海の人
本当の名前を明かさなくても、自分で選んだ呼び名なら、誰かの声に返事をすることができます。
旅人は、“海の人”という仮の名を選びました。
それは過去を隠すためだけの名前ではありません。
今の自分がここにいることを伝え、誰かと繋がるために架けた、小さな橋でした。
このページでは、海の人がルグナで自分にできる役目を探し始めます。
黒麦亭の朝は、大鍋の蓋が鳴る音から始まる。
女将が火を起こし、昨夜から水に浸しておいた黒麦を鍋へ入れる。根菜を切る包丁の音が続き、やがて店の奥から温かな湯気が立ち始める。
以前の海の人は、その頃まだ黒麦亭へ来ていなかった。
昼を過ぎ、人の声が少なくなった時間に扉を開ける。それが彼にとって、精いっぱいの帰る練習だった。
けれど、“海の人”という仮の名を選んだ翌朝、彼は日の出より少し後に黒麦亭へやって来た。
扉の外で足を止める。
入口の札は、朝露に濡れていた。
――名前を言えない日も、入っていい。
――話せる日まで、スープあります。
――帰る練習、できます。
その下に、女将が昨夜書き足した新しい一文があった。
――仮の名前でも、おかえりと言います。
海の人は、その文字を長く見つめた。
胸の奥に、痛みに似た温かさが生まれる。
自分が頼んだわけではない。
女将は何も言わず、町の誰かに相談することもなく、ただ必要だと思ったから書き足したのだろう。
海の人は指先で文字に触れた。
仮の名前でも、おかえりと言います。
海の人という名は、本当の名前ではない。
かつて待ってくれていた人がくれた、仮の呼び名。
その人と別れたあと、自ら忘れ潮の浜へ預けた呼び名。
そして昨夜、自分の意思でもう一度選び直した名。
本当ではないから偽物なのではない。
今の自分が誰かの声に応えるために必要な、今日の名前。
海の人は、小さく息を吸って扉を開けた。
カラン、と鈴が鳴る。
大鍋をかき混ぜていた女将が、振り向かずに言った。
「おかえり、海の人」
海の人は昨日より迷わず答えた。
「ただいま」
厨房の端で芋を洗っていたカイが顔を上げる。
「早いな」
「何か手伝えるかと思って」
「芋ならある」
「あなたは何でも芋ですね」
「黒麦亭の朝は芋から始まるんだ」
女将がすぐに言った。
「嘘を教えるんじゃないよ」
ミアは食器を並べながら笑った。
「カイの朝が芋から始まるだけだよ」
「同じようなものだろ」
「全然違う」
海の人は思わず笑った。
ほんの数日前まで、黒麦亭の賑やかな声は怖いものだった。
誰かの笑い声が上がるたび、自分が笑われているように感じた。足音が近づくたび、過去を知る者が追ってきたのではないかと身構えた。
けれど今は、カイとミアの言い合いが朝の音の一つに聞こえる。
大鍋の蓋。
包丁。
食器。
扉の鈴。
カイの少し大きな声。
ミアの笑い声。
その中へ、自分の声も少しだけ混ざっている。
女将は海の人へ籠を差し出した。
「今日は魚が届く日なんだけどね、仕入れ先の漁師が来られないらしい」
海の人は籠の中を覗いた。
わずかな干し魚と、塩漬けにされた小魚があるだけだ。
「海が荒れているのですか」
「いや。川道の橋が壊れたそうだよ。魚自体はあるが、運べないんだとさ」
「どこの集落から?」
「東のイサナ川。河口の先に小さな漁村がある」
海の人の目が少し変わった。
怖がる目ではない。
潮や風の流れを読む時の、鋭く静かな目。
「今日の風向きなら、川道ではなく古い水路を使えるかもしれません」
女将が眉を上げる。
「古い水路?」
「ルグナの東側には、昔、塩を運ぶための細い運河があったはずです。今は使われていませんが、小舟なら通れるかもしれません」
リゼが記録帳を持って厨房へ入ってきた。
「その運河なら、古い町の地図に載っているわ」
「今も水がありますか」
