方源は手にした招災仙蛊を仔細に観察した。
此の蛊は七転という高位に達し、朱紅の巨碗による孕養を経て、此の時完全に成形していた。
其の大きさは小指程で、全て灰白色、極めて精巧で小さく、蚕の蛹の如き形を成している。
方源が弄ぶに従い、招災蛊は絶え間なく彼の気息を吸収し、方源は明らかに感じ取ることが出来た──自らと招災蛊との、心の最深くに在る繋がりが、一層深く長く強まって行くのを。
方源の心の湖に、幾重もの微かな波紋が立ち現れた。
感慨が無いと言えば、それは偽りである。
前世では、彼は辛苦を重ね、蒼生を屠戮して、漸やく六転の春秋蝉を煉成した。
然るに今世では、再生の利点を活かし、未だ百歳にも満たぬ年齢で、春秋蝉より更に一転高い招災蛊を手にしたのである。
招災蛊の効用は、自らを犠牲にして天災地劫を惹き寄せるという、実に特異なものではある。
然し方源は確信していた——蛊師が蛊を使いこなすかは、一心の在り様次第だと。
例えば鋸歯金蜈の如き蛊でさえ、後世の四転の凡人蛊師「電鋸狂魔」によって、様々(さまざま)な妙技を編み出された。
ならば、方源が新しい妙用を開拓できぬ道理があろうか?
「他の事は暫らく措くとして、只だ此の招災蛊の存在こそが、伝説の運道流派が実在する証なのである。」
巨陽仙尊は生涯幸運に恵まれ続けたが、其れは彼が独創した運道蛊虫の故だと伝えられている。
しかし、この噂は一度として確かな証左を得たことはなかった。
だが今、方源の手にある招災蛊こそ、運道に属するものである。これは煉道の宗師たる墨瑶が、八十八角真陽楼の中にある排難蛊を感応して煉成した仙蛊なのだ。
排難蛊と招災蛊、これらは運道流派の蛊虫なのである。
碗の内壁に刻まれた墨文は、さらに強力な証拠となっている。
墨瑶は文中で、はっきりと指摘している──巨陽仙尊の運道蛊虫は、他者の幸運を奪って自らの物とし、同時に自らの不運を他へ転嫁し、災いを他者に振り向けることができる、と。
完全な流派として、運道も亦構造井然としており、攻撃・防御・転移・治療等の各側面を包含している。只、其の攻撃対象と成るのは、人ぞれぞれが有する形無く色無き運気なのである。
運道は巨陽仙尊に開創されて以来、常に秘匿され、声を潜めて大きな利益を収め続けてきた。
「巨陽仙尊即ち運気大盗、巨陽一死して、運盗漸く消えん」
墨瑶は文中に感ずる所有りと発している。此の風変わりな才女は極めて個性的で、仙尊と雖ども敢えて是も評言するのである。
彼女は更に文中で推測している──八十八角真陽楼の秘蔵閣には、高い可能性で巨陽仙尊の運道伝承が存在するだろうと。
「若し此の伝承を継承できれば、果たして巨陽仙尊の成功の軌跡を再現する事が出来るであろうか?」
方源は其れに胸を躍らせた。
彼は暫し沈思した後、手にした招災蛊を再び朱紅の巨碗の中へと収めた。
招災蛊は既に完全に成形しているが、方源は未だ其れを煉化することは出来ない。
心の絆は極めて強く結ばれてはいるが、真に招災蛊の主と成るには、未だ質的な隔たりが存在する。
方源は依然として凡人であり、仙元が無い為、其を煉化する事が出来ないのである。
此の状況は、彼が以前に神遊蛊を煉成した時とは異なる。
三王福地において、彼は地霊の補佐を得て定仙游蛊を煉成した。其の際、方源は主導的な役割を果たした。故に、定仙游蛊は現れた其の時から、彼の蛊であった。
然し乍ら、使用する事は叶わなかった。若し地霊の助力が無ければ、方源は狐仙福地へ転送する事も出来なかったのである。
一方、招災蛊の煉製においては、其の全過程が八十八角真陽楼の偉力回流を借りて行われ、方源は飽く迄も協助者に過ぎず、傍には地霊の援助も無かった。公平に言えば、此の程度まで達成出来たのは、実に立派な成果である。
「我れが蛊仙に成って初めて、真に其れを煉化できる。其れまでは、招災蛊を此処に留めて置かねばなるまい。」
仙に成っていなければ、仙竅が無く、招災蛊を収める事が出来ない。公然と持ち出せば、仙蛊の気配が充満し、必ず無数の虎視眈々(こしたんたん)とする者を引き寄せる事に成ろう。
方源は黒楼蘭や太白云生の類を憂える事は無かった。現在、彼は数多の狼群を従え、自身も力道の修為が十分に備わっているからである。
彼が主に憂えるのは、八十八角真陽楼の中に眠る巨陽仙尊の意志である。
以前、仙蛊雛形は気配が微かであったが、今や仙蛊は完全に成形した。若し此れを外に携え出せば、巨陽仙尊の意志を刺激し、其の覚醒を招く事は無いだろうか?
