王庭福地の夜空は、銀燦燦と霞み、紗の如く霧の如く、広漠たる大地に遍く降り注いでいる。
天青狼群の一団が空を自ずと駆け回り、天を飛ぶ鳥や地を走る獲物を追い掛けてはいるが、決して狩りの為ではなく、純粋に駆け回っては戯れているのだ。
方源は地丘の頂上に立ち、緩やかに睜眼した。
此れ迄の日々(ひび)、彼は煉蛊に必要な準備を整えたのみならず、広く狼群をも招集していた。
天青狼群のみならず、地上の普通の野狼も含め、亀甲狼・水狼・夜狼など、其の数既に二十万頭余りに達している。
「狼群は既に附近百里の範囲に分散し、少なからぬ警戒の役目を果たし得る。況んや空を舞う天青狼群は、我が狼王の証と化った。大方の蛊師は此れを見れば、常山陰が狩りをしていると悟り、進んで三舍を退く事であろう。」
若し進んて退かねば、其は邪心あらんとする証左である。
斯かる蛊師は、一旦狼群に発見されなば、必ずや猛烈なる包囲攻撃を招く事必定である。
無論、意図せず闖入する無実の者も存在しよう。然れど方源は其れ程多くは気にかけぬ。狼群に殺されれば、只だ運不運を嘆くのみである。
方源は再び視線を遠方へ転じ、例え聖宮から遙か遠く離れていると雖ど、依然として地平線に輝く絢爛たる彩霞を視認できた。
聖宮内では、既に再び天空を覆う霞光が漲り、美しく幻しき光景を現出させている——此れは八十八角真陽楼が、今まさに第二層を凝結せんとする兆しなのである。
方源に取って、此れは別段の意味合いを有つ。
小塔楼が続々(ぞくぞく)と沈没し、塔内の無数の野蛊を犠牲にして、仙蛊屋を凝結させる偉力が形成される。
此の彩霞は、其の偉力が蓄積されている証しである。量変が質変を引き起こす瀬戸際に、徐ろに達しつつある。
方源が地丘伝承を開かんとすれば、此の偉力を借り、其れを回流させねばならない。
「黒楼蘭は関を打通せん為に、態と八十八角真陽楼を開放し、群情を激昂させ、蛊師たちを蟻の這い出る如く駆り立てている。此の報せが広まれば、聖宮の外に散在する蛊師たちも、続々(ぞくぞく)と集い来るであろう。衆人の注意は既に八十八角真陽楼に集中している。此の時正に我が伝承を開く好機なるかな!」
方源の双眸は灼ける如く輝き、微かに微笑んだ。躊躇する事無く、直に手を下した。
「行け。」
彼は軽く腹を叩くと、瞬時くうちに空こうから三十六匹の蛊虫が飛び出した。
此れらの蛊虫は形異なり、体は小柄で、爪の先半分程の大きさ。五芒星の如く、乳白色の微光を放っている。
何ては一転の小光蛊。光道において非常に有名な補助蛊である。
方源の心念に従い、此れら小光蛊は次々(つぎつぎ)と地丘の洞穴の中へ舞い込み、瞬くうちに洞内の暗闇を余す所なく駆逐した。
方源は更に十三匹の光柵蛊を繰り出した。
此の蛊は三转蛊虫に過ぎないが、同様に光道に源を発する。一たび放たれれば、柵へと変わり、目標を禁錮する事が出来る。
光柵蛊も同様に洞穴の中へ舞い込み、先に入った小光蛊と混ざり合ったが、何ら異変は見られなかった。
方源は微かに笑み、掌を翻えすと三匹の五转光道蛊を放った。
此れら三匹の蛊は、それぞれ速度増加の為の迅電流光蛊、治療用の春光無限蛊、攻撃用の火光燭天蛊である。
迅電流光蛊は青藍色の光を湛え、電光を煌めかせながら、真っ先に洞穴へ飛込んだ。
一向に静寂を保っていた土丘は、此の時初めて異変を起こした。
恰かも機関が作動した如く、洞穴の周囲の土壌が蠕動を始め、互いに融合し閉鎖して行った。
青藍の電光は、先に放たれた小光蛊を次々(つぎつぎ)と打ち破り、淡い藍色の光暈と化って、盛んに外へ湧き出ようとする強い勢いを見せた。
然し其れと同時に、光柵蛊が連なり合って光の柵を形成し、危うく淡い藍色の光華を覆い隠した。
光華が噴出せんとしつつあった其の時、春光無限蛊が飛来し、限りなき碧緑の霞光を放ち、水の如く柔らかに藍色の光を押さえ込み、両者は拮抗状態に陥った。
最終的に、火光燭天蛊が洞穴内へ飛び込むと、濃密な赤芒へと変わり、緑の霞を貫き、更には藍の光をも刺し貫いて、洞窟の奥深くへ沈んでいった。