「途中までは。ただ、南側の水門が壊れているという記録がある」
海の人は少し考えた。
「潮が最も高くなる前なら、水門を越えられる可能性があります。帰りは潮が引く流れに乗れる」
カイが芋を持ったまま振り向く。
「海の人、船も乗れるの?」
「海の人なので」
自分でそう答えたあと、海の人は少し驚いた顔をした。
カイとミアも一瞬黙る。
それからカイが笑った。
「確かに」
海の人も笑った。
仮の名前を、自分の口で冗談に使えた。
それは、ごく小さなことだった。
けれど、名前を呼ばれるたびに胸が痛んでいた彼にとっては、大きな変化だった。
リゼは古い地図を持ってきた。
黒麦亭の長机へ広げる。
ルグナの東門から、イサナ川へ向かう細い水路が描かれていた。
現在使われている陸路より大きく南へ迂回し、湿地の中を抜けて河口近くへ出る。
地図には“塩舟路”と記されている。
「二十年以上、正式には使われていないわ」
リゼが説明する。
「水門が壊れたあと、荷船が座礁する事故があった。それ以降、町の記録では閉鎖扱い」
海の人は地図に顔を近づける。
「事故があったのは、この辺りですか」
「そう」
「ここは水門の壊れ方ではなく、川底の砂が動いたことが原因だと思います」
「なぜ分かる?」
セレノが店へ入ってきて尋ねた。
海の人は地図の線を指でなぞる。
「水門が壊れただけなら、流れは速くなりますが、水深そのものが突然浅くなるとは限りません。でも、この曲がり方なら、南風が続いた年に河口の砂が押し戻され、ここに溜まります」
セレノは地図を見つめた。
「当時の記録には、座礁事故の前に南風が十三日間続いたとある」
「やはり」
海の人は別の地点を指す。
「今の風は北東です。潮が満ちる時、この砂は少し削られます。小舟一艘なら通れる可能性が高い」
「危険は?」
ユノが尋ねた。
海の人は、すぐに大丈夫とは言わなかった。
「あります」
その答えに、ユノは少し安心した。
危険を隠さない人なのだと思った。
「水路の状態を実際に見ていません。倒木や崩れた石があるかもしれない。帰りの潮を逃せば、湿地で一晩待つことになります」
「なら、まず確認だけにするべきね」
リゼが言う。
「魚を運ぶのは、道の安全が分かってから」
女将は腕を組んだ。
「今日の魚は諦めても構わないよ。あんたたちが干し魚になる方が困る」
カイが笑う。
「俺たちは干し魚にならない」
「湿地で干せると思ってるのかい」
「ならないって意味」
海の人は地図を見たまま、しばらく黙っていた。
その沈黙を、誰も急かさなかった。
やがて彼は言った。
「私に、道を確認させてもらえませんか」
ユノが顔を上げる。
「一人で?」
「いえ。一人では行きません」
その言葉を自分から言えたことに、海の人は少し驚いているようだった。
以前の彼なら、誰かに迷惑をかけないため一人で向かっただろう。
助けを求めれば名前を聞かれる。
過去を知られる。
借りを作れば、いつか代わりに秘密を要求される。
そう信じていた。
しかし今は、一人では行かないと言った。
「水路を読むことはできます。でも、ルグナ周辺の陸地や湿地は知りません。それに……」
海の人は少し言いにくそうに続けた。
「まだ、一人で遠くへ行くのは怖いです」
黒麦亭は静かになった。
誰も、その告白を弱さとして笑わなかった。
カイはすぐに言った。
「俺が行く」
ミアも。
「私も」
ユノは頷く。
「俺も一緒に行く」
リゼは地図を巻いた。
「私は記録と星路の確認をするわ。エルネにも潮位を星から読んでもらう」
セレノが言う。
「私は町に残る。旧王国商会の者があなたの不在を狙う可能性もある。戻る場所を守る者が必要だ」
海の人は皆を見回した。
胸の奥が大きく揺れる。
彼が頼んだのは、水路の確認に付き添ってほしいということだけだった。
