狼群の過ぎ行く跡、巨浪の巻き席うつが如く、福地の山河は血で洗われた。
方源は淡々(たんたん)とした表情で、天青狼王の背に端座し、脚下で繰り広げられる無情な殺戮を宛か眼中に無きが如くに見ていた。
脑海の中、墨瑶の意志は微かに眉をひそめた。
彼女は霊縁斎で育てられた一りの仙姫であり、正道の人間である。
方源が軽々(かるがる)しく大きな殺生を働くのに対して、然るべく歓喜を感じる筈が無い。
「此の少年、能く偽装して身分を隠し、北原の蛊仙の目の前で王庭福地に潜入するとは、実に悍勇な鷹鳩のごとき人物だ。
又能く我が伝承の手掛かりを解き、仙蛊を煉成するとは、縁有り、且つ手段非凡なり。
更に能く伸び能く屈し、事為すべからざるを知れば即ち妥協するとは、城府深し!
果たして何なる由来の人物なるか?」
墨瑶の此の一片の意志は、思わず暗に推測を始めた。
彼女が近水楼台から出て方源の脑海に寄り付いたばかりの頃、確かに方源の多くの念を解析し、一時的に少なからぬ秘密を知り得た。
然し方源は反応敏速で、直ぐに対策を講じた為、其の後の進展は思う様には捗らなかった。
故に、墨瑶の意志が知る方源の秘密は、実は少ないのである。
其の中には、方源が自ら進んで曝した秘密も含まれている。
方源が春秋蝉を有する事は、未だ彼女の知るところでは無い。
方源が穿越者であるという最大の秘密に至っては、尚更に知る由も無い。
此処は蛊の世界なのだ。
墨瑶は既に陨落し、遺されたのは一片の意志に過ぎない。
蛊虫を駆動する事が出来ぬ以上、墨瑶の意志が欺けるのは、方源の智道への造詣が未熟である点だけである。
「我れは到来したばかりで、彼の素性を知らぬ。
此の少年は確かに意志堅固で、強い自主性の持ち主だ。
一旦は静観し、彼をして近水楼台を門派に返還させよう。
霊縁斎に到着してから、改めて彼を善へ導くも遅くはあるまい……」
墨瑶の意志は本体の一片の知恵を継承しており、説得が無駄骨と知るや、直ちに口を閉じて沈黙した。
地上には何の抵抗勢力も無い。
方源は幽邃とした目で、徐ろに俯瞰する視線を収め、狼の背中に端座したまま、瞑目して精神を養い始めた。
彼は無差別に無実を殺す輩では無い。
今日、狼を放って屠戮を繰り広げたのには、然るべき理由が存在する。
其の一、地下に潜む地魁獣の群れをおびき出す為。
地魁獣は野獣たるを以てし、濃厚な血腥い気配に引き寄せられ、凶暴な性を激しくして自ら地面に現れ出る。
其の二、大量の殺戮は大量の魂魄をもたらす。
王庭之争の初頭より、方源は葬魂蟾を以て此れを収集し続けてきた。
彼は蕩魂山を有し、只だ其の山が完全に死滅しぬ限り、此等の魂魄は多ければ多い程好いのである。
其の三、此れは脑海中の墨瑶の意志へ対するもの、亦試探の用を為し得る。
蛊師を肆意に斬殺する事がもたらす悪劣な反響に至っては、方源は怡然として懼れない。
仮令彼が事前に公告を発ち、広く周知させるという布石を打っていなかったとしても、
世論が沸騰し、万人の怨念と憎悪が渦巻こうが、
何と成そうと言うのじゃろうか?
彼は凡俗の頂点に立つ者、
其の名も高き狼王・常山陰である!
最早数年前の、薄氷を踏むが如き小人物では無いのだ。
此の蛊仙さえも入り込めぬ王庭福地に在て、
彼が一哮すれば、万の蛊師は震え上がる。
足を一踏み鳴らせば、聖宮の上下は三たび揺らぐ。
只だ一つの念を催せば、狼群は呼嘯し、瞬時にして千万里を血染めにする。
地球に一句の名言が有る──
「銃口の先に政権が生まれる」と。
拳骨硬きは即ち強権、
強権は其の儘真理なればなり!
然れども地球に在っては、権力は衆を集むるに在り。
暴力と拳骨のみならず、大義を以て其れを覆い、民心を以て和むるを要す。
而して此処に在っては、個人の力は集団を凌駕し得る。
民心も大義も脆弱たり。
他は措くとして、今の方源を以て此れを説かば——
「民衆の怨嗟など知った事か! 挑む者は滅ぼし、気に食わぬ者は皆殺し!」
衆生を睥睨し、民心を踏み躙り、自由自在に振舞う快哉、風の如し!
