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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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海の人

本当の名前を明かさなくても、自分で選んだ呼び名なら、誰かの声に返事をすることができます。


 旅人は、“海の人”という仮の名を選びました。


 それは過去を隠すためだけの名前ではありません。


 今の自分がここにいることを伝え、誰かと繋がるために架けた、小さな橋でした。


 このページでは、海の人がルグナで自分にできる役目を探し始めます。

黒麦亭の朝は、大鍋の蓋が鳴る音から始まる。


 女将が火を起こし、昨夜から水に浸しておいた黒麦を鍋へ入れる。根菜を切る包丁の音が続き、やがて店の奥から温かな湯気が立ち始める。


 以前の海の人は、その頃まだ黒麦亭へ来ていなかった。


 昼を過ぎ、人の声が少なくなった時間に扉を開ける。それが彼にとって、精いっぱいの帰る練習だった。


 けれど、“海の人”という仮の名を選んだ翌朝、彼は日の出より少し後に黒麦亭へやって来た。


 扉の外で足を止める。


 入口の札は、朝露に濡れていた。


 ――名前を言えない日も、入っていい。

 ――話せる日まで、スープあります。

 ――帰る練習、できます。


 その下に、女将が昨夜書き足した新しい一文があった。


 ――仮の名前でも、おかえりと言います。


 海の人は、その文字を長く見つめた。


 胸の奥に、痛みに似た温かさが生まれる。


 自分が頼んだわけではない。


 女将は何も言わず、町の誰かに相談することもなく、ただ必要だと思ったから書き足したのだろう。


 海の人は指先で文字に触れた。


 仮の名前でも、おかえりと言います。


 海の人という名は、本当の名前ではない。


 かつて待ってくれていた人がくれた、仮の呼び名。


 その人と別れたあと、自ら忘れ潮の浜へ預けた呼び名。


 そして昨夜、自分の意思でもう一度選び直した名。


 本当ではないから偽物なのではない。


 今の自分が誰かの声に応えるために必要な、今日の名前。


 海の人は、小さく息を吸って扉を開けた。


 カラン、と鈴が鳴る。


 大鍋をかき混ぜていた女将が、振り向かずに言った。


「おかえり、海の人」


 海の人は昨日より迷わず答えた。


「ただいま」


 厨房の端で芋を洗っていたカイが顔を上げる。


「早いな」


「何か手伝えるかと思って」


「芋ならある」


「あなたは何でも芋ですね」


「黒麦亭の朝は芋から始まるんだ」


 女将がすぐに言った。


「嘘を教えるんじゃないよ」


 ミアは食器を並べながら笑った。


「カイの朝が芋から始まるだけだよ」


「同じようなものだろ」


「全然違う」


 海の人は思わず笑った。


 ほんの数日前まで、黒麦亭の賑やかな声は怖いものだった。


 誰かの笑い声が上がるたび、自分が笑われているように感じた。足音が近づくたび、過去を知る者が追ってきたのではないかと身構えた。


 けれど今は、カイとミアの言い合いが朝の音の一つに聞こえる。


 大鍋の蓋。

 包丁。

 食器。

 扉の鈴。

 カイの少し大きな声。

 ミアの笑い声。


 その中へ、自分の声も少しだけ混ざっている。


 女将は海の人へ籠を差し出した。


「今日は魚が届く日なんだけどね、仕入れ先の漁師が来られないらしい」


 海の人は籠の中を覗いた。


 わずかな干し魚と、塩漬けにされた小魚があるだけだ。


「海が荒れているのですか」


「いや。川道の橋が壊れたそうだよ。魚自体はあるが、運べないんだとさ」


「どこの集落から?」


「東のイサナ川。河口の先に小さな漁村がある」


 海の人の目が少し変わった。


 怖がる目ではない。


 潮や風の流れを読む時の、鋭く静かな目。


「今日の風向きなら、川道ではなく古い水路を使えるかもしれません」


 女将が眉を上げる。


「古い水路?」


「ルグナの東側には、昔、塩を運ぶための細い運河があったはずです。今は使われていませんが、小舟なら通れるかもしれません」


 リゼが記録帳を持って厨房へ入ってきた。


「その運河なら、古い町の地図に載っているわ」


「今も水がありますか」


「途中までは。ただ、南側の水門が壊れているという記録がある」


 海の人は少し考えた。


「潮が最も高くなる前なら、水門を越えられる可能性があります。帰りは潮が引く流れに乗れる」


 カイが芋を持ったまま振り向く。


「海の人、船も乗れるの?」


「海の人なので」


 自分でそう答えたあと、海の人は少し驚いた顔をした。


 カイとミアも一瞬黙る。


 それからカイが笑った。


「確かに」


 海の人も笑った。


 仮の名前を、自分の口で冗談に使えた。


 それは、ごく小さなことだった。


 けれど、名前を呼ばれるたびに胸が痛んでいた彼にとっては、大きな変化だった。


 リゼは古い地図を持ってきた。


 黒麦亭の長机へ広げる。


 ルグナの東門から、イサナ川へ向かう細い水路が描かれていた。


 現在使われている陸路より大きく南へ迂回し、湿地の中を抜けて河口近くへ出る。


 地図には“塩舟路”と記されている。


「二十年以上、正式には使われていないわ」


 リゼが説明する。


「水門が壊れたあと、荷船が座礁する事故があった。それ以降、町の記録では閉鎖扱い」


 海の人は地図に顔を近づける。


「事故があったのは、この辺りですか」


「そう」


「ここは水門の壊れ方ではなく、川底の砂が動いたことが原因だと思います」


「なぜ分かる?」


 セレノが店へ入ってきて尋ねた。


 海の人は地図の線を指でなぞる。


「水門が壊れただけなら、流れは速くなりますが、水深そのものが突然浅くなるとは限りません。でも、この曲がり方なら、南風が続いた年に河口の砂が押し戻され、ここに溜まります」


