方源は再び中枢室に足を踏み入れた。
名が示す如く、中枢室は八十八角真陽楼の心臓部となる要地である。
密室は円形を成し、星々(ほしぼし)の輝きを放つ壁が一巡し、中央には白玉の円卓が立っていた。
円卓の上には精巧な模型が築かれており、戦略沙盤の如く、王庭福地の全容を再現している。
山川や河流は勿論、中央に聳える聖宮、更には福地内に散在する無数の小塔までもが鮮明に識別できた。
「又此処に来たのだな」
脑海の中で、墨瑶の意志が感懐混じりに呟いた。
方源は彼女に構わず、白玉の円卓へ視線を向けた。
八十八角真陽楼に侵入して以来、彼はまず来客令を利用して上級クリアを達成し、秘蔵閣へ到達した。次に来客止步碑を煉化して琉璃楼主令を入手、更に其の令で中枢室へ到達したのである。
しかし地丘の継承を得た為、彼は真陽楼攻略を一時中止し、招災仙蛊の煉成を選んだ。
総てを合わせれば、地丘の継承には良し悪しが存在する。
方源は仙蛊を手にしたが、其の効果は特殊で、己を損なって他を利するものだった。
更墨瑶の意志が脑海に潜み込み、尾大不掉の如く内患重畳である。
但し、墨瑶の意志が此れら日々(ひび)方源に与えた指摘は、彼に少なからぬ収穫をもたらしたことを認めねばなるまい。
煉道の心得は別としても、只だ六臂天尸王・墨化と云う殺招、改良された地魁尸蛊の蛊方のみでさえ、極めて大きな価値が有る!
此れ以外に、更に一つ大きな利点が存在する。
其れは方源が八十八角真陽楼を謀らんとする際、大いなる役に立つと云う点である。
何となれ、墨瑶は煉道宗師にして、八十八角真陽楼に対する研究も深く、当年王庭福地に潜入し、欠陥を仕組み地丘の伝承を打ち立てた伝説的人物なのである!
方源には前世の記憶があり、中洲の蛊仙が八十八角真陽楼を攻略する影像を有し、更には琅琊地霊から得た第一級の貴重な資料を持つ。
今また墨瑶という強力な支援者を得た。
此度の来訪に、彼は満腔の自信を持っていた。
然し直ちに、其の視線は微かに止まり、驚きの声を漏らした。
彼は鮮明に記憶している、元々(もともと)円卓の沙盤の上には、粘々(ねばねば)とした黒い液体が張り巡らされていた。
黒液は渦を巻き、沙盤の中のあなに向かって緩やかに流れ込んでいた。
其のあなは、他ならぬ地丘の伝承の在る場所であった。
然るに今、沙盤の上から墨汁は消え、地丘に対応する其の地点も完全に回復し、少しの破綻も見えなかった。
此の如き情景は、恰も方源の自信へ叩き込まれた強烈な一撃の如くであった。
彼が心中で動き、推測し始めた刹那、脑海の中の墨瑶意志は既に其の意を察し、軽やかに笑い出した。
「得る所有れば必ず失う所有り。小弟、君は既に地丘の伝承を手にした。八十八角真陽楼の威能をもってすれば、必ずや以前の欠陥を修復し、地丘の穴は埋められ、新たに小塔が建てられたことであろう。」
「欠陥が無くなっては、如何にして琉璃楼主令を一角楼主令に煉成すれば宜しいか?」
方源は教わり求めた。
「欠陥が無ければ、新しく作り出せばよい。」
墨瑶は傲然と笑った。
「何故私が君に煉道殺招『墨化』を伝授したと思う? もう察しているだろうが、其の通り、君が以前見た沙盤を覆った黑液は、正に墨化殺招の成せる業だ。」
「欠陥が無ければ、打ち出せばよい?」
墨瑶の言葉は、煉道宗師としての気魄に満ち、方源の眉を微かに上げさせた。
言葉で言うは易いが、如何にして欠陥を打ち出すか?