なのに、誰も理由を求めなかった。
なぜ一人が怖いのか。
海で何があったのか。
誰に追われているのか。
聞かないまま、それぞれができる役目を選んだ。
海の人は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女将は大鍋をかき混ぜながら言った。
「昼までには戻りな。戻れなかったら、待ち灯りを出すよ」
「はい」
「それから」
女将は海の人へ、小さな布包みを投げた。
受け取ると、中には黒麦パンと干し果物が入っている。
「道を確かめる者が腹を空かせたら、判断を間違える」
海の人は包みを両手で持った。
「必ず戻ります」
女将は少しだけ目を細める。
「必ず、なんて約束はしなくていい」
「でも――」
「戻る努力をする。それでいい。海も道も、絶対なんて言葉を嫌うんだろ」
海の人は驚いた。
女将は海へ出たことなどほとんどないはずだ。
それでも、正しいことを言った。
「はい。戻る努力をします」
「なら、行っておいで」
ルグナの東側には、長い間使われていない小さな舟着き場があった。
木の杭は腐り、石段には苔が生えている。
星灯坑の資材置き場から借りた小舟を、カイとユノが水辺まで運んだ。
海の人は舟の周りを一周し、板の継ぎ目や縄を丁寧に確かめる。
底板を叩き、音を聞く。
櫂のしなりを確認し、予備の縄を舟の内側へ結び直す。
ミアが感心して言った。
「本当に海の人だ」
海の人は少し笑う。
「今までは、芋の人だと思っていましたか」
「芋の皮むきが上手な海の人」
「それは否定できません」
カイが口を挟む。
「でも、俺も前より上手くなった」
「昨日、半分くらい実まで削ってたよ」
「大きい芋だったから平気」
「女将さんに怒られてた」
海の人は二人のやり取りを聞きながら、舟へ荷物を載せた。
飲み水。
縄。
小さな斧。
星灯りを閉じ込めたランタン。
待ち灯りの札。
黒麦パン。
ユノは守名筆を持たなかった。
今回は名前を探す旅ではない。
道を探す旅。
海の人が持つ知恵で、誰かの暮らしへ繋がる道を確かめる。
舟が水へ浮かぶ。
海の人が最初に乗り込み、重心を確かめた。
「一度に動かないでください。カイさんから」
「俺?」
「最も重そうなので」
「ユノも同じくらいだろ」
「カイ、荷物も持ってるから」
「なるほど」
言われた順に乗り込む。
舟は少し揺れたが、安定した。
海の人は後ろに座り、櫂を握った。
その手は、黒麦亭で椀を持つ時とは違って見えた。
迷いがない。
水の抵抗を確かめるように、一度ゆっくり櫂を入れる。
舟が岸を離れた。
古い塩舟路は、湿地の草に覆われていた。
水面は細く、場所によっては道が完全に消えているように見える。
しかし海の人は、草の傾きと水の色を読み、舟を進めた。
「右に寄ります」
カイが水面を見る。
「何かある?」
「中央が浅いです」
「見ただけで分かるの?」
「水の色が違います。浅い場所は底の砂が光を返す。流れも細かく割れます」
ミアは記憶灯の光を水面へ向けた。
確かに中央付近だけ、波紋が短く乱れている。
「すごい」
海の人は首を横に振った。
「長く見ていれば分かるようになります」
ユノはその言葉を聞きながら思った。
海の人は、自分の知識を特別な力として誇らない。
長く見てきたから分かる。
けれど、その“長く”の中には、きっと多くの夜と恐怖と失敗がある。
何艘もの舟を見送り、自分でも何度も海へ出たのだろう。
彼が今まで生きてきた時間が、櫂を動かしている。
水路が大きく曲がる場所で、海の人は舟を止めた。
「この先に倒木があります」
まだ何も見えない。
カイが目を凝らす。
「どこ?」
「水の流れが二つに分かれています。何かが塞いでいる」
少し進むと、言葉通り大きな木が水路を横切っていた。