 セレノは地図を見つめた。


「当時の記録には、座礁事故の前に南風が十三日間続いたとある」


「やはり」


 海の人は別の地点を指す。


「今の風は北東です。潮が満ちる時、この砂は少し削られます。小舟一艘なら通れる可能性が高い」


「危険は?」


 ユノが尋ねた。


 海の人は、すぐに大丈夫とは言わなかった。


「あります」


 その答えに、ユノは少し安心した。


 危険を隠さない人なのだと思った。


「水路の状態を実際に見ていません。倒木や崩れた石があるかもしれない。帰りの潮を逃せば、湿地で一晩待つことになります」


「なら、まず確認だけにするべきね」


 リゼが言う。


「魚を運ぶのは、道の安全が分かってから」


 女将は腕を組んだ。


「今日の魚は諦めても構わないよ。あんたたちが干し魚になる方が困る」


 カイが笑う。


「俺たちは干し魚にならない」


「湿地で干せると思ってるのかい」


「ならないって意味」


 海の人は地図を見たまま、しばらく黙っていた。


 その沈黙を、誰も急かさなかった。


 やがて彼は言った。


「私に、道を確認させてもらえませんか」


 ユノが顔を上げる。


「一人で?」


「いえ。一人では行きません」


 その言葉を自分から言えたことに、海の人は少し驚いているようだった。


 以前の彼なら、誰かに迷惑をかけないため一人で向かっただろう。


 助けを求めれば名前を聞かれる。

 過去を知られる。

 借りを作れば、いつか代わりに秘密を要求される。


 そう信じていた。


 しかし今は、一人では行かないと言った。


「水路を読むことはできます。でも、ルグナ周辺の陸地や湿地は知りません。それに……」


 海の人は少し言いにくそうに続けた。


「まだ、一人で遠くへ行くのは怖いです」


 黒麦亭は静かになった。


 誰も、その告白を弱さとして笑わなかった。


 カイはすぐに言った。


「俺が行く」


 ミアも。


「私も」


 ユノは頷く。


「俺も一緒に行く」


 リゼは地図を巻いた。


「私は記録と星路の確認をするわ。エルネにも潮位を星から読んでもらう」


 セレノが言う。


「私は町に残る。旧王国商会の者があなたの不在を狙う可能性もある。戻る場所を守る者が必要だ」


 海の人は皆を見回した。


 胸の奥が大きく揺れる。


 彼が頼んだのは、水路の確認に付き添ってほしいということだけだった。


 なのに、誰も理由を求めなかった。


 なぜ一人が怖いのか。

 海で何があったのか。

 誰に追われているのか。


 聞かないまま、それぞれができる役目を選んだ。


 海の人は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 女将は大鍋をかき混ぜながら言った。


「昼までには戻りな。戻れなかったら、待ち灯りを出すよ」


「はい」


「それから」


 女将は海の人へ、小さな布包みを投げた。


 受け取ると、中には黒麦パンと干し果物が入っている。


「道を確かめる者が腹を空かせたら、判断を間違える」


 海の人は包みを両手で持った。


「必ず戻ります」


 女将は少しだけ目を細める。


「必ず、なんて約束はしなくていい」


「でも――」


「戻る努力をする。それでいい。海も道も、絶対なんて言葉を嫌うんだろ」


 海の人は驚いた。


 女将は海へ出たことなどほとんどないはずだ。


 それでも、正しいことを言った。


「はい。戻る努力をします」


「なら、行っておいで」


 ルグナの東側には、長い間使われていない小さな舟着き場があった。


 木の杭は腐り、石段には苔が生えている。


 星灯坑の資材置き場から借りた小舟を、カイとユノが水辺まで運んだ。


 海の人は舟の周りを一周し、板の継ぎ目や縄を丁寧に確かめる。


 底板を叩き、音を聞く。


 櫂のしなりを確認し、予備の縄を舟の内側へ結び直す。


