「殺え――!」
「畜生、又も万獣王か!」
広大な砂漠には灼熱の空気が渦巻き、視界が歪む。
黄金色の砂の海から、無数の沙虫が絶え間なく湧き出でる。
蛊師たち(こしたち)は、わずか一座の砂丘に縋り付くようにして、必死に防衛線を張っていた。
此処は八十八角真陽楼第七層、第八十九関卡である。
各関卡は皆、別々(べつべつ)の小天地であり、様々(さまざま)な試練が待ち受ける。
一頭の沙虫万獣王が戦場に現れた途端、蛊師たちの防衛線は揺らぎ始めた。
「耐え抜け! あと三刻だけ耐えれば、此の関を突破できる!」
単刀将の潘平が声を張り上げ、士気を奮い立てた。
彼は魔道の出で、今や正式に黒家に帰依し、黒家の外姓家老と為っている。
其の個人の戦闘力は極めて優れているが、此の関が試すは防衛戦である。
挑戦者は特定の砂丘で六刻の間耐え忍ぶことを要求される。
海の如き沙虫の攻勢に直面しては、蛊仙で無い限り、凡人の個人の力は無に等しく、故に挑戦者の数は多ければ多い程良い(よい)。
然し潘平の言葉は、殆ど効果が無かった。
戦い此の時に至り、蛊師たちの被害は甚大で、疲労困憊し、既に限界寸前である。
「ちくしょう、また万獣王か! これじゃやってられねえ!」
大胡須は顔の血と汗を拭い、奇声を上げた。
其の本名は知る者も無く、隻だ濃密な鬚の故に、人々(ひとびと)から「大胡須」と呼ばれていた。
先の関突破に於いて、彼は第六層第十八関を破り、名声を揚げた。
無名の存在より、今や小さな名声を博するに至る。
元は二轉の蛊師に過ぎず、聖宮に投げ出せば見付け難い、端役でしか無かった。
然れど關破りの褒賞と為り、三轉の境界へと躍進した。
蛊師は三轉に至れば、一線を画す。
二轉は尋常なりと雖ど、三轉は稀有にして、往々(おうおう)にして家老・長老の地位を得る。
大胡須が三転に至るや、境遇は瞬時に好転する。
高品質の真元が其の戦力を押し上げ、戦力の向上が更に豊かな戦利品をもたらした。
然るに止まらず、数多の中型部族が彼に橄榄枝を差し伸べる——
小型部族は外姓家老を容れも養いもできず、大型部族は未だ彼を眼中に置かぬ故である。
「此の関は第八十九である。
若し突破せば、褒賞は計り知れぬ!
我々(われわれ)の如き者が直接得ることは叶わぬが、此の任務の報酬だけで、二匹の三転蛊と換えられる。」
大胡須は然る想いで、胸中熱くする。
彼は奮戦し乍ら、砂丘の頂上に在る数名の大人物を窺う余裕さえ見せた。
正に其の者達が、任務を発布し、千に近き蛊師を召集して、此の難関に挑ませているのである。
沙虫万獣王が防衛線に突入し、瞬く間に激戦が爆発した。
金色の光、矢の雨、炎の如き様々(さまざま)な攻撃が万獣王に集中する。
万獣王は全身の甲羅を黄金色に変え、防御力を大きく向上させ、此れら猛攻を悉く(ことごとく)防ぎ切った。
其は咆哮を繰り返し、人群に躍り込み、腥風血雨を巻き起こす。
常飚は砂丘の上に立ち、眉を強く顰めた。
「情況は厳しい。
此の万獣王の体には、何と五転の黄金甲蛊が宿っている。
此の儘暴虐を許せば、防衛線は遅か早か完全に崩壊するだろう。」
戦い此の時に至り、此れは第九頭目の万獣王であった。
寄生する野蛊の違いにより、万獣王間の戦力差も生ずる。
此の万獣王は、優秀な防御蛊を有するが故に、特に手強き敵である。
群攻の効果は限界有り。
斯かる状況に際しては、通常、蛊師の強者自ら出でて手を下さねば効果が無い。
所謂る「兵は兵に対し、将は将に対す」の理である。