枝が泥へ沈み、水草と枯葉を堰き止めている。
「これじゃ通れないな」
カイが言う。
海の人は周囲を見る。
「完全に切る必要はありません。この枝だけ落とせば、舟一艘分は通れます」
ユノとカイが斧を持って舟を降りた。
水は膝ほどの深さ。
泥に足を取られながら、太い枝を切る。
海の人は舟を押さえ、ミアは待ち灯りの糸を近くの木へ結んだ。
帰り道を見失わないための目印。
かつて海に道を奪われた人が、今は自分たちの帰路を作っている。
海の人は、その灯りを見つめた。
「どうした?」
ユノが尋ねる。
「以前の私なら、目印を残さなかったと思います」
「どうして?」
「戻ることを考えなかったからです」
ユノは斧を持つ手を止めた。
海の人は静かに続ける。
「前へ進むことしか考えなかった。戻る場所がないなら、目印はいらないと思っていました」
ミアが灯りの糸を結び終えた。
「今は?」
海の人は遠く、ルグナの方角を見る。
「戻りたい場所があります」
カイが切った枝を押しのけながら言った。
「なら、もっと目印つけよう」
何でもない調子だった。
海の人は笑い、頷いた。
「はい」
倒木を越えた先で、水路は少し広くなった。
湿地の草が左右へ開き、空が水面に映る。
アイリシアの淡い輪郭が、昼の空にもかすかに見えた。
エルネが塔から潮の動きを読んでいる。
彼女が渡した星糸は、舟の先で青白く光っていた。
潮が満ちる方向を示している。
海の人は星糸と風を見比べる。
「予定より満ちるのが早い」
リゼが地図を確認する。
「塔からの合図も同じよ。北の海で風向きが変わったらしい」
「水門へ急ぎます。ただし、帰りの時間も早くなる」
舟の速度が上がる。
海の人の櫂が、水面を滑るように動いた。
力任せではない。
水の流れへ櫂を合わせ、舟そのものを潮へ乗せている。
やがて、壊れた水門が見えた。
石造りの柱だけが残り、その間に崩れた木材が引っかかっている。
水は狭い隙間を勢いよく抜けていた。
カイが顔をしかめる。
「通れる?」
海の人は答えず、舟を手前の岸へ寄せた。
石を一つ拾い、水門の前へ投げる。
浮かべていた小枝の動きと、沈んだ石の位置を何度も見る。
「今は通りません」
「待てば通れる?」
「潮があと少し満ちれば、流れが緩みます。ただし、待ちすぎると帰路がなくなる」
リゼが星糸を見る。
「安全に通れる時間は?」
「おそらく、四半刻ほど」
短い。
水門を通り、向こう側の状態を確かめ、すぐ戻らなければならない。
ユノが言う。
「今日はここまででもいい」
海の人は水門を見つめた。
向こう側にはイサナ川へ繋がる水面がある。
魚を運ぶ新しい道。
黒麦亭だけではない。
橋が壊れて困っている漁村と、食料が届かないルグナを繋げる道。
だが、無理をすれば全員が危険になる。
海の人は目を閉じ、風の音を聞いた。
以前なら、役に立つために無理をしたかもしれない。
自分がここにいていい理由を証明するために。
名前を言えない自分でも価値があると認めてもらうために。
しかし、黒麦亭の席は、何もできなかった日から用意されていた。
スープを飲むだけの日にも、椀は置かれた。
役に立つことは、ここにいていい条件ではない。
だから、正しい判断をしなければならない。
「戻りましょう」
海の人は言った。
カイが少し驚く。
「確認しなくていいの?」
「今日の目的は、安全な道か確認することです。今の状態では、毎日安全に使える道ではありません」
リゼが頷いた。
「正しい判断だと思う」
「水門を修理し、潮位を知らせる目印を設置すれば使えます。そのための調査はできました」
海の人は水門の石柱へ小さな印をつけた。
水が最も速くなる高さ。
舟が通れる可能性のある高さ。
引き返すべき高さ。
