聖宮の上下には、天を覆うばかりの彩霞が立ち込めている。
霞光爛漫として、方円百里を照らし出している。
遙かに聖宮の頂上を望むと、八十八角真陽楼は既に二層を成し、日毎に絶える事無き人の出入りがある。
視線を近くに戻し、方源は静かに窓を閉ざした。
彼が招災蛊を煉成し近水楼台より戻って以来、既に半ば月の歳月が流れている。
此の期間中、黒楼蘭は八十八角真陽楼を開放し、何の費用も徴すること無く、人々(ひとびと)が随意に出入りするを許している。
八十八角真陽楼——巨陽仙尊の伝承の地は、蛊師にとって、其の魅了力は驚異的である。
巨陽の血脈を引く無数の蛊師たちが殺到し、仮え関所を攻略できなくとも、真の姿を此の目で見て見識を広げられること自体を誉れとしている。
特に、八十八角真陽楼に異変が起きてから二層が連続して形成された後は、人々(ひとびと)の探索欲は一層かき立てられている。
外部の者については、相変わらず来客令を介してのみ出入りりが可能である。
来客令は一回限りの消耗品であり、関所を突破した後にのみ、一定の確率で入手できる可能性がある。
現時点で世に出回っている来客令は、七枚に過ぎない。各枚は天文学的な値が付いているが、それでも巨陽血脉を持たない蛊師強者たちの垂涎の的となっている。
方源は既に琉璃楼主令を手にしているため、八十八角真陽楼への自由な出入りは言うに及ばず、秘蔵閣にさえも足を運ぶことが可能だ。
しかし、他者の目を欺く為、彼はごく最近、莫大な代価を払って一枚の来客令を購入していたのである。
「小少年よ、我が教えた殺招『墨化』を準備しておくよう勧める。
そうすれば、中枢室に入室した際、倍の成果を収めることが出来よう。」
女性の声が、方源の脳裏に幽かに響いた。
他ならぬ、音も無く潜み入った墨瑶仙子の意志である。
方源は其の声を聞き、思わず眉をひそめ、心中で冷ややかに哼と答えた。
「貴様の其の殺招は、既に時代遅れだ。中には絶えた蛊も幾つか含まれている。今更急に集めよと?当然手間が掛る訳で、焦ってどうにかなるものか?」
墨瑶の意志は軽く笑った。
「小少年よ、汝は狐仙福地を擁する幸運の持ち主だ。宝黄天を活用し、其処で蛊を購入すれば、決して難しいことではあるまい。」
方源の眉の皺は更に深まった。
彼は暗号を解き、土丘の伝承を継ぎ、招災蛊の煉成にも成功した。
然し其の代わりに、墨瑶の意志という厄介極まる災難を招き入れてしまったのである。
墨瑶の意志は今、彼の脑海に潜み居ついて、巨大な危険因子と化っている。
方源が思考を巡らせる度に、必ずや無数の念が生じる。
墨瑶仙子の意志は、此れ等の念を看破する事が出来る。
従って、方源の秘密をも看取してしまうのである。
半月という時間の内に、彼女は方源の多くの秘密を理解した。
其の中には、狐仙福地の事も含まれている。
今、方源は已む無く空念蛊を用いて念を生成し、思考を巡らせている。
空念蛊を主とし、他の蛊虫を補助として形成される念は、空明玄奥である。
墨瑶の意志が仮え其れを捕捉できても、必ずしも念の中身の具体的内容を閲読できる訳では無い。
然し此の状況も、暫しの事に過ぎない。
意志其の物は、元来念よりも上位に位置する。
墨瑶の意志が方源の脑海に駐在し、此れ等の空念に触れる機会が増えるに連れて、次第に其の特性に慣れ親しんで行くだろう。
最終的には、方源の此の防壁も、もはや彼女を阻む事は出来なくなるのである。
「小少年よ、若くして随分と秘密を抱えている事だ。
ふふふ……実に面白い。」
墨瑶の意志は虚空に漂い、浮き沈みしながら、声を弾ませた。
彼女は口元を手で覆い、優しい笑みを零した。
其の目は流れる如く、姿は優美で実に魅力的である。
流石にあの時代の霊縁斎の仙姫と称されるだけのことはある。