常飚の言外の意も、正に此処に在り。
馬英傑は其の傍らに站ちて、此の時衆を押し分けて進み出で、声を上げた。
「然らば、我が手を下さん。」
異議を唱える者は一人としていなかった。
万獣王が現れるや、衆人は順番に出手す。
此れは当初に協定ずみの事。順序に従えば、丁度馬英傑の番である。
流石は馬英傑、自ら出手し、天馬群を統率して、難無く沙虫万獣王を食い止め、瞬時に局面を安定せしむ。
「小馬尊とくに凡響にあらず。」
砂丘の上、人々(ひとびと)は口々(くちぐち)に賞賛する。
「常兄、馬英傑を如何に觀る?」
潘平は密かに伝音す。
馬英傑は嘗て馬家の少族長たりしが、師は馬尊に就く。
然るに馬家敗北し、黒楼蘭に強いて臣従を迫らる。
今や馬家は盛極にして衰え、只だ中型勢力に過ぎず。
常飚は潘平の言外の意を察した。
彼は馬英傑を「殺狼同盟」に引き入れ、方源に対抗する戦力としたいのである。
「殺狼同盟」とは、方源に対処する為の秘密組織である。
潘平は星鷲峰にて方源に伝承を奪われしが故に、深く恨み、報復を企む。
常飚は常山陰に妻を奪われし怨念より、不倶戴天の敵と為す。
方源の勢いは比ぶるもの無く、黒楼蘭と対等に渡り合う。
潘平・常飚の両人は、八十八角真陽楼にて多くの利得を得、今や四転巔峰に到達せり。
然れど方源に対抗するには、成功の可能性は低きを知り、故により多き強力な協力者を要する。
常飚の沈吟を見て、潘平は続けて言った。
「馬家の惨敗は、主因は常山陰に在り!
馬英傑の師匠・馬尊は、彼の手に掛かって斃れた。
彼と常山陰との間には、深淵の如き怨念が横たわる。」
然れど常飚は微かに首を振り、伝音で答えた。
「否。馬英傑は堅忍不抜の人にして、一代の英雄なり。
我が見る所、彼は今、一心不乱に部族再興に努め、馬家の盛況を再現せんとす。
部族を振興せんと欲すれば、彼は決して狼王に逆わず、寧ろ彼と友好を結ばんとすべきである。
狼王の勢いは強大なり。我々(われわれ)が殺狼同盟の優位は、暗処に在るに在り。
安易に外部の者を招けば、一つ処置を誤れば、我が身を曝すこととなる。」
潘平は引き下がらず、熱心に説得を続けた。
「常兄、大事を成さんとする者が、前後を見過ぎてはならない!
常山陰こ奴は万の狼を従え、戦いとなれば我々(われわれ)の力は狼群に大きく削ぎ落とされよう。
其れに奴は高絶なる力道の修為も有す。
馬英傑は馬群を統べ、小馬尊と称され、大師の素質有り。
此の如き強者こそ、狼群に対抗するに必要なる人材では無いか!」
常飚は一瞥し、心中に不快を覚えた。
潘平は元魔道の蛊師にて、単刀将と号し、行動は忌憚無く、大胆不敵にして苛烈なり。
然れど常飚より見れば、其れは無謀にして無思慮、大事を謀るに足りずと映る。
実を言えば、潘平も亦不満有りであった。
彼から見れば、常飚の行動は臆病で、前後を顧み過ぎ、英雄豪傑らしからず。
此れは両者の性格の相違である。
常飚は陰忍の性格で、当年常山陰を謀るにも、人を刃と借りて殺めし。
又名誉を惜しみ、多年を経た今も、常極右が実子なることを敢えて認めず。
一方潘平は、彼が王庭之争に於いて軍陣を縦横し、呼嘯して突撃する姿を見れば、其の本性を窺い知るべし。
然れども相違有ると雖ども、潘平と常飚は互いに容忍し合っている。
彼等は心底よく知っている、狼王は一人で対処できる相手では無いことを。
「潘平は魔道の出身、何して我々(われわれ)正道の者の心を知ろうぞ!
馬英傑を勧誘しようだと? ふん、夢も思いも寄らぬことよ!