少なくとも煉道大師たる方源に、其の能力は無い。
墨瑶は続けて言った。
「欠陥も場当たりに作れるものでは無い。無闇に選べば、眠る巨陽意志を覚ましてしまう。意志が目覚めれば、我々(われわれ)は死して葬る場所も無くなる。
幸い、八十八角真陽楼は長い歳月を経て、完璧さは失われ、時の流れが様々(さまざま)な瑕疵を生んだ。
当初私が土丘を選んだのは、最大の瑕疵が有ったからだ。」
「成程。」
方源は肯き、心中で密かに喜んだ。
墨瑶意志は、恰も源無き水の如く。
瑕疵や破綻を探し求めれば、必ず多量の思索を要し、其れが彼女に巨大な消耗をもたらすのだ。
然し墨瑶は、方源の思惑通りには動かず、
「小弟、私の指示に従い、心神を込めて沙盤に探り入れよ。
八十八角真陽楼の運転の奥秘を教え、欠陥を探る手助けをしよう。」
と告げた。
「承知した。」
方源は目の光を一つ閃かせた。
墨瑶の此の行動も、彼の予想の範疇を出てはいなかった。
彼女は自らを惜しみ、自ら思索せずとも構わない。
方源は丁度此の良機に乗じて、密かに師の技を盗み学び、八十八角真陽楼への理解を深めようとする。
八十八角真陽楼の奥妙は凡庸ならざるものがあり、方源が心神を沙盤に探り入れるや、恰も小舟が大洋に置かれたが如く、只浩瀚として果てしなく、測り知れぬことを感ずる。
一角一邊も、皆深く思索し借鉴する値打ち有り。
当面、彼は己の渺小さを痛感し、観るもの皆驚嘆せざるを得ず。
墨瑶の指摘に従い、方源は前後五十四箇所の瑕疵を発見し、其の中十三箇所は較も大きく、破綻を形成して、当初の地丘に匹敵するものであった。
此の結果に、墨瑶は大いに感概せずにはいられなかった。
「光陰矢の如し。あれから此れ程の歳月が流れたのか。
八十八角真陽楼と雖ども、光陰の長河に削られずにはおられぬ。
思い起こせば、当時私が見つけ出した瑕疵は三十八箇所、破綻は六箇所に過ぎなかった。」
一息置いて、彼女は再び方源に指し示した。
「小弟、次は殺招『墨化』を以て、此れら数箇所の破綻を煉化せよ。」
方源は其の言に従い、心念頻りに動かし、空窺から八百余匹の蛊虫を飛び出させた。
此れら蛊虫は一転から五転まで様々(さまざま)で、金・木・水・土・律・魂・血等諸道に涉り、其中では暗道が主であった。
此れらは凡蛊と雖ども、中には十数匹の蛊虫が、中古期に既に絶えて、或いは遠古期にまで遡る稀有なものばかりである。
故に極めて稀覯で、現今五域では完全に絶跡し、唯一部の蛊仙が所蔵するのみである。
方源が此れら蛊虫を調達するには、莫大な費用を要した。
少なくと見積もっても、一塊半の仙元石を投じている。
仙元石の価値は極めて高く、直接蛊仙の仙元を補い、修行を助ける。
同時に蛊仙間取引における基軸通貨である。
例え方源の前世の全盛期と雖ども、蓄積した仙元石は六十余塊に過ぎなかった。
今生、狐仙福地を手にした後の最高記録でも、十二塊が関の山である。
現今、彼の手元に残るは二塊のみとなった。
如何ともし難い。余りに多くの事柄が仙元石を必要とする。
狼群の購入、智道関連情報の収集、蛊虫の買い集め等々(などなど)、何もかもが仙元石を必要とするのだ。
千匹近くの蛊虫が空中を舞い、蜂の群れの如く、又花吹雪の如し。
方源は精神を凝らし息を殺し、指揮と調整を続け、遂に時機成熟を見て軽く喝した。
「墨化!」
蛊虫は一団の黒雲と化わり、雲中から雨滴が墜ち、沙盤を打ち鳴らす。
其の一滴一滴が墨滴と化り、沙盤上に落ち積もる。
墨滴は少なりと雖も積もって多しと為り、漸次に沙盤表面を覆い尽くす。
方源は心神を高く集中させ、其の内一つの破綻を目指し、墨液を駆り立てて衝き進ませた。
五転巔峰の空窺の中、真元は急激に減少し、墨液も大半を消費した。
辛うじて一層の微かな障壁を突破し、漏洞の渦を形成して、沙盤の破孔へ緩やかに注ぎ込まれた。
此の情景を見て、墨瑶は言った。
「手にした琉璃楼主令を、其の中へ投じ入れよ。」
方源は其の言に従い、琉璃楼主令を投じ込んだ。
琉璃楼主令は墨液の渦の中に沈み、姿を消した。
墨液の消費速度は突然加速し、約半刻後、黒雲が先ず消散した。
