轟々(ごうごう)と響く地響き――
大地が揺れ動く中、天を衝かんばかりの狼の大群が地平線に現れた。
其の数は潮の如く際限なく、滔々(とうとう)と流れる大河の如く奔り去って行く。
万の狼が奇しくも奔る。
狼群の中には、風の如く駆け巡る風狼、雪の如く潔白な水狼、漆黒で俊敏なる夜狼が居り、
甲羅を背負い重厚な龟背狼、赤い炎を滾らせる朱炎狼も居る。
百狼王、千狼王、万狼王が群れを統率し、更には異形の狼たちが行進する隊列の中に混じり、殊に目を引く。
例えば、骨の森を背負う血森狼は山の如く巨体で、
魚の鰭を持ち象の如き甲冑を纏った魚翅狼は水陸両用であり、
銀灰色の体に三ツ目を持ち、戦闘狂の狂狼も存在する。
王庭福地の淡金色の天空を、天青狼群が駆け巡る。
其の吠え声は高らかに、天駆ける姿は神駿の如し。
方源は一頭の天青万狼王の背に確と坐わり、疾風すらも其の鉄の如き面貌を微動させない。
一双の暗黒の眸は、今まさに脚下を見下ろし、其の胸中は測り難い。
王庭福地に足を踏み入れた当初、狼群は散り散りに離散した。
然れど方源は早くから任務を発布し、福地入りした其の日から弛み無く旧友の狼たちを召還するのみならず、無数の野良狼をも新規に獲得した。
今、其の脚下に奔流する狼群は、江河の如く、海の如く、其の数実に五十万を超える!
此の域に至って、彼は正に紛れも無き凡塵の頂点なのである。
王庭之争の初め、彼は江暴牙や馬尊らと共に「五大獣王」と称された。
王庭之争が終局を迎えた今、天下の公認は措くとして、彼は北原において当代随一の奴道大師と推されている。
奴道の造詣のみならず、彼は驚異的な力道の手管と、飛行大師級の実力を兼ね備え、人々(ひとびと)を驚愕と畏敬の念に浸らせている。
狼王・常山陰を敬わぬ者がおろうか?
其の名を畏れぬ者がおろうか?
北原全土を見渡せば、彼の敵と成り得る者は、果たして幾人いるだろうか?
然し此の時、方源の脑海の中では、一つの声が彼を「打撃」していた。
「ふふふ…小少年、奴道と力道の合流を望むとは、大きな野望だ。
だが姉ちゃんは、此の野望は早めに打ち捨てるよう勧めるわ。」
墨瑶意志は続けて笑いながら説いた。
「奴道と力道は、水と油の如く分明たる二道。
奴力合流など、千古の難題なのだから。
二道を兼修するだけでも大変なのに、難しいと知って早々(そうそう)に方向転換し、できないことは諦めたらどう?
骨を折って褒められもせぬことを、何故わざわざする必要が有ろうか。
はあ…姉ちゃんは経験者として言うのよ。
道は千万、流派は無数。
蛊師の強さは、如何に多くの道を行くかでは無く、誰がより遠くへ進めるかにあるのだから。」
墨瑶は良く言って聞かせた。
然し方源は冷ややかに鼻で笑い、傲然と拒絶した。
「事は人為すに在り、何を畏れる必要があろうか?
奴力合流が千古の難題だというなら、其れは未だ我が如き者が現れなかったからに過ぎぬ。
我れは遅くとも早くとも、天下を威圧し、千古不磨の名を刻み、星宿・紅蓮・楽土の如き存在と肩を並べるのだ。」
星宿、紅蓮、楽土——此れらは皆、九転の蛊尊である。
人族の歴史という悠久なる大河の中で、無限の歳月が流れても、現れた其の数は十指に満たない。
方源は未だ一介の凡夫に過ぎない。
其の身でありながら、斯る存在たらんとする妄想は、蟻が象と成らんとするが如きものだ。
斯る野望と言葉は、墨瑶意志と雖も、一時は瞠目せしめずにはおかなかった。
……
「吼え――!」
「討て! 此の地魁小獣を一匹も残さず討ち果たせ!」
「治療蛊師は何処に? 傷人が出た、至急手当てを!」
獣群の咆哮と蛊師の喊声が入り乱れる中、小規模な激戦は最終局面を迎えていた。
広くない戦場には無数の爆坑が穿たれ、散乱する残肢と飛散する鮮血が目に付く。
五、六名の蛊師が地魁獣王を包囲し、死闘を繰り広げている。
其の周囲には、大量の地魁獣の屍が累々(るいるい)と横たわっていた。
此等の地魁獣は、人の体に蛇の尾を持ち、顔つき(かおつき)は蝙蝠の如く、天ぎつける鼻、風を受ける大きな耳、漆黒の体に肉の甲冑を纏っている。
胸の前後左右には五、六本の肉鞭が生えており、短いもので一丈、長いものは二丈余りにも達する。
肉鞭は手の如く器用に動き、蛇の如くしなやかで、鞭打つ勢いは強烈無比である。
攻撃にも防御にも転じ得る、難攻不落の生体兵器なのである。