星灯りを染み込ませた白い石粉で、三本の線を描く。
「上の線まで水が来たら、絶対に通らない。中央なら一艘ずつ。下の線より低ければ、舟底が砂につく可能性があります」
リゼはすべて記録した。
海の人は水門の向こうを一度見た。
先へ進めなかった悔しさはある。
それでも、自分を責めなかった。
戻る判断をした。
それも新しい役目の一部なのだ。
舟はルグナへ向けて引き返した。
潮が満ち始め、来た時より流れが強い。
海の人は時々後ろを振り返り、待ち灯りの目印を確かめた。
倒木の場所へ戻ると、青白い糸が草の間で光っている。
帰り道がある。
その光を見た時、海の人の胸に、忘れ潮の浜の記憶が浮かんだ。
黒い岩。
白い貝殻。
置かれた灯り。
待っている人。
自分も今、灯りを辿って帰っている。
「海の人」
ユノの声がした。
海の人は我に返る。
「はい」
「大丈夫?」
以前なら、大丈夫だと即答していただろう。
けれど、海の人は少し考えてから答えた。
「少し、昔のことを思い出しました」
「止まる?」
「いいえ。今は進めます。でも、ゆっくりお願いします」
カイが櫂の動きを緩める。
「分かった」
ミアは何も聞かず、海の人の近くへ待ち灯りを置いた。
揺れる舟の中で、青白い光が小さく灯る。
海の人は深く息を吐いた。
昔のことを思い出しても、今へ戻れる。
言葉にすれば、周囲が速度を合わせてくれる。
それは、彼が海で知らなかった帰り方だった。
舟着き場が見えた時、カイが大きく手を振った。
岸には、黒麦亭の女将とセレノ、それに町の子どもたちが待っていた。
「帰ってきた!」
子どもの一人が叫ぶ。
「海の人、おかえり!」
その声に、海の人は胸を押さえた。
名前を呼ばれた。
けれど、怖くない。
自分で選んだ名前。
帰る場所から呼ばれる声。
「ただいま!」
今までで一番大きな声が、水路の上へ響いた。
舟が岸へ着く。
女将は腕を組んで言った。
「昼は過ぎたね」
「すみません」
「謝る前に報告」
海の人は姿勢を正えた。
「水路は途中まで通れます。倒木が一か所。壊れた水門は潮によって危険になります。修理と潮位の目印が必要です」
「魚は?」
「今日はありません」
「なら、干し魚のスープだね」
女将はあっさり言った。
海の人は少し驚く。
「残念ではないのですか」
「魚より、あんたたちが戻った方が大事だよ。それに道が直れば、明日以降は魚が届くんだろ」
「はい」
「なら十分」
黒麦亭へ戻ると、リゼは調査記録を正式にまとめた。
――旧塩舟路。
――ルグナ・イサナ河口間の輸送路として再利用可能性あり。
――倒木一か所。除去作業必要。
――南水門破損。潮位による危険あり。
――修理及び目印設置を推奨。
――調査責任者、海の人。
――本人選択による仮名を使用。
海の人は最後の行を何度も見た。
調査責任者、海の人。
自分の仮名が、町の記録へ残っている。
暴かれた本名ではない。
勝手に付けられた番号でもない。
誰かに支配されるための名でもない。
自分で選び、自分で使用を許した名前。
「この記録を、町の人が見てもいいですか」
リゼが尋ねる。
海の人は考えた。
「水路に関する部分は、全員が見られるようにしてください」
「海の人という仮名も?」
「はい」
言葉にした瞬間、少し怖くなった。
町の人々がその名を知る。
自分を呼ぶ声が増える。
だが、海の人は白い札の光を思い出した。
伏せることと消えることは違う。
開く範囲を、自分で決めていい。
「ただし、本名を尋ねるための手がかりには使わないと書いてください」
リゼは頷いた。
「必ず」
守名筆で、記録の下へ一文が加えられた。
――“海の人”は本人が選んだ仮名であり、本名の探索、照合及び推定に使用してはならない。
セレノがそれを確認し、守名印を押した。