轟々(ごうごう)という音と共に、洞穴の入口は完全に閉鎖された。大地の深くで、三色の光輝が互いに融け合い、方源にも言い表し難い不思議な変化が起きているのであった。
方源は此の光景を目撃し、胸の内で少し安堵の息を吐いた。密語に謳われし「土中光を蘊む」の意味を、誤りなく解した事を確信したのである。
例え八割方の確信が有ったと雖ども、誤りを危惧せずにはいられなかった。何となれ彼が把握しているのは、地丘伝承の後半の手掛かりに過ぎない。此の伝承の前半は、中洲蛊仙の掌中に在るのだから。
然し此の後半の手掛かりは、特に此の伝承を如何にして開くかを記している。
方源は煉道の大師としての基盤と、八十八角真陽楼についての情報を駆使し、強いて此の密語を看破する事で、途中から此の伝承を強奪する可能性を手にしたのであった。
約半刻が過ぎる頃、地底の轟音は次第に細まっていった。
然し地面は滾る如く熱を帯び、例え方源が北原の鹿皮靴を履いていようとも、其の熱気を遮断する事は出来なかった。
地面の洞穴は緩やかに開かれ、内部の光輝は一滴も残さず、漆黒の闇が深く広がっていた。
方源は此の光景を見て、驚くどころか却って喜びが湧いた。
「土中光を蘊む」の次は「芒高万丈」である。此れを文字通りに解すれば、千里も誤りを生じる。
此の密語も亦一つの試練であり、蛊師に煉道の素養が有るかどうかを問うものである。
密語は煉道に関わる以上、「芒高万丈」は単なる景観の描写ではなく、次の煉蛊の手順を述べたものなのである!
方源は慌てず騒がず、順番に五转防御の芒刺在背蛊二匹、偵察用の高瞻遠瞩蛊三匹、攻撃用の万箭穿心蛊一匹、並びに補助専門の火冒三丈蛊九匹を投下した。
洞内では灰黄の煙塵が滾々(こんこん)と翻えっているが、決して外へ溢れ出すことはない。
「啾啾」という鳥の鳴声か、或いは矢が空気を切る鋭い飛翔音か、煙の中からかすかに聞こえてくる。
此の異様な光景は半柱香ほど続いた後、再び暗闇に包まれた。
大地は再び閉じ合い、洞穴は跡形もなく消え失せた。
今度は土丘が熱を発する代わりに、絲を引くような寒気が漂い、方源の両足をしびれるほどに凍えさせた。
方源は一口の濁気を吐き出し、視線を聖宮の方向へ向けた。
「若し私の読み違いで無ければ、続いて聖宮では大混乱が起こるであろう……」
此の時、聖宮。
或る偏殿の片隅。樹影に隠れた暗門が、音も無く開かれた。
雪の如き白髪の老翁と、中年の蛊師が続いて現われた。
「老先生、どうか御足元お気をつけて。」
黒沛大家老は太白雲生を暗門まで見送り、胸を叩いて誓った。「御安心下さい。私が必ず老先生の為に来客令を手配致します。」
太白雲生は軽く笑った。「黒沛大家老の保証とあらば、鉄の如き確約で御座います。老漢は十分に安心して居ります。此れ以上お見送りには及びません。では失礼致します。」
「御免下さい。」
黒沛大家老は右手を胸に当て、一礼した。太白雲生が茂った樹木の陰に隠れ、曲がり角を回って視界から消えるのを、彼は見送っていた。
「仙尊の伝承の吸引力は実に大きいものだ。太白云生のような方までが、私を賄賂しようとは。」
黒沛は心中で感慨した。
黒楼蘭が八十八角真陽楼を開放して以来、此の事を取り仕切る黒沛大家老は、手が焼けるほど人気の的となった。
日々(ひび)、様々(さまざま)な人々(ひとびと)が表向きの挨拶や内密の訪問に訪れ、人脈を求める者、親戚関係を装う者、賄賂を贈る者、色仕掛けで迫る者さえ現れた。
然し太白云生の内密の訪問は、依然として黒沛に暗黙の驚きを抱かせた。
太白云生は徳高望重であり、現の北原においてほぼ第一の治療蛊師である。数多の人命を救い、品行は正大光明で、其の影響力は極めて大きい。
黒沛は夢にも思わなかった——暗がりで賄賂が行き交うような事が、太白云生のような人柄に起こるとは。
「所詮、太白老先生も人間なのだ。来客令は数少なく、私が彼の立場なら、とっくに居ても立っても居られなかっただろう。」
黒沛は含み笑いを浮かべ、無意識に顔を上げて聖宮の頂上を遥かに見上げた。
其処では、燦爛たる彩霞が、濃霧の如く蓄積されていた。