 ミアが感心して言った。


「本当に海の人だ」


 海の人は少し笑う。


「今までは、芋の人だと思っていましたか」


「芋の皮むきが上手な海の人」


「それは否定できません」


 カイが口を挟む。


「でも、俺も前より上手くなった」


「昨日、半分くらい実まで削ってたよ」


「大きい芋だったから平気」


「女将さんに怒られてた」


 海の人は二人のやり取りを聞きながら、舟へ荷物を載せた。


 飲み水。

 縄。

 小さな斧。

 星灯りを閉じ込めたランタン。

 待ち灯りの札。

 黒麦パン。


 ユノは守名筆を持たなかった。


 今回は名前を探す旅ではない。


 道を探す旅。


 海の人が持つ知恵で、誰かの暮らしへ繋がる道を確かめる。


 舟が水へ浮かぶ。


 海の人が最初に乗り込み、重心を確かめた。


「一度に動かないでください。カイさんから」


「俺?」


「最も重そうなので」


「ユノも同じくらいだろ」


「カイ、荷物も持ってるから」


「なるほど」


 言われた順に乗り込む。


 舟は少し揺れたが、安定した。


 海の人は後ろに座り、櫂を握った。


 その手は、黒麦亭で椀を持つ時とは違って見えた。


 迷いがない。


 水の抵抗を確かめるように、一度ゆっくり櫂を入れる。


 舟が岸を離れた。


 古い塩舟路は、湿地の草に覆われていた。


 水面は細く、場所によっては道が完全に消えているように見える。


 しかし海の人は、草の傾きと水の色を読み、舟を進めた。


「右に寄ります」


 カイが水面を見る。


「何かある?」


「中央が浅いです」


「見ただけで分かるの?」


「水の色が違います。浅い場所は底の砂が光を返す。流れも細かく割れます」


 ミアは記憶灯の光を水面へ向けた。


 確かに中央付近だけ、波紋が短く乱れている。


「すごい」


 海の人は首を横に振った。


「長く見ていれば分かるようになります」


 ユノはその言葉を聞きながら思った。


 海の人は、自分の知識を特別な力として誇らない。


 長く見てきたから分かる。


 けれど、その“長く”の中には、きっと多くの夜と恐怖と失敗がある。


 何艘もの舟を見送り、自分でも何度も海へ出たのだろう。


 彼が今まで生きてきた時間が、櫂を動かしている。


 水路が大きく曲がる場所で、海の人は舟を止めた。


「この先に倒木があります」


 まだ何も見えない。


 カイが目を凝らす。


「どこ?」


「水の流れが二つに分かれています。何かが塞いでいる」


 少し進むと、言葉通り大きな木が水路を横切っていた。


 枝が泥へ沈み、水草と枯葉を堰き止めている。


「これじゃ通れないな」


 カイが言う。


 海の人は周囲を見る。


「完全に切る必要はありません。この枝だけ落とせば、舟一艘分は通れます」


 ユノとカイが斧を持って舟を降りた。


 水は膝ほどの深さ。


 泥に足を取られながら、太い枝を切る。


 海の人は舟を押さえ、ミアは待ち灯りの糸を近くの木へ結んだ。


 帰り道を見失わないための目印。


 かつて海に道を奪われた人が、今は自分たちの帰路を作っている。


 海の人は、その灯りを見つめた。


「どうした?」


 ユノが尋ねる。


「以前の私なら、目印を残さなかったと思います」


「どうして?」


「戻ることを考えなかったからです」


 ユノは斧を持つ手を止めた。


 海の人は静かに続ける。


「前へ進むことしか考えなかった。戻る場所がないなら、目印はいらないと思っていました」


 ミアが灯りの糸を結び終えた。


「今は?」


 海の人は遠く、ルグナの方角を見る。


「戻りたい場所があります」


 カイが切った枝を押しのけながら言った。


「なら、もっと目印つけよう」


 何でもない調子だった。


 海の人は笑い、頷いた。


