マッサージと予期せぬ出来事
3日後の夜。あやめの部屋。
「今ちょっといい?」
「なんだ?」
「マッサージしてやるから横になれ」
弟の申し出に、姉は目を丸くして問う。
「なんだ、唐突に? エロ漫画の雑な導入か?」
「違う。肩こり治してやるから、横になれって言ってんだよ」
「えっ? 恭、マッサージなんてできるの?」
あやめのために練習したと言いたくなかった恭は、目を逸らしてボソボソと言い訳する。
「……空手もボクシングも筋肉疲労が激しいし、仲間同士で揉み合ったりするから」
「部活後にお互いの体を揉み合うなんて、男同士とは言えエッチな気分になりそう」
「キメェこと言ってないで、さっさと横になれ」
弟に怒られた姉は「分かったよう」と自分のベッドに俯せになった。
恭はその上に跨ると、
「じゃあ、やるから。力強すぎたら言って」
と肩から背中にかけて揉み始めた。
しかし数分後。
「あっ、あっ、すごく気持ちいい。あっ、んっ。そこ、もっと」
気持ち良さそうな声を出しながら身をよじるあやめに、恭はピタリと手を止める。
「……お前わざとやってんだろ」
「あ? 何が?」
訝し気に振り向くあやめに、恭は顔を歪めながら指摘する。
「わざとエロい声を出してんだろ。集中できねぇからやめろ」
「は?」
ポカンとする姉に、弟は「えっ?」と戸惑う。
すると、あやめは呆れ顔でこう続けた。
「いや、普通に気持ちいいから、もっと揉んで欲しくて言っただけだけど……」
一瞬の気まずい沈黙。
失言を悟って固まる弟を、姉はニヤニヤとからかう。
「なんだ~? 普通に気持ちいいだけのお姉ちゃんの声、恭にはエロく聞こえちゃったのか~?」
「違う。お前が普段から、そういう悪ふざけするから」
珍しく赤くなる恭を、あやめはさらに面白がって弄る。
「へへ~っ。今度マッサージのお礼に前にやった目覚まし時計に、お姉ちゃん渾身の喘ぎ声でも入れてやろうか?」
「全身の骨をバラバラにするぞ」
ブチ切れる弟を、姉は慌てて思い止まらせる。
「マウント取った状態で、そんなこと言うのやめろ! お姉ちゃんを癒やしたいのか壊したいのか、どっちだ!?」
「じゃあ、黙って揉まれろ。変な声も出すな」
「って言われても、気持ちいいと声が出ちゃうんだもん……アーッ!? 分かった! なるべく抑えるから!」
あやめは約束どおり声を我慢した。
しかし声を堪えて僅かに身を震わせる姿が、余計に行為を連想させた。
恭は心を無にしながら、なんとかマッサージを終えた。
「……終わり」
「やぁ。もっとぉ」
「甘えんな」
さっさと自室に引き上げたが、今度はあやめが恭を訪ねて来る。
「さっきはマッサージありがとな。お陰で肩、だいぶ楽になったわ」
改めてお礼を言うと、弟に千円札を差し出す。
「ほーら、いい子の恭君に、お姉ちゃんがお小遣いをやろう」
あやめの申し出を、恭は困り顔で断る。
「いいよ。別に金が欲しくてやったんじゃないから」
「だから、お礼がしたいんじゃん。遠慮は要らんから受け取れって」
「だからいいって。姉弟って言っても1つしか違わないし、お前も学生なのに金なんてもらえねぇよ」
あやめがすでに創作で稼いでいることは知っている。けれど小説家は決して稼げる職業では無いようだ。
書籍化が決まってから、高いマッサージ機をポンと買ったり、恭にお小遣いを渡そうとしたり、あやめの財布の紐は少し緩くなった。だからこそ恭は、あやめが困らないように貯金しておいて欲しい。
ところが姉はお金が大事だからこそ、こう考える。