但方源は大道を志す。
みだりに蟻の命を弄ぶ事に、実は興味は無い。
今日の大屠戮も、其が崇高な目標へ向かう一小步に過ぎない。
目の前の目標を思い描き、方源は徐ろに双眸を開いた。
吼え――!
一声の獣吼が天駆ける雲をすら止めんばかりに響き渡る。
遥か遠くの大地が盛り上がり、小山の如き丘を形成するや、轟という一音と共に土石が迸しり、其の中から高さ五丈余る地魁万獣王が躍り出た。
方源の双眸は寒光きらめき、冷ややかに笑い声を漏らした。
「即ち是れと決めた。」
直ちに狼群を指揮し攻撃を開始させた。
刹那、彼の脑海には念が群れ飛び、細雨の如く絶え間なく降り注いだ。
高空より俯瞰すれば、万の狼が奔騰し、潮の如く滔々(とうとう)と押し寄せ、其の場面実に壮観である。
地魁万獣王に肉薄せんとする刹那、狼群は忽ち幾筋かに分岐した。
其の一団一団は、恰も巨象に群がる蟻蟻の如く。
同時に、天き狼群が唸りを上げて舞い降り、地魁万獣王の左右に旋回して、小鳥が大樹を巡るが如し。
地魁万獣王は身を躍らせて狼群の中に飛び込み、左右に薙ぎ払えば、狼血迸しり、狼の屍地面を覆う。
巨足四つに踏み鳴らせば、無数の凄惨な血溜りを遺す。
方源は微笑を浮かべて、雲霄の上に端座す。
狼群は彼の指揮の下、進退に則り、緩急分明たり。
次次と突撃を敢行し、衆蟻が象を喰らむ戦局を形成す。
地魁万獣王は咆哮を繰り返し、左衝右突して狼群に甚大な損害を与え、実に悍勇たり。
脑海の中、墨瑶は軽く「ふむ」と声を漏らし、方源の奴道への造詣に少しばかり驚きを覚えた。
「いやはや、此の小僧、思いの外に才情豊かなり。
若年の身ながら、万の狼を駆り使うこと呼吸の如く、指揮は定まり、臂を使って指を動かすが如し。
弱きを以て強きに戦い、消耗戦術は奴道の三昧を深く体得せり。
此れは大師級の域なるかな……」
然し其れも只だ少しの驚きに過ぎなかった。
墨瑶は見聞広く、尋常の蛊仙では無く、霊縁斎の某代の仙姫として、眼界高し。
記憶の中には、方源の如く若くして大師と成りし者、少なからず存在するのである。
戦闘は片時も続き、地魁万獣王は嘶叫を繰り返し、群狼に消耗され尽くして体は疲れ気は弱り、凶威は最早無くなっていた。
大量の地魁獣が、地底から続々(ぞくぞく)と頭を擡げ、戦団に参加して来た。
方源は淡く微笑み、既に予測済みの事とし、指揮は定まり乱れず。
此の大戦は、最初から既に結末は決まっていた。
万獣規模の地魁獣群一支が、何して彼の敵であり得ようか?
広大な戦場は、方円千里に放射するも、方源は巧みに之を数十の区域に分割し、孱弱なる狼群をもって包囲困じ、矯健なる異獣狼を以て鋒矢を形成し、往来衝突せしめた。
先ず一つの戦区が狼群に摧破され、併呑され、
続いて第二、第三と、局部的優位が累積され、
勝利の天秤は次第に方源へ傾いた。
最終的には狼群の併呑速度は加速し、
遂には地魁万獣王を其の場で絞殺した。
「此の小さな者、奴道の修為は確かに非凡なり。
指揮は細膩にして豪邁を兼ね、鋒鋭の中に柔和を含む。
然れども宗師級までは未だ大きな隔たり有り。」
墨瑶は心の中で想った。
蛊師の修行は、養・用・煉の三面有り。
其の何れもが、広大精深たる世界である。
同じ蛊虫を用いるにしても、
特定の蛊師は格別に卓越した用法を見せ、
芸術の域に昇華させる者がいる。
人々(ひとびと)は斯くの如き者を称して
──大師と為す!
