幽暗とした密室の中に、心を清める白檀の香りが漂っている。
方源は座布団に跏趺坐し、手には一匹の東窗蛊を摘まんでいる。
此の蛊は信道に属し、四转の品である。
外見は瓢虫の如くだが、背中の甲羅は窓枠のような方形を成しており、重要な消息を蓄積する為の専用の蛊である。
此の蛊は、方源が代価を払って宝黄天から特わざ購入したものだ。
其の中身は、総て「意志」に纏わるものばかりである。
墨瑶の意志が潜伏して以来、方源は此れら関連資料の収集を続け、多額の仙元石を費やしてきたのである。
此の東窗蛊は、最早初めて手にした一匹では無い。
良久、方源は徐ろに双眼を開いた。
其の眼差しは冷たい泉の如く澄み切っている。
膨大な貴重な資料が、彼の「意志」へ対する理解を一段と深めさせた。
「念」「意」「情」の三者は同根の源より発する。
其の中で前二者は智道に帰属し、其の他の流派とも多くの連関を持つ。
智道は、其の開創の初めより、蛊師が智慧を追及する流派であった。
人が思考する時、脑海には無数の「念」が湧き上がる。
此れ等の念は互いに衝突し、或いは合体し、或いは相殺され、新しい念を形成する。
其れ即ち思考の結果なのである。
此等の念は、更に分類が細かく分かれ、互いに異なる特質を有している。
中でも、最も有名なのは「執念」である。
蛊仙が臨終の際に抱く執念は、天地の偉力と結び付き、福地の中に地霊を形成する。
蛊師たちは此等の念に基づいて、無数の関連蛊虫を創出してきた。
例えば、東方余亮が曾て使用した星念蛊、方源が現用いる空念蛊、そして蛊仙たちが常用する神念蛊などが其れである。
幾つもの念が凝集して一つと為り、「意」を形成する。
世に常言われる如く:「只だ意会す可く、言伝す可からず」。
意は言語をもってしては伝え難く、其の韻は文字の表現限界を超えている。
只だ心をもって、人の霊性をもって体得するより他は無いのである。
最初、智道蛊師たちが創煉したのは、天意蛊であった。
此れを用て天地の大道が運行する奥妙を体感し、更に天地の真理を悟る事で、自らの修業を推し進めたのである。
後に次第に発展し、殺意蛊、随意蛊、如意蛊、得意蛊、悪意蛊、画意蛊等が現れた。
其の中で最も有名なのは、人祖伝の中に記載される、伝説の意外蛊である。
智道の発展に伴い、世代を超えた蛊師たちの絶え間無き探求の結果、彼等は新たな発見をした:
幾つかの「意」が絡み合い、融合する事で、「情」へと化るのである。
悲情蛊、柔情蛊、詩情蛊等は、皆此の流れに属する。
魅道は其の中から派生したものである。
中でも最も有名なのは、同じく『人祖伝』に登場する——愛情蛊である。
「念、意、情……」
方源は低く嘆息した。
理解が深まれば深まる程に、彼は一つの事実を痛感する——
現在の彼の智道への造詣をもってしても、墨瑶の意志を抹消する事は不可能だということを!
両者の実力差は、余りに大き過ぎる。
例えて言うなら、意志への造詣において、方源は小さな土丘に過ぎず、墨瑶の意志は聳え立つ山峰である。
其して此の山が実は如何なる高さで、如何に雄大であるのか——
厚い煙りに包まれて、未だ見定める事が出来ないのである。
墨瑶の造詣は、最早方源の理解できる次元を超えていた。
此の数日間の接触と探り合いの中で、其は方源に深い印象を刻み込み、高山を仰ぎ見るが如く、其の実力の全容を量り知れぬ感じを抱かせた。
斯る大きな厄介者を前に、自らの手で処理する術が無い以上、如何にすべきか?
