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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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125/128

ただいまの前に

人は、帰る場所を見つけた瞬間に「ただいま」と言えるわけではありません。


 扉の前で立ち止まる日。

 椅子に座るだけの日。

 差し出された食事へ、手を伸ばせない日。


 そんな小さな日々を何度も越えて、旅人はようやく「ただいま」と言いました。


 このページでは、その一言の前に積み重なっていた、名前のない時間を辿ります。

「ただいま」と言ったあと、旅人はしばらく黒麦亭の入口に立ち尽くしていた。


 女将は振り返らず、いつものように大鍋をかき混ぜている。


「おかえり」


 返された言葉は、あまりにも自然だった。


 驚きも、問いもない。


 どうして今まで帰らなかったのか。

 どこから帰ってきたのか。

 そもそも、ここを帰る場所と呼んでいいのか。


 女将は何も確かめなかった。


 ただ、「おかえり」と言った。


 旅人の目から、静かに涙が落ちた。


 泣いていることに気づかれたくなくて顔を伏せたが、もうフードは被っていなかった。


 隠すものがないわけではない。


 傷もある。

 恐れもある。

 海へ預けたままの名前もある。


 それでも、顔を隠さずに泣いていた。


 女将はようやく振り返った。


「スープ、冷めるよ」


 旅人は袖で涙を拭い、小さく頷いた。


「はい」


 窓際の席へ向かう。


 白い貝殻。

 空の椀。

 待ち灯り。

 帰り道の灯りを写した小石。


 何日も座った席なのに、今日は少し違って見えた。


 自分のために用意された席だと思うことを、以前ほど怖がらなくなっていた。


 旅人は椅子へ座り、両手で椀を包んだ。


 湯気が頬に触れる。


 海の霧とは違う。


 身体を隠すものではなく、温めるための白いもの。


 旅人は一口飲んだ。


 根菜の甘さ。

 黒麦の香ばしさ。

 少し強めの塩。


 女将が旅人の好みに合わせて、少しずつ味を変えてくれていることには、もう気づいていた。


 けれど、それを尋ねたことはない。


 女将も「あなたのために変えた」とは言わない。


 言葉にしないまま差し出される優しさもある。


 旅人は椀を見つめたまま、もう一度小さく呟いた。


「ただいま」


 今度は誰へ向けた言葉か、自分にも分からなかった。


 黒麦亭へ。

 窓際の席へ。

 白い貝殻へ。

 自分を待っていた灯りへ。

 あるいは、長い間置き去りにしていた自分自身へ。


 女将は厨房から答えた。


「何度言ってもいいよ」


 旅人は泣きながら笑った。


 その日の夕方、ユノは星灯坑の前で旅人を待っていた。


 待つといっても、約束をしていたわけではない。


 旅人が来るかもしれないと思い、入口の石段に座っていただけだった。


 空にはアイリシアが淡く浮かんでいる。


 星灯坑の奥からは、名前を読み上げる人々の声が聞こえていた。


「ラナ」


「いる」


「トウ」


「いる」


「オルマ」


 少し間が空く。


「……いる」


 返事を急がずに待つ声。


 待ち灯りが生まれてから、ルグナの読み上げは以前よりゆっくりになった。


 名前を呼ぶ間に、沈黙がある。


 誰かが息を整える時間。

 返事をするかどうか決める時間。

 今日は答えなくてもいいと、自分へ許す時間。


 その沈黙も含めて、読み上げになっていた。


 しばらくすると、旅人が黒麦亭の方から歩いてきた。


 フードは持っている。


 けれど、被ってはいない。


 海風に焼けた顔と、頬の古い傷が夕方の光に照らされていた。


 ユノは立ち上がった。


「おかえり」


 旅人の足が止まる。


 その顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。


「黒麦亭ではなくても、言うんですね」


「帰ってきたように見えたから」


「どこから?」


 ユノは少し考えた。


「分からない」


 旅人は目を丸くした。


 ユノは続ける。


「広場を歩いて、またここに来た。だから、おかえり」


 旅人は黙った。


 やがて、口元を少し緩める。