方源は此の危険を冒すつもりは無い。何より、彼の主たる計画は未だ完成を見ておらず、更なる潜伏と待機が必須なのである。「誰が想像できようか、此の名無しの渓谷に七転の仙蛊が隠されているとは。然し其れ以前に、此の近水楼台を一部煉化してから離開しても遅くはあるまい」と、方源は心中で考えた。
近水楼台は、有名な仙蛊屋である。凡人に過ぎない方源が、其の煉化を企むとは、極めて奇想天外に思えるが、実は大いに実行可能な所以が存在する。
八十八角真陽楼の如き強力なものと雖ども、尚方源が鑽り入る為の隙間や漏れ穴が存在する。
近水楼台が今無主の物である以上、自然と乗ずべき機会が有るのは道理である。
此れを説くには、蛊屋の本質に遡らねばなるまい。
蛊屋と(は何であろうか?
方源の前世は措くとして、只だ転生後だけを見ても、彼は少なからぬ蛊屋に遭遇している。
其の中で最も普通的な蛊屋は三星洞である。回収時には種と化り、植え付けると参天大树と成り、内部は空洞で三層に分かれる。
又蜥屋蛊が有り、其の外形は蜥蜴の如く、色とりどりの斑を持つ。眼窩は明るい窓と化し、口は戸口と変わり、自ら歩き回る事が出来る。
更には菇林蛊屋が有り、多量の菇房蛊を植え込む事で、無数の茸の家屋が庭園を形成する。
以上は凡蛊の蛊屋であるが、更には仙蛊屋とし(て)八十八角真陽楼・近水楼台が存在する。
蛊屋の進化は今日に至って、実に多種多様かつ枚挙に暇が無い。然し其の源流を推し量れば、広く認められた開祖は緑亀七人衆である。
此の七人は上古時代の魔道蛊師にして、一母同胎の七つ子であった。出生から死没まで、終始一貫して意気投合し、常に共に進退した。
彼等は防御を得意とし、各々(おのおの)が五转の頂点に立つ蛊師であった。更に「亀房」と名付けられた合力防御必殺技を有していた。此の技によって、彼等は蛊仙の三度に渡る攻撃を見事に防ぎ止めた。
是れは「三招之約」と称され、其の佳話は歴史に燦然と輝いている。
而して此の「亀房」こそ、蛊師歴史上最初の蛊屋となったのである!
故に、本質的に言えば、蛊屋とは数種あるいは十数種の蛊虫が互いに集合し、固化・定型された殺招なのである。
菇林蛊屋は其の中でも典型である。
是れは多量の菇房蛊が集積して形成された庭園である。
八十八角真陽楼は其の頂点に立つ代表格で、防御・収集・貯蔵等の多機能を備える。
無数の小塔楼から構成され、排難蛊は主要な基石の一つである。収集した野蛊を犠牲にすることで偉力を生成し、主塔を塑造するのである。
更には白骨戦車も存在する。
当時、傲骨魔君と称された沈桀驁は、驚くべき才気を放ち、六転に昇格した際、手に仙蛊が無いことを苦に、白骨戦車と名付けた殺招を編み出した。
白骨戦車は白骨車輪を始め多くの五转蛊で構成され、強力無比で、六转仙蛊に匹敵する威力を有していた。
即ち、白骨戦車こそ蛊屋の原形なのである!
三星洞、蜥屋蛊、大蜥屋蛊等は、其れ以降に派生した分枝である。真の意味における蛊屋の簡易版と云えよう。
通常の蛊屋は複数の蛊虫の組み合わせで構成される。
然るに三星洞等は一つの蛊に簡略化されている為、威力は大きく減じ、より庶民的なものと成っている。
近水楼台は七転仙蛊屋である。
此れは、其を構成する蛊虫の中に、少なくとも一つは七转仙蛊が含まれる事を意味する!
「現の我が実力と境界では、未だ仙蛊を煉化する事は叶わぬ。然れど、其の他の部分を成す凡蛊を煉化する事は、猶可能である。」
此れが方源が近水楼台の煉化に臨む底力であった。
煉化の過程に、特に難関と成る関門は存在しなかった。
近水楼台は元来、霊縁斎の象徴の一つであり、当時の仙姫たる墨瑶が執掌していた。
墨瑶は最愛の者の為に門派を裏切り、招災蛊を煉成して自らを犠牲にした。此の仙蛊屋は其の後、無主の物と化った。
斯くして、近水楼台は方源に対し、襟を開き懷に抱かれて其の為すが儘に任せる、小さな美人の如き存在と成り果てていたのである。
「驚いた哉、近水楼台を構成する蛊虫の数は、実に三千を超えるとは!