二刻後、墨液は完全に消失し、一枚の全く新しい楼主令が、破綻から悠々(ゆうゆう)と飛び出してきた。
方源は手を伸ばし、其れを掴み取った。
楼主令は様変わりし、元の形状の基に、縁に鋭い突起が一つ形成されている。
恰かも独つ角の如き形である。
「一角楼主令、実に形の如き名なり。」
方源は独り呟いた。
「八十八角真陽楼に於いて、巨陽仙尊の後裔が一階層を攻略すれば、楼主令は一角楼主令に昇格し、当該階層への支配権を獲得する。
同時に、秘蔵閣へ進入し、其処の珍宝を一つ、交換無しで奪取することが許される。
若し十階層を打通し、楼主令を十角楼主令にまで昇進させれば、秘蔵閣から巨陽真伝一つを持ち去ることを得る。」
墨瑶が説明を続けた。
「巨陽真伝だと?」
方源の心臓は高鳴った。
墨瑶は話し続けた。
「然り。巨陽仙尊は子孫の為を謀り、王庭争闘の規矩を定め、八十八角真陽楼を設立し、楼中に八十八道の真伝を遺した。
仙尊の真伝は、自然ながら並ならず。
然れど歴代の王庭勝者で、十階層を打通し得し者は極めて少ない。
我が生前の頃、八十八道の真伝は未だ五十三道が残留せり。
今は幾何が残るや、知る由も無し。」
「呵呵呵、此処まで話せば、妾も君の運不運を羨まざるを得ぬ。
我々(われわれ)が発見した破綻は、総計十三箇所。
各箇所を墨化すれば、各々(おのおの)一角ずつ晋升す。
若し君が其れを全て(すべて)活用すれば、十三角楼主令を手にし、巨陽真伝の一つを確実に奪取し得る!
噫、我が当初の六箇所のみとは、大いなる差ありて。」
方源は此の言葉を聞き、熱く燃えていた心が冷たい水を浴びせかけられた如く、苦く笑った。
「全て(すべ)ての破綻を利用するですって? 正直に言えば、私の手元の仙元石は残り二枚のみ。
あと一度墨化殺招を発動させるのが精一杯です。」
「さようであるか?」
墨瑶の目の中に一筋の光が走った。
方源が彼女を探っている間に、彼女も亦方源を探っていたのだ。
仙元石は蛊仙を測る重要な基準の一つである。
方源が未だ凡人と雖ども、狐仙福地を擁する事により、墨瑶の心中では既に半人前の蛊仙と見做されていた。
「成程、此奴の手元には仙元石が二ツ(ふたつ)しか無いのか?
此の言葉は真実なるか?……恐らくは真であろう。
巨陽真伝の偉力は、常人が抗い得る代物では無い。
彼は煉道大師、自然と知る筈だ——煉化する破綻が多ければ多い程、高次の楼主令を掌握し、八十八角真陽楼攻略が容易になることを。
最も重要なのは、我れが其の脑海に潜伏している以上、例え彼が我れを背いて密かに煉化を試みようとも、叶うべくも無いことよ。」
「次に、彼は背後の勢力に支援を求めるであろう。
ふん、例え此の小癪な小僧が如何に深く隠そうと、其の時こそ、其の素性を露わにし、我れに一端を覗かせずにはおくまい。」
然も墨瑶は、顔色を和らげ、親身に方源に助言した。
「焦る事は無い。楼主令同士は互いに併合が可能だ。
今期の盟主・黒楼蘭が持つ楼主令を併合すれば、十角を揃える事も可能であろう。」
流石は墨瑶、知る機密の多い事。
方源は目を据え、声をわざと張って言った。
「我れに黒楼蘭へ手を出せと? 此の身を死地へ追いやる気か?
黒楼蘭其の者は対処し易くとも、其の背後には黒家が控える。
超大勢力たる彼等には、複数の蛊仙が後見に付いているのだ!」
「ふん、此奴は図太いにも程がある。
身分を偽装し王庭に潜伏する胆力有りながら、たかが黒楼蘭一つ恐れるとは?
況して、彼を殺せとは言わぬ。只だ其の手にある楼主令を手に入れよと述べたまで。」
方源は目を一転らせて言った。
「黒楼蘭を殺す訳にはいかぬ。彼を殺せば、蜂の巣を突いた如くなり、黒家は今の我れが敵う相手では無い。
然れども、楼主令は彼の手中に在り、必ずや命の如く大切にしているであろう。
如何にすべしと?」
「『今は敵わず』とは、将来は必ずしも然らずと云う意味か?
此奴の野望、中中大きいな……」
墨瑶は鋭敏に言葉の鍵を嗅ぎ取った。
方源の提じた難題に對して、彼女は余り思索を重ねるを好まず、
方源の脑海の中で両手を広げて言った。
「如何にして其の手から楼主令を奪い取るか――それは貴様自身の問題である。」