方源は碗の内側に刻まれた墨文を眺め、微かに口元を歪めた。
此の招災蛊は格七转に達する高品であり、現在の彼が持つ春秋蝉より一つ格上である。其の効用は極めて特異で、何と地災天劫に関わるものだった。
墨文の中程には詳細な説明が記されている。招災蛊は蛊仙に代わって災難を招き、地災天劫を本来の対象から離し、自らの身に引き付ける事が出来るという。
方源の表情は自ずと奇怪なものと化した。
此のような仙蛊を、果たして誰が用いようか?
天災地劫とは何と厄介な破壊力であろうか。何と恐るべき天地偉力であろうか。穏やかな日々(ひび)を送るのに、招災蛊を使って此も厄介な天災地劫を惹き寄せるとは、全くもって自ら進んで死を求める行為ではなかろうか?
蛊仙墨瑶、堂々(どうどう)たる霊縁斎三十六代の仙姫が、何故此も奇特な仙蛊を煉成したのか?
墨文の後段が、其の理由を語っている。
元来、彼女は本気で死を求めていたのである!
昔、彼女は薄青と相愛し、正道を代表する夫婦として、五域の注目を集める伝説となった。
剣仙・薄青の天才振りは卓抜として、天下に敵無く、「剣は五域を劈き仙尊に亜ぎ、情に係りて蒼生を幸いす」と称えられた。
剑劈五域亚仙尊,为情所系幸苍生
天下を俯瞰し、人生を顧みる時、彼の眼前に横たわるのは、九転の境を衝くという他に例なき無上の目標だけであった。
然るに九転の境を衝くことは、艱難此れ以上無く、例え堂々(どうどう)たる剣仙と雖ども、薄氷を履むが如き危うさを覚え、成功確率は最大で一割五分に過ぎなかった。
薄青は志高く、九転の頂点を衝かんと誓った。墨瑶は懸命に諫めたが、其れ叶わず、涙を呑んで準備を補佐する外無かった。
薄青は伝承を残し、後事を整えた。初めての挑戦は失敗に終わり、七十載もの重傷を負い、病床に臥して微動だに出来なかった。其の間、墨瑶が常に側に在って起居を支えたのである。
傷が癒えた後、薄青は再び九転を目指そうとした。
墨瑶は此の事の困難さ、特に九転突破の最終段階に降り注ぐ際限なき地災天劫を熟知していた。薄青の戦力は天下一であっ(と)雖ども、持久力に欠けていたのである。
彼女は一心に愛しき人を助けんと、密かに門派を裏切り、八十八角真陽楼に目けを付けた。
八十八角真陽楼は、其の名高き仙尊の布石にして、長毛老祖の手になるもの。天下随一の仙蛊屋である。墨瑶は遥か以前より其れを研究し、独自の心得を会得して、自らの煉道宗師とし(の)ての造詣を深めてきた。
例え異人であり巨陽の血脈を持たぬと雖ども、霊縁斎は巨陽時代より、数多の傑出した女子を供奉し、巨陽仙尊の妃嬪と為してきた。中には数人の女蛊仙も含まれ、巨陽仙尊の歓心を得た者さえいた。
故に、霊縁斎には巨陽仙尊に関する多くの機密が保存され、中でも八十八角真陽楼に至っては、殊に詳らかにされていたのである。
墨瑶は此れら資料から、八十八角真陽楼の秘密を看破した。
王庭福地は北原の中央に位置し、内部は天と地の如く広大で、更に黒白両天に分かれる。八十八角真陽楼の作用により、福分極めて深い。其の為、一定期間毎に、極めて猛烈な地災天劫を引き寄せる。
巨陽仙尊は此の点を考慮し、八十八角真陽楼を構築する際、一つの「排難蛊」を組み込み、楼閣の重要な礎と為した。