「はい」


 倒木を越えた先で、水路は少し広くなった。


 湿地の草が左右へ開き、空が水面に映る。


 アイリシアの淡い輪郭が、昼の空にもかすかに見えた。


 エルネが塔から潮の動きを読んでいる。


 彼女が渡した星糸は、舟の先で青白く光っていた。


 潮が満ちる方向を示している。


 海の人は星糸と風を見比べる。


「予定より満ちるのが早い」


 リゼが地図を確認する。


「塔からの合図も同じよ。北の海で風向きが変わったらしい」


「水門へ急ぎます。ただし、帰りの時間も早くなる」


 舟の速度が上がる。


 海の人の櫂が、水面を滑るように動いた。


 力任せではない。


 水の流れへ櫂を合わせ、舟そのものを潮へ乗せている。


 やがて、壊れた水門が見えた。


 石造りの柱だけが残り、その間に崩れた木材が引っかかっている。


 水は狭い隙間を勢いよく抜けていた。


 カイが顔をしかめる。


「通れる?」


 海の人は答えず、舟を手前の岸へ寄せた。


 石を一つ拾い、水門の前へ投げる。


 浮かべていた小枝の動きと、沈んだ石の位置を何度も見る。


「今は通りません」


「待てば通れる?」


「潮があと少し満ちれば、流れが緩みます。ただし、待ちすぎると帰路がなくなる」


 リゼが星糸を見る。


「安全に通れる時間は?」


「おそらく、四半刻ほど」


 短い。


 水門を通り、向こう側の状態を確かめ、すぐ戻らなければならない。


 ユノが言う。


「今日はここまででもいい」


 海の人は水門を見つめた。


 向こう側にはイサナ川へ繋がる水面がある。


 魚を運ぶ新しい道。


 黒麦亭だけではない。


 橋が壊れて困っている漁村と、食料が届かないルグナを繋げる道。


 だが、無理をすれば全員が危険になる。


 海の人は目を閉じ、風の音を聞いた。


 以前なら、役に立つために無理をしたかもしれない。


 自分がここにいていい理由を証明するために。


 名前を言えない自分でも価値があると認めてもらうために。


 しかし、黒麦亭の席は、何もできなかった日から用意されていた。


 スープを飲むだけの日にも、椀は置かれた。


 役に立つことは、ここにいていい条件ではない。


 だから、正しい判断をしなければならない。


「戻りましょう」


 海の人は言った。


 カイが少し驚く。


「確認しなくていいの?」


「今日の目的は、安全な道か確認することです。今の状態では、毎日安全に使える道ではありません」


 リゼが頷いた。


「正しい判断だと思う」


「水門を修理し、潮位を知らせる目印を設置すれば使えます。そのための調査はできました」


 海の人は水門の石柱へ小さな印をつけた。


 水が最も速くなる高さ。

 舟が通れる可能性のある高さ。

 引き返すべき高さ。


 星灯りを染み込ませた白い石粉で、三本の線を描く。


「上の線まで水が来たら、絶対に通らない。中央なら一艘ずつ。下の線より低ければ、舟底が砂につく可能性があります」


 リゼはすべて記録した。


 海の人は水門の向こうを一度見た。


 先へ進めなかった悔しさはある。


 それでも、自分を責めなかった。


 戻る判断をした。


 それも新しい役目の一部なのだ。


 舟はルグナへ向けて引き返した。


 潮が満ち始め、来た時より流れが強い。


 海の人は時々後ろを振り返り、待ち灯りの目印を確かめた。


 倒木の場所へ戻ると、青白い糸が草の間で光っている。


 帰り道がある。


 その光を見た時、海の人の胸に、忘れ潮の浜の記憶が浮かんだ。


 黒い岩。

 白い貝殻。

 置かれた灯り。

 待っている人。


 自分も今、灯りを辿って帰っている。


「海の人」


 ユノの声がした。


 海の人は我に返る。


「はい」


「大丈夫?」


 以前なら、大丈夫だと即答していただろう。


 けれど、海の人は少し考えてから答えた。


