「ウォーン──!」
狼の遠吠えが突然響き渡り、大群の亀甲狼が前方に現われた。
「狼だ、何故狼の群れが?」
潘平は動きを一瞬止め、驚いた表情を浮かべた。
常飚は顔色を曇らせた。
方源の件以来、彼が最も嫌う動物は狼であった。
しかし彼は、方源が此の関を掌握しているとは夢にも思わない。
低く沈んだ声で言った。
「今回の目的は様子見が主だ。
然し状況が変わった以上、一先ず此の狼共を始末してから、改めて見定めよう。」
「うむ!」
潘平は頷いて肯いった。
両人は協力して狼群に襲い掛かった。
当初は両人が優勢で、大いに暴れ回った。
普通の亀甲狼など、両人の敵でないのは当然であった。
しかし間もなく、狼群は絶え間なく現われ、朱炎狼、水狼、風狼など他の品種も現われ始めた。
更には狂狼、白眼狼などの異獣の群れも現われた。
次第に両人は手に負えなくなっていった。
「何故此れ程多くの狼の群れが?」
「此の関は、闖关する蛊師の戦闘能力も試すと言うのか?」
大量の千狼王や万狼王が戦場に加勢し、潘平と常飚の顔色は次第に険しくなっていった。
「此の関は難し過ぎる!」
潘平は感嘆交じりに言った。
「八十八角真陽楼は、関が進む程に難易度が上がる。
殊に第九十関から最終の第百関までは、最も艱難である。」
常飚も同調するように答えた。
更に片時戦ううちに、両人は耐え切れなくなった。
「状況は既に把握した。
第九十関には迷宮だけでなく、狼の群れも存在する!」
常飚は沈んだ声で総括した。
「両側とも壁で、地形が狭く、人海戦術が使えぬ。如何すれば良い?」
潘平は眉をひそめた。
「一旦撤退し、改めて協議しよう。」
常飚は嘆息混じりに言った。
彼と潘平は巨陽血脉を持たず、八十八角真陽楼には来客令で入っていた。
来客令は貴重なため、彼ら(かれら)の出入りには毎回多額の費用がかかるのだ。
「分かった!」
潘平は以前から撤退を考えていた。
彼は眼前の狼の群れを睨みつけ、歯を食いしばって言った。
「畜生めの狼の子共よ、遅く早くお前等の狼王を踏み潰し、徹底的に屈辱を味わわせてやる!
はははは……」
彼の呪いの言葉の中の「狼王」が、方源を指していることは言うまでもない。
「えっ!」
次の瞬間、潘平の高笑いは遮られ、恐怖に歪んだ表情が其の顔に凝り固まった。
「何という事だ!出られないと言うのか!?」
傍では常飚も、此の深刻な事態に気付いていた。
元来、両人は来客令で楼内に入り、只だ念じるだけで退出できた。
度重なる出入りで、既に慣れ切っていた筈だった。
然し今、方源が此の階層を掌握し、五角楼主令が来客令を凌駕した為、彼等は籠の鳥の如く、絶体絶命の窮地に陥っていた。
「畜生!此れで如何すれば良い!?
俺の真元は残り三割しかない!」
潘平は叫んだ――其の声には焦りと恐慌が満ちていた。
常飚は顔色を厳しくして、軽く喝した:「落ち着け!」
彼の状況は潘平より少し良く、空窺の中の真元はまだ半分残っている。
しかし真元が完璧な状態であっても、目前の狼群が絶え間なく現われるので、早晩消耗し尽きてしまう。
「此の状況は滅多に無い。
八十八角真陽楼で何故出られないのか?
此の関卡は相当古怪で、多分蛊師の胆力を試しているのだ!
決して怯んではならない!」
常飚は一考した後、又叫んだ。
潘平は其の言葉を聞き、驚惶の情が少し和らいた。
彼は過去の歴史において、確かに古怪な関卡が有り、它が他ならぬ蛊師の心境を試すものだったことを覚えていた。
此等の関卡では、往々(おうおう)にして蛊師が怯めば怯む程、直面する怪物の威力が強まるのだった。
潘平と常飚の二人は強いられて冷静を装い、狼群の包囲網からの突破を試みた。
しかし方源が此の関を掌握しており、所謂迷宮など、彼の心中では一目瞭然、隅々(すみずみ)まで把握されていた。
彼は狼群を自在に操り、極めて軽々(が)と指揮する。
潘平と常飚が如何に突撃しようとも、絶え間なく新たな狼群が現われ、包囲と追撃を繰り返す。
「否、此処で死ぬ訳には行かぬ!
