八十八角真陽楼の未曾有の驚変は、聖宮の上から下までを大いに震撼させた。数多の人々(ひとびと)が此の事に昼夜を問わず心を砕き、肝を冷やし、慌てふためいて途方に暮れた。
幸い、八十八角真陽楼の一階が崩壊して間もなく、状況は落ち着いていった。
七色の霞光は縮小を止め、再び持続的な成長を始めた。
或いは刺激を受けた為であろうか、此度の霞光の成長拡大の速度は、以前よりも三分速かった。
幾日か後、濃密なる水の如き霞霧が、再び八十八角真陽楼の第一層を凝縮し始めた。
一旦完全に成形するや、黒楼蘭らは焦れったそうに其の中へ駆け込んだ。八十八角真陽楼の出入りは、思った以上に順調だった。
これで黒楼蘭は大いに安心した。
怒り狂っていた黒楼蘭も、次第に平静を取り戻していった。
八十八角真陽楼は彼にとって極めて重要だった。母の復讐を果たすには、蛊仙に昇華せねばならない。十絶体の一つである大力真武体として、仙を目指す以上、八十八角真陽楼から力道仙蛊を手にいれるしか希望はなかったのだ。
『人祖伝』には、既にこう記されている。
人は力が無くとも、知恵が無くとも生きて行ける。然し、希望が無ければならぬ。
黒楼蘭は再び希望を抱き、心情次第に上向きとなり、百道の関卡を猛烈に攻め立て始めた。
新生した八十八角真陽楼の第一層では関卡がリセットされ、黒楼蘭が以前に払った苦労は水泡に帰し、一切を再挑戦せねばならなくなった。
黒沛を始めとする家老たちにとって、此れは寧ろ幸いなことであった。
「これこそ禍転じて福と為すというものだ。再挑戦で、より多くの褒賞が得られる!」
「或いは此れは仙尊なる御先祖様の戯れだったのかもしれぬ……」
「八十八角真陽楼の各層には百の関卡が存在する。関卡が進む程に難易度は急上昇する。歴代の王庭勝主で全層を突破した者は指折り数えるほどしかいない。最終関卡までは望まぬ。只だ以前の関卡を全力で突破するだけで、我が族の実力を飛躍的に高められるのだ!」
家老たちは有頂天となっていたが、黒楼蘭にとっては悪報でしかなかった。
彼が八十八角真陽楼から力道仙蛊を手に入れる方法は、二つしか無い。
一つは上等突破を果たし、秘蔵閣に入り、血脈による身分を利用して、収蔵されている仙蛊と交換する方法。
もう一つは各層の最終関を突破し、其の褒賞として仙蛊を獲る方法である。
黒楼蘭に取って、前者の方法は、同量の珍宝を用意する必要が有り、現実的では無い。真に成功の可能性が有るのは、後者の方法のみなのである。
最終数関を突破するのは、元々(もともと)極めて困難である。其の上、今関卡がリセットされ、再攻略を迫られる事は、彼の貴重な時間を浪費せねばならぬ事を意味する。
時は人を待たず。もし時限が来れば、彼等は王庭福地から追い出される。其の時までに力道仙蛊を手に入れなければ、黒楼蘭は復讐果たせぬばかりか、必ずや死を迎える運命にある。
此の為、黒楼蘭は衆議を排し、独断専行で外族の蛊師を大規模に招き、八十八角真陽楼を徹底的に開放する事を強行に推し進めた。
八十八角真陽楼は自由に行き来でき、黒家は一切の費用を徴収しなかった。
此の様に成って、黒家族長を除外すれば、聖宮中は歓喜に湧いた。
「黒楼蘭殿の気概は比類なきもの。歴代の王ですら成し得なかった所業を為された。我れ耶律桑、恐れ入りました!」
耶律桑は真っ先に八十八角真陽楼に入り、喜色満面であった。
彼は耶律部族の当代族長であり、本来此度の王庭之主の最有力候補であった。族中の蛊仙たちの強力な支持を得、炎道仙蛊を借り受けて其の身に寄せていたのである。
然し耶律桑は最終的に敗北し、身に付けた炎道仙蛊を守る為、已む無く黒楼蘭の麾下に奔った。
最終的には勝利して王庭福地に入る事が出来たが、同格の超大勢力であり乍ら黒家の下風に立つこと自体が屈辱であった。部族に戻れば、冷遇や見捨てられ、場合によっては罰さえ受ける可能性が高い。
「若し八十八角真陽楼で大いなる収穫が得られれば、功を以て過ちを償い、面目を施して部族に戻れるだろう!」
