ここまで進んで、方源は思わず瞠目せざるを得なかった。
此の地丘伝承を布置した神秘の蛊仙は、正に煉道宗師の域である。煉蛊の全工程は、八十八角真陽楼の偉力を借りて巧みに且つ大胆に進められている。
方源は主宰者とは言え、其所はと申せば、寧ろ協力者と言う方が適切であった。
煉蛊は困難である。仙蛊を煉成するは、更に難中の難、天に登る如き難事である!
然し譬えるなら、此の巨岩は既に神秘の蛊仙によって山頂まで推し上げられていた。方源は最期の一押しをしたに過ぎない。軽く推せば、其の巨岩は山肌を転がり落ち、成功と相成るのである。
ゴオオオオ──
地洞は黒水の渦と化っていた。渦は絶え間なく回転し、異様な音を発っていた。
其の後、先ず塔尖が徐ろに現れ、次に塔頂、塔身、そして最後に塔基が姿を現した。全く新しい小塔楼が、渦中から生成され、其の中には無数の野蛊が存在するかのようであった。
「妙なる哉!此の小塔楼の出現は、最早最後の破綻を補い得ん。仮令誰かが物音に気付き此処に駆け付けたと所で、何の怪しき点も看取できまい。」
方源は掌を打って賞賛した。
只……
塔楼は完成したが、何故仙蛊は現れぬのか?
方源の眼光が微かに沈み凝る。小塔楼の中に、一筋の強光が若し現若隠とするのを発見した。心中には、更に微かな懸念が其れと繋がっている。
彼は頓に悟った──此れは正に仙蛊の雛形であると。
彼は此の絆を頼りに、仙蛊を引き出さんとし(よう)とした。
突如、其の強光は虚ろな光の如く、小塔楼を脱し、南東の方角へ疾走し去った。
「何が起こったのか?」
方源は胸の内で驚きを覚えた。煉蛊の四段階「土中光を蘊み、芒高く万丈。百里天に遊び、梅は雪の香を詠う」は既に完遂している。此の異変に対し、方源は全く予知する所が無かった。
「八十八角真陽楼が再び凝縮し、黒楼蘭が全面開放するとは、実に豪快な手である。道理で言えば、我れも楼中に赴き、関を破るのが人としての常道というものだろうが……」
仙蛊の雛形は既に遠く飛び去った。方源は聖宮を眺め、一瞬躊躇した。彼は外に在るとは雖ども、既に駒を配置し終えていた。常家にせよ、葛家にせよ、情報は常に実時で伝達されてきているのである。
方源が聖宮を離れて久しくなる程、周囲の疑念を招き易くなる。若し関に阻まれて狼王の力を必要とする場合、誰かが尋ね来る可能性も……
情報が伝達されるにも時間が掛かる。
方源は未だ知らない。彼の敵である常飆が、間接的に彼に小さな助力を施していた事を。
此の時、唐妙鳴は危うく難関を突破し、楼内に歓声が湧き上がった。
所詮、仙蛊が最重視される。方源は只だ一瞬躊躇した後、決心を固め、双翼を広げて強光を追って飛び立った。
此の強光は蚕の繭の如く、地を這うように進み、其の速さは人を愕然とさせる。草叢や樹木に遮られ、目立つこと少ない。
方源は高空から追跡し、足跡を極力隠し、狼群を一切捨て、声も立てずに飛んだ。
時が経つに連れて、此の光は次第に薄れていったが、速度は却って数分増した。
彼は五転の頂点に立つとは言え、速度が凡俗の極致では無い為、追い掛けるのは容易ではなかった。然し、何とか見失なわずに済んでいる。
元を正せば、此の仙蛊の雛形が、方源独りの力で完成されたものでは無いからに他ならない。
かつて神遊蛊を煉成した時とは異なり、此度の方源は援助者に過ぎず、八十八角真陽楼の偉力回流に依拠していた。一介の凡人として、仙蛊雛形と繋がりを得られただけでも、十分な成果と言えた。
強光は或る渓谷に飛び込むと、突然瀑布の中に吸い込まれるように消え失せた。
しかし心中の微かな繋がりに導かれ、方源は雛形仙蛊が静止したことを感知した。