畜生めの狼共、此れでも食らえ!」
潘平は真元が枯渇し、已む無く「六臂天尸王」の殺招を発動した。
彼は八本の腕を持つ僵尸と化し、戦闘力が急激に上昇。
其の到る所で狂瀾を巻き起こし、狼群に甚大な損害を与え、阻む者なき勢いを見せた。
常飚は真元を大切に使い、潘平の後ろについて行き、大きく体力を節約した。
しかし良い状は長く続かず、間もなく潘平の真元は完全に枯渇してしまった。
常飚は慌てて彼を助け出し、言った。
「此の危機に際し、我々(われわれ)が心を一つにし、協力して初めて、逃げ延びる希望が生まれる。
貴様は休み、元石で真元を回復せよ。
我れが守る!」
常飚も亦「六臂天尸王」の殺招を発動し、潘平を堅く守り抜いた。
此くして二人は互いに助け合い、却って局面を安定させた。
其れから七、八日(しち、はちにち)が過ぎ、常飚と潘平の真元は再び尽き、もはや持ち堪えられなくなった。
「我れは果てして此処で死ぬのか?」
潘平は天を仰いで怒号した。
「畜生、必ず出口が有る筈だ!
絶対に!」
常飚は平素の風格を失い、喚き叫んだ。
両者が絶望に陥った其の時、前方の曲がり角に、何と山の如く積まれた元石を発見した。
「元石だ!」
「小山の様な元石、此れ程多く、我が目を疑う!」
絶体絶命の中での思いがけない救い、両人は大いに喜び、残された力を奮い起こして殺到し、元石から真元を吸収して、再び局面を安定させた。
「分かった、分かった!此の関は元より蛊師の耐久力を試すものだったのか!」
常飚は欣喜雀躍の態で叫び声を上げた。
「成程、然り。」
潘平も其の言葉を聞いて豁然として悟った。
両者は大いにはしゃいだが、自身の体に現われた異変に全く気付いていない。
「六臂天尸王」の殺招を発動する回数が増えるに連れて、彼等の体には回復不能の尸斑が浮き上がっていた。
「此の元石の山は、我々(われわれ)が更に二、三ヶ月(に、さんかげつ)は持ち堪えるのに十分だ。」
潘平は元石の小山に飛び付き、嬉しさの余りに涙を浮かべて喜んだ。
「急いで真元を回復せよ。
座して山の空になるを待つべきでは無い。
他にも元石の山が有る筈だ。
渇けば狼の血を飲み、飢えば狼の肉を喰らう。
此の様に耐え続ければ、此の関を突破できるかも知れぬ。」
常飚の双眸は鋭く輝いた。
「常兄、其の言は正に至言なり!」
潘平は躍起になって起き上がり、常飚が描いた光景に顔を紅潮させた。
「此の関は斯くも艱難として、誠に九死に一生を得るが如し。
此の関を打通せば、如何なる厚き褒賞が得られるのか!」
常飚は狼群の攻勢を防ぎ乍ら、長息混じりに言った。
「今こそ理解した。
何故此の関は只だ進むみで退けぬのかを。
安易に撤退できては、如何にして闖关する蛊師を試練できよう。」
哀れなるかな、両人は未だ知らない。
此の元石の小山が、彼等の仇敵である方源が故意に此処に遺したものだということを。
其の目的は、更なる試験の為に、彼等に殺招を繰り返し使用させることにある。
状況は常に方源の掌握の中にある。
仮令両人が殺招を使いたく無くとも、元来の手段で敵に対すれば、方源は狼群を操って猛攻を仕掛け、窮地の状況を創り出し、両人に殺手锏を使わざるを得なくさせるのだ。
方源の此の心配は杞憂であった。
両人は殺招を使えば使う程、次第に手応えを感じ、潜在意識の中に依存心が芽生え始めた。
続く戦闘では、自らの本来の手段を使うことは稀となっていった。
彼等の体に尸斑が濃く現われ、既に身体を深刻に蝕んでいたことに気付いた時、両人は愕然とした。
然し其の時既に、手遅れであった。
「無念である…
此処で果てるとは!