方源と共に過ごす日々(ひび)が長くなるに連れて、彼女は次第に本来の活発さを現わし、強い好奇心と、他者の隐私を覗き見たがる本性を露わにし始めた。
霊縁斎の代々(だいだい)の仙姫と申せば、万に一つも稀なる佳人ぞろいである。才色兼備で、水より出でた芙蓉の如く清ぎしく麗しい。
然るに墨瑶は明らかに其れとは異なる。
彼女の幽深なる美眸には天賦の狡猾さが潜み、魔道に生まれていれば、正に生ける妖女であっただろう。
彼女は妖艶たる長裙を幻化し、其の体の曲線をくっきりと包み込んだ。
周りに浮かぶ透明な泡の如き念を見渡しながら、彼女はさっと手を伸ばし、其の一つを摘まみ上げた。
続いて『ぷちっ』という輕やかな音と共に、彼女は軽く力を込め、其の念を握り潰した。
然し彼女に得られた物は何も無かった。
此の念が含んでいた内容は、只「飯を食う」といふ二字が意味する、極めて単純なものだったのである。
「あらまあ」
彼女は豊潤な唇を性感的に尖らせて言った。
「小さな少年さん、随分と愛想が無いのね。考え事をする度に、でたらめな思い付きを巡らせて、本当の要点を覆い隠すんだから。でもね、それだからこそ余計にお姉さんは興味が湧いちゃうのよ。」
「ふん、其れ程の年輪を重ねて、良くも姉面ができるものだ。」
方源は嘲笑い、脅すように続けた。
「死んだ者は、大人しくすべきだ。我が脑海に潜んでいるからとて、手の打ち様が無いと考えるな。今此の瞬間に、貴様の其の意志を灰燼に帰せしめて見せよう。」
「あらあら、本当に怖いんだから……」
墨瑶は自らの高く聳える胸を軽く叩き、何とも思わない様子で笑い転げた。
「で・も・ね、此の半月の間に、貴方は私に二十八回も攻撃して、その間に十九種も手口を変えてきたんだから。奴道と力道の双修だけじゃなく、まさか智道も兼修しているって言うの?」
「ふんっ!」
方源の心中に殺機が滾り立つ。
「まあまあ、小さな少年さん、そんないじわる言わないで。」
方源の剣の如き殺意を感じ取り、脑海の中の墨瑶は人差し指を振った。
「お姉さんは貴方の恩人なんだからね。今や招災蛊は立派に貴方の仙蛊になったじゃない。凡人の身でありながら仙蛊を有するとは、実に驚くべき成就よ。安心して、安心して。只だ此の近水楼台を霊縁斎に返還してくれさえすれば、私の遺志が果たされた以上、此の意志も存続する理由は無くなるのですから。」
七転仙蛊屋・近水楼台を返還せよと……?
口に含んだ贅肉(=近水楼台)を、方源が容易に吐き出す訳が無い。
方源は勿論万に一つも同意する気は無かった。
然し現状、彼には他に打つ手が無いのである。
彼の脑海に潜む此の墨瑶の残留意志は言うに及ばず、近水楼台其の物の中に、更にもう一つの墨瑶の残留意志が守護者として存在しているのだから。
此れを語るに、此の墨瑶と云う女は実に恐るべき者である。
歴史書に記される彼女は煉道宗師である。
然し魂道や智道におけ(る)其の造詣は、却って一層深遠であるらしい。
方源が数十回に渡って仕掛けた念の包囲網も、墨瑶によって軽々(かるがる)く化解されてしまったのである。
方源の頭痛は、今正に頂点に達している。
方源は莫大な危険を冒し、膨大な投資を投じて煉蛊を行った。
最終的には招災蛊の煉成には成功したものの、使用する事は出来ず、逆に墨瑶の意志を脑海に侵入される結果を招いた。
「瓶を気にして鼠を打てない」状況下で、此れは巨大な足手まといと化り、行動を著しく阻害している。
「此んな事だと知っていたら、最初から土丘传承なんで継承するんじゃなかった。」
此の念は、方源が墨瑶に隠す事も無く、容易に看破された。
「小少年、そんないい方は間違っているわ。
此の数日、私が貴方に伝授した煉道殺招『墨化』の価値だけを見ても、計り知れないものよ。
貴方は八十八角真陽楼の隙を突こうとしているんでしょ?
