聖宮全体が、愕然と戦慄の渦に巻き込まれた。
瞬くうちに、沸き上がる騒然たる声の奔流が巻き起こった。
「此れは、何たる事だ!?」
「何が起きたのだ? 何故霞が萎み始めているのか?」
未だ見た事の無い光景が、衆人の眼前で繰り広げられていた。
徐ろに凝練されつつ有った八十八角真陽楼第二層が、淡く霞み始めていた。濃密な彩霞が、眼に見える速さで縮小し、色あせて行く。
「何てこった!?」
黒楼蘭は眉を強くひそめ、太い腕を伸ばして黒沛家老の衣襟を掴み、自らの眼前に引き摺り寄せた。
彼の表情は歪み、怒り眼を光せて、唸るように低く轟かせた。「調べ上げ(あ)げろ!一体何が起きたのか、知りたいのだ!」
黒楼蘭は十絶体の一つである大力真武体であり、仙に昇華する以外に死の圧力から逃れる術が無い。
然し十絶体が仙に至るには、相応しい仙蛊の補佐が必須である。
黒楼蘭は、八十八角真陽楼の中に自らの成仙の鍵――力道仙蛊を見出す望みを託していた。どうして八十八角真陽楼に異変が起こることを許せようか?
黒沛家老は恐怖に体を震わせていた。黒楼蘭に調査を命じられても、只の凡人に過ぎない彼に、如何にして調べ上げ(あ)げられよう?何が分かると言うのか?
泣き声交じりで答えた。「そ、其れは… 配下には分かり兼ねます。史籍にさえ記録が無い事で御座いますので…」
「薄れてきた、更す薄れてきた!」
或る者が八十八角真陽楼を指差し、絶叫した。
彩霞は縮み続け、濃密だった霞光は次第に褪せていった。
多くの蛊師が呆然と見上げ、恐慌の情が疾走するように広がっていく。
「まさか八十八角真陽楼が終わるのか?」
「此れは我々(われわれ)仙尊なる御先祖様が御手ずから設け給ったものではなかったか?」
「果たして八十八角真陽楼と雖ども、光阴の長河の流れには抗えぬというのか?」
群衆は顔色を失い、中には両手で額を覆う者もいた。其の瞳には、唯慌てふためく様が映っている。
「大混乱と化したな。」
遠方にて、方源の目光は幽かに揺らめき、口元に冷ややかな笑みが滲んだ。
例え隔たること遠くとも、聖宮から湧き上がる恐慌の叫び声は、遙か彼方まで届いてくる。
此の恐慌を引き起こした張本人は、聖宮を一瞥するや、直ぐに又うつむき、足下の地丘の深穴を凝視した。
彼の目には奇しき光が輝き、舌鼓を打って賞賛した。「流石がである、実に見事なわざだ!」
方源は元々(もともと)、最大でも一割程の霞光が逆吸収されるだけだと予想していた。然るに実際に動き出してみれば、逆流してくる偉力は予想をはるかに超えていたのだ!
此の一点を見るだけでも、方源は此の蛊仙が八十八角真陽楼に対して、少なくとも自れ同様の深い理解を有している事を看取した。
「此の神秘の蛊仙は、果たして何者なのか? 如何なる身分の者なのか? 我が身は重生の利便に恵まれ、更には琅琊地霊の第一級情報を有している。彼(あるいは彼女)は如何にして、八十八角真陽楼に対して斯くも詳細な知見を獲たのであろうか?」
此刻、洞穴内は既に彩霞で充満し、溢れ出んとする勢いさえ見せている。然し其れは常に洞口を覆う一層の黒光に閉じ込められている。
霞光は滾り立ち、其の中には一筋の強光が次第に増大しつつある。
ガシャン...