其れも各蛊虫が互いに連環の如く咬み合い、微かに呼応し合っている。
中核を成すのは七转の水乳交融蛊。
此れは蛊師を水液と完全融合せしめ、水の枯れざる限り身は滅びず。
此れ以外に二匹の補助仙蛊が有り、分別は六转の移動仙蛊・浪跡天涯と、智道仙蛊・楽山楽水蛊である。」
煉化の過程は、即ち近水楼台を深く理解する過程であった。
仙蛊の煉化は方源の能力を遥かに超えており、妄りに望むべくも無い。彼が手を着けたのは一転・二転の凡蛊である。
三时辰を費やし、方源は目を回す程煉化に没頭した。
遂に其の内五百匹の一転・二転凡蛊を完全に己が物と為し得た。
「斯くて、我れは近水楼台の一割を掌握する事が出来た。
仮令他者に発見されようとも、此の一割の掌握権を以て、片時ばかりは敵を阻む事が出来よう。
其の片時こそ、我が警戒心を研ぎ、駆け付けるに足りる時間となる。」
更に一时辰を煉化に費やし、方源は掌握権を一割三分まで高めた。
煉化は進む程に、其の難度は増す一方であった。
「惜しむらくは、我が身は春秋蝉を抱く事、即ち時限爆弹を抱えるが如し。
宙道の一蹴而就蛊等を用いて煉化を補助する事叶わず、然からずば、決して此の程度の成果には留まらなかったものを。」
方源は頭昏脳漲の状態に陥り、自ら限界に達した事を悟った。
二大空竅に蓄えられた五转巅峰の真元も、七分目は費やし尽くしていた。
然るに、彼が心神を引き上げようとした其の時、突如一つの影が其の脳裏に現れた。
「光陰矢の如し、年を数えず。
終に今日、有縁の者に逢う。」
此の幽かな息遣いと共に、姿形優美にして、顔を黒紗で覆い、双ノ瞳は幽玄なる夜の如き光を宿す女が、方源の脳裏に現れた。
「此れは墨瑶仙子の意志だ!
何時、我が脑海に潜み入ったというのか!?」
方源は密かに驚きを覚えた。
斯くも長き歳月が流れたというのに、墨瑶は尊者では無いにも関わらず、尚意志を残留させ得ているとは、彼女の当時の修爲の強さが窺われる。
方源は実を言えば早くより警戒していたが、墨瑶仙子は明らかに特殊な手段を有しており、竟に其の意志を悄びやかに方源の脑海に侵入せしめる事が出来たのである。
此の手段は並大抵のものではない。
墨瑶の意志が脑海に侵入した以上、若し彼女が悪意を抱いて発難すれば、方源は必ずや痛い目を見ることになる。
方源は智道の強者では無い。
唯智道蛊師のみが、此の類の意志に対し抑制する威能を有するのである。
更に、より決定的な一点が存在する。
人が思考する時、最初に浮かぶのは無数の念である。
此等の念が脑海内で互いに衝突し、変化を起こすことで、新しい念が生じる。
此れが思考の結果なのである。
今、墨瑶の意志が方源の脑海に入り込んだ。
方源が一つ念を思考する度に、彼女は其れを残す所無く知り得るのである!
若し墨瑶の意志に、春秋蝉の存在を知られてしまったら、一体何が起こるというのか?
「恐れるには及ばぬ、有縁の者よ。私は貴方を害する意図は無い。只一つ、質問があって尋ねたいだけである。」
墨瑶の意志は幽かな声で問い掛けた。
方源は推測するまでも無く、彼女が何を問うか分かっていた。
直ぐに薄青が天劫を突破できずに失敗した事実を伝えた。
此の凶報を聞き、墨瑶の意志は激しく揺れ動き、瞬く間に崩壊寸前と成った!
方源は心中密かに喜んだ。
然し彼を失望させた事に、墨瑶の意志は何とか其の形を保ち続けていた。
夜の如き双眸は涙に曇り、墨瑶仙子の表情は複雑極まりなかった。
其には悲嘆と解放が入り混じっている。
恰に彼女の詩に「歳月忽ち已に晩れて、情仇已に綿長なり」と詠わしめた如く、彼女と薄青の間に繰り広げられた愛憎劇は、必ずや複雑に絡み合った長編の物語であったに違いない。
「有縁の者よ、貴方が既に招災蛊を煉成し、此処に尋ね来て近水楼台の煉化に着手した以上、おおかたの経緯は知っておろう。既はや彼も此の世に無いのなら、一切を過ぎ去りし事としよう。
嗟……此れは恐らく蒼生の幸いなのかも知れぬ。」
墨瑶の意志は一呼吸置いて、続けた。
「我れは既に霊縁斎に背いた。今となっては、此の近水楼台を返還する事が唯一の遺志である。
其の償いとして、我が生涯を賭けて会得した煉道の心得を伝授しよう。
其れに加え、八十八角真陽楼に関する機密情報も授けよう。」