大師は遇うべくして求め難く、
只だ資源を堆積するのみでは育み得ず。
天賦のみならず、才情も必要とされる。
然れど大師の上には、更に宗師が在り。
大師と宗師とを比ぶれば、恰も小さな草が大樹に対するが如し。
天賦・才情・資源を除外した上で、
更に機縁と悟性が求められる。
凡そ宗師に到達する者は、
触類旁通して如何なる流派にも通じ、
陰陽と乾坤を曉り、宇宙の奥妙を知る。
凡俗を超え俗を脱し、
正に仙中の仙、賢上の賢なるものなり。
墨瑶は煉道の宗師たり、
今雖も隕落せりと雖ど、其の眼界は未だ在り。
彼女が生前に目にした大師は数知れず、
方源の造詣が非凡だと感じたのは、
主に其の若年である点を考慮しての事であった。
間も無く、地魁万獣王は轟然と倒れ、重傷が元で息を引き取った。
鮮紅な血液が滾滾と流れ出し、
瞬く内に其の傍らに、
河塘の如き血溜りを形成した。
方源は降下し、自ら筋を抽き皮を剥ぎ、
処理を終えると、血溜りを利用して、
群狼に周囲を護衛させながら、
直ちに炼蛊に取り掛かった。
墨瑶が改良した地魁尸蛊は、
最も新鮮な血肉を必要とし、
更に地魁万獣王を最良とし、
千獣王を次ぎ、百獣王を其の次と為す。
此の故に、方源は大規模な出動を決行し、
自ら手を下して、地魁万獣王を斬殺したのである。
煉蠱は三晩の昼も夜も続き、大功は成し遂げられた。
方源は目的を達すると、直ぐに大部分の狼群を解き放ち、野に放った。
異獣精鋭のみを連れ、息つく暇も無く聖宮へ帰還した。
戦場は死の寂と迫る中、小山の如き血森狼の屍の中から、不意に血人が這い出て来た。
血人はよろめきながら歩き、東へ倒れんばかりに西へ傾ぎ、数歩進むと遂に力尽き、地に倒れ伏した。
彼は荒く息を切り取り、目には信じ難き色を浮かべ、口々(ぐち)に呟いた。
「我……未だ生き永らえているというのか?」
彼は手を伸ばし、顔を激しく拭い、終に真実の姿を現わした。
他の誰でもない。正に馬鴻運その人であった。
元来、彼は蒋凍に気絶させられた後、地面に叩きつけられ、人事不省となっていた。
其の地魁老獣王は彼に構うことなく、蒋凍を執拗に追い続けた。
然しその後、狼群が襲い来り、万物を屠戮する中、馬鴻運も惨めにも狼の餌食と化ったのである。
若し此れが凡なる野狼、例えば亀背狼や水狼、風狼の類であれば、
馬鴻運は早に四散五裂に引き裂かれ、無数の肉片と化って狼の腹の中に消え去っていた事であろう。
幸運な事に、彼を食べたのは、小さな山の如き体躯を持つ血森狼であった。
此の狼は巨口を開き、舌一舔めに百歩以内の草皮を舐め取った。
馬鴻運は地魁老獣王の死体と共に、血森狼の腹中の物と化る。
若し成り行き任せに為せば、馬鴻運は遅く早く血森狼に消化され、最期には一堆の狼糞と化った事であろう。
然る後、地魁獣群との開戦に伴い、
此の血森狼は包囲攻撃を受け、戦死して砂塵に倒れ、
腹を裂かれた事で、反って空気が漏れ入った。
馬鴻運は昏々沉沉と目覚め、慌てふためいて外へ這い出した。
此の時既に大戦は終結し、戦場には獣の屍が遍く散っていた。
折々重傷を負い未だ死なずの獣の哀嚎や喘息が、周囲の死寂を一層際立たせている。
馬鴻運は喘ぎ終え、徐ろに体力が回復してくるにつれ、鼻を衝く濃厚な血腥い気配が意識を覚ます。
彼は危険を察知した。「此処を急いで離れねば。間も無く、此の血気に引かれて無数の獣が集まって来るに違いない。」
北原に育った馬鴻運にとって、此の様な生存の知恵は骨髓に刻み込まれている。
慌てて立ち上がり、聖宮の方向を確認するや、直ちに歩き出した。
然し僅か数歩歩いた所で、彼の足は突然釘付け(くぎづけ)となった。
其の視線は、一匹の蛊虫に吸い寄せられる。
是れは地魁獣の屍体の上に佇む一匹の野蛊であった。
地魁獣が死んで、野蛊は滅び去るか飛び去るかの二者択一だが、此の野蛊は偶たま折れた骨に引っ掛かって、飛び去れずにいる。
「此れは二転の……其の何とか蛊だった筈だ」
馬鴻運は詳しくは覚えていないが、此の蛊虫の価値が分からない訳では無い。
「良き蛊虫、良き蛊虫、此れを手にすれば、例え自ら使えなくとも、少なからぬ元石に換えられるぞ。」
馬鴻運は胸を躍らせ、急いで近づくと手を伸ばして捕らえ、難無く手に収めた。