八十八角真陽楼の第一層に、無数の裂痕が走り始めた。
黒沛を始めとする家老たちは、顔面蒼白となり、呆然として此の光景を見守っていた。
聖宮の上層に位置する蛊師たちは、数多の者が地に跪き、絶え間なく額を地面に擦り付けて拝み続けている。
彼等は声を張り上げ、或いは泣き叫び、切に願い求めて――
「崩れないで、崩れてはならない!」
「ご先祖様、私共は一体何を過ったというので、此も厳しいお仕置きをなさるのですか?」
「何卒ご先祖様、大いなる慈悲をお授け下さいまして、不孝なる子孫共にもう一度機会を賜わりたく!」
此等の声が黒楼蘭の耳に届くも、彼は八十八角真陽楼の第一層を、動かぬ瞳で凝視し続けていた。
幾重にも重なる裂痕が、絶え間なく第一層楼面に蔓延していく。
例え黒楼蘭が五转蛊師であり、十絶体という凡人の頂点に立つ存在であると雖ども、此の時ばかりは手足なす術を知らず、力及ばぬ無念と彷徨いを覚えざるを得なかった!
「否、然るべからず! 此の事態を決して看過する訳には行かぬ!」
突然、黒楼蘭は憤怒の咆哮を迸らせた。その顔は歪み、瞳には灼熱の怒りが満れんばかりであった。
「母の仇は未だ討てず! 我が復讐の大計! 我が力道仙蛊よ!」
彼は心の内で叫び続けていた。
ゴオォン...
微かな響きが、地を揺るがす大音響へと変わった。
八十八角真陽楼の、本来凝実して形を成していた第一層が完全に崩壊し、虚空に漫がる彩霞へと還元された。
霞光は恰かも堤防を破った洪水の如く迸れ出て急速に広がり、幾度か呼吸する間に、巨大な聖宮を包み込み、更には天際を染め上げた。
ぷっ!
黒楼蘭の瞳の光が消え、胸の煩悶限りなく、一股の鬱血が咽喉まで逆流し、噴出せざるを得なかった。
「否──! 絶対に認めぬ! 凝れ、我が許へ戻れ!」
彼は両腕を広げ十指を伸ばし、煙霞を掴み戻さんと試みた。
恰かも彼の努力に応える如く、迸れ出た霞光は次第に縮小し始めた。外周の霞は絶え間なく後退していく。
黒楼蘭の目に一筋の光が走ったが、剛ちに燃え上がった希望の火花は、瞬くうちに完全に消え失せた。
霞光は確かに退却しつつあったが、其の中に第一層の虚影が再凝練される気配は無かった。霞は次第に薄れ行き、恰かも目に見えぬ巨獣が貪欲に喰らい尽くしているかのようであった。
「いや、止めてくれ…」
遠方、太白云生は放心状態で呟いた。
「天は我が黒家を見捨てられたというのか?」
黒沛大家老は髪を掴んで一束も引き千ぎった。
八十八角真陽楼が黒家の手の中で問題を起こせば、黒家は完全に終わりだ。他の超大勢力や、各黄金部族が彼等を見逃すはずがない。
「天よ、一体何が起きているのだ?八十八角真陽楼がまさか……」
耶律桑は胸を押さえ、恐慌に駆られた。其の胸には、火道仙蛊が寄り代とされていた。王庭之争前に、耶律家の太上家老である耶律莱が耶律桑に貸し与えたものだ。此刻、此の火道仙蛊は絶え間なく顫えている
此の時、方源もまた顔色を微かに変えた。
彼の空竅の中では、春秋蝉が実体を現わし、絶え間なく顫えながら仙蛊の威厳を放ち、五转の空竅を軈ませていた。
「此れは天地の大道が互いに感応しているのである。」
方源は其の事を熟知していた。
人は万物の霊であり、蛊は天地の精にして大道の媒体である。凡蛊が只だ天地の法則の一片の微細な断片に過ぎないとすれば、仙蛊は大道の一角であり、天地の真理を完結した一段なのである。
正に其の故に、仙蛊は唯一無二なのである。
毎に仙蛊が誕生する度に、周囲の他の仙蛊は共鳴し、感応を起こして顫動する。
蛊虫が宿す大道の理が相似し、或いは相克する程、仙蛊間の感応は深まり、顫動の幅も大きくなる。
「春秋蝉の顫動の程度から見ると、今まさに誕生せんとする此の仙蛊は宙道のものではないようだ。」