「これで、仮名は役目を持つ。だが、本名への扉にはならない」
海の人は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
水路の修理は、その翌日から始まった。
海の人は町の職人たちへ、潮の満ち引きと水門の構造を説明した。
最初、職人の一人は不安そうだった。
「本当にこの時間で水が止まるのか?」
海の人は責められたとは思わなかった。
以前なら、自分を信じてもらえないと感じ、言葉を失っていたかもしれない。
今は地図を広げ、丁寧に答えた。
「完全には止まりません。ただ、星が南の塔へ重なる頃、流れが最も緩くなります。その間に、この板を入れます」
「外れたら?」
「外れます」
職人が眉をひそめる。
「外れるのか」
「海と川の力に、永久に耐える板はありません。だから、外れた時に交換できる構造にします」
海の人は木枠の図を描いた。
「壊れないものを作るのではなく、安全に壊れ、直せるものを作る。それが水の近くでは大切です」
職人は図を見つめ、やがて頷いた。
「なるほど。お前、分かってるな」
海の人は少し笑った。
「海の人なので」
その返しは、黒麦亭だけでなく町でも使えるようになった。
三日かけて倒木を除き、五日目に水門の仮修理が終わった。
石柱には、海の人が付けた三本の潮位線が残された。
危険の線。
通行できる線。
浅すぎる線。
さらに、名前を書かない壁で使われている白い札を小さく加工し、水門のそばへ吊るした。
札には名ではなく、帰路を示す矢印が描かれている。
夜になると待ち灯りが点き、ルグナへの方向を示す。
「ここにも、帰る灯りを置くんだね」
ミアが言った。
海の人は頷く。
「道は、進む人だけでなく、戻る人のために必要です」
水路が正式に開かれた朝、イサナ河口の漁村から三艘の小舟がやって来た。
銀色の魚が籠いっぱいに積まれている。
舟着き場に集まった町の人々から歓声が上がった。
黒麦亭の女将は魚を一尾持ち上げ、満足そうに言った。
「今日は干し魚じゃないね」
カイが目を輝かせる。
「肉も入れる?」
「魚の日に肉を求めるんじゃない」
漁村の年老いた船頭が海の人へ近づいた。
「あんたが、この道を戻した人か」
海の人は少し身構えた。
大勢の前で注目されることには、まだ慣れていない。
「一人ではありません。町の人たちと直しました」
「でも、潮を読んだのはあんただろ」
「はい」
「名は?」
その問いに、周囲が少し静かになった。
海の人の胸が強く鳴る。
本当の名前を聞かれた。
悪意はない。
けれど、怖さは悪意の有無だけで消えるものではない。
海の人が答える前に、カイが一歩出ようとした。
しかし海の人は、静かに手を上げて止めた。
自分で答えたい。
「海の人、と呼ばれています」
船頭は少し目を丸くした。
「それが名か?」
「今の私が、自分で選んだ名です」
船頭は海の人の顔をしばらく見た。
やがて、深く頷く。
「そうか。なら、海の人。良い道を戻してくれた」
「ありがとうございます」
それだけだった。
本当の名前を追及されなかった。
海の人が差し出した仮の名を、そのまま受け取ってくれた。
船頭は仲間へ振り返り、大きな声で言った。
「海の人に、一番いい魚を渡せ!」
海の人は慌てる。
「いえ、私は――」
「道を戻した礼だ。受け取れ」
大きな銀色の魚が一尾、海の人へ差し出された。
生きてきた中で、働きへの礼を受け取ることはあった。
けれど多くの場合、代わりに名前や所属を記録された。
どこの者か。
誰の命令で動いたか。
次は何を差し出すのか。
今回は違う。
海の人として役目を果たし、海の人として礼を受け取る。
その名前の範囲で関係が結ばれている。
「受け取ったら?」
ユノが小声で言った。