「少し、昔のことを思い出しました」


「止まる?」


「いいえ。今は進めます。でも、ゆっくりお願いします」


 カイが櫂の動きを緩める。


「分かった」


 ミアは何も聞かず、海の人の近くへ待ち灯りを置いた。


 揺れる舟の中で、青白い光が小さく灯る。


 海の人は深く息を吐いた。


 昔のことを思い出しても、今へ戻れる。


 言葉にすれば、周囲が速度を合わせてくれる。


 それは、彼が海で知らなかった帰り方だった。


 舟着き場が見えた時、カイが大きく手を振った。


 岸には、黒麦亭の女将とセレノ、それに町の子どもたちが待っていた。


「帰ってきた!」


 子どもの一人が叫ぶ。


「海の人、おかえり!」


 その声に、海の人は胸を押さえた。


 名前を呼ばれた。


 けれど、怖くない。


 自分で選んだ名前。


 帰る場所から呼ばれる声。


「ただいま!」


 今までで一番大きな声が、水路の上へ響いた。


 舟が岸へ着く。


 女将は腕を組んで言った。


「昼は過ぎたね」


「すみません」


「謝る前に報告」


 海の人は姿勢を正えた。


「水路は途中まで通れます。倒木が一か所。壊れた水門は潮によって危険になります。修理と潮位の目印が必要です」


「魚は?」


「今日はありません」


「なら、干し魚のスープだね」


 女将はあっさり言った。


 海の人は少し驚く。


「残念ではないのですか」


「魚より、あんたたちが戻った方が大事だよ。それに道が直れば、明日以降は魚が届くんだろ」


「はい」


「なら十分」


 黒麦亭へ戻ると、リゼは調査記録を正式にまとめた。


 ――旧塩舟路。

 ――ルグナ・イサナ河口間の輸送路として再利用可能性あり。

 ――倒木一か所。除去作業必要。

 ――南水門破損。潮位による危険あり。

 ――修理及び目印設置を推奨。

 ――調査責任者、海の人。

 ――本人選択による仮名を使用。


 海の人は最後の行を何度も見た。


 調査責任者、海の人。


 自分の仮名が、町の記録へ残っている。


 暴かれた本名ではない。

 勝手に付けられた番号でもない。

 誰かに支配されるための名でもない。


 自分で選び、自分で使用を許した名前。


「この記録を、町の人が見てもいいですか」


 リゼが尋ねる。


 海の人は考えた。


「水路に関する部分は、全員が見られるようにしてください」


「海の人という仮名も?」


「はい」


 言葉にした瞬間、少し怖くなった。


 町の人々がその名を知る。


 自分を呼ぶ声が増える。


 だが、海の人は白い札の光を思い出した。


 伏せることと消えることは違う。


 開く範囲を、自分で決めていい。


「ただし、本名を尋ねるための手がかりには使わないと書いてください」


 リゼは頷いた。


「必ず」


 守名筆で、記録の下へ一文が加えられた。


 ――“海の人”は本人が選んだ仮名であり、本名の探索、照合及び推定に使用してはならない。


 セレノがそれを確認し、守名印を押した。


「これで、仮名は役目を持つ。だが、本名への扉にはならない」


 海の人は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 水路の修理は、その翌日から始まった。


 海の人は町の職人たちへ、潮の満ち引きと水門の構造を説明した。


 最初、職人の一人は不安そうだった。


「本当にこの時間で水が止まるのか?」


 海の人は責められたとは思わなかった。


 以前なら、自分を信じてもらえないと感じ、言葉を失っていたかもしれない。


 今は地図を広げ、丁寧に答えた。


「完全には止まりません。ただ、星が南の塔へ重なる頃、流れが最も緩くなります。その間に、この板を入れます」


「外れたら?」


「外れます」


 職人が眉をひそめる。


「外れるのか」