此の蛊は七转と高く、巨陽仙尊が運道の精髄を以て煉成したもので、王庭福地内の天劫地災を外へ排遣する能力を有する。此れに依り、北原全体に拡散する十年周期の大吹雪が形成されるのである。
逆に、巨陽仙尊は十年周期の大吹雪を利用し、規矩を定めて王庭之争という伝統を形成した。
墨瑶は此の点に於いて、欠陥とは言い難き矛盾点を発見した。
元来、王庭福地と八十八角真陽楼は共生関係に在り、十年毎に強大浩瀚たる天災地劫を招く。此の時、王庭福地は微かな隙間を開け、排難蛊と連携して災劫を外界へ排遣する必要が生ずる。
王庭福地は巨陽仙尊の布置により、凡人の出入りのみ許し、蛊仙の往来を禁じている。然し排難時に王庭福地が開く微細な隙間から、洪水の如き災劫が排出される際、仙尊が設けた蛊仙遮断の布置は機能を喪失する。
墨瑶は此の微細な隙間に乗じ、九死一生の危険を冒して災劫に逆らい、王庭福地へ侵入したのである。
彼女は其の中で十年近くを費やして考察を重ね、宗師としての造詣を駆使し、千辛万苦の末に關鍵なる節点――地丘に在る小塔楼を突き止めた。
其の後、彼女は巨陽の意志を覚醒させる危険を冒して小塔楼を破壊し、其の偉力回流を利用して排難蛊を感応し、「招災蛊」を醸成する地洞を形成した。
見事に仙蛊雛形の煉成に成功するや、彼女は此の名無しの渓谷に、何気なく仙蛊屋・近水楼台を布いた。
其の中で墨瑶は雛形を完璧に温養し、招災蛊を携えて、福地が災難を排遣する好機を利用し、密やかに外界へ舞戻ったのである。
墨瑶は此れ等の布置を破棄しなかった。万が一つ、薄青が再び九転を衝くのに失敗し、招災蛊も天劫地災で失われる事態に備えての事であった。其の様な場合に備え、彼女は再び福地に入り、招災蛊を煉成する腹積もりであった。
然し此の時外に出たきり、彼女は二度と戻って来なかった。
剣仙・薄青は二度目の九転への挑戦に完全に失敗し、浩瀚たる天劫の只中で灰燼と帰した。墨瑶も亦、彼に殉って此の世を去ったのである。
「成程。九転への衝撃は千難万苦である。墨瑶は其の前に、密かに此の伝承を設けた。彼女が伝承の真実の内容を明らかにしなかったのは、此の行為其の物が門派への背信であったからだ。然し乍ら、彼女は最終的に前段の手掛かりを門派に残した。前世五百年後、中洲の蛊仙が王庭福地を謀り、八十八角真陽楼を破壊した時、正に彼女の此の前段の手掛かりが利用されたのである。」
方源は今此れを思い起こし、恰かも霧が晴れた如く、一切が合点の行く感じを覚えた。
墨文の最期に、一編の詩が記されている──
仙路阻まれて且つ長し、相逢いては各れ天涯。
歳月忽ち已に晩んで、情仇漫に鬢に華。
君は仙路の尽きるを尋め、我は君の安佳を念う。
生死両茫茫、枕夢君が為の家と為す。
仙路阻且长,相逢各天涯。
岁月倏已晚,情仇漫鬓华。
君寻仙路尽,我念君安佳。
生死两茫茫,枕梦为君家。
明らかな事に、此れは墨瑶の作である。
蛊仙の道は、遥かで険しい。然れど君と幸いにも出会う事が出来た。
気が付けば、情愛と怨恨が絡み合い、もはや自拔できない。
君の視線は、仙道の果てを見据える。
私の視線は、只君の上に注がれる。
九転を衝くは九死一生、我は生死隔てるを良しとせず、只君が為に一生を傾け、君の夢を果たさんと願う!