ふふふ……実に肝が据わっているわね、姉ちゃんの若い頃に引けを取らないわ。
安心して、姉ちゃんは貴方を助けてあげる。
只だ近水楼台を霊縁斎に返してくれさえすればね。」
墨瑶は笑いながら、慰める様に言った。
「ふん、招災蛊は我が物、近水楼台も亦我が手中に在り。八十八角真陽楼に至っては、所掌中の物と為す!
貴様の如き一片の意志が、此の生ける者である我れを阻めると本気で思っているのか?」
既に数十回も手合わせしている以上、方源は潔く露骨に拒絶した。
然し此度、墨瑶は戯れる事無く、目に一筋の光が走った。
何かを想い起こしたかの様である。
彼女の表情は寂し気に曇り、幽かな嘆息が漏れた。
「ああ……貴方達男という者は皆、此ういうものなのかい?
例え過った事を為す時でさえ、此れ程理を堂々(どうどう)と掲げるのだね。」
「此の世に、何が正しく、何が誤りだと言えよう?
孰れが是で孰れが非かなんて、只だ人それぞれの道が異なるだけのことだ。」
墨瑶は顔色一変、再び戯れ笑みを浮かべた。
「小少年、其の答えも中々(なかなか)面白いわね。
だが昔、私はもっと霸道的な答えを聞いた事が有るのよ。覚えているわ――『此の世で、我が是と為すものは是なり。我が異なるものは、全て誤りなり』と。
ふふふ、此れ程霸道的だと思わない?」
方源の目が光った。
「其れは剣仙・薄青の言葉か?
惜しむらく、彼は最終的にあの一歩を踏み出せなかったが。」
此の言葉は墨瑶を沈黙へと陥れた。
彼女の顔は悲傷に満ち、目を閉じると、胸中に渦巻く記憶が溢れ出さんばかりであった。
長く密ちな睫毛さえも微かに震えている。
彼女は其の姿を消し、方源の脳裏から静かに消え去った。
「悔しい、又此の手か!」
方源は歯噛しした。墨瑶の意志が潜伏する度に、其の存在感は完全に消え失せ、脑海を如何に搜索しても微かな痕跡すら見出せない。
墨瑶の魂道と智道への造詣は、方源の比では無い。
其が為に、方源自身の脑海が、逆に彼女の根城の如く成り果てているのである。
然し此度の搜索に於いて、方源は全くの無駄骨では無かった。
彼は脑海の内に、墨瑶の意志が残した一つの「念」を発見した。
其の中身は、方源の心神を微かに震わせるものだった。
此れは正に、『六臂天尸王』と名付けられた一つの殺招であった!
方源は奴道と力道の融合法を探る為、焦心刻苦の末、初期の成果として力道上の殺招――『四臂地王』を編み出した。
此の技によって、彼は王庭之争の最終決戦に於いて、四方に打ち払い、群雄を斬り伏せ、馬家軍を敗北の淵へ叩き落とし、黒楼蘭を王庭福地へ推し進める原動力と成った。
然し四臂地王は飽く迄も草創期の殺招であり、欠点も多かった。
方源は其を基に軽微な改良を加え、殺招『四臂風王』を完成させた。
更に後、彼は八十八角真陽楼の秘蔵閣にて、要となる蛊虫『借力蛊』を手に入れた。
此れが為、四臂風王は更なる改良の可能性を迎える事と成るのである。
墨瑶の意志が彼の脑海に侵入して以来、方源は意図的に一部の秘密を晒して見せた。
其の中には此の殺招と、其の改良への構想も含まれていた。
「妙なる哉!」
方源は賞賛の声を漏らした。
自身の土台の上に、更に墨瑶仙子の深い教養を借りる事で、『六臂天尸王』の殺招は完璧に近づいていた。
其れは借力蛊を中核とし、六種の飛僵蛊を補助とし、加えて三十六種の他の蛊虫を包含する。
其の絶妙な配置と厳密な構造は、方源をして「賞賛して已ましめない」程であった。
「但し、五種の飛僵蛊は知っている。此の殺招に、何故第六の飛僵蛊が要るのか?
其れは何れの蛊なるか?」
念の中の殺招の内容は完全では無く、最後の关键となる一歩が未だ秘されたままであった。