「海と川の力に、永久に耐える板はありません。だから、外れた時に交換できる構造にします」


 海の人は木枠の図を描いた。


「壊れないものを作るのではなく、安全に壊れ、直せるものを作る。それが水の近くでは大切です」


 職人は図を見つめ、やがて頷いた。


「なるほど。お前、分かってるな」


 海の人は少し笑った。


「海の人なので」


 その返しは、黒麦亭だけでなく町でも使えるようになった。


 三日かけて倒木を除き、五日目に水門の仮修理が終わった。


 石柱には、海の人が付けた三本の潮位線が残された。


 危険の線。

 通行できる線。

 浅すぎる線。


 さらに、名前を書かない壁で使われている白い札を小さく加工し、水門のそばへ吊るした。


 札には名ではなく、帰路を示す矢印が描かれている。


 夜になると待ち灯りが点き、ルグナへの方向を示す。


「ここにも、帰る灯りを置くんだね」


 ミアが言った。


 海の人は頷く。


「道は、進む人だけでなく、戻る人のために必要です」


 水路が正式に開かれた朝、イサナ河口の漁村から三艘の小舟がやって来た。


 銀色の魚が籠いっぱいに積まれている。


 舟着き場に集まった町の人々から歓声が上がった。


 黒麦亭の女将は魚を一尾持ち上げ、満足そうに言った。


「今日は干し魚じゃないね」


 カイが目を輝かせる。


「肉も入れる?」


「魚の日に肉を求めるんじゃない」


 漁村の年老いた船頭が海の人へ近づいた。


「あんたが、この道を戻した人か」


 海の人は少し身構えた。


 大勢の前で注目されることには、まだ慣れていない。


「一人ではありません。町の人たちと直しました」


「でも、潮を読んだのはあんただろ」


「はい」


「名は?」


 その問いに、周囲が少し静かになった。


 海の人の胸が強く鳴る。


 本当の名前を聞かれた。


 悪意はない。


 けれど、怖さは悪意の有無だけで消えるものではない。


 海の人が答える前に、カイが一歩出ようとした。


 しかし海の人は、静かに手を上げて止めた。


 自分で答えたい。


「海の人、と呼ばれています」


 船頭は少し目を丸くした。


「それが名か?」


「今の私が、自分で選んだ名です」


 船頭は海の人の顔をしばらく見た。


 やがて、深く頷く。


「そうか。なら、海の人。良い道を戻してくれた」


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 本当の名前を追及されなかった。


 海の人が差し出した仮の名を、そのまま受け取ってくれた。


 船頭は仲間へ振り返り、大きな声で言った。


「海の人に、一番いい魚を渡せ!」


 海の人は慌てる。


「いえ、私は――」


「道を戻した礼だ。受け取れ」


 大きな銀色の魚が一尾、海の人へ差し出された。


 生きてきた中で、働きへの礼を受け取ることはあった。


 けれど多くの場合、代わりに名前や所属を記録された。


 どこの者か。

 誰の命令で動いたか。

 次は何を差し出すのか。


 今回は違う。


 海の人として役目を果たし、海の人として礼を受け取る。


 その名前の範囲で関係が結ばれている。


「受け取ったら?」


 ユノが小声で言った。


 海の人は両手を差し出した。


「ありがとうございます。大切にいただきます」


 その日の黒麦亭では、魚のスープが作られた。


 女将は海の人がもらった一尾を丁寧に捌いた。


「自分でやる?」


 海の人は少し考え、首を横に振る。


「今日は、女将さんの味で食べたいです」


「なら任せな」


 魚の骨から出汁を取り、黒麦と根菜を煮込む。


 店中に海の香りが広がった。


 以前なら、その匂いだけで海の人は動けなくなっていただろう。


 忘れ潮の浜。

 黒い岩。

 戻れない人。

 失った呼び名。