方源は瀑布を貫いたが、滑り易い岩盤に激突し、瞬時に土石が舞い上がり、水流が飛散した。
「奇哉!」
方源は怪訝に叫んだ。心中の繋がりは依然として強光が此処に在ると告げているのに、水勢を分け、瀑布を徹底的に破壊しても、何処を探しても仙蛊雛形の姿は見当たらなかった。
「成し遂げんとする業が此処で頓挫するというのか?否、此処には必ずや蹊径有り!」
彼は空中に舞い上がり、一帯を見下ろした。
元々(もともと)の小瀑布は一つの水溜りと化り、何の変わりも無い。此の渓谷には名も無く、霊気渦巻く土地でも無い。
方源は視線を其の水溜りに釘付けにした。
心の繋がりは、雛形仙蛊が明らかに其の中に在ると告げている。然るに、例え水溜りを貫き通し、水流を操って探り回っても、何も見付ける事は出来ない。
此の時、正に蛊師の手にある偵察蛊が試される時なのである。
方源は当然納得できず、様々(さまざま)な方法で偵察を試みた。偵察が得意では無いが、狐仙福地を遠隔操作し、宝黄天と交信できる彼には、五转の凡蛊に事欠くことは無かった。
五十七番目の方法を試すまで、少なからぬ仙元石を費やした後、彼は漸やく発見に至った。
水溜りの底に、ぼんやりと楼閣らしき影が揺らめいている。鏡に映る花、水に浮かぶ月の如き存在だった。
彼は水溜りに飛び込んだが、楼閣の中に入ることは出来なかった。
幾度か徒労に終わった後、方源は「はっ」と声を上げ、心に閃光が走り、遂に此の楼閣の来歴を見抜いた。
「まさか…此れは失伝已久の仙蛊屋――近水楼台ではあるまいか?」
仙蛊が唯一無二である如く、仙蛊屋も亦唯一である。
此の近水楼台は八十八角真陽楼に比べれば見劣りし、七转の域に留まる。然れども、其の名声は広く知れ渡り、嘗て蛊仙・水妮の代名詞であった。
水妮は八转の蛊仙として水道を開拓した伝説的存在であり、中洲十大派の一つ・霊縁斎の開祖でもある。
八十八角真陽楼の壮大さに比べれば、近水楼台は水に依り添い、虚実境を彷徨うが如き幻惑的な存在である。水脈に漂い、霧霞に宿りて天空を渡り、氷霜の片隅に潜み静寂を保つことすらできる。
楼閣入り令牌無くしては、近水楼台は八转蛊仙さえも阻むことが出来る。
然し此の時、此の楼閣は無主であり、扉は広く開かれていた。方源は先には真相に気付かず手出し様が無かったが、今や真実を見破った以上、相応しい手法で其中に入る術を持つ。
「近水楼台に入るには、身を以て水と化する外無い。其の為の殺手『水霊変』と曰うもの有り。幾つかの蛊を統合すれば、我れを水中精霊と化し、戦力は暴騰、主場の利を得る。」
方源は記憶を搜り、瞬く内に一つの方法を見出だした。
然し最終的には、狐仙地霊が宝黄天で五转激突蛊を購入して彼に代わった。
此の蛊は蛊師を短時間で激流と化し、前方へ突進させることが出来る。但し、蛊師界では既に淘汰された蛊である。蛊師が激流と化した時、一度で炎道蛊虫の攻撃を受ければ、軽く見て重傷、最悪の場合死亡する危険性が有る為である。
但し方源は此の蛊を戦闘に用いる訳では無く、近水楼台侵入の為に使うのだ。複数の蛊を統合して殺招「水霊変」を発動するより、遥かに手軽な方法である。
ざあっという音と共に、方源は激流と化して近水楼台に突入した。
楼閣は三階建てで、広過ぎもせず狭過ぎもしない。彫梁画棟が施され、罐瓶桌椅が古式の趣を尽くしていた。
無事に侵入した方源は激突蛊の効果を解き、一路三階へと向かった。一室の扉を押し開けると、其処に再び仙蛊雛形の姿が現れた。
其の仙蛊雛形は蚕茧の如く、小指の先程の大きさである。真紅の大碗の底に沈んで微かに光っており、恰かも微睡んでいるかのようであった。