霞の奥深くに、八十八角真陽楼第二層の虚影が、朧に見え隠れしている。
「間もなく、第二層が具現するだろう。」
遠く離れた場所で、太白云生は遙か彼方を静かに見据えていた。
七色の霞光が、彼の雪の如く白い鬚髮を照らし、皺の刻まれた顔を染め上げていた。
太白云生の表情はぼんやりと霞み、記憶の奥底から一つの光景がふと蘇ってきた。
あの夕暮れ時、地平線の夕焼け雲は火の如く燃え上がり、錦の如く絶倫の美しさだった。十四歳だった太白云生は、自らの人生を変える老乞食と出会った。
「少年よ、貴様は此の老いぼれ乞食に水一碗恵み、命を救ってくれた。何が欲しいか、言って見よ。必ず叶えて見せよう!」
老乞食は紫がかった赤髪をぼさぼさに伸ばし、気がふれたかと思うと意識を失い、然し正気に返った時の彼の目は海の如く蒼古で、人を忘れ難い深遠な気品を放っていた。
「私は蛊師に成りたい!」
若き日の太白云生は思わず口を衝いて出た。
「では、どんな蛊師になりたいのかね? ふふふ、ちょうど三つの完璧な伝承があるんだが。第一の伝承は、火の海を駆け巡り、俗塵を睥睨する者となれる。第二の伝承は、風を掌んで天空を舞い、天下を逍遥できる。第三の伝承は、生死を超え、衆生を救済する力を与える。」
老乞食は笑うと、崩れかけた黄ばんだ歯を覗かせた。
少年の太白云生は、眉をひそめて少し考え、最終的に第三の伝承を選んだ……
瞳の霞みが徐ろに晴れ、記憶から現実へと心を戻すと、太白云生は自嘲気味に笑い、呟くように言った。「つまるところ、本当は私も死を恐れ生き永らえる俗人なのだ。」
若い頃はそれに気づかず、生死を見慣れていたため、かえって冷淡に思っていた。
然し太白云生が次第に老境に差し掛かり、昔日の健康で活気溢れし身体が朽ち果てんとするに従い、彼は若き日の良き時代を一層懐かしむようになっていた。
往々(おうおう)にして、人の思想は其のおかれた環境に応じて変わるものである。
此の地上では、生死は越え難き壁であり、是が非でも冷淡に構えねばならぬ。然し此処では、仮令一缕の生機たりとも、一筋の希望なりとも、必ずや足掻くのである!
只だ実地に其の境に立って初めて、太白云生は「死」という文字の中に、言い知れぬ恐怖が潜むことを次第に悟るようになった。
正に其の故に、彼は密かに情勢を探り、幾届もの時を耐え忍び、終に時流を見極めて、此度の王庭之争に参加し、王庭福地へ足を踏み入れたのである。
「若し私が八十八角真陽楼から寿蛊を手に出来れば、寿命を延ばす事が出来よう。寿蛊は確かに探し難く、取引は更に困難だが、八十八角真陽楼の中には必ず存在するであろう。若し最終的に寿蛊を入手できなければ、蛊仙への昇格を試みる外あるまい。」
太白云生は心中で密かに思い巡らせた。
老乞食が彼に授けた伝承は、凡庸ならざるもので、六转蛊仙に直に至る完璧な一連の伝承であった!
其の内容は、凡人が如何にして蛊仙へ昇格するかについて、詳細に叙述されていた。
故に太白云生は、蛊仙へ昇格する際の巨大な危険性を十分に認識していた。昇格の過程では、天の気・地の気・人の気の統合と融合が必須である。此の三要素の何れか一つが欠けても、身は滅び魂は散る結果を招くのである。
万やむを得ざる場合でない限り、太白云生は蛊仙への昇格を望まなかった。例え成功裡に蛊仙となったとて、寿命が延びる訳では無いからである。
然し、老乞食から授かった此の伝承は、彼に一筋の希望を遺していた。
只し、其の希望は極めて苛烈な条件付きであった。彼が蛊仙への昇格に成功した時、初めて達成可能となるものなのである。
此れ迄の歳月、太白云生は耐え難きを耐えて寿蛊を探し求めてきた。然るに寿蛊は天地が生成する希少な存在で、其の跡は漠然として捕え難、今日まで何の収穫も得られていない。
「八十八角真陽楼の中には、寿蛊が存在する筈だ。必ずや此処で寿蛊を見つけ出してみせる!」
太白云生は八十八角真陽楼の虚影を遙かに見上げ、密かに自身を奮い立てた。
然し其の瞬く後、彼の両眼は見開かれ、信じ難き光景を目の当たりにした!