 けれど今は、同じ海の香りの中に、帰ってきた舟の音がある。


 修理した水門。

 待ち灯り。

 自分を呼ぶ子どもたちの声。


 海は、失う場所だけではない。


 誰かと誰かを繋ぐ道にもなる。


 女将が椀を置く。


「海の人の魚」


「皆で食べる魚です」


「そういう意味だよ」


 カイはすでに椀を持って待っている。


「早く食べよう」


 ミアが言う。


「カイ、海の人が最初だよ」


「分かってる。待ってる」


 リゼ、エルネ、セレノも席に着く。


 窓際の“名前を聞かない席”ではなく、大きな食卓。


 海の人の席は、その輪の中にあった。


 誰かのために空けられた席から、自分で選んで座る席へ。


 海の人は椀を持ち、皆を見回した。


「いただきます」


 声が重なる。


「いただきます」


 魚のスープは温かかった。


 少し塩が強く、海の香りがする。


 海の人の目から涙が落ちた。


 カイが心配そうに見る。


「しょっぱすぎた?」


 海の人は笑って首を横に振る。


「ちょうどいいです」


「ならよかった」


 女将は何も言わず、大鍋をかき混ぜていた。


 食事のあと、海の人は名前を書かない壁へ向かった。


 白い札には、自分で書いた仮の名がある。


 ――海の人。


 その下に、小さな水路の印を描き足した。


 白い貝殻と、波と、一本の道。


「今日は、道を戻しました」


 札へ報告する。


「いいえ」


 海の人は自分で言い直した。


「私一人ではありません。皆で戻しました」


 帰り道の灯りが揺れる。


 ユノが隣に立った。


「役目、見つかった?」


 海の人は少し考える。


「まだ、これが私の役目だとは決めていません」


「そっか」


「でも、海や川の道を読むことならできます。帰れなくなる人を減らすことも、できるかもしれない」


「うん」


「私のように、道を失う人を」


 海の人は白い札を見る。


「名前を戻せなくても、帰る道だけは残せるようにしたいです」


 ユノは微笑んだ。


「それ、十分役目みたいに聞こえるけど」


 海の人も少し笑った。


「まだ練習中です」


「帰る練習?」


「今度は、誰かを帰す練習です」


 その言葉は、星灯坑の記録へ新しく刻まれた。


 ――海の人。

 ――水路案内人。仮任命。

 ――潮路及び帰路の確認を担当。

 ――目的は、道を失う者を減らすこと。

 ――本人の希望により“誰かを帰す練習中”と付記。


 セレノは記録しながら言った。


「仮任命でいいのか」


 海の人は頷いた。


「今は、まだ」


「いつでも辞められる」


「はい」


「本名を明かす義務もない」


「はい」


「役目を果たせない日も、席はなくならない」


 海の人はセレノを見た。


 その言葉は、記録上必要な確認ではない。


 かつて名を縛った者が、今は役目と存在を切り離そうとしている。


 海の人は深く頷いた。


「ありがとうございます」


 その夜、ルグナには久しぶりに強い雨が降った。


 東の水路から流れる水音が、町の端まで聞こえる。


 海の人は黒麦亭の二階に用意された小さな部屋の窓から、その音を聞いていた。


 以前なら、雨音と水音が重なる夜は眠れなかった。


 忘れ潮の浜の波が近づいてくるように感じた。


 今夜も胸はざわつく。


 過去が消えたわけではない。


 恐怖がなくなったわけでもない。


 海の人は寝台から起き、階下へ降りた。


 黒麦亭は暗い。


 大鍋の火も消えている。


 けれど、窓際の席には待ち灯りが残されていた。


 白い貝殻のそばで、小さく揺れている。


 海の人は席へ座った。


「怖いです」


 誰もいない店で、声に出した。


「海の音がします」


 待ち灯りは答えない。


 でも消えない。


 しばらくすると、二階から足音がした。