耶律桑の胸は激しく鼓いた。
「常山陰、驕るな。貴様が一日でも仙に成らぬ限り、我れに機会は常にある。八十八角真陽楼こそ、我が台頭の礎となってくれる!」
常飆の眼光は陰惨で、彼も最初の一団として楼内に入った強豪の一人であった。
彼は独りで行動していた訳ではなく、傍らには一りの同行者がいた。
正に単刀将の潘平である。
先に、潘平は星鷲峰で方源に公然と機縁を奪われ、胸の憤慨収まらぬ状態であった。
常飆は此の情況を知るや、故意に接近し、両者は意気投合して相棒となった。
「行け、行け、皆我が為の開路の先鋒となれ。其の生命を以て、我が為に道を拓け。」
黒楼蘭は腹中で冷笑し、傍らで楼閣主令を駆動しながら、淡々(たんたん)と続々(ぞくぞく)と楼内に入って行く盛大な人の流れを静かに見守っていた。
人の流れが次第に疎らになると、風貌古雅で、体格魁偉なる、白袍を纏った太白云生が聖宮の頂層に現れた。
「太白老先生。」
黒楼蘭が声をかける。
「族長殿の御気概、驚嘆に値します。老生、厚く御礼申し上げます。」
太白云生は賛嘆の言葉を述べた。
其の風采は翩翩として、気配悠然としていた。自由に行き来で、人数制限も無い以上、最初の一団に無理に混じる必要も無かった。寿蛊を褒賞とする関は、必ず後ろの方に配置されているはずで、現段階では焦る必要は無いのだ。
二人が少し言葉を交わした後、太白云生も楼中へ入っていった。
「人多きければ力も増すものだな。」
間もなく、黒楼蘭は感慨にふけった。
楼閣主令から伝わる情報によれば、膨大な蛊師の数に物を言わせ、前三十関は瞬くうちに突破された。
しかし四十関を過ぎると、数だけでは如何ともし難く、特定の蛊師強者の出番が待たれるようになった。
潘平、常飆、耶律桑、太白云生が相次いで力を発揮し、関卡は五十三層まで推進された。然し衆人は又も足踏みを余儀なくされ、奴道大師の力を必要とする難題にぶつかったのである。
「此の関は狼王の御出馬を待たねば、突破できまい。」
太白云生は雪の如き鬚を撫でながら、沈吟して言った。
此度の王庭之争において、方源の奮闘は世の人々(ひとびと)に極めて強烈な印象を残していた。北原当代随一の奴道蛊師という誉れは、既に彼の手に落ちている。
故に、此の難関に直面した今、人々(ひとびと)は真っ先に方源の事を思い出したのである。
「怪しいな、何故常山陰の姿が見えぬのか?」
耶律桑は左右を見回したが、見付ける事が出来なかった。
「狼王様は最近狼を連れて外出されております。」
間もなく、誰かが答えた。
「常山陰は実に非凡の士である。八十八角真陽楼が自由に行き来できるというのに、微塵も動心しないとは!」
群衆の中から賞賛の声が湧き上がった。
潘平は冷ややかに鼻で笑い、陰湿な口調で言った。「諸君、忘れないで頂きたい。我々(われわれ)の狼王殿は、とっくに楼内に入っておられる。確かな消息によれば、上等突破も果たされたとか。楼を出た後、直ぐに閉関を選ばれ、黒楼蘭族長が度々(たびたび)お招きに預かっても、一度も応じられてはいないそうだ。」
一同は彼と方源の確執を承知しており、此の頃急浮上した単刀将の機嫌を損ねる者は一人もいなかった。方源を讃える声は瞬くうちに途絶えた。
場には一瞬の沈黙が流れた。
数多の蛊師強者たちも、微かに表情を動かし、中には快よく思わない顔つきの者も見えた。
潘平は悪意に満ちた狙いで、方源がかつて莫大な利益を手にした事実を指摘し、更に人々(ひとびと)に想像の余地を十分に与える事で、見事に彼等の内心の嫉妬の念を煽り立てたのである。
若し以前、人々(ひとびと)が体験を経ていなければ、此の嫉妬も少なかっただろう。
然し今、人々(ひとびと)は自ら関卡を突破してきた。多くの者が身を以て其の恩恵を体感し、八十八角真陽楼の計り知れない価値を肌で感じ取っていた。此れが人々(ひとびと)の心の奥底に潜む嫉妬と憎悪を、一層強く掻き立てたのである!