地魁獣は地底に棲むが、必ずしも深層ではなく、寧ろ地下浅層に巣窟を構えることが多い。
其の価値は極めて高く、眼球や毛皮、蛇尾に至るまで、良質で稀少な煉蛊の佳材と為る。
更に珍重されるのは、其の体に生えた長短の肉鞭である。
長ければ長い程良く、二丈以上の肉鞭と成れば、往々(おうおう)にして千金を以てしても得難く、市場に有って価有りと雖も、実物は容易に手に入らない。
地魁獣は現在、北原に於いて其の痕跡が徐々(じょじょ)に少なく成りつつある。
然し王庭福地に於いては、未だ多数の群れが存在する。
例えば此の一帯、方円万里に渡る地域は、悉く地魁獣の群生域と化っているのである。
財宝は人心を動かし、加之ず此の地が聖宮に近い為、多数の蛊師が頻繁に仲間を組み、此処に狩猟に訪れる。
今死闘を繰り広げている此の小隊も、其の中の一団に過ぎない。
隊中の蛊師たちは、多くが地魁獣群の狩猟を三、四度は経験しており、一定の慣れがあった。
然し此度ばかりは、思わぬ厄介に遭遇した。
誘き出した地魁獣の群れは百余り、規模とし(て)は彼等の制御可能範囲内であった。
だが、想定外だったのは、其の獣王が凡なる百獣王ではなく、老いた千獣王であった事だ。
此の獣王は、戦いには弱り、老病に苛まれてはいるが、其の体に寄生する野蛊は、紛れも無き三转の格なのである。
凡人蛊師の世界に於いて、一转は徒弟に過ぎず、戦力は未熟で最も普遍的である。
二转と成れば、中核たる骨幹・基石と為り、極めて普遍的な存在である。
三转は長老・家老と称され、其れは勢力の中核を成し、数は激減する。
四转は勢力の首脳たる万人の指導者であり、五转は凡俗の頂点と称えられ、更に稀少である。
地魁千獣王其の物は恐るるに足らぬが、数匹の三转野蛊を有するが故に、此の隊の能力の限界を超えている。
若し交戦初頭に、隊長の蒋凍が剛毅なる性格と豊富な経験に基づき、果敢にも命を下し、何名かの熟練者を率いて獣群に斬り込み、地魁獣王を死死に繋ぎ留め、其の他の者に地魁小獣の殲滅を為さしめなければ、蛊師隊は早々(そうそう)に潰走していた事であろう。
「諸君、此の一息だ! 此の老獣は最早限界、踏み堪えれば勝利は我が物ぞ!」
蒋凍は縦横に躍り乍ら声を張り上げ、士気を奮い立てた。
隊員らの応答は揃わず、辛うじて士気を奮い起こしている様子であった。
開戦から現に至るまで、既に半時以上が経過している。
蛊師たちの真元は消耗の極限に近づいていたが、幸い北原の風潮として、此れら蛊師の多くは力道を兼修していた。
蛊師たちは肉搏戦を主とし、万やむを得ない場合にのみ真元を催して、己が身や仲間の窮地を救っていた。
吼え――!
其の時、老獣王は突然蛇尾を狂った如く甩い、空気を破裂させる轟音を生じさせた。
蛇尾は無情にも一りの蛊師を直撃し、其の場で吹き飛ばした。
地面に落ちた頃には、其の蛊師は胸骨粉々(こなごな)に砕かれ、最早絶命している他は無かった。
人に知恵有り、獣も亦其の狡知有り。
老獣王が老朽衰弱してるのは確かだが、腐った船にも釘は三本──決死の反撃に及べば、瞬時に一人を葬った。
蛊師たちは一瞬呆然とし、士気は急降下した。
「最悪だ、元々(もともと)拮抗状態だったのに、今味方を一人失い、我が空窺の真元は二割も残っていない。如何にして此の窮地を脱するか?」
蒋凍は目玉を一転と動かし、即座に逃亡を思い立てた。
此の狩猟隊は元々(もともと)彼が臨時に結成したもの、戦場から逃げ出せば名誉を傷けるが、生命と比べれば名誉など取るに足らない。
北原人が殺伐を好み、勇猛で獰猛なのは事実だが、馬鹿では無いのである。
「以前は貧困に喘ぎ、必死に戦うしか活路が無かった。
然し今、我れは王庭福地に足を踏み入れ、至る所に資源が転がっている。
雄飛の基を積む正に此の時、如何して此処で尊い生命を無駄にできようか?」
「家には老いた親や幼い子が待っている。
此の数日間、狩猟の成果は悪く無いが、得られた元石は只我が修行を支えるのみだ。
半歳後には、息子も修行の道を歩み始めるというのに…
…斯くの如く、諸君、相済まぬ!」
蒋凍の目に一瞬、激しい逡巡が走った。
其して突然、彼は後退し、残り少ない真元を全て(すべて)移動蛊に注ぎ込んだ。
衣の裾が空気を裂き、『嗖』という軽やかな音を残して、其の姿は塵を蹴って消え去った。
残された蛊師たちは又呆然とした。
隊長ですら戦線から逃げ出した以上、尚も戦う意味が無いではないか?