 女将が眠そうな顔で降りてくる。


「起きてたのかい」


「すみません」


「謝ることじゃない」


 女将は厨房へ入り、小鍋に水を入れた。


「スープはないけど、温かい茶ならある」


「お願いします」


 女将は何も聞かなかった。


 何を思い出したのか。

 なぜ眠れないのか。

 海で何があったのか。


 聞かない扉は、夜にも開いていた。


 茶を受け取った海の人は、湯気の向こうで言った。


「今日、役目をもらいました」


「知ってるよ。水路案内人だろ」


「はい。でも、怖いんです」


「何が」


 女将は聞いた。


 それは名前や過去を暴く問いではない。


 今の気持ちを、話したい範囲で差し出せる問いだった。


 海の人は考えながら答えた。


「役目があると、失敗した時に帰れなくなる気がします」


 女将は椅子へ座った。


「役目を失ったら、あの札が消えると思うかい」


 入口の札を指す。


 名前を言えない日も、入っていい。

 帰る練習、できます。

 仮の名前でも、おかえりと言います。


「思いません」


「なら、帰ってくればいい」


「でも、誰かを危険に――」


「失敗した時の話は、失敗してから一緒に考える。今から全部背負うんじゃないよ」


 海の人は茶を見つめた。


「役目がなくても、帰ってきていいですか」


 女将は少し呆れたような顔をした。


「何度言わせるんだい」


「すみません」


「何度聞いてもいいけどね」


 女将ははっきり言った。


「おかえり、海の人」


 海の人の目に涙が浮かぶ。


「まだ、どこにも行っていません」


「役目を失った未来から、今帰ってきたんだろ」


 海の人は驚いた。


 それから、泣きながら笑った。


「ただいま」


「よし。茶を飲んだら寝な」


 翌朝、雨は上がっていた。


 東の空に淡い虹がかかり、水路の待ち灯りが朝露の中で光っている。


 海の人は黒麦亭の扉を開け、外へ出た。


 胸にはまだ恐れがある。


 それでも足元には帰る道があった。


 ルグナの町。

 黒麦亭。

 星灯坑。

 名前を書かない壁。

 白い札。

 自分で選んだ呼び名。


 海の人は舟着き場へ向かう。


 今日は水門の最終確認をする日だった。


 町の子どもたちが走ってくる。


「海の人!」


 彼は振り返る。


「はい」


「今日も舟に乗るの?」


「乗ります」


「帰ってくる?」


 海の人は一瞬だけ黙った。


 以前なら「必ず」と答えたかもしれない。


 けれど、海も道も、絶対という言葉を嫌う。


 だから彼は、女将から教わった約束を使った。


「帰る努力をします」


 子どもは少し考え、笑った。


「じゃあ、灯り置いとく!」


「お願いします」


 名前を書かない壁の前に、小さな待ち灯りが一つ増える。


 海の人はその光を胸に刻み、舟へ乗った。


 海の人。


 まだ本当の名ではない。


 けれど、それは逃げるための名ではなくなっていた。


 誰かに呼ばれ、返事をするための名。


 知っていることを町へ渡すための名。


 失われた道を見つけ、帰る者のために灯りを置く名。


 そして、どれだけ遠くへ行っても、もう一度「ただいま」と言うための名前だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 “海の人”は、自分の知識を生かして古い水路を戻し、ルグナの水路案内人になりました。


 けれど、役目を持つことは、居場所を得るための条件ではありません。


 失敗しても、役目を失っても、帰ってきていい。

 海の人は、その言葉を少しずつ信じ始めました。


 次のページは『帰路を描く者』です。

 海の人が、忘れ潮の浜を含む失われた帰り道を地図へ残す仕事を始めます。

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