夕暮れ時、馬英傑は馬鴻運を伴い、常家の宴に赴いた。
宴が終わった後、常飚は馬鴻運を留め、書斎に招いて密談した。
馬鴻運は常麗自ら手厚くもてなすように手配された。
「馬族長、六臂天尸王の殺招に就き、何がお考えでござろうか?」
暫し語り合った後、常飚は話題を殺招へと移した。
馬英傑は殺招を試しておらず、率直に答えた。
「我れは奴道の蛊師、力道は我が道に非ず。
八十九関の褒賞が此の殺招とは、実に失望である。
此の殺招は販売する積もり故、未だ試みてはおらぬ。
如何した?」
常飚は一瞬呆然とし、傍に座る潘平と視線を交わした。
両人は此の如き状況を予想しておらず、然し乍ら実は合理的でもあった。
馬英傑は彼等二人とは異なり、具体的且つ全き奴道の伝承を有する。
其の師匠・馬尊は此の伝承を以て天下を縦横し、一方の雄と為った。
此の伝承の中には既に殺招が含まれる。
其れ以外に、馬英傑は手に雪山福地の蛊仙に由来する強力な殺招――『龍馬精神』を有する。
此れら殺招を修練するので手一杯である。
何故に旁道の殺招を修めねばならんのか?
彼は幼き頃より奴道を修め、只だ奴道を修め上げ(あげ)さえすれば、一方を称霸し、家を振興出来る。
旁道を修めることは、却って精力を分散させるのみである。
「古より、蛊師は一道を主修するもの、兼修の者は稀なり。
精力分散せば、蛇鼠两端にわたり、一事も成さず。
方源が兼修するも、其れは前世の経験の積み重ねあればこそ。
馬英傑は又部族事務を司り、更に余剰の精力無く、何為るに力道殺招を兼修せん。」
「貴公に隠さず申せば、我れと潘兄は此の殺招を試みた。
其の威力の驚異なること、人を動容せしむ。
馬族長の御前にて、僭越ながら吐露する。
此処に至り、常飚は一瞬息を置き、言葉選びを斟酌し、表情には少し躊躇の色が浮かんだ。」
常飚は誠実な眼差しで馬英傑を見つめ、やや赤面した様子で言った。
「何卒馬族長には、此の殺招の件は秘密にされ、外へ漏らさぬよう。
対外的には、関突破の褒賞は他のものだったと宣伝して頂きたい。」
常飚は意図的に言葉を曖昧にした。
馬英傑は聡明な人物、目がきらりと光り、突然合点がいった。
「成程!
常飚は嘗て常家の族長であり、今は大長老の座に就いている。
現族長は其の義子・常極右だが、真の実権者は狼王・常山陰である。
常飚が此の殺招を手にし、秘密にしたいのは蛊師として当然である。
然し一つの関隘が存在する——
万一常山陰が風聞を耳にし、彼に要求して来ら、其の時は必ず上納せねばならないのだ。」
馬英傑は潘平と常飚の表情と言葉遣いから、
六臂天尸王の殺招が並ならぬものであることを悟った。
人は誰しも私心有るもの、此も重宝を得て、誰が甘んじて上納せん?