瞬時に隊員らは四方へ散り散りに逃げ惑い、士気は谷底に落ち込んだ。
地魁獣王は咆哮を一声轟かせ、執拗に追撃を開始した。
「畜生め!」
蒋凍は其の声に振り返り、思わず罵声を吐き、魂が飛び出さんばかりに驚愕した。
此の地魁老獣王は何故他の者では無く、只だ一り彼を追い掛けてくるのか?
想来は蒋凍の手口が苛烈で、攻勢が猛烈であった為に、深く恨みを買ってしまったのであろう。
「最悪だ、此の儘では我が命も終わりだ!」
両者は一逃一追、時の経過と共に真元は急激に消耗し、蒋凍は漸く絶望の淵に追い詰められて行った。
「蒋凍様、早く逃げて!」
其の時、遥か彼方から一つの声が届いた。
蒋凍は其の声に振り向き、左斜め前方に立つ若者の姿を認めた。
其の者は馬鴻運と云い、隊に加入して間も無く、一转の修為しか無い後方支援の蛊師で、戦力は微々(びび)たるものだ。
戦闘開始と共に、彼は偵察の役目を帯びて派遣され、文字通りの「駒」と化っていた。
「愚かな若造め!」
蒋凍は大喜びで、直ぐに方向を転じ、馬鴻運の方向へ奔り出した。
馬鴻運は目を見開いた。
地魁老獣王が徐ろに迫って来るのを見て、蒋凍に警告しようとしたが、蒋凍が其の地魁老獣王を引き連れて真っ直ぐに自分の方へ逃げ込んで来るとは思わなかった。
馬鴻運は足に力を込めて逃げ出したが、蒋凍の速度は速く、数回の呼吸も経たぬ内に彼の側まで追い付いた。
蒋凍は哄笑を爆ぜた。
「小僧め、本大人の命を救った功績で、此度の死も本望であろう!」
言葉が終わるか終わらぬ内に、蛊虫を駆り、馬鴻運を昏倒させた。
其して巨躯の手を伸ばし、其の衣襟を掴むと、力一杯後方へ投げ飛ばした。
然るに地魁老獣王は、目前に差し出された餌には目もくれず、相変わらず執拗に蒋凍を追い続けた。
蒋凍の哄笑は戛然として止んだ。
其の心境は恰も天堂より地獄へ堕つるが如しであった。
丁度地魁老獣王が追い詰めんとする瞬間、忽然として轟々(ごうごう)たる音が耳に流れ入り、広漠たる大地が微かに顫え始めた。
瞬く内に、地平線より一つの灰線が湧き上がり、漸次に其の線は濃密かつ鮮明さを増して行った。
狼だ!
何と此れ程多くの狼が!?
狼の潮流が天の果てより奔流の如く押し寄せ、其の勢いは浩浩蕩蕩として、滔々(とうとう)たる洪水が天下を洗い尽くすが如きである。
千獣王は足を止め、片刻呆然とした後、全身を顫わせ、向きを変えて逃げ出した。
「朱炎狼に亀背狼……此の如き狼群、然れば! 此の前の通告だ、狼王が此の地を狩場と定めしと!」
「はははっ、天は我を見捨てず! 助かった!」
蒋凍は一瞬呆然とした後、興奮の叫びを上げた。
其の場に崩れ落ち、全身を喜びに震わせ、絶体絶命から解放された安堵から、両目に嬉し涙を浮べた。
然し其の瞬く後、狼群は奔流の如く押し寄せ、速度を緩める事無く、怒涛の如く蒋凍を飲み込み、骨一つ残さず噛み千切った。
虚空に在りて、天青狼の背に坐わる方源の脑海内で、墨瑶の意志が悲愴な嘆息を漏らした。
「方源よ、貴様は狼群が手当たり次第に生きとし生けるもの全て(すべて)を屠るを放置している。
其の殺性余りに重し。
仮令天和を乱すを恐れぬとしても、他の蛊師の思いは懸念せぬのか?」
「嗤う可き哉。
此度の出陣に際しては、予てより公告を発っていた。
此れら利に心を曇らせた者共は、蟻の如き存在。
我が兵鋒を阻むなど、死して惜しむに足らぬ。」
方源は冷然として応えた。