此の大碗は水甕よりも大きく、碗の縁は凹凸不揃いで、鮫の歯の如し。
中には幽玄な青い水が満ち、寒気が四周に溢れている。
「成程。」
方源は豁然として悟った。
四段階の工程を経て仙蛊雛形を煉成したが、未だ大功告げ成った訳では無い。
仍も温養を必要とし、完く孕育されるには至っていない。
神秘の蛊仙が此処に近水楼台を布置したのは、雛形仙蛊に最良の温養の地を提供する為であった。
朱紅の大碗の表面には、数行の文字が刻まれている。
方源は暫し凝視したが、彼の淵博な学識を以てしても、其の意味の一小半しか読み解く事が出来なかった。
「此れは墨人文字!伝説に、乾坤晶壁の中なる書山文泉の滴りが飛散して形成された最初の文字というものだ!」
方源は心中、少なからず驚愕した。
此の文字は既に失伝して久しい。墨人自身、書山から追い出されて移住して以来、其れを識る者は極めて少ない。
「宝黄天の蛊仙の中には、墨人文字の研究資料を所持している者がいる筈だ。何卒と、多くの蛊仙は書山に興味を持ち、灰白石板を探し求めて乾坤晶壁の再現を企てているのだから。」
方源は胸騒ぎを覚え、直ぐに地霊の小狐仙に連絡を取った。
狐仙福地の価値が、再び姿を現した。方源のような一介の凡人ながら、蛊仙レベルの貴重な資源を動かすことを可能にしたのである。
莫大な代価を払って墨人文字の研究資料を手に入れた後、方源は其場で一つ一つ照合し、初めて碗の壁面に刻まれた文字の解析に取り組んだ。
解読の結果に、方源は驚きと喜びの入り混じった声を上げた。「此の伝承が、何と墨瑶によって建立されたものだったとは!」
墨瑶も亦驚異的な才女であり、霊縁斎第三十六代の仙姫であった。彼女は特異な身份として、墨人の出身である。
然し最終的には、彼女は種族の桎梏を打ち破り、七转の蛊仙と成り上がった。
彼女が正道のために成し遂げた最も傑出した貢献は、万年前の魔道巨魁・剣魔薄青を情で感化した事であった。
薄青は一介の散修に過ぎず、微賎より起こった。然れど天稟卓絶にして、独り劍道蛊虫を開拓し、五域を縱橫して敵無しと謳われた。
彼は浩瀚たる歴史の中で、最も注目を集める八転の頂点に立つ強者である。戦闘力は卓抜にして天を驚かせ地を撼かし、一身の劍道蛊虫は、機軸を別にし、蹊径を另に開き、其の威力は絶倫である。世の人々(ひとびと)は彼を稱して「劍は五洲を劈き仙尊に亞ぎ、情に係りて蒼生を幸す」と。
其の意は、此の者の戦力は恐るべきこと歴代仙尊魔尊に次ぎ、幸い情に繋がれて魔より正に転じ、真に天下蒼生の大幸なり、と。
当時、薄青は世間より九転の境を衝く不二の適任者と目されていた。
然るに最終的には、九転への挑戦に失敗し、灰燼と化してしまった。其の良き内助たりし墨瑶も、命を賭して共に戦い、遂に同じく殉死したのである。
「歴史に記されるところ、墨瑶は正に煉道宗師たり得る人物であった。道理で...昔巨陽仙尊が妃嬪を広く募った際、中洲十大派こぞって美女蛊師を献上した。中でも霊縁斎は、数人の女蛊仙を積極的に各行宮に送り込み、仙尊に媚びを売っていた。巨陽仙尊の寵愛を受けた妃嬪の中には、霊縁斎出身の巨頭が幾人もいたという。」
枕边人たる以上、聖宮や八十八角真陽楼に通じている度合いは、常人の比では無かったろう。
墨瑶は霊縁斎第三十六代の仙姫である。当然、宗派を挙げての栽培を受けており、八十八角真陽楼の機密を探ることも、彼女にとっては造作無いことだった。此処に近水楼台が設けられていることも、合点が行く。
墨文の中程には、此の仙蛊についての詳細な情報が記されていた──
招災蛊!