狼王よ、たとえ鬼と成ってでも貴様を追い詰めて見せろ!」
潘平が先に死んだ。
最期の瞬間、彼は方源への呪詛を吐き出した。
数日後、常飚も激戦の果てに力尽きた。
彼は死して瞼を見開いたままだった。
息絶える直前、彼は呻くように呟いた。
「出口は…
果い出口は何処に…」
彼には多すぎる心配事や、未練が多かった。
殺狼同盟はまだ草創期にあり、馬英傑を拉致して仲間に加わらせる謀ごとは始まったばかりだった。最も彼が心を痛めているのは、実子の常極右のことだった。実を言えば、常飚も哀れな人なのである。
名声のため、彼は最期まで実子と認めることができなかった。常極右から「義父」「義父」と呼ばれるしかなかった。
それでもまだ不安で、彼は覆い隠すため、数人の孤児を義子や義女として迎え入れた。その中の一人が、常麗なのである。
彼は苦心孤詣した。潜伏一生、数多の謀略を巡らせておきながら、臨終の際には何一つ見届けられなかった。
彼は無念で、悔恨し、懊惱した。然し如何しようもない。
「一度で良い、彼に『父上』と一声呼んで貰いたかったのになあ……」
此の最期の際の強烈な心の叫びは、遂に一腔の悲憤と遺憾と化り、其の生命の灯が消え去ると共に、無念の内に逝ってしまった。
「第两千三百十一次の殺招発動か。疲労死ではあるが、体に蓄積した尸気が致命的な主因だな。」
虚空にパッと光り、方源が常飚の遺骸の傍に現われた。
彼は微かに笑みを浮かべ、実験は予定通りの目的を達し、問題を発見した——
殺招を使用する度に、所定の時間制限を超えなかったとしても、使用頻度が高すぎると、体に尸斑が生じ、蓄積すると蛊師の死を引き起こす。
潘平にしても常飚にしても、死因は此の問題によるものだった。
方源は両者の体から蛊虫を回収し、自身の物とした。
此の関は完全に方源の支配下にあった為、潘平と常飚は假え蛊虫を自爆させようとしても、不可能であった。
常飚の手には風道の蛊虫一揃いが有り、極めて良質なものだった。潘平の蛊虫も並み優れていたが、現在の方源の眼界と資本から言えば、聊か有るに勝る程度のものに過ぎなかった。
潘平が持つ単刀蛊のみが、収蔵の価値有りと認め、方源は二度ほど視線を留めた。
数日後。
書斎にて、方源は東窓蛊を手に握り、目を閉じて深く思惟していた。
「敵意蛊は敵意を凝造す。
敵意とは、攻勢強猛にして侵略火の如し。
然れども稍寰転に欠け、持続の力無し。」
「鋭意蛊は鋭意を凝造す。
鋭意とは、犀利として擋ぐべくも無く、恰かも刀槍の如し。
然れども剛則ち易く折れ、回復補填難し。」
「恣意蛊は恣意を凝造す。
恣意とは、百無禁忌にして最も氾濫を為し易し。
然れども穩控難く、動くこと屡ば人を傷け己を損なう。」
此の東窓蛊には、比較的に完璧な智道の伝承が記録されていた。
方源は宝黄天から此れを購入し、手元に残る少ない仙元石をすべて支払った。
しかし、それだけの価値は十分にあった。
方源は此れを閲読した後、大いに得るところがあった。
方源は沈思した。
「此の伝承には、十四種の智道蛊虫が記載されている。
其の中で意志に関するものは六種ある。
分別して、敵意蛊、鋭意蛊、恣意蛊、転意蛊、意冷蛊、意乱蛊である。
前三者の作用は、いずれも意志を凝造するもので、各々(おのおの)利点と欠点がある。」
智道は最も神秘的な蛊師の流派であり、博大意深で、星宿仙尊に由来し、太古時代から存在している。
修行者の数は極めて少ないが、今日まで伝承され、経久不衰、万世に渡って繁栄している。
「然らば墨瑶意志は、果たして敵意、鋭意、恣意の何れに属するのであろうか?」
方源が此れらを研究するのは、脳裏に潜む此の巨大な危険因子に備え、対処する為である。
「敵意は火の如く狂猛であり、鋭意は槍の如く犀利である。
恣意は伸張して制御難い。
然るに墨瑶意志は神秘として海の如く、幽玄として飄渺たり。
我れは先に彼女と渡り合った際、力の施しようが無く、恰かも猛拳を棉花に打ち込んだ如き感じであった。」
方源は仔細に分析し、墨瑶意志は其の何れでもないと結論した。
彼が入手した此の伝承は、智道の一片に過ぎず、必ずや他にも多量の智道蛊虫が存在する筈である。
「此の様では、智道に関する情報を引き続き収集せねばなるまい…」
方源はひそかに嘆息した。
墨瑶意志が対処し難い所以は、方源が智道に不慣れであり、彼女の実情や来歴を知らず、手段を施し難い点にあった。
「諺に曰く、彼を知り己を知れば百戦危うからず。
我れは暫らく耐え忍び、一方で彼女に絶えず思考させて自身を消耗させつつ、他方で彼女を利用して真陽楼の探査を助けさせよう。」
思案に耽る中、方源の脳裏に墨瑶意志が微かな輪郭を現わした。
「完成した。
此度の六臂天尸王は、真に完成形となった。
最早何らの不備も無い。」
墨瑶は弱々(よわ)しい口調で述べ、表情は疲労の色に満ちていた。
「此れまでの日々(ひび)の思考が、彼女を大いに消耗させたようだ。」
方源は内心で喜び、修正後の殺招を確認すると、其の喜びは次第に大きな歓喜へと変わっていった。