座布団に坐わったまま、静かに思索を重ねた後、方源の目は冷然とし、何かしらの決意を固めた。
彼は意識を自身の脑海に投じた。
只だ一つの念を浮かべただけで、墨瑶の意志は其れを感じ取り、暗黒の意識空間に、優美で誘惑的な姿を現わした。
「妾の提案を受け入れよう。
近水楼台を霊縁斎へ送り届けることを約束する。」
方源は二つ目の念を伝えた。
墨瑶の瞳に一筋の異色が走った。
彼女は、方源が此れ程早く妥協を選ぶとは予想していなかった。
此の数日間の駆け引きを通じて、墨瑶は痛感していた——
方源と云う男は、驚異的な意志力と強い自主性を併せ持ち、剛胆にして強硬な性格の持ち主であることを。
性格が運命を決める。
斯かる者は、梟雄と成ろうと英雄と成ろうと、其の生まれながらにして人傑たる運命なのである。
彼女が「六臂天尸王」の殺招を提示しながら、最後の一歩を敢えて隠したのは、単なる餌というより、寧ろ彼女の立場を表明する為であった。
彼女は知っていた——
方源の聡明さをもってすれば、必ずや己が伝えたい真意を理解するだろうということを。
元来、彼女の予想では、少なくとも七、八日は経たない限り、方源が協商を選ぶ事は無い筈だった。
然るに現実には、一日も経たぬ内に、方源自らが彼女の下を訪れたのである。
「ふむ…時流を読む者こそ俊傑たる所以。
伸び縮み自在なるこそ、真の大丈夫というものよ。
…然れども此の世の大多数の者は、己が能力という檻に閉じ込められ、驕り高ぶって頭を垂れることを知らない。
歴史を顧みれば、数多の人傑達が『一歩引けば海闊天空』の道理を理解しながら、いざ己が身に降り掛かると、果たして其れを実践できる者が一体何人いるだろうか?」
墨瑶の意志は、幽かな感概の吐息を漏らした。
「近水楼台は確かに優れたものだが、我が身に取っては、其の恩恵はさほど大きくはない。
貴女も幾らかは知っているだろうが、此の頃私は狐仙福地の件で、仙鶴門から派閥の一員と宣言される身となっている。
霊縁斎と仙鶴門は共に中洲十派の一角だ。
其処へ近水楼台を返還するなど、容易な業では無い。」
方源は続けて言い添えた。
「ふふふ…」
墨瑶の意志は口元を手で覆い、嬌声を上げて笑った。
「小少年、貴方の言わんとする所は分かっているわ。
安心しなさい、貴方は私が後を託す者なのだから。招災蛊は貴方のものだし、私に害意など毛頭ない。
仙蛊屋の返還が重大事であること、其の危険性も、勿論よく分かっている。
此の任務を完遂するには、最低でも蛊仙の力が要る。
此れから私は全力を上げて貴方が蛊仙になるのを助ける。
八十八角真陽楼へ潜り込む計画にも、全工程を貫いて輔佐するわ。
私の煉道の心得については、其れを一体どれほど悟れるかは、貴方次第よ。」
墨瑶が語り終えると、手さばき軽く一振りした。
一道の意唸が、方源の心頭に自然と浮かび上がる。
其の中身は、正に殺招「六臂天尸王」の最後の关键となる部分であった。
方源は即座に不満気に問い質した。
「地魁尸だと? 間違っていないのか? 此れが貴様の言う第六の飛僵蛊というのか?」
地魁尸蛊の事なら、彼はとっくに知っていた。
地魁獸を斬り伏せ、筋を抽き皮を剥いで主材料とし、数十種の蛊虫を集め、更に地底九百里の深きにある陰土と、数百年物の山吸草・晦潮花などを用いて煉成する。
確かに其の威力は並大抵では無く、修羅尸・天魔尸・血鬼尸・夢魘尸・病瘟尸と並び五转たる由はある。
然し乍ら、飛行の能力は有っていないのである。
「飛行能力が無ければ、何して『飛僵』蛊と言えようか?」
方源の疑問に応えて、墨瑶は傲然と笑った。
「凡なる地魁尸蛊では、当然不可能よ。
だが、姉ちゃんは何者だと思っているの?