「ただいま」


 今度は、先ほどより自然だった。


 ユノは隣を示した。


「座る?」


 旅人は頷き、石段へ座った。


 二人の間には、一人分ほどの距離がある。


 近すぎず、遠すぎない。


 星灯坑から読み上げが続く。


 旅人はその声を聞きながら、膝の上で手を組んだ。


「私は、昔から『ただいま』が苦手でした」


 突然、旅人が言った。


 ユノは顔を向けずに聞いた。


「家へ戻っても、誰もいないことが多かったからです。言っても返事がない。だから、いつからか言わなくなりました」


 海に関わる過去。


 旅人が自分から語り始めた。


 ユノは問いを挟まなかった。


「海で暮らすようになってからは、帰る場所そのものが毎日変わりました。船の日もあれば、浜の日もある。岩陰で眠る日もある。どこへ戻っても、一晩だけの場所でした」


 旅人の声は穏やかだった。


 けれど、その底には波のような痛みがある。


「それでも、一人だけ……帰ってきた時に待っている人がいました」


 ユノは白い札の海の幻を思い出した。


 黒い岩の前に立っていた二人。


 白い貝殻。


『灯りを置いてくれたら戻れる』


 けれど、その人が誰なのかは聞かない。


 旅人は、自分から続けた。


「その人は、名前を聞きませんでした」


 ユノは少し驚いた。


「最初から?」


「はい。私が名乗りたくないと言ったら、『じゃあ、名乗りたくなるまで海の人でいい』と」


 旅人は小さく笑った。


「変な呼び方ですよね」


「カイが好きそう」


「そうですね」


 二人は少し笑った。


 旅人の笑いが消えると、再び静かな声が続いた。


「海の人。それが、私が最後に誰かから呼ばれた名前でした」


 正式な名ではない。


 仮の呼び名。


 でも、誰かがその人を見つけ、そこにいると認めるための名前。


 白紙の野で使った仮名と似ている。


 待つ影。

 三音の村。

 約束石の道。

 呼べない井戸。


 本当の名前を奪わず、見失わないために置く橋。


「海の人と呼ばれるのは、嫌でしたか?」


 ユノは慎重に聞いた。


 旅人は首を横に振る。


「いいえ。嬉しかったです。名前を言わなくても、その人には私が見えていたから」


 旅人は星灯坑の光へ目を向けた。


「でも、別れた後、その呼び名さえ波に預けました」


 ユノは何も言わなかった。


「呼ばれると、帰りたくなるから。帰れないのに、帰りたいと思ってしまうから。だから、呼ばれた名前を海へ預ければ、痛くなくなると思いました」


 忘れ潮の浜。


 名前だけでなく、帰り道までさらう海。


 旅人は自分から、呼ばれた名を手放した。


 生きるために。


「痛くなくなりましたか」


 ユノが聞くと、旅人は長く沈黙した。


「何も感じなくなりました」


 それは、痛みが消えたという答えではなかった。


「悲しくない。寂しくない。帰りたいとも思わない。でも……自分がどこへ向かっているのかも分からなくなりました」


 旅人は胸に手を当てた。


「名前を伏せることと、自分を消すことの違いが分からなかったんです」


 ユノはミナルセラを思い出した。


 名を守るために白紙になった村。


 守るために閉じ、閉じるために黙り、黙るうちに呼び合えなくなった人々。


「ルグナへ来て、初めて少し分かりました」


 旅人は続けた。


「名前を言わなくても、消えなくていい。伏せても、灯りを置ける。聞かれなくても、椀を出してもらえる」


 黒麦亭の方角を見る。


「だから、『ただいま』を言う前に、何度も確かめました」


「何を?」


「本当に聞かれないか。役に立たなくても席があるか。途中で怖くなって逃げても、また入れるか。顔を見せたら態度が変わらないか」


 ユノは胸が痛くなった。


 旅人が黒麦亭へ通った日々。


 一日目、スープを飲むだけ。

 二日目、椀を返す。

 三日目、パンを頼む。


 それは、ただ店に慣れていたのではない。


 ひとつずつ確かめていたのだ。


 この場所は、本当に安全なのか。


 優しさに見えるものが、後から鎖へ変わらないか。


 名前を言わなかったことで、追い出されないか。


「女将さんは、毎日同じでした」


 旅人が言った。


「少し乱暴で、スープを出して、名前を聞かない。カイさんは皿を落としそうになって、ミアさんは灯りを置いて、リゼさんは書きすぎないようにして、エルネさんは糸を結び、セレノさんは怖いと言いました」