海の人は両手を差し出した。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
その日の黒麦亭では、魚のスープが作られた。
女将は海の人がもらった一尾を丁寧に捌いた。
「自分でやる?」
海の人は少し考え、首を横に振る。
「今日は、女将さんの味で食べたいです」
「なら任せな」
魚の骨から出汁を取り、黒麦と根菜を煮込む。
店中に海の香りが広がった。
以前なら、その匂いだけで海の人は動けなくなっていただろう。
忘れ潮の浜。
黒い岩。
戻れない人。
失った呼び名。
けれど今は、同じ海の香りの中に、帰ってきた舟の音がある。
修理した水門。
待ち灯り。
自分を呼ぶ子どもたちの声。
海は、失う場所だけではない。
誰かと誰かを繋ぐ道にもなる。
女将が椀を置く。
「海の人の魚」
「皆で食べる魚です」
「そういう意味だよ」
カイはすでに椀を持って待っている。
「早く食べよう」
ミアが言う。
「カイ、海の人が最初だよ」
「分かってる。待ってる」
リゼ、エルネ、セレノも席に着く。
窓際の“名前を聞かない席”ではなく、大きな食卓。
海の人の席は、その輪の中にあった。
誰かのために空けられた席から、自分で選んで座る席へ。
海の人は椀を持ち、皆を見回した。
「いただきます」
声が重なる。
「いただきます」
魚のスープは温かかった。
少し塩が強く、海の香りがする。
海の人の目から涙が落ちた。
カイが心配そうに見る。
「しょっぱすぎた?」
海の人は笑って首を横に振る。
「ちょうどいいです」
「ならよかった」
女将は何も言わず、大鍋をかき混ぜていた。
食事のあと、海の人は名前を書かない壁へ向かった。
白い札には、自分で書いた仮の名がある。
――海の人。
その下に、小さな水路の印を描き足した。
白い貝殻と、波と、一本の道。
「今日は、道を戻しました」
札へ報告する。
「いいえ」
海の人は自分で言い直した。
「私一人ではありません。皆で戻しました」
帰り道の灯りが揺れる。
ユノが隣に立った。
「役目、見つかった?」
海の人は少し考える。
「まだ、これが私の役目だとは決めていません」
「そっか」
「でも、海や川の道を読むことならできます。帰れなくなる人を減らすことも、できるかもしれない」
「うん」
「私のように、道を失う人を」
海の人は白い札を見る。
「名前を戻せなくても、帰る道だけは残せるようにしたいです」
ユノは微笑んだ。
「それ、十分役目みたいに聞こえるけど」
海の人も少し笑った。
「まだ練習中です」
「帰る練習?」
「今度は、誰かを帰す練習です」
その言葉は、星灯坑の記録へ新しく刻まれた。
――海の人。
――水路案内人。仮任命。
――潮路及び帰路の確認を担当。
――目的は、道を失う者を減らすこと。
――本人の希望により“誰かを帰す練習中”と付記。
セレノは記録しながら言った。
「仮任命でいいのか」
海の人は頷いた。
「今は、まだ」
「いつでも辞められる」
「はい」
「本名を明かす義務もない」
「はい」
「役目を果たせない日も、席はなくならない」
海の人はセレノを見た。
その言葉は、記録上必要な確認ではない。
かつて名を縛った者が、今は役目と存在を切り離そうとしている。
海の人は深く頷いた。
「ありがとうございます」
その夜、ルグナには久しぶりに強い雨が降った。
東の水路から流れる水音が、町の端まで聞こえる。
海の人は黒麦亭の二階に用意された小さな部屋の窓から、その音を聞いていた。
以前なら、雨音と水音が重なる夜は眠れなかった。
忘れ潮の浜の波が近づいてくるように感じた。
今夜も胸はざわつく。
過去が消えたわけではない。
恐怖がなくなったわけでもない。
海の人は寝台から起き、階下へ降りた。
黒麦亭は暗い。
大鍋の火も消えている。