最愛の人を守り、薄青が蛊仙の頂点に立つことを助けん為なら、墨瑶は自らを犠牲にし、招災蛊を以て天災地劫を一身に引き受けることを厭わなかった。
「実に非凡の女である……」
方源は嘆息した。
例え彼自身が、決して愛情の為に此も自己犠牲を払う事は無いと雖ども、方源が此の様な人を理解する事を妨げるものでは無かった。
寧ろ、其の理解度は、却って他の者より深い程であった。
人は此の世に生きる以上、常に欲望有り、目標有り、意義有り。
墨瑶の目標は、心の中の愛しき人の為。而して方源の目標は、永生を追求する所に在り。
欲望異なり、目標異なり、意義異なる事、其れが様々(さまざま)な天下の蒼生を鋳上げ(あげ)、特立独行の英雄や梟傑を創り上げるのである。
方源は視線を再び朱紅の巨碗の中へ落とした。
蚕茧は既に破れ、招災蛊は完く成形していた。其の形は蚕の繭の如く、全身灰白、小指の先程の大きさで、水の中に浮き沈みしていた。
招災蛊は正に代価を払って自らを犠牲にする蛊である。墨瑶は之を以て己れを捨てて人を生かした。
方源に取って、此の蛊は一見無用の如く見えるが、実は未だ巨大な価値を有する。
第一に、其れは仙蛊である。仮令自ら用いなくとも、宝黄天にて販売すれば、莫大な仙元石を得る事が出来よう。
第二に、其れは運道の蛊虫であり、天災地劫を引き寄せる。災劫は強いが、只だ己れの実力が堅固で耐え忍べれば、他者を陥れる為の妙用と成り得る。
最後に、其れが成形したのは、八十八角真陽楼の基石の一つである排難蛊の力を借りたもの。招災蛊と排難蛊は、正に一體両面の関係に在り、一つは災いを招き、一つは難きを排す。只だ此の層の関係のみで、方源の今れからに八十八角真陽楼之行に対し、巨大な示唆を與え得るのである。
然し心の中に一層の絆が存在するとは言え、此の蛊を完全に服従させようとすれば、尚一つの関門が存在する。
碗の壁面に記された墨文の中で、墨瑶は詳しく注記している。
招災蛊を従えようとすれば、一定の条件が必要である。蛊仙と凡人の別は問わないが、縁有る者が自らを犠牲にすることの出来る心を持つことを要する。
若し此の心が無ければ、強引に従えようとすれば、軽く見て仙蛊の反噬を招き、重く見れば仙蛊の自毀を引き起こし、人身の生命に迄及ぶ。
近水楼台の中、方源は巨碗の前に立ち、無表情であった。
己れを犠牲にすることの出来る心、彼は果たして持っているのか?
……
「……げほ、げほっ」
唐妙鳴は手巾で桜色の唇を押さえ、美しい眉を強くひそめて痛まし気な表情を浮かべた。
「姉上!」
傍らにいた唐家三男の唐方は声を上げ、面には痛惜の情が溢れていた。
唐妙鳴は半床に臥して手を振り、唐方に心配無用と合図した。
唐方は姉が手にした手巾の鮮血を視て、深く息を吐いた。
「姉上、何故ここまで無理を? 此の関を突破した所で、それで如何がない? 父上も皆も既に逝ってしまわれた。姉上は私が唯一の肉親です。若し姉上に万一でもあれば、私は如何にせよと云うのです?」
唐妙鳴は手を伸ばし、軽く唐方の髪を撫でた。
「三弟、貴方は唐家の族長ですよ。其んな志気の無い様では困ります。此度の王庭之争では、我が唐家は甚大な被害を被り、他族に併合される危うい所でした。今こそ千載一遇の好機、正に八十八角真陽楼の力を借りて、我が部族を再興せねばなりません」
唐方は不承不承に唇を尖らせて言った。
「でも姉上、無理に関を破ろうとして重傷を負うなんて、割に合いませんよ。三弟である私は見ているだけで胸が痛み、此の頃は家族の事務も手に付かずにいます」
「何と?」
唐妙鳴は此の言葉を聞くや、顔色を厳しくし、鋭い眼光で唐方をじっと見据えた。
彼女は躊躇なく叱責した。
「唐方族長、貴方は重責を担っておられる。如何して此も女々(めめ)しい情けに流されよう?部族を振興することこそ貴方の職責、一族の長としての存在意義で有りませ。今後、此のような愚痴は聞きとう無い。分かりましたか?」
「は、姉上、私が悪う御座いました」
唐方は慌てて床縁から立ち上がり、恥ずかし気にうつむいて過ちを認めた。小さい頃から、姉こそが一番自分を大切に思ってくれる人だった。