ふふっ…とっくに蛊方を改良し、新しい地魁尸蛊を煉成済みなのよ。
蛊師が使用すれば地魁僵尸と化し、翼は無いながらも、地磁元能を利用して天空を飛遁し、自由自在に方向転換できるわ。」
話しながら、又一つの意唸が伝わってきた。
其れは改良版地魁尸蛊の蛊方そのものである。
方源が一瞥するや、其の眼は瞬く内に輝きを増した。
此の蛊方には、墨瑶が大胆且つ巧妙に幾つかの素材を追加していた。
中でも特に、主材料として『元磁精元』が加えられている。
正に其れが、地魁尸蛊の改良を可能にした最も重要な要素なのである。
方源は少し思索を巡らせ、前世五百年の経験を以って此の蛊方の実現性を見抜き、思わず感嘆の声を漏らした。
脑海の中で、墨瑶の意志は得意げに高笑いした。
「小少年、中々(なかなか)目が高いじゃない。
其れは良し、煉道とし(て)の素養が少しはあるようだ。
但し気を付けるが良い、此の殺招は貴方の土台の上に暫し作り上げた草創版に過ぎぬ。
先ずは何人かで試し、其の後で自身で検証することを勧めるわ。」
方源は軽く肯いた。
『六臂天尸王』の殺招は、其の威力が絶大で、以前の『四臂地王』や『四臂風王』の十倍近くに達する!
威力が大き(おおき)ければ、一旦失敗した時の反噬も、当然強烈且つ激烈なものとなる。
方源が以前『四臂地王』を試せたのは、其の危険性が大きくなく、受け入れ可能だったからである。
此の『六臂天尸王』は、話が別というものだ。
「第三層、第三層が形成された!」
聖宮の内外に、歓呼の声が天を揺るがさんばかりに響き渡る。
色とりどりの霞光は、相変わらず濃密に立ち込めている。
時の経過と共に、八十八角真陽楼の形成速度は増す一方だ。
新しく出現した第三層は、人々(ひとびと)の探索欲を更にかき立てている。
八十八角真陽楼の各階層には、百の関所が設けられている。
前方の関所は比較的に易しいが、後方に進むに連れて難易度は急上昇し、褒賞も一段と豪華になる。
大多数の蛊師にとって、後方の関所を突破する力は無く、前方の関所の褒賞が最早衆人の争奪の的と化っているのである。
聖宮の東門を急ぎ足きで抜け出さんとしていた十数名の蛊師の一団がいた。
其の時、八十八角真陽楼第三層形成の衝動が、彼等の足を止めさせた。
蒋凍は振り返り、聖宮の頂上に聳える楼閣を一瞥して冷ややかに鼻を鳴らした。
隊列中の(ちゅう)の馬鴻運に向かって言い放つ。
「貴様ら(きさまら)黄金部族の蛊師共は仕合わせ者だ。
八十八角真陽楼の関所の褒賞は、どれも貴様ら(きさまら)を立身出世させて余りあろうぞ!」
馬鴻運は愚か気に笑い声を立てた。
「隊長の言う通りであります、ははは。
只残念なのは、此の私は血脈が薄く、八十八角真陽楼に入ること叶いません。
でなければ、中を一目見て回るだけでも良い(よ)いのですがね。」
例え黄金族の民、巨陽仙尊の末裔と雖ども、必ずしも八十八角真陽楼に出入りできる訳ではない。
若し祖先が混血を重ね過ぎて血脈が薄くなり、基準に達し得なければ、其の楼閣に足を踏み入れる事は叶わないのである。
蒋凍は此の言葉を聞き、心中の苦さや嫉妬が瞬く内に和らいだ。
隊列の仲間たちも、馬鴻運を看る目が優しく成った。
中には一り、馬鴻運の肩をポンと叩き、慰める者も現れた。
「貴様も運が無い野郎だが、構うな。
此度は俺達と地魁獣討伐に赴けば、大きく稼げるぜ!」
「はい、はい、お言葉有難う御座います。」
馬鴻運は腰を屈め、へつらう様に笑い続けた。
彼は縁有りて、馬英傑を救い出した。
黒家が馬家を強制徴用した後、様々(さまざま)な境遇を経て、姓名を改め、馬鴻運と名乗り、修業の道も開けたのである。
現在、彼は只だの一転蛊師に過ぎず、素質は低くも高くも無い。
確かに彼は八十八角真陽楼に出入りする資格は有るが、其の実力を以てすれば、例え入った所で何の役にも立たない。
聖宮に滞在する此の数日間、彼は毎日臨時の隊に混じって外出し、狩猟で日々(ひび)の生計を賄い、元石を蓄えて修業の助けとしている。
蒋凍に對して言った言葉は、趙憐雲が旅立ち前に特に言い含めていたものであった。