其の時、一人の若い蛊師の声が沈黙を破った。
「八十八角真陽楼は皆に開放されている。誰でも利益を得られる。父上が利益を獲られたなら、それこそが実力というものだ!」
衆人の視線が其処に集まると、其の人物は他ならぬ常山陰の実子――常極右その人であった。
潘平の表情は瞬くうちに強張り、毒を含んだ眼光で常極右を睨み付けた。
常極右は実力で潘平に幾分及ばぬものの、此の時ばかりは胸に満ちる父への崇敬の念に駆られ、一寸も引け目を取らずに逆に睨み返した。
潘平の心中には殺意が沸騰していたが、手を出す勇気は無かった。瞬時、常極右という後輩に立場の悪い思いをさせられる羽目となった。
心情最も複雑だったのは、常飆である。
彼こそが実の父でありながら、自身の生みの子が此の世で最大の仇敵を擁護する姿を目の当たりにしていた。
其の胸には、限りなき苦悩と憎悪が渦巻いていた!
「ゴホン。」
太白云生が仲裁に立ち上がった。「諸君は此の関に集中すべきではなかろうか。」
「当面の策と申すは、狼王様の御出馬を願う他あるまい。」
「我々(われわれ)の中では、太白老先生が最も御高徳と名声をお持ちで御座います。先生自ら御手紙一通したためて頂ければ、必ずや狼王様の御来駕があろうかと。」
蛊師たちが口々(くちぐち)に言い立てる中、常飆と潘平は互いを見交わせ、心中密かに焦燥を覚えた。
若し狼王を呼び出せば、此の関を突破できるのは必定であった。
然し其うなれば、彼に関卡の褒賞を獲させるのみならず、其の手腕を発揮させ、一層の威信を付与する事になる。此れは二人共に見たくない結末であった。
潘平は言い掛けて止めた。
潘平は阻止したかったが、漸やく太白云生の仲裁で下り台を獲たばかり。若し又常極右に絡まれたら、面子は完全に潰れてしまう!
常飆は潘平が二度も三度も口ごもるのを陰から観察し、内心で「懦夫め」と罵りながら、人込み中の暗線に目配せした。
其の暗線は直ぐに意を会し、人々(ひとびと)の中から叫んだ。「狼王様は万機ご多忙で、容易にはお越し頂けまい。それ不如く唐妙鳴様をお招きした方が宜ろしい。奴道の造詣は既に大師の域に迫っておられます。」
太白云生は思わず心動かされた。
彼と方源の接点は少ないが、其の「高慢」さは十分に承知していた。招きを拒まれる気詰まりを味わうより、唐妙鳴に試みさせた方が賢明だろう。
ざわざわ……
幾群もの極楽雪蝠の群れが、四方八方から飛び立ち、恰かも百川が海に注ぐ如く、地丘の洞穴目指して飛来する。
方円百里、異香鼻を撲つ。
正に此の濃厚なる異香が、極楽雪蝠の群れを誘引していたのである。
此の段階に至って、煉蛊は終局に近づいていた。
「此の法は獣命を献祭するもの。実は八十八角真陽楼の運転と、異曲同工の妙が有る。只だ、小塔楼は野蛊を犠牲にし、力量を統合するに過ぎぬ。」
実践を以てして、方源は此度の煉蛊に対する理解を一層深めていた。
異香は次第に薄れ、誘引源を失った残り少ない極楽雪蝠の群れは慌てふためいて逃げ惑った。
「もはや完成は目前だ!」
方源の息は荒く、双眸は地洞から一瞬も離さず、興奮の色を隠し切れなかった。