唐妙鳴の眼差しは次第に柔らかくなり、幽かに嘆いた。
「三弟、貴方が自由奔放な性分で、天涯を股にかける様な縛られない生き方を好む事は知っています。ですが、貴方は家の最後の男です。勇ましく責務を引き受けるべきです。今後の貴方の人生の意義は、部族を再興する事に有ります。此れでお分かりに成りますか?」
「姉上の御訓示の通り、小弟よく理解致しました。お怒りはお控えください。元より御身には御傷がおありというのに」
唐妙鳴は依然として厳しい口調で言った。
「戻ったら、『人祖伝』第三章第一節を夜を徹して十回書き写し、私に提出しなさい」
唐方の胸には、瞬くうちに温かい感情が溢れた。
幼い頃から、姉の懲罰と云えば、決ず書物を写させるのだった。
「姉上、どうかご休養ください。小弟、只今より写経に参ります」
『人祖伝』第三章第一節に以下のように記されている──
人祖の次女・古月陰荒は、最愛の父を生死門より救い出さん為に、成敗山へと旅立ち、成功蛊を求めし。
然し最終局面に於いて、彼女は失敗し、自らを見失ない、醜くも強力な怪物と化してしまった。
娘による救出の無い中、長男の太日陽莽は廃れて耽溺し、人祖は落魄谷に囚われ、生還の道を絶たれた。
落魄谷は恰も巨大な迷宮の如く、曲折蜿蜒としている。時には果てし無く広がる迷惘の霧が蔓延し、魂魄を散漫ならしめる。時には刃の如く凛烈なる落魄風が吹き荒び、専ら魂魄を切断する。
人祖は魂体なればこそ、迷惘の霧の中では出口を見出せず、落魄風は其の魂魄を断ち切り、彼を次第に衰弱させ、境遇は一層危険に陥った。
落魄風によって切断された魂魄の欠片は、漸やく凝集して一りの少年を形成した。
斯くして、人祖の第三子が誕生した。
其れこそが北冥氷魄である。
「我が子よ、此のように寄り添ってくれて有難う。私の時間は最早少ない。最期の日々(ひび)に、汝が傍に居てくれたお陰で、父である私は少しも寂しくなかった」
人祖は感嘆して言った。
北冥氷魄は外冷たく内熱く、言葉少なきも、人祖に対して非常に孝順であった。
人祖が日増しに衰弱して行くのを目にし、彼の心情も一層重く沈んでいった。
彼は人祖を救い出す決意を固めた。
人祖は其の決意を感じ取り、欣びと痛惜の念を抱いた。
「余計な事はするな、我が子よ、汝の孝心は十二分に伝わった。私は今悟った、生死は強いて求めるべきでは無いと。人は総て死に帰する、此れが人の宿命なのだ」
北冥氷魄は涙ながらに訴えた。
「父上、お言葉の正しきは分かっております。此の私の努力が虚しい事も、重々(じゅうじゅう)承知しております。ですが、此くも衰弱なさる父上を眼前に、何も為さずにいれば、此の胸が張り裂けんばかりに苦しい。どうか、何なりと御役に立たせて下さい」
人祖は一声嘆息し、已む無く彼の行いを認めた。
北冥氷魄は落魄谷を彷徨った。彼は此処で生まれ落ちた為、落魄風は其の魂魄を削る事が出来ず、迷魂霧も又彼の視界を遮る事は出来なかった。
彼は苦しみ喘ぎながら搜索を続けたが、出口へ通ずる道は遂に見付からなかった。絶望が募るばかりの中、彼は一の蛊虫に遭遇した。
「あらあら、思いも寄らず君に見付かっちゃったね」
此の蛊虫は瓢虫の如く、球の如く肥え太っているが、動作は極めて敏速で、北冥氷魄の周囲に縦横無尽に閃めき現れる。
北冥氷魄の目が輝いた。
「君は何という蛊だい?」
好奇心に駆られて尋ねる。
「私の名は意外と申します」
蛊虫は答えた。
北冥氷魄の目の輝きが薄れていった。
「成程、君は意外蛊だったのか。残念ながら、成功蛊では無いんだな」
意外蛊は嗤うように一声放った。
「若者よ、余り私を甘く見るでない。私こそ成功蛊を愛して憎む存在なのだ。意外という力は甚大なものだ。君が此処で私と出会った意味が分かるか?」
「何ですって?」
意外蛊は太った体を揺らしながら、得意気に答えた。
「此処は何処だと思う? 此処は落魄谷、死の境だ。君が此処に居るって事は、君は既う死んでるって事さ。然し君は私に出会った——つまり『死』の中で『意外』に遭った訳だ。其れが即ち『生』の兆し。私をしっかり掴まれい。君を人間界へ連れて行き、再び蘇らせて見せよう」