 ユノは小さく笑った。


「俺は?」


 旅人は少し考えた。


「あなたは、待っていました」


「それだけ?」


「それが一番、怖くありませんでした」


 ユノは言葉を失った。


 何かをしてあげなければと思うことがある。


 名前を戻す。

 道を見つける。

 黒い糸を斬る。


 でも、ただ待つことが必要な時もある。


 旅人は、自分の速度で戻ってくる必要があった。


「ただいまと言う前に、私は二十一日かかりました」


 旅人が言った。


「でも、本当はもっと前から練習していたのだと思います。海を出た時から。白い札へ帰り道を預けた時から。黒麦亭の札を読んだ時から」


 ユノは頷いた。


「ただいまって、一言だけど、その前が長いんだな」


「はい」


 星灯坑から、リリアの歌が聞こえ始めた。


 ――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。


 旅人は目を閉じ、歌を聞いていた。


 しばらくして、静かに言った。


「名前を言う前にも、長い時間が必要かもしれません」


「うん」


「待ってくれますか」


「待つ」


 ユノは迷わず答えた。


「言わないままでも、ここにいていい」


 旅人は目を開いた。


 その瞳に、星灯坑の光が映っている。


「ありがとうございます」


 それから旅人は、星灯坑の中へ入った。


 この日は名前の壁ではなく、待ち灯りの棚へ向かった。


 自分の白い札に対応する灯りが、静かに揺れている。


 旅人はその前へ座った。


 ユノは少し離れた場所に立った。


 リゼとセレノが記録机にいる。

 ミアは記憶灯の火を整えている。

 カイは子どもたちの読み上げを手伝っている。

 エルネはアイリシアの塔へ手紙を書いている。


 いつもの星灯坑。


 旅人は白い灯りに向かって言った。


「ただいま、と言えました」


 灯りが揺れた。


「でも、名前はまだです」


 灯りは変わらず、そこにある。


「それでも、待ってくれますか」


 待ち灯りは答えない。


 けれど、消えなかった。


 旅人は涙をこぼした。


「ありがとうございます」


 その日の夜、黒麦亭では小さな食事会が開かれた。


 祝いというほど大げさではない。


 ただ、旅人が「ただいま」と言えた日だから、少しだけ具の多いスープを作ると女将が決めた。


「理由は言わなくていいよ」


 女将はそう言った。


「何か嬉しいことがあった日のスープだ」


 町の人々はそれ以上聞かなかった。


 カイだけが、鍋を覗いて言った。


「肉多い?」


「今日は多い」


「やった」


 ミアが呆れる。


「カイのお祝いじゃないよ」


「嬉しい日はみんな食べていいだろ」


 旅人が笑った。


「そうですね」


 女将は旅人の椀へスープを注いだ。


「おかえりの分」


 旅人は両手で受け取った。


「ただいまの分、いただきます」


 黒麦亭に笑いが広がった。


 旅人はまだ名乗らない。


 それでも、食卓の中にいる。


 会話の中にいる。


 誰かの「おかえり」に返事をする人として、そこにいる。


 食事の途中、子どもの一人が旅人へ聞いた。


「名前がないと、呼びにくい」


 店内が少し静かになった。


 子どもに悪気はない。


 旅人は驚いた顔をしたが、逃げなかった。


 カイが止めようとしたが、旅人が小さく手を上げた。


「そうですね」


 子どもは慌てる。


「ごめんなさい」


「謝らなくて大丈夫です」


 旅人は少し考えた。


「今は、“海の人”と呼んでもらえますか」


 ユノは息を呑んだ。


 かつて誰かに呼ばれた仮の名。