此の点、馬英傑は痛い程理解していた。
馬英傑の目が光るのを見て、常飚は続けて言った。
「他の者たちには、既に一通り(とおり)口を利いてある。
此の点は馬族長ご安心頂きたい。
此れから先の関卡には、未だ馬族長の御力が必要なのです。
はははは。」
馬英傑は表情を厳かにして言った。
「常飚様、お言葉過ぎます。
馬某、其の力限り有りと雖ども、諸兄の強者と協力出来ますことは、互恵共贏の幸い。
此の件は常飚様の仰る通り(どおり)に致します。
異存は御座いません。」
馬英傑が承諾するのを見て、常飚と潘平は共に笑顔を咲かせた。
「はあ、何の『大人』不『大人』とお呼び立てくださいますやら。馬族長、私の名でお呼びくだされば結構でございます。」
潘平は機に敏に、即座に関係を縮めようとした。
潘・常の両人は馬英傑を賊船に引き込もうとし、馬英傑も部族を発展させる為常家や黒家の助力を当てにしていた。
三人共に意を曲げて相手に媚び、直ちに呼び方を改め、互いに兄弟と呼び合うようになった。
三人は書斎で夜半まで語り合い、大いに盛り上がった。
三更近くになり、馬鴻運と常麗の婚約を取り決めた後、三人は漸く別れを告げた。
「常兄、見事な御手だ。
此の縁組で、馬英傑は常兄と縁を結んだ。
将来、狼王と対峙する時、馬英傑が全力を尽くさぬ道理が無かろう。」
扉を閉めた潘平は高笑いした。
然し常飚は微かに首を振る。
「馬英傑と云う男は、欺き難く、且つ柔軟に適応する。
危機に際しては、壮士腕を断つが如き決断力を持つ。
今は未だ彼を招き入れる時では無い。
然れど、我々(われわれ)が彼と友好関係を結び、世間に其の親密さを知らしめよ。
少しばかりの資源を投じ、馬鴻運を支援し、馬家への支配力を強めよ。
将来、常山陰に宣戦する時、怒れる常山陰が馬家を敵と見做えば、馬英傑は部族を守る為に、我々(われわれ)の船から下りられなくなるのだ。」
王庭福地の夜、銀の輝きが穏やかに降り注ぐ。
車中、馬英傑と馬鴻運は向かい合って座っていた。
「鴻運よ、此奴は実に幸運者だ。
常麗お嬢様のご寵愛を得るとは。
ははは、我れは既に常飚様と話を纏めた。
来月の朔日が、貴様と常麗の佳き日と決めた。」
馬英傑は微笑みながら言った。
「はあっ?」
此の報せに、馬鴻運は呆然とした。
「其方の忠誠は、我れ目に焼き付けておる。良きかな。
此れは其方へ与える褒賞である。」
馬英傑は感慨深く息をつき、馬鴻運の肩をポンと叩き、空窺から三匹の赤鉄舍利蛊を取り出した。
「こ、これは……」
馬鴻運は驚き、呆然として三匹の赤鉄舍利蛊を受け取った。
「常麗お嬢様とご縁組あらせられる以上、相応しき実力と身分なくしては、我が馬家の名を貶めることになる。
此の三匹の赤鉄舍利蛊を使い果たせば、二転の頂点に登れよう。
其方の素質ならば、三転へ昇るも難事ではあるまい。
我れ今此処に、其方を仮の長老に任じ、部族の雑務を司らしむ。」
馬英傑は宣う。
「はあっ!?」
馬鴻運は目を瞠り、呆然と眼前の馬家族長を眺めつづけた。
彼に取って、此の嬉ばしき驚きは余りに重く、余りに突然であった。
馬英傑は故意に顔色を曇らせた:「未だ跪いて恩に謝さぬか?」
馬鴻運の頭の中は混乱していたが、体は無意識に地面に跪いた:「大人のご提拔、感謝いたします!」
「ふむ、良く励め。」
馬英傑は幾つか励ましの言葉をかけたが、心は遠くに飛んでいた。
「六臂天尸王の殺招は、威力驚異的と見受ける。
潘・常らが此くも重視する由、又多くの力道修為を要せず。
然ば我も試み見ては如何がなものか?」
八十八角真陽楼、中枢室。
「墨化!」
方源の眼中鋭く光閃き、口にて軽く喝し、両手を猛力に押し下した。
瞬く間に、空中に無数の蛊虫が雨の如く降り注ぎ、落下途中で急速に融合し合った。
砂盤に落ちる頃には、点々(てんてん)と墨滴と化っている。
墨汁は瞬時に蓄積し、再び砂盤全体の表面を覆い尽くした。
やがて一つの隙を見つけ出すと、渦状の穴を形成し、次々(つぎつぎ)と其処へ集結し始めた。
方源の脳裏で、墨瑶意志は此の光景を満足気に評価する。
「良し。我れが貴様に授けた此の煉道手法――『驟雨』は、もはや熟達の域に達した。