方源は推測しながら、視線を地洞から一瞬も離さず、警戒を緩めなかった。
地洞の中では、霞光が絶え間なく八十八角真陽楼から吸い寄せられ、また絶えず消長を繰り返しながら、中の一筋の強光を育んでいた。
其の強光は次第に増大し、洞口を覆う黒膜も、最早禁锢し切れない趨勢を見せ始めていた。
「最早手を打たねば。此のままでは黒膜が破れ、霞光が天を衝き、我が身が露見する。黒楼蘭らに気付かれる程度は些事だが、万が一八十八角真陽楼の深くで眠る意志を覚ましてしまえば、仙尊の一念で灰燼に帰すこと必定である。」
先の幾度か、方源は手を出す衝動を強い意志で抑えてきた。此の時、時機が完璧に熟したと見るや、遂に行動に移り、瞬く内に漫天の蛊虫を撒き散らした。
蛊虫は一転から五转まで各道多種多様にわたり、花吹雪の如く降り注いだ。
一見無秩序に見える此の光景には、実は深い奥義が隠されていた。蛊虫は種別ごとに区画分けされ、互いの間隔も厳密に計算されている。中には落下速度を意図的に遅らせたもの、速めたものさえ存在した。
此れは煉蛊の上級手法「花散り」と称せられる。奴道の造詣や飛行術と同様、天賦の才に恵まれた者でなければ会得できぬ技である。仮令天稟卓越なる蛊師と雖ども、少なくとも千百回の修練を経て、初めて形になると言われる。
方源の此の手法の域は「形になる」程度を遥かに超え、一部の煉道大師さえも驚嘆せしめるに足る。蛊虫が散り敷き終わるや、彩霞は次第に一色へと収まり、碧水の如き蒼穹と化って、動から静へと転じた。
碧光の中には、無数の飛鳥が舞い、遊魚の如き白光が漂う。点々(てんてん)と輝く白光は、時に集まって塊と成り、時に散りて星の如く輝く。方源が暫らく凝視するうちに、眩暈がし始めた。
彼は慌てて視線をそらし、顔を上げて聖宮の方向を見やった。
聖宮の方角から聞こえてくる喧噪は、既に弱まりつつあった。聖宮を覆う彩霞は半減近くまで縮小した後、その速度は徐ろに緩和され始めていた。
此処に誰の注意も向けられておらず、展開された狼群からも交戦の知らせが無いことを確認し、方源は心中で安堵の息をついた。
「万事順調に運んでいる。次は最終段階だ。」
彼は慎重微細に、一片の得意がかる心も抱かず、寧ろ一層警戒を強めた。
仮令此の世であれ、地球の歴史であれ、成功目前にして失敗する事例は、果たして少ないと言えようか?
其れに此の最終段階は、動静が頗る大きい。最も問題が起こり易い環節なのである。
方源は手の内に、とっくに臭屁蛊を控えていた。此の時、手を一振りし、軽やかに洞中へ放った。
途端に、洞穴から一つの異香が漂い出した。
異香は無風にして散り、瞬く内に蔓延していった。
「止まった、止まったぞ!」
一瞬驚愕した後、聖宮内の蛊師たちは狂喜乱舞した。
「殿、霞光が縮小を止め、再び緩やかに増大し始めました!」
黒家の家老の一りが興奮して叫んだが、黒楼蘭の一蹴を喰らった。
「見えておるわい!」
黒楼蘭は家老を蹴倒すと、狼の如き眼光で低く唸った。喜びを露にしながらも、其の心中は依然として緊張に縛られていた。
八十八角真陽楼の霞光が縮小し、更には階層が崩壊するといっった事態は、未だかつて無かった。
一体何が起きているのか?
黒楼蘭の心中は疑念で渦巻いていた。
何処に問題が有るのか分からず、焦燥感に駆り立てられる。更に黒楼蘭を無念の鬱憤にからしめているのは、八十八角真陽楼が仙尊の御手によるものだという事実であった。「仮令問題点が分かったと所で、此の能力では解決できまい……」
若し彼が、此れ等)全て(すべて)が方源の暗躍によるものだと知ったなら、例え命懸けでも暗渡仙蛊によって施された封印を破り、方源と生死を掛けて戦いを挑んだ事だろう。