止めるからね」
「分かった」
「本当に?」
「本当」
「二人とも信用ならない」
ミアは眉を寄せながらも、工具袋から小さなナイフと包帯を取り出して準備していた。
リゼはユノの正面に座る。
「右手を出して」
ユノは手を差し出した。
リゼは小さな銀の針で、自分の指先を刺した。
赤い血が一滴、地面の円に落ちる。
次に、ユノの指先にも針を当てた。
ちくりと痛みが走る。
ユノの血も円に落ちた。
二つの血が銀色の粉に触れた瞬間、淡い光が広がった。
「魔女の契約は、名前で結ぶ」
リゼが言った。
「本当の名前を差し出し、互いの存在を繋ぐ」
「本当の名前?」
「あなたが自分で自分だと認めている名」
「ユノ、でいいのか」
「ええ」
リゼは目を閉じた。
「私はリゼ。千年前の魔女。星の封印に眠り、世界の忘却から目覚めた者」
その声に合わせて、銀色の円が輝く。
ユノは少し緊張しながら言った。
「俺はユノ。炭鉱町ルグナで生まれて、星涙石に選ばれた……たぶん鍵」
「たぶんは不要」
「分かってるよ」
ユノは深く息を吸った。
「俺はユノ。星喰いに奪われた名前を忘れない者」
言葉にした瞬間、胸元の星涙石が強く光った。
リゼの赤い瞳が開く。
「契約の言葉を続けて」
「何て言えばいい」
「自分で決めて」
「え?」
「契約は借り物の言葉では結べない」
ユノはリゼを見た。
自分の言葉。
守りたいもの。
代償を知った上で、それでも選ぶもの。
ユノはゆっくり口を開いた。
「俺は、忘れない」
銀色の光が揺れた。
「自分の名前を。ミアの名前を。ガルドの名前を。父さんの声を。ノアの涙を。サリアさんの愛を。アルトさんの名前を。ルグナの音を。フェルカの朝を」
言葉にするたび、光が強くなる。
「そして、リゼのことを忘れない」
リゼの表情が少しだけ変わった。
「だから、俺が忘れそうになったら呼んでくれ。俺も、お前が消えそうになったら呼ぶ」
ユノは手を伸ばした。
「リゼ」
リゼはその手を見つめた。
しばらくして、自分の手を重ねる。
冷たい手だった。
けれど、確かに震えていた。
「私は、もう誰も守れないと思っていた」
リゼが小さく言った。
「私が目覚めたせいで、また世界が壊れると思っていた。だから、本当は怖かった。あなたたちと歩くのが」
「うん」
「でも、契約する。あなたを守るために。私が私でいるために」
リゼはユノの目を見た。
「ユノ。あなたが記憶を失いそうになった時、私はあなたの名を呼ぶ」
銀色の光が二人の手を包む。
「あなたが星の闇に呑まれそうになった時、私はあなたを引き戻す」
リゼの声が震えた。
「そして私が過去に呑まれそうになった時、あなたは私の名を呼びなさい」
「ああ」
「約束よ」
「約束する」
瞬間、円の光が弾けた。
銀色の糸がユノの右手首に巻きついた。
同じ糸がリゼの左手首にも。
細い光の輪。
腕輪のようだった。
ユノは自分の手首を見る。
「これが契約?」
「銀環契約」
リゼが答えた。
「魔女と契約者を結ぶ古い誓いよ」
「痛くはないな」
「今はね」
「また怖いこと言う」
「事実だから」
ミアが近づいてきた。
「二人とも大丈夫?」
「ああ」
「たぶん」
「リゼまでたぶんって言わないで」
ミアは二人の手首の銀の輪を見た。
「綺麗……」
確かに綺麗だった。
月明かりの糸で編まれたような光。
けれど、それはただの飾りではない。
代償と覚悟の証だった。
その時、ユノの頭に一瞬だけ映像が流れ込んだ。
燃える都。
白い城壁が灰色に染まる。
黒い羽根の旗。
鎖に繋がれた魔女たち。
そして、その中にいる幼いリゼ。
ユノは息を呑んだ。
「今の……」
リゼも目を見開いていた。
「契約で、記憶が少し繋がったのね」
「お前の記憶?」
「ええ」
ユノは何も言えなかった。
リゼの過去が、一瞬だけ見えた。
燃える灰の王国。
魔女狩り。
彼女が失ったもの。
リゼは顔を伏せた。
「見たのね」
「少しだけ」
「忘れて」
「忘れない」
ユノは即答した。
リゼが顔を上げる。
「でも、勝手に見たみたいで悪い」
「契約の副作用よ。あなたのせいではない」
「でも」
「なら、覚えていて」
リゼは遠くの城壁を見た。
「あの国で、何があったのか。私が忘れたくても忘れられないものを」
ユノは頷いた。
「覚えてる」
その夜、三人は交代で眠ることになった。
ミアは「契約とか魔法とか、ほんと心臓に悪い」とぶつぶつ言いながら毛布にくるまった。
リゼは火のそばで星涙石を見つめている。
ユノは少し離れた場所で、銀の輪が浮かぶ手首を眺めていた。
不思議な感覚だった。
誰かと繋がっている。
それは重荷でもあり、安心でもあった。
ひとりで戦うわけではない。
ひとりで忘却に耐えるわけでもない。
もし自分が自分を忘れそうになったら、リゼが呼んでくれる。
もしリゼが過去の闇に沈みそうになったら、自分が呼ぶ。
それだけのことが、今はとても大きな救いに思えた。
「ユノ」
リゼが呼んだ。
「何?」
「試しに呼んだだけ」
「なんだよそれ」
「契約がちゃんと届くか確認したの」
「届いたよ」
「そう」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「……ユノ」
「届いてるって」
「もう一度呼びたかっただけ」
ユノは黙った。
その声が、どこか寂しそうだったから。
だからユノも呼んだ。
「リゼ」
リゼの銀の輪が淡く光る。
彼女は驚いたように手首を見た。
それから、小さく頷いた。
「届いたわ」
夜は深くなっていく。
遠くの灰の王国は、闇の中で沈黙していた。
まるで千年前の罪を隠すように。
けれど明日、ユノたちはそこへ足を踏み入れる。
魔女を裏切った国。
王の名の欠片が眠る場所。
黒い羽根の者が待つ場所。
ユノは手首の銀の輪を握った。
怖い。
けれど、もう一人ではない。
火の向こうで、リゼも同じ銀の輪に触れていた。
その姿を見て、ユノは静かに目を閉じる。
星のない夜に、銀色の契約だけが光っていた。
それは小さな誓いだった。
世界を救うには頼りなさすぎるほど小さな光。
けれど、忘却の闇に抗うには十分だった。
名前を呼ぶ。
存在を繋ぐ。
それが、ユノとリゼの最初の契約だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノとリゼが“銀色の契約”を結びました。
ユノの力は強くなりつつあります。
けれど、それは同時に記憶を失う危険とも隣り合わせです。
リゼはその代償を少しでも受け止めるため、ユノと契約しました。
そしてユノもまた、リゼの孤独を少しでも背負うと決めます。
これは恋や友情という言葉だけでは片づけられない、もっと深い“存在を繋ぐ約束”です。
名前を呼ぶこと。
忘れそうになった時、互いを引き戻すこと。
それが、二人にとっての最初の誓いになりました。
次のページは『最初の怪物』です。
灰の王国へ足を踏み入れたユノたちは、星喰いとは違う“人が作り出した怪物”と出会うことになります。