今殺狼同盟のことを打ち明ければ、其の瞬間に、馬英傑は狼王に売り渡して忠誠を示すだろう。
ああ、如何にして彼を説得すべきか……」
常飚は心中で嘆息した。
然れども彼は多智の士、直ちに一計を案じ出だした。
伝音して言う。
「潘兄、常山陰が馬尊を殺めたるは事実なれど、忘るるな、馬英傑の父・馬尚峰が誰の手に掛かり斃れたかを。」
「うっ……」
潘平は呆然とし、表情が凝固した。
馬尚峰は、潘平が乱軍の中で斬り殺したのである。
潘平は其の功績で大功を立て、多くの褒賞を得ていた。
当時の功績が、今や復讐の妨げとなるとは、潘平の予想だにせざる所であった。
然し潘平は頑固な性分、再び口を開いた。
「彼の父を討ったのは事実だが、其れは両軍交锋の果て、各々(おの)が其の主に尽くしたまでのこと。
常兄が言う様に、馬英傑が部族を最優先とするなら、其の判断を信じよう。
然らば、我々(われわれ)は此の点に着目して策を練ろう。
馬英傑に、狼王の存在こそが部族再興の最大の妨げだと思わせさえすれば、それで良いのでは無いか?」
此の言葉に、今度は常飚の番で呆然と為った。
彼は再び潘平を一瞥し、心中で想う。
「果して『智者千慮必ず一失有り、愚者千慮必ず一得有り』だ。
此の潘平にも、たまには利発な閃きが有るものだな。」
常飚は心の中で電光石火の如く思索を巡らせる。
「然り、此の事は確かに成功の可能性有り。
馬英傑の弱点は、正に馬家部族に在り!
然れど、如何にして策謀を巡らせば、馬英傑を心甘くして殺狼同盟に加わらしめ得るか?」
常飚が此れを想い到った時、突然一つの思いが浮かんだ。
彼は以前の小さな情報を聯想したのである。
其の目は、自ずから左側の防衛線へ向けられた。
其処には、二轉の若き蛊師が居る。
「彼が馬鴻運である。元は馬英傑の側近たる奴僕長にして、今や馬英傑が最も信頼する腹心の一り。
此の前、狼王が地魁獣群を狩りし時、馬鴻運は危うく逃れ得、少なからぬ収穫を納めたり。
其れを馬家に献上するや、馬英傑は直ちに三枚の青銅舍利蛊を賜い、其の忠誠を賞めたたえ、更に献上せし蛊虫を一つ残さず返還せり。」
「此奴は実に運が好い!
常家や葛家の蛊師が戦場に進出する前に、難無く脱出した。
青銅舍利蛊は高価なるも、馬家は衰退し、人心は離散せる。
馬英傑自身は青銅舍利蛊を要せず、故に千金馬骨と為し、模範を樹立せんとす。」
「馬鴻運は最も必要とする青銅舍利蛊を得、一晩で修為を二転に躍進せしむ。
其の速さは、我にすら及ばざる程なり。」
常飚は此れを想い至り、少し運命の神秘に感慨せずにはいられなかった。
馬鴻運と比べれば、常飚の出身は遥か高貴で、多量の資源供給有りき。
然れど其れで雖も、常飚が二転に達するまで要した時間は、馬鴻運の数十倍に及んだのである。
「何れも青銅舍利蛊が自然に生育し、極めて稀で、且つ産地も異なるが故なり。
八十八角真陽楼の賜物に頼り、馬英傑が関を突破し得た褒賞に依るものなり。」
「馬鴻運の小僧、常山陰の隙に乗じて立身出世したわけだ。
以前、常山陰は常家と葛家の蛊師を動かし、甘い汁を吸おうとした蛊師を大勢逮捕させた。
若し此の情報を告発したら、如何なるか?」
常飚は沈思する。
「否……只だ一りの馬鴻運、取るに足りぬ二転の小さな存在が、常山陰の眼中には蟻以下の如きだろう。
其の重みは未だ軽く、例え告発しても、馬英傑が取るに足らぬ馬鴻運の為に、常山陰に対して矛先を向けようとは思わぬ。
此の件は、未だ策謀を練り、時機を待たねばなるまい……」
三刻の後、砂丘の上歓呼の声が天を震わす。
「勝った、勝った!」
「容易ならざるかな、遂に此の関を打ち通したぞ!」
「此の関の褒賞は、何なるやら?」
数多の好奇の目が、常飚、潘平、馬英傑等の上に集う。
此の関を破るや、常飚等の空窺の中に、多くの蛊虫が現れた。
其の内一つの東窺蛊の中には、情報が納められている。
「六臂天尸王?」
常飚、潘平、馬英傑等は探り合い、顔を見合わせた。
彼等の表情は一様では無かった。
想いも寄らぬ、力道の殺招の褒賞とは!
内容の記述に依れば、此の殺招の威力は絶倫と云うべし!