けれど、窓際の席には待ち灯りが残されていた。
白い貝殻のそばで、小さく揺れている。
海の人は席へ座った。
「怖いです」
誰もいない店で、声に出した。
「海の音がします」
待ち灯りは答えない。
でも消えない。
しばらくすると、二階から足音がした。
女将が眠そうな顔で降りてくる。
「起きてたのかい」
「すみません」
「謝ることじゃない」
女将は厨房へ入り、小鍋に水を入れた。
「スープはないけど、温かい茶ならある」
「お願いします」
女将は何も聞かなかった。
何を思い出したのか。
なぜ眠れないのか。
海で何があったのか。
聞かない扉は、夜にも開いていた。
茶を受け取った海の人は、湯気の向こうで言った。
「今日、役目をもらいました」
「知ってるよ。水路案内人だろ」
「はい。でも、怖いんです」
「何が」
女将は聞いた。
それは名前や過去を暴く問いではない。
今の気持ちを、話したい範囲で差し出せる問いだった。
海の人は考えながら答えた。
「役目があると、失敗した時に帰れなくなる気がします」
女将は椅子へ座った。
「役目を失ったら、あの札が消えると思うかい」
入口の札を指す。
名前を言えない日も、入っていい。
帰る練習、できます。
仮の名前でも、おかえりと言います。
「思いません」
「なら、帰ってくればいい」
「でも、誰かを危険に――」
「失敗した時の話は、失敗してから一緒に考える。今から全部背負うんじゃないよ」
海の人は茶を見つめた。
「役目がなくても、帰ってきていいですか」
女将は少し呆れたような顔をした。
「何度言わせるんだい」
「すみません」
「何度聞いてもいいけどね」
女将ははっきり言った。
「おかえり、海の人」
海の人の目に涙が浮かぶ。
「まだ、どこにも行っていません」
「役目を失った未来から、今帰ってきたんだろ」
海の人は驚いた。
それから、泣きながら笑った。
「ただいま」
「よし。茶を飲んだら寝な」
翌朝、雨は上がっていた。
東の空に淡い虹がかかり、水路の待ち灯りが朝露の中で光っている。
海の人は黒麦亭の扉を開け、外へ出た。
胸にはまだ恐れがある。
それでも足元には帰る道があった。
ルグナの町。
黒麦亭。
星灯坑。
名前を書かない壁。
白い札。
自分で選んだ呼び名。
海の人は舟着き場へ向かう。
今日は水門の最終確認をする日だった。
町の子どもたちが走ってくる。
「海の人!」
彼は振り返る。
「はい」
「今日も舟に乗るの?」
「乗ります」
「帰ってくる?」
海の人は一瞬だけ黙った。
以前なら「必ず」と答えたかもしれない。
けれど、海も道も、絶対という言葉を嫌う。
だから彼は、女将から教わった約束を使った。
「帰る努力をします」
子どもは少し考え、笑った。
「じゃあ、灯り置いとく!」
「お願いします」
名前を書かない壁の前に、小さな待ち灯りが一つ増える。
海の人はその光を胸に刻み、舟へ乗った。
海の人。
まだ本当の名ではない。
けれど、それは逃げるための名ではなくなっていた。
誰かに呼ばれ、返事をするための名。
知っていることを町へ渡すための名。
失われた道を見つけ、帰る者のために灯りを置く名。
そして、どれだけ遠くへ行っても、もう一度「ただいま」と言うための名前だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
“海の人”は、自分の知識を生かして古い水路を戻し、ルグナの水路案内人になりました。
けれど、役目を持つことは、居場所を得るための条件ではありません。
失敗しても、役目を失っても、帰ってきていい。
海の人は、その言葉を少しずつ信じ始めました。
次のページは『帰路を描く者』です。
海の人が、忘れ潮の浜を含む失われた帰り道を地図へ残す仕事を始めます。