 海へ預けた呼び名。


 旅人は今、自分の意思でそれを選び直した。


 子どもは目を輝かせる。


「海の人!」


 旅人の肩が少し震えた。


 だが、今度は逃げない。


「はい」


 返事をした。


 海の人。


 正式な名前ではない。


 でも、今の自分を呼んでもらうための橋。


 女将が言った。


「じゃあ海の人、パンのおかわりは?」


 旅人――海の人は、泣きながら笑った。


「お願いします」


 カイも。


「海の人、芋の皮むき勝負しよう」


「負けません」


 ミアも。


「海の人、今度、貝殻の音を記憶灯に残してもいい?」


「少しだけなら」


 リゼは記録帳を開き、旅人へ確認した。


「“海の人”という呼び名を、仮の呼び名として記録してもいい?」


 海の人は頷いた。


「はい。今は、その名前で」


 セレノが記録する。


 ――海の人。

 ――本人が選んだ仮の呼び名。

 ――本名は未開示。

 ――黒麦亭で帰る練習中。

 ――ただいま、発話済み。

 ――仮名への応答あり。


 ユノはその記録を見て微笑んだ。


 仮名は、本名の代わりではない。


 本名を奪うものでもない。


 自分が今、ここにいるための橋。


 海の人は、白紙の野で学んだことを、自分の形で選んだのだ。


 食事会が終わったあと、海の人は名前を書かない壁の前へ向かった。


 自分の白い札。


 貝殻の印がある札。


 彼はその札の端に、小さな文字を書いた。


 正式な名前ではない。


 ただ一言。


 ――海の人。


 名前を書かない壁に、初めて文字が書かれた。


 でも、それは壁の誓いを破るものではなかった。


 本人が、自分の意思で書いた仮名。


 隠された本名を暴かず、今の自分を呼んでもらうための名前。


 ユノたちは少し離れて見ていた。


 海の人は文字を書き終えると、灯りへ言った。


「ただいま」


 白い札が光る。


 帰り道の灯りも揺れる。


 そして、遠く海の方角から、かすかな波音が聞こえた。


 以前のような「返して」という声ではない。


 寄せて、静かに返る波。


 まるで海も、その仮の名を聞き届けたようだった。


 翌朝、黒麦亭の扉が開いた。


 海の人が入ってくる。


 女将は振り返り、自然に言った。


「おかえり、海の人」


 海の人は、少しだけ目を潤ませた。


 けれど、今度はすぐに答えた。


「ただいま」


 その一言の前には、二十一日よりも長い時間があった。


 名前を預けた夜。

 海の霧をさまよった日々。

 白い札に灯りを置いた誰か。

 忘れ潮の浜から伸びた帰り道。

 聞かない扉。

 温かいスープ。

 空の椀。

 何度も立ち止まった入口。


 ただいまの前には、いつも誰かの待つ時間がある。


 扉を開けておく人。

 席を空けておく人。

 名前を聞かない人。

 帰る練習を笑わない人。


 海の人は、そのすべてを越えて、ようやく帰ってきた。


 まだ本当の名前ではない。


 それでも、今の彼には呼び返せる名がある。


「海の人」


「いる」


 黒麦亭の朝に、その返事がはっきりと響いた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 旅人は、本当の名前を名乗る前に、自分で“海の人”という仮の呼び名を選びました。


 ただいまの前には、長い時間があります。

 待つ人、扉を開ける人、席を残しておく人がいます。


 次のページは『海の人』です。

 仮の名を得た海の人が、ルグナで自分にできる新しい役目を探し始めます。

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