「本当ですか!?」
北冥氷魄は大いなる喜びに包まれた。
「私の父も一緒に連れて行って頂けませんでしょうか?」
意外蛊は首を振った。
「私に遭ったのは君だ。君の父親ではない。故に連れて行けるのは君一りだけだ」
北冥氷魄は極めて失望し、彼は拒絶した。
「父を同に連れて行って頂けないのであれば、私も行きません。最期の時まで父の傍に居ます」
意外蛊は三声高笑らいし、傲岸な口調で言い放った。
「人生の『意外』は、君が拒むことを許さぬ。若人、必ず我れと共に往かねばならぬ!」
其の言葉が終わるか終わらぬ内に、意外蛊は強引に北冥氷魄を連れ、瞬く間に生死門を離れ、人間界へと帰還した。
北冥氷魄は生きた血肉の躯を得たが、独り広漠たる世界に立ち、言い知れぬ茫然たる感じに捕らえられた。
意外蛊は跡形もなく消え去った。彼はふと、人祖が嘗て語った言葉を思い出した。自分には古月陰荒という次姉がいることを。
其の時、思想蛊が自ら彼を訪ねて来た。
「若人、我れを疑うでない。思想は常に人の友なれば。我れは汝を助けんと来たる」
思想蛊は北冥氷魄に、成敗山の事、並びに古月陰荒に關わる一切を語り聞かせた。北冥氷魄は先ず次姉に会うことを決した。
古月陰荒の姿を目にした時、彼は悲しみの涙を禁じ得なかった。
北冥氷魄は古月陰荒との対話を試みた。
然し怪物と化した次姉は、只だ口の中で問いを呟き続けるばかりであった。
「此処は何処?」
北冥氷魄は少し考えて答えた。
「此処は人間界、生命の活動できる場所です。我々(われわれ)の頭上には天が広がり、脚下には地が続いています」
「私は誰?」
古月陰荒が重ねて問う。
「貴女は人、人祖の次女で、其の名は古月陰荒と申します。貴女は私の次姉なのです」
北冥氷魄が答える。
「姉上、何卒早く正気に返って下さい。父上は御逝去あそばされ、落魄谷に囚われておられます。我々(われわれ)は急ぎ父上を救い出さねばなりません」
「人祖? 古月陰荒? 蘇生?」
怪物は首を振りながら、困惑した様子で問い返した。
「何故私が彼を蘇生せねばならぬ? 人は死ぬべき存在では無いのか? 死とは何が悪い? 人は何故生きねばならぬ? 私は何故生きている?」
今度ばかりは、北冥氷魄も返答に窮した。
人は何故生きねばならぬのか?
北冥氷魄が此の問題を思い巡らせる中、困惑蛊が悄びやかに彼の身辺に訪れ、周囲への感応を失なわせた。
これに伴い、愛情蛊と偽装蛊も亦現れた。
思想蛊は彼等を視認するや、頓に頭痛を覚えた。此れ等の蛊は、其の悪戯っぷりで名高く、常に徒党を組んで現われる。例え思想蛊と雖ども、安易に干渉するを望まぬ連中である。
「愛情よ、既に貴様が陥れた者は少なく無いだろうに。何故未だ人を見放さぬのか?」
思想蛊は嘆息した。
「道理を説くなんて御免被る。此の私は筋の通らぬ性分だからね」
愛情蛊は意地悪な口調で応えた。
「さっさと失せろよ、思想。貴様の顔は見飽きた」
思想蛊は已む無く退いた。
「又新たな人が来たのか?ははは!」
愛情蛊は北冥氷魄を視界に収めるや、飛び上がらんばかりに歓喜した。弄ぶ対象が増えたからである。彼は偽装蛊と鉄の仲であり、直ちに其の力を借りて思想蛊に変装した。
「若人よ、貴君の次姉は己がれを失くしてしまわれた。彼女を救わんと欲すれば、意義蛊を尋ね求めねばならぬ」
偽の思想蛊(実は愛情蛊)は斯く語りき。
北冥氷魄は我に返り、何の疑いも抱かず、愛情蛊に問うた。
「偶々(たま)意外蛊には出会いましたが、此の意義蛊は何処に在すのでしょうか? 如何にして尋ね出だせば宜しいのでしょう?」
愛情蛊は厳かな口調で、鄭重に事を運ぶ様を装い、彼を欺いた。
「人よ、知るが宜い。貴方方が此の世に生きるには、総て意義が有るのだ。只だ意義蛊を尋ね当てさえすれば、貴方の次姉を正気に返す事が出来よう。私が指し示す方角へ、ひたすらに、ひたすらに進み給え。必ずや意義蛊に辿り着かん」
北冥氷魄は万の感謝を表し、瞬くも旅立ちの支度を整えた。
愛情・困惑・偽装の三蛊は、彼の遠ざかる背中を眺め、揃って哄笑を漏らした。
此の世の中に、果たして意義蛊など存在するだろうか?