「硬いヤツだな~。マッサージはまぁまぁの労働だし、家族でも報酬はもらうべきだぞ」
「マッサージするたびに金をもらうんじゃ、かえってしにくくなるだろ」
「へ~? またしてくれるんだ?」
意地悪に笑う姉から、弟はそっぽを向いて否定する。
「知らない。そこまで言ってない」
「まぁ、お前が要らないって言うなら、無理に押し付けるのはやめておこう」
あやめは「その代わり」と、こちらに背を向けて椅子に座っている恭の肩に手を置いた。
いつものように、ほっぺにチューしようとしたのだが、
「は?」
と肩に触れられた恭は思わず振り返った。柔らかいものが、お互いの唇をかすめる。
弟はバッと口を押さえながら、なんとか言い返す。
「……いきなり何すんだよ」
唇にするつもりは無かったあやめは慌てて謝る。
「いや、ゴメン。お金を受け取らないんだったら、代わりにご褒美のチューってやろうとしたんだけど。お前が振り返るとは思わなかった。ゴメンよ、いきなりお前の唇を奪ってしまって」
子どもの頃から今日まで、頬や額には数え切れないほどキスして来た。しかし流石に口にしたことはない。そこは家族でも本人の同意なく触れていい場所ではないからだ。
大変なことをしてしまったと珍しく狼狽えるあやめに、恭は唇を押さえたまま顔を逸らして言う。
「……もう帰れ」
「……はい」
あやめはすごすごと退散した。
自室に戻った後。なんとか仲直りしたいと思ったあやめは、スマホでタプタプとメッセージを送る。
『さっきはゴメン。本当にわざとじゃないんだ。わざとじゃなければいいってもんでもないけど、お前に嫌われたら凹むから許して』
すると、恭からすぐに返信が来た。
『別に嫌ってないし、わざとじゃないのも分かってるからいいよ』
意外とあっさり許してもらえたあやめは、すかさず追加のメッセージを送る。
『恭君、愛してる!』
『調子に乗るな』
後日、昼休みの教室。一緒に昼食を取っていた槇が不可解そうに尋ねる。
「恭。唇どうかしたのか?」
「えっ? なんで?」
「いや、今日ずっと唇を触ってるから」
槇の指摘に、恭はやや疚しそうに視線を逸らしながら答える。
「別にそんなことないけど……ちょっと違和感あるだけ」
すると例によって同席していた陽太が、思いついたように口を開く。
「唇と言えばさ。恭って女嫌いっぽいけど、キスしたことあんの?」
「……なんでそんなこと聞くんだよ?」
硬い声で問い返す恭に、陽太は「うぅ」と凹みながら話を続ける。
「だって俺は高2になっても彼女どころかキスもまだだから。槇は明らかに経験ありそうだし、恭はどうなのかなって」
陽太から見た恭はモテる割に潔癖で、生身の女子と関わらないのはもちろん、猥談にもあまり乗って来なかった。
だから自分と同じで経験が無いかも、と期待して尋ねた。
ところが恭の回答は、
「……事故でいいなら昨日した」
その衝撃の発言に陽太も仰天したが、クラスの女子たちもざわついて、
(誰よぉぉ!? 彼女でもないのに八神君の唇を奪った不届きな女は!?)
と殺意の表情で、お互いを見合った。
一方の陽太は、恭を襲ったハプニングへの羨ましさに叫ぶ。
「事故で女の子とキスすることなんてある!? 恭はラブコメの主人公なの!?」
「そんないいもんじゃなくて、本当にただ偶然ぶつかっただけ」
「どうすれば、そんな素敵な偶然が起こせるの!? 俺も女の子と事故チューしたいよ!」
周囲の目も気にせず叫ぶ陽太を、
「狙ってやったら犯罪だからな~。普通のファーストキスを目指そうな~」
と槇は半笑いで嗜めた。