此の手法を用いれば、煉蛊の過程を少なくとも三割短縮でき、更に二割以上の効果向上も期待できる。
我れとて、此れ以上教えるべきことは無い。
今後は只だ一つ、肝に銘じよ――『驟雨』の真髄は“驟”の一文字に在り。
然れど、只だ速さを求めるばかりではならぬ。
全過程を通じ、全精神を傾けねばならない。
故に、此の手法を度々(たび)用いるべからず。
用い過ぎれば、軽くは精神恍惚、眩暈を催し煉蛊を失敗する。
重くは魂魄損傷、記憶喪失に至り、呆け者と化すのだ。」
蛊を煉ることは危険を伴い、激戦にも劣らぬ。
此の点、方源は早くから熟知していた。
彼は墨瑶の指摘に耳を傾けつつ、整然として乱れず、手にした楼主令を墨液の渦の中へ投じ入れた。
瞬く後、墨液は消耗し尽くし、楼主令は悠々(ゆうゆう)と飛昇し、再び方源の掌の中へと戻ってきた。
方源が凝視すれば、此の時の楼主令は、既に五つの角を備えていた。
此れは即ち、墨化が五度実行されたことを意味する。
然し、何やら些か奇怪である。
方源は仙元石が欠乏しており、最早墨化を一度行うのが精一杯である筈であった。
然るに、何故か三度も余計に墨化を施行していた。
其の訳はこうである。
方源は一角楼主令を掌握して以来、権限が向上し、一角楼主令を通じて、八十八角真陽楼の何層であれ、各関卡の褒賞内容を詳細に知ることを得たのである。
此の情報を獲た方源は、躊躇することなく、直ちに其中の一層を選定した。
其の層こそ、第七層であった。
一角楼主令は、蛊師に八十八角真陽楼の何れ(いずれ)か一層を掌握せしめる力を有つ。
第七層は既に蛊師たちの協力により、第八十九道関卡まで打通されていた。
然るに、方源は何故他では無く、敢えて此の層を選んだのか?
其れは、此の第八十九道関卡の褒賞が、実に仙元石五顆であっ たからに他ならない。
方源は密かに潜入し、楼主令を以て此の層を掌握した。
常飚、潘平、馬英傑らが此の関を打通するや、方源は巧みに之を接収し、密り五顆の仙元石を押え込み、削減版の数套の六臂天尸王を褒賞と偽り、各人の空窺へと送り届けた。
正版の六臂天尸王は、借力蛊を核心とし、六大飛僵蛊を支柱とし、其の余の蛊虫を以て補助と為す。
方源と墨瑶意志の修改を経て、彼等の手に渡された殺招は、核心を霸王蛊で代用され、其の威力は大きく減退していた。
飛僵蛊は揃ってはいるが、其中の地魁尸蛊は旧版の蛊虫であり、墨瑶が改良した蛊方ではなかった。
更に重要なことに、其の他の補助蛊虫にも削除や変更が加えられ、心意蛊などが追加され、密かに常飚や潘平らによる使用感を収集できるようになっていた。
此のようにして、相手に褒賞が密かに改竄されたことを疑わせないばかりか、進んで方源の為に殺招を試験し、不足点を見つけ出してくれるのである。
「時間を計算すると、殺招の褒賞を配布してから、一ヶ月半が過ぎた。
漁を仕掛けて網を揚げる頃合だ。
どう思う?」
方源は相談する口調で、脳裏の墨瑶意志に問いかけた。
墨瑶は沉吟して言った。
「時間は長からず短からず、まず二套を回収し、結果を見るとしよう。」
方源は五角楼主令を握りしめ、心を動かすや、第七層の第九十関卡に二人の見覚えのある影を発見した。
他ならぬ常飚と潘平である。
二人は疾走している最中だった。
潘平は走りながら、常飚に向かって叫んだ。
「此処に来てから、既に七日になる。
此処の時間の流れは、王庭福地よりも速いというのに。
我々(われわれ)の速度で此れだけ走れば、数十万里は優に超えている筈だ。
然し見えるものは城壁ばかりで、また城壁だ!」
疾走する常飚は頷き、風が彼の衣の裾をひゅうひゅうと鳴らしていた。
「此処では天を飛ぶことも、地に潜ることも出来ぬ。
此の城壁で鋳固められた道を辿るより他に無い。
此処の道は四方八方に通じておるが、我々(われわれ)が此れ程歩いても、一頭の怪物にも出会わぬ。
明らかに此の関は、蛊師の偵察と移動の能力を試すものだ。
此の関は実に巨大な迷宮なのである。」
両人の見立ては正しかった。
此の第九十関は、正に迷宮であった。
常飚の推測の如く、蛊師の偵察能力と移動能力とを試すものだった。
然し方源が第七層を掌握し、今此の二人を発見した以上、一切が変わってきた。