元より此のような蛊虫は存在せず、北冥氷魄が如何に探し求めようと、其れを見出だす術は無いのである。
「馬鹿者め、誰が貴様等を私の逆鱗に触れしめると言った? 思い知らせて遣ろう。愛情の懲罰と来た日には、斯れ以上無い恐怖を味わわせてくれるわ! さあ、此れからは彼を付け回し、代わる代わる弄あそんでやろうではないか」
愛情蛊の提案は、他の二蛊の賛同を得た。
斯くして、北冥氷魄は三蛊に順番に翻弄され、筆舌に尽くし難き苦難を味わされた。然れども、彼は虚ろな意義蛊を探し求める為、尚も倦まず弛まず歩みを進め続けたのである。
此の精神は、思想蛊の心を打った。
愛情蛊の不在に乗じて、思想蛊は再び北冥氷魄の下に駆け付け、援助の手を差し伸べようとした。
「思想、何の用だ? 俺達は今楽しんでいるところだぞ」
困惑蛊と偽装蛊は強く思想蛊を拒絶した。
思想蛊は嗤い飛ばした。
「私が愛情を恐れるのは事実だが、貴様ら二人を恐れる理由は微塵も無い。若人よ、我が力を借りて、速やかに正気に還れ!」
北冥氷魄は思想蛊の能力を借り、真相を見極め、困惑から脱し、偽装を見破った。
困惑蛊と偽装蛊は為す術無く敗走する他無かった。
北冥氷魄は思想蛊に感謝の意を伝えた。
「思想蛊よ、感謝する。貴方が居たからこそ、次姉を救う方法を思い付く事が出来た」
「おや?其れは如何なる方法かな?」
「此の世に、確かに意義蛊は存在しない。然し我れ自ら意義蛊を創り出す事が出来よう」
北冥氷魄は自信に満ちた口調で答えた。
人が生きる事自体に意味は無い。然し、意味を付与する事は可能なのだ。
北冥氷魄は古月陰荒の下へ戻り、自らの手で一つの意義蛊を創造し、古月陰荒の脳裏に押し込んだ。
「我れが生きる意味は、成功蛊を探し出し、父を蘇らせる為である! 分かった、理解した!」
古月陰荒の両眼は突如輝き出した。
……
「生きる意味か……」
唐方は手に持っていた筆を置いた。
夜は更けて、王庭福地には優しい銀の輝きが大地を覆っている。
長い書き写しの作業が、彼の心に感慨を湧き上がらせた。
「人は此の世に生きていれば、常に迷いを感じるものだ。然し、一度自分の人生の意義を見出せば、進むべき道が見え、勇ましく前へ進むことができる。同時に、己が何を欲し、何を欲しないかが分かり、犠牲を恐れなくなる。姉上が私に書き写しを命じた真意も、恐らく是れにあるのだろう」
彼は静かに窓を開け、眼前に広がる輝きに満ちた聖宮を眺めながら、様々(さまざま)な人々(ひとびと)——強き者も弱き者も——のことを思い巡らせた。
其の胸の内は次第に熱く高まっていった。
「各人の生命には、それぞれ様々(さまざま)な意義がある。而して我が意義は、部族を率い、繁栄へと導くことにある!」
其の頃、近水楼台にて──
「己れを犠牲にする心だと?」
方源の口元に、一片の傲然とした冷笑が浮かんだ。
彼は右腕を伸ばし、微塵の躊躇もなく巨碗に手を突っ込み、中の招災蛊を直に摘み出した。
彼の気息を吸い取りながら、招災蛊の体に光が一閃し、瞬く間に方源の所有物と化った。
全過程は驚く程円滑に進み、微動一つ反噬一つとて無かった。
穿越者としての身份、前世五百年に亙る経験が、既に彼に生死を見極め悟らしめていた。
何れの親情も友情も愛情も、最早彼の興味の埒外であった。
唯永遠の生こそが、此も崇高なれども手の届かぬ目標であるからこそ、彼の生命の旅に強烈な趣きを齎し得るのだ。
此れこそ彼が此の生に賦与した意義である!
但し、永生を追う事は、決して死や失敗を恐れている訳では無い。
死や失敗に対して、彼は敢えて之を受け入れる。
更には、永生その物の存在でさえ、何ら証拠がある訳では無い。
然し、例え存在し無くとも、何が成ろう?
方源は其の過程その物を楽しんでいる。永生を追い求める過程の中で、彼は意義を見出し、此の生の盎然たる趣きを感じ取っている。
肉体の低次元な欲望や、愛憎情念の充足など、彼は既に飽き飽きしている。
只だ永生のみが、追求する値打ちのある目標なのだ。
「故に、犠牲する覚悟など、我れは既に有うるのである」
方源は幽邃な眼光で、手の中の七転